七戸城(しちのへじょう)
七戸城の基本情報
通称・別名
- 柏葉城、(七戸陣屋)
所在地
- 青森県上北郡七戸町字七戸
旧国名
- 陸奥国
分類・構造
- 連郭式平山城
天守構造
- -
築城主
- 工藤右近将監
築城年
- 建武元年(1334)
主な改修者
- -
主な城主
- 工藤氏、南部氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、帯曲輪、腰曲輪、土塁、横堀(空堀)、虎口、武者隠し
指定文化財
- 国史跡(七戸城跡)
再建造物
- 模擬門、石碑、説明板
周辺の城
-
奥瀬館(青森県十和田市)[14.2km]
伝法寺館(青森県十和田市)[17.3km]
野辺地城(青森県上北郡)[18.7km]
下田館(青森県上北郡)[21.9km]
内沼蝦夷館(青森県上北郡)[22.4km]
尻内城(青森県八戸市)[30.9km]
多宇末井館(青森県青森市)[32.1km]
剣吉城(青森県三戸郡)[32.4km]
横内城(青森県青森市)[33.3km]
聖寿寺館(青森県三戸郡)[33.3km]
七戸城の解説文
[引用元:Wikipedia「七戸城」の項目]
七戸城(しちのへじょう)は、青森県上北郡七戸町にあった日本の城。別名柏葉城。国の史跡。中世から近世にかけての平山城で、七戸川支流の作田川左岸に位置し、標高40メートルの丘陵に置かれた。
概要
七戸は平安時代後期には既に開かれていた。七戸の給主としては、14世紀はじめには北条氏の代官としての工藤氏の名が確認できるが、城の位置や築城年代は不祥である。北条氏が滅んだのち、七戸は伊達氏・結城氏を経て建武2年(1335年)3月、八戸根城南部師行の弟政長の所領となる。七戸城はこの南部政長の築城と伝えられていたが、近年の考古学的調査の結果から、14世紀後半の南部政光によって築城されたとされている。南北朝時代には、八戸根城とともに南朝方の一大拠点として重きをなした。廃城後も七戸城の名は残り、三戸南部氏の一族が在城したが、寛文4年(1664年)からは城内に代官所が置かれた。明治2年(1869年)に七戸藩が創設され、藩庁がここに置かれた。
城内の構成
城は柏葉城とも呼ばれ、作田川、和田川合流点付近の、北西から市街地へ延びる比高40mの洪積台地の先端を利用して造られている。遺構は本丸、二の丸、北館、下館、宝泉館、西館、角館の7郭より成り、(指定面積は約9万5千m2)各郭には独立性が認められ、空堀、帯郭、腰郭、虎口、武者隠し等もみられる。天正19年(1591年)、城主七戸家国は九戸政実の一揆(九戸政実の乱)に加担して滅び、翌年城は壊された。この時埋められた本丸、二の丸間の堀跡が平成8年確認された。現在、七戸城跡保存管理計画に基づき、北館の発掘調査を行ったが、出土遺物は15世紀のものが主で14世紀のものはまだ出土していない。
明治6年(1873年)本丸城門が町内の青岩寺に移築されている。 当初は二層の楼門建築だったが、大正12年(1923年)老朽化のため上層部が撤去され、間口も切り詰められた形状となった。
歴史
天正19年(1591年)城主七戸家国は九戸政実の乱で九戸城に籠城し、滅亡した。翌20年(1592年)「諸城破却書上」に「糠部郡之内 七戸 平城 破 信直抱 代官 横沢 左近」とあり、城は破却されたが、津軽に対する配慮から闕所地の七戸領は浅水城主南部信義の三男南部(南)直勝に与えられ、後に七戸氏の名跡を継がせ2300石を領知し家老職を世襲した。
3代目重信は南部氏27代、盛岡藩初代藩主南部利直の五男で、寛文4年(1664年)に本家29代、第3代盛岡藩藩主を継承、藩の直轄地となり城内に代官所が設置され、陪臣も南部家直臣に昇格し七戸御給人と称された。
元禄7年(1694年)重信の六男政信は、盛岡藩5代藩主南部行信は5000石を内分され幕府旗本寄合席として別家を立てる。
文化元年(1804年)8月、幕命による「郷村仮名付帳」の作成に際し、野辺地・七戸代官所が城郭に次ぐ「要害屋敷」と書き上げ幕府の承認を得た。
文政2年(1819年)、5代南部主税信鄰(麹町候)は、盛岡藩11代藩主南部利敬から6000石を加増され11000石の大名に列する。
安政5年(1858年)嫡子信誉は北方警備の功績により、城主格大名に昇格するが築城に至らなかった。
7代南部信民は戊辰戦争に際し、奥羽越列藩同盟に参加して敗戦。家督を南部信方に譲り隠居する。
明治2年(1869年)に七戸藩が創設され、南部信民が七戸知藩事に任じられ、藩庁がここに置かれた。
明治6年(1873年)に廃城と決まった。
城跡
1941年(昭和16年)12月13日に国の史跡に指定された。現在は、柏葉公園として整備されている。
参考資料
- 【書籍】「角川日本地名大辞典 2 青森県」
- 【書籍】「国別 城郭・陣屋・要害・台場辞典」
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七戸城の口コミ情報
2024年10月17日 FUKU
七戸城
町役場の近くに位置し車で登り駐車場に停め神明宮奥に公園化した所が跡地になります。又天王神社からは東口門に向かえます。天王神社にはGW後に行く事をオススメします⤴️
2024年08月16日 駄目太政大臣政宗
七戸城
主郭脇まで車で行けます。駐車場も広いのでゆっくり見て回れます。
2023年04月19日 RED副将軍
七戸城
七戸南部氏の代々の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
1334年に工藤右近将監により築城されたのが始まりとも云われますが定かではありません。
1335年、新田義貞が鎌倉幕府倒幕を挙兵。南部政長も呼応し、武功を立てた恩賞として七戸郷を与えられ築城し七戸南部氏の代々の居城となりました。
1591年、九戸政実が南部氏宗家である三戸南部信直に対して謀叛を起こした九戸政実の乱が勃発。城主の七戸家国は九戸政実に加担。三戸南部氏は豊臣秀吉に援軍を要請し、派遣された奥州仕置軍に滅ぼされ、七戸南部氏は滅亡し七戸城も破却されました。
しかし、津軽に対する備えとして七戸は重要であり南部信直は浅水城の南部直勝に七戸氏の名跡を継がせました。
1597年には南部直勝の子である七戸直時が城主として入城。
その後、後を継いだ南部重信は、南部本家の29代当主を継いだため、南部藩の直轄地となり城内に代官所が設置されました。
1869年には七戸藩が創設され、藩庁が置かれましたが、1871年の廃藩置県により廃城となりました。
見所
現在は、柏葉公園として整備され国史跡にも指定されています。
作田川と高瀬川の合流地点の河岸丘陵に築かれており、大きく本丸・二の丸・北館・角館・西館・下館・宝泉館の七つの郭で構成されています。
本丸北側下には城門が復元され、本丸へは切り通し状の虎口が敷設。各所に帯郭、腰郭、武者隠しも認められます。
各郭は堀で区切られ独立性があり、特に二の丸と北館を隔てる水堀、角館と西館を隔てる深い堀切が見所です。
2021年07月05日 える権中納言
七戸町観光交流センター[七戸城 御城印]
こちらで御城印買えます。直ぐ隣の駐車場、30分無料です。
2018年05月15日 カーネル
七戸城
東北新幹線 七戸十和田駅から
駅の1本西の道をひたすら南下する。車がほとんど通らないのでのんびりと歩けます
駅をでて35分、天王神社の南の交差点のあたりに七戸城東門の案内があるので、ここから入りました。ここにも、駐車場があります
まず、貝の口出城に向かいますが、下草がないときは畝掘がいい感じなのですが、雨で下草があると、ただズボンが濡れるだけで、楽しくないです
貝の口から北西外郭に抜け、西外郭を経て北館から二ノ丸と、とにかく広い。神明宮のあたりで、ようやく北側の散策が終わり、南下して、大手門を過ぎて西館のあたりを散策
ここは堀がいい感じです。北上して水掘を眺めながら、本丸等を再訪してから駅へ戻りました
往復して2時間40分くらいでした
2017年05月06日 中務卿一之介
七戸城
七戸十和田駅から、十和田観光電鉄バス野辺地線三本木営業所行きで10分140円、七戸中央バス停で下車し、徒歩7,8分で本丸跡に着きます。整備された公園になっていて、展望台にもなっています。
虎口跡は、駐車場手前の案内板を通りすぎて、少し進んだところの交差点を右に曲がってすぐのところです。
バスの本数は1時間に1本程度で、運転のない時間帯もあります。また、七戸十和田駅に停車する新幹線の本数も少ないため、接続が悪い場合もあります。バスを利用する場合は十和田観光電鉄ホームページで必ず確認してください。
(「電鉄」といいながら鉄道事業は廃業)
2016年10月11日 下城主膳佑芋子
七戸城
とても綺麗に手入れされた庭園になってました。桜の木も多く、花見に良さそうです。(※「BBQは要申込、指定場所以外での利用は出来ない」旨の注意書きがありました。)
南部藩の防衛ラインとしての役割、辺鄙な立地でありながら農地としての環境価値が高いなどを垣間見る事が出来ます。
2013年09月28日 【隠者】史学会帰新参
七戸城
最寄駅の七戸十和田駅で電動自転車を無料で貸してくれます。
2010年10月28日 足軽越中守一歩
七戸城
駐車場には評注、門、トイレあり。8月、本丸は立ち入り禁止になっていた。車で20〜30分の所に日本一黒いという「東北温泉」あり。270円だったかな?安いです。
七戸城の周辺スポット情報
旧本丸城門(遺構・復元物)
東門(遺構・復元物)
説明板(碑・説明板)
七戸町観光交流センター(御城印)
駐車場(駐車場)