基肄城(きいじょう/きいのき)

基肄城の基本情報

通称・別名

基肆城、記夷城、椽城(きのき)、木山城

所在地

佐賀県三養基郡基山町大字小倉/福岡県筑紫野市

旧国名

肥前国

分類・構造

古代山城

天守構造

なし

築城主

天智天皇

築城年

天智天皇4年(665)

主な改修者

主な城主

不明

廃城年

遺構

門、水門、建物礎石、石垣、土塁

指定文化財

国特別史跡(基肄(椽)城跡)

再建造物

石碑

周辺の城

勝尾城筑紫氏城館(佐賀県鳥栖市)[6.3km]
乙隈城(福岡県小郡市)[6.7km]
阿志岐山城(福岡県筑紫野市)[7.6km]
大宰府(福岡県太宰府市)[7.8km]
水城(福岡県太宰府市)[8.4km]
岩門城(福岡県那珂川市)[8.9km]
一ノ岳城(福岡県那珂川市)[9.1km]
朝日山城(佐賀県鳥栖市)[9.1km]
岩屋城(福岡県太宰府市)[9.1km]
西鯵坂城(福岡県小郡市)[9.9km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)184 基肄城

設置場所

基山町民会館[地図

基肄城の解説文



基肄城(きいじょう / きいのき、椽城)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた[1]、日本の古代山城。城跡は、1954年(昭和29年)3月20日、国の特別史跡「基肄(椽)城跡」に指定されている[2]

概要 

基肄城は、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した後、大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築いた古代山城である。665年(天智天皇4年)、大野城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されている[3]。城郭の建設を担当したのはいずれも亡命百済人で、「兵法に閑(なら)う」と評された、軍事技術の専門家の憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくぶ)である。また、大野城・基肄城とともに長門国にも亡命百済人が城を建設しているが、城の名称は記載されず、所在地も不明である[4]。そして、『続日本紀』 の698年(文武天皇2年)には、大野城・基肄城・鞠智城の三城の修復記事が記載され[5]、『万葉集』にも、「記夷城(きいのき)」と、記載されている[6]

基肄城が所在する基山は、大宰府の南方8キロメートルに位置する。山麓には、大宰府から南下する古代官道が通り、基肄駅(きいのうまや)で築後国方面と肥後国方面に分岐したとされる要衝にある。基肄城は、標高404メートルの基山の3か所の谷を囲み、その東峰(327メートル)にかけて、約3.9キロメートルの城壁を廻らせた包谷式の山城で、城の面積は約60ヘクタールである。城壁は、ほとんどが尾根を廻る土塁であるが、谷部は石塁で塞いでいる。また、山頂では、北側の博多湾、南側の久留米市や有明海、東側の筑紫野市や朝倉市方面、西側の背振の山並みを一望することができる。古代は、大宰府政庁や大野城阿志岐山城高良山神籠石など、他の軍事施設と連携を図れる好位置にある。そのため、基肄城は、大宰府を守る南の防御拠点として、主に有明海方面の有事に備えて築かれたとされている。。

発掘調査では、約40棟の礎石建物跡[7]、軒丸瓦・軒平瓦・土器などの出土遺物、頂上部で溜池遺構などが確認されている。城門は、推定2か所を含め、4か所が開く。残存遺構のある城門は、城内北寄りの「北帝(きたみかど)門」と「東北門」である。城内南寄りの「南門」と「東南門」は、あったとされる推定の城門である。城跡見学の玄関口となる南門と一連の水門石垣に[8]、土塁とともに基肄城を代表する水門遺構があり、通水口は国内最大級[9]である。また、2015年(平成27年)の水門石垣の保存修理で、新たに三つの通水溝が発見された。同一の石垣面に四つ以上の排水施設を持つ古代山城は、国内においては唯一、基肄城のみである[10]

基肄城の東南山麓に、「とうれぎ土塁」と「関屋土塁」が確認されている[11]水城大野城の関係と同様に、基肄城と対となり、最も狭い交通路を塞いだ遮断城とされている[12]

天智政権は白村江の敗戦以降、唐・高句麗・新羅の交戦に加担せず、友好外交に徹しながら、対馬~九州の北部~瀬戸内海~畿内と連携する防衛体制を整える。また、大宰府都城の外郭は、険しい連山の地形と、それに連なる大野城・基肄城と平野部の水城大堤・小水城などで防備を固める。この原型は、百済泗沘都城にあるとされている[13]

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(184番)に選定された。

関連の歴史 

『日本書紀』に記載された白村江の戦いと、防御施設の設置記事は下記の通り。

  • 天智天皇2年(663年):白村江の戦いで、倭(日本)百済復興軍は、朝鮮半島で唐・新羅連合軍に大敗した。
  • 天智天皇3年(664年):対馬島・壱岐島・筑紫国などに防人と烽(とぶひ)を配備し、筑紫国に水城を築く。
  • 天智天皇4年(665年):長門国に城を築き、筑紫国に大野城と基肄城を築く。
  • 天智天皇6年(667年):大和国に高安城・讃岐国に屋嶋城・対馬国に金田城を築く。この年、中大兄皇子は大津に遷都し、翌年の正月に天智天皇となる。

調査研究 

遺構に関する事柄は、概要に記述の通り。

  • 1912年(大正元年)、関野貞の踏査研究[14]により古代山城であることが確定した。
  • 1928年(昭和3年)以降、久保山善映・松尾禎作が踏査研究を進める。1959年(昭和34年)、鏡山猛が城跡の実側調査を行い、1968年(昭和43年)、『大宰府都城の研究』で実測結果を発表した[15]
  • 発掘調査は、1976年と2003年から3か年、森林整備等に伴う発掘調査が実施された。また、2009年に水門石垣保存修理事業に着手し、新たな通水溝を発見して、2015年(平成27年)に完了した。
  • 九州管内の城も、瀬戸内海沿岸の城も、その配置・構造から一体的・計画的に築かれたもので、七世紀後半の日本が取り組んだ一大国家事業である[16]
  • 1898年(明治31年)、高良山の列石遺構が学会に紹介され、「神籠石」の名称が定着した[17]。そして、その後の発掘調査で城郭遺構とされた。一方、文献に記載のある基肄城などは、「古代山城」の名称で分類された。この二分類による論議が長く続いてきた。しかし、近年では、学史的な用語として扱われ[18]、全ての山城を共通の事項で検討することが定着してきた。また、日本の古代山城の築造目的は、対外的な防備の軍事機能のみで語られてきたが、地方統治の拠点的な役割も認識されるようになってきた[19]

天智天皇欽仰之碑 

1933年(昭和8年)、基肄城を築いた天智天皇を讃えるため「天智天皇欽仰之碑」が建立された[20]。当初は銅像を建立する計画だったが、宮内省(当時)の許可が得られず銅碑となった。土台の基礎石に銘板の痕跡とみられる箇所(縦30センチ×横90センチ)があるが、完成時の写真でははっきりせず、戦時中の金属供出などがあったのかなど詳細は分かっていない。

イベント 

  • 平成25年~平成27年の三か年にわたり、「水城大野城・基肄城 1350年記念事業」が企画され、関連自治体に加え、官民も連携した各種の記念事業が展開された[21]。そして、基山町イメージキャラクター「きやまん」が、まんが『基肄城のヒミツ』[22]などで活躍する。
  • 平成27年(2015年)10月、第5回 古代山城サミットが基肄城(基山町)で開催された。

現地情報 

  • 城跡見学の最寄駅は、JR九州鹿児島本線基山駅。駅から徒歩で水門跡(南門跡)まで50分、それから約30分で山頂である。
  • 車では、久留米基山筑紫野線、宮浦ICから県道300号線(基山公園線)を通り、基山草スキー場方面へ進むと草スキー場手前に駐車場があり、そこから徒歩10分程で特別史跡基肄(椽)城跡の碑に到着する。
  • 関屋土塁の主要部遺構は消滅して未整備のため、一般人の見学は不可能である。

参考文献 

  • 文化庁文化財部 監修 『月刊 文化財』 631号(古代山城の世界)、第一法規、2016年。
  • 小田富士雄 編 『季刊 考古学』 136号(西日本の「天智紀」山城)、雄山閣、2016年。
  • 西谷正 編 『東アジア考古学辞典』、東京堂出版、2007年、ISBN 978-4-490-10712-8。
  • 小島憲之 他 校注・訳 『日本書紀 ③』、小学館、1998年、ISBN 4-09-658004-X。
  • 齋藤慎一・向井一雄 著 『日本城郭史』、吉川弘文館、2016年、ISBN 978-4-642-08303-4。
  • 向井一雄 著 『よみがえる古代山城』、吉川弘文館、2017年、ISBN 978-4-642-05840-7。

基肄城の口コミ情報

2024年01月11日 みその対馬守
基肄城



駐車場からの登り道が、大変でした。上は景色が良く、ここに城を作るのも納得できます。遺構は広範囲に点在していて、時間の都合で行けず、ハイキングになってしまいました。

2023年07月02日 カズ@大高の信長
基肄城

夏場は道が藪で覆われやすいので、全山制覇は難しいかも。

2023年06月02日 かめ右近衛中将ゆみ
基肄城

登るの大変でヘトヘトになりました笑。頂上からの眺めは良かったです。

2022年11月13日 契丹
基肄城



基山駅から城までは遠く、基山駅にはコインロッカーはないようです。基山草スキー場に行く道をずっと登っていきます。登山だと思って城攻めすることになります。水分補給は十分にされた方がいいと思います。

2022年11月07日 対馬守まもたろ
基肄城



最初に石垣の城を作ったのは信長って聞いてたけど、小牧山城より1000年も前に立派な石垣作った人いる

2022年03月19日 龍馬備中守【】
木山城[基肄城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡基山町にある古代は【基肄城】戦国時代には【木山城】として、改修され使用された城郭です♪基肄城は基山に築かれた古代の朝鮮式山城で土塁、石塁、門跡、水門、礎石などが残ります☆7世紀に唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済の再建を支援する為、朝鮮へ出兵した日本軍が白村江の戦いで大敗☆百済遺民と共に帰国し、唐・新羅連合軍の来寇に備え造った城郭です☆中でも基肄城は南側(有明海側)から来る太宰府への侵攻を阻む為築かれました☆この同時期に築かれたのが大野城、水城、熊本県の鞠智城、長崎県の金田城、岡山県の鬼ノ城、山口県の石城山神籠石、香川県の城山城、屋島城です☆大和朝廷を主導とした普請☆古くからの交通の要衝地に必然的に築かれたようです☆時は進み南北朝時代☆山浦エリアの原口十郎、山浦定恵坊、石動彦三郎は南朝方として出陣♪この所領(山浦エリア)が九州探題、一色道猷に与えられた事で、彼らの南朝方への力添えに拍車が掛かります☆九州は菊池武光中心に南朝方を纏め上げていました☆征西将軍として懐良親王が薩摩へ上陸、菊池氏へ付き南朝方は勢い付きます☆そして古代・基肄城を改修し太宰府・北朝方の少弐氏と交戦する事となります☆少弐頼尚は菊池氏の籠る基肄城へ攻撃を仕掛けるも敗れ、太宰府の本城も攻略されます☆菊池武光は一色守護代の兵を追い払いました☆この出来事で南朝方には更に火が付き、大保原の合戦で少弐方の本陣のある小郡へ夜襲を仕掛け、菊池方は勝利しました☆室町時代には周防国・大内政弘に筑前を追われた少弐政資が、一時的に木山城に籠もっています☆その後ここも追われた少弐政資ですが、再度この木山城で大内氏や渋川氏と戦っています☆この古代山城に取り込まれた中世の遺構と思われる物で『イモノガンギ』と呼ばれる三重堀切が残ります☆これは戦国後期、この領地を押えた筑紫氏の造ったものだと考えます♪昨日口コミした宮浦城に書いた様に宮浦城と木山城は尾根伝いに繋がっています☆勝尾城、周辺の支城群と対峙した島津軍の侵攻により急遽造ったんでは無いか❓九州3強の島津軍が北上して来る☆交通の要衝であるここに慌てて、堀切3条に空堀、土塁は古代の物に次ぎ足す☆あくまで宮浦城の東側の砦として造った様にも感じます☆結果的に本城の勝尾城は落城に追い込まれて行く…訳であります☆このエリアを押さえたのは紛れも無く筑紫氏なんです♪

2022年03月17日 龍馬備中守【】
宮浦城[基肄城  周辺城郭]



佐賀県の三養基郡の基山町にある【宮浦城】♪基山と契山との中間で通称、城山は標高386mに立地する南北朝時代から戦国時代にかけての城郭となります☆

基肄城の中に取り込まれた中世の城郭、木山城に通じる、抜け道でもあり、尾根伝いで繋がっています☆南東山腹には居館もあったと云われています☆

毛利元春軍忠状案に『宮浦御陣』と残っていて14世紀に足利方(北朝)の居城となっていました♪更に戦国時代には勝尾城の支城群の1城として、筑紫氏の城郭として機能しました♪城山の南麓の集落の陣屋は宮浦城に関わる地名と伝わり、西・南西には北陣屋、南陣屋と名が残っています☆

長〜い階段を登って行くのですが、その先は…中々の藪具合に大苦戦w
段差になった写真は南側の郭から主郭方面の切岸をパシャリ☆藪しか写ってないw
明確な登山道はありません☆等高線の緩めを確認しながら直登あるのみですw
1番の見所は大堀切かな〜♪

2021年09月20日 織田上総介晃司
基肄城

瀧光徳寺奥の院付近から台風14号の影響で道路が一部崩落。自動車の通行止めとなり、草スキーのある駐車場まで行けなくなりました。(2021/9/19現在)
通行止めの看板の近くにかろうじて2台停めれるスペースがあるのでそこへ停めるか瀧光徳寺奥の院駐車場を借りるようになるかと…

水門へは主郭からは行けず車で移動となりますが、水門は修復中。水門から先は通行止め。水門の駐車場も使用禁止。(2021/9/19現在)

ここ暫く基肄城のリア攻めは難しいかと…
ちなみに今回朝駆けにてどちらもリア攻めに成功しました。

2018年11月26日 鍋島隠岐守
基肄城

草スキー少し上まで、車で上がりましたが、道路崩落にて行き止まりの状況です。登城については、自己責任が必要かと、続100城スタンプについては、町民会館の事務所内カウンターで可能です。職員の方の対応が、気さくでよかったです。

2018年11月07日 Marky武蔵守
基肄城

草スキー場までの道は仮復旧で通れるようになったので、草スキー場から基山頂上に登ることが出来、頂上周辺のみ登城が可能となっています。

2018年09月09日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
基肄城

基肄城への登城はお控え下さい。

平成30年西日本豪雨による被害のため、現在続日本100名城の基肄城(基山)には登城出来ない状況になっています。
道路が通行止めになっておりますので車での登城はできません。
徒歩での登城もがけ崩れなどで危険なため当分の間、お控えください。
なお、スタンプの押印は可能です。

20180821公益財団法人日本城郭協会発表


2018年08月31日 じゅん♂左兵衛督元ブラザフド
基肄城

今日の時点でも登城は危険とのことでした。
残念です。

2018年08月11日 野田安芸守義幸
基肄城

残念ながら今日の時点でも豪雨の影響で、通行禁止でした。しばらくは登城は無理そうです。

2018年08月05日 ぴろり対馬守
基肄城

豪雨の影響で、登城2ルートとも通行禁止。行く前に基山町民会館など確認した方が良い。

2018年07月01日 征夷大将軍もんたろう
基肄城

続100スタンプ場所の基山町民会館で基山山頂と水門跡の行き方を教えて貰いました。
水門跡から山頂まで歩くと1時間くらいかかるので、車で行くなら、それぞれ別に行った方が楽です。


2018年04月07日 衣谷太閤其土
基肄城

↓のに付け足しで、バスに乗るなら絶対行きで!坂道大変です!

2018年04月07日 衣谷太閤其土
基肄城

水門跡まで基山駅から徒歩50分となっていますが、基山町のコミュニティバス丸林バス停で降りれば、15分で着きます。1日2~3本で曜日によって時間が違う(日祝運休)、スタンプ設置場所が中途半端なとこにある、ので片道だけしか使えないかと思いますが。事前確認要ですが公共交通派の方は使うとかなり楽かと。本城まではガチで歩くしかなさそうですが。

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
基肄城

グラススキー場みたいです。
バードウォッチングしてる人もいました。
普段はあまり人が来ないみたいで、公衆トイレは水がでなければ置いてあるペットボトルで流して下さいと看板に書いてありました。
駐車場あり。
公共交通ではこれなさそうかも。
私は車で行きました。

2013年01月23日 はせちゃん弾正忠
基肄城

水門跡の発掘調査現地説明会が、1/27 10:00〜12:00まで開催されます。

貴重な遺構を見れる方は、是非ど〜ぞ

基肄城の周辺スポット情報

 いものがんぎ(遺構・復元物)

 水門跡(遺構・復元物)

 米倉礎石群(遺構・復元物)

 北帝門跡(遺構・復元物)

 丸尾礎石群(遺構・復元物)

 大礎石群(遺構・復元物)

 東南門跡(遺構・復元物)

 基肄城跡石碑(碑・説明板)

 宮浦城(周辺城郭)

 木山城(周辺城郭)

 基山町民会館(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 基肄城水門跡駐車場(駐車場)

 展望台(関連施設)

 祠と慰霊塔(その他)

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