諏訪原城(すわはらじょう)

諏訪原城の基本情報

通称・別名

牧野城、牧野原城、扇城

所在地

静岡県島田市金谷

旧国名

遠江国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

馬場信春?

築城年

天正元年(1573)

主な改修者

松平家忠など

主な城主

今福氏、今川氏、松平氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀・三日月堀)、馬出し、井戸

指定文化財

国史跡(諏訪原城跡)

再建造物

門、塀、石碑、説明板

周辺の城

横岡城(静岡県島田市)[4.1km]
勝間田城(静岡県牧之原市)[5.6km]
菊川城館(静岡県菊川市)[10.0km]
掛川城(静岡県掛川市)[10.8km]
小山城(静岡県榛原郡)[12.4km]
黒田代官屋敷(静岡県菊川市)[13.6km]
花倉城(静岡県藤枝市)[14.4km]
高天神城(静岡県掛川市)[15.3km]
田中城(静岡県藤枝市)[15.4km]
天方城(静岡県周智郡)[15.8km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

(続)146 諏訪原城

設置場所

諏訪原城ビジターセンター[地図

諏訪原城の解説文



諏訪原城(すわはらじょう)は、遠江国榛原郡金谷(現在の静岡県島田市金谷)にあった戦国時代の日本の城(山城)。諏訪之原城とも書く。甲斐の武田氏が築城。城内に諏訪大明神を祀ったことからこの名が付いたとされる。徳川氏時代の城名は牧野城。『家忠日記』には牧野城のほか牧野原城とも記載。東照宮御実紀(徳川実紀)に、牧野の城(諏訪原をいふ)と記載。

現在は建築物は残っていないものの、堀・曲輪・馬出などの遺構がはっきりと残り、戦国時代の武田氏・徳川氏の築城様式を知る上で貴重なものとなっている。国の史跡に指定されている。

立地 

諏訪原城(牧野城)は遠江国の東端近くの牧之原台地の舌状台地の先端部に立地する。城のすぐ南を東海道が通り、東の金谷坂を下ると大井川をまたいで駿河国に入り、西の菊川坂を下ると小夜の中山を経由して掛川(現掛川市中心部)を中心としたやや広めの盆地部に出る。また、南に牧之原台地を下ると、菊川下流域の平野部に出る。

丸馬出及び三日月堀が3ないし5箇所あり、枡形虎口などの遺構も残る。城の三方は台地の断崖となっており、前面の巨大な空堀がこの断崖へと続く。

歴史 

武田軍が遠江(徳川領)攻略の出城として築城し、天正3年(1575年)には武田氏と徳川氏で戦いが繰り広げられたが、同年8月落城以降は徳川氏の城となる。

築城

永禄12年(1569年)、駿河・遠江を領していた今川氏が武田氏と徳川氏に挟撃され滅亡し、駿河は武田氏に、遠江は徳川氏の所領となった。しかし、間もなく両氏は争うようになり、元亀2年(1571年)に武田氏当主・武田信玄は遠江南東部の高天神城を攻撃した。このときは落城させることができず撤退したが、翌元亀3年(1572年)には徳川氏に攻勢をかけ、二俣城などの諸城を落城させ、さらに本拠地・浜松城から討って出た徳川氏当主・徳川家康を三方ヶ原の戦いで破った。

翌元亀4年4月(1573年5月)、信玄は病死するものの、跡目を継いだ武田勝頼も遠江の獲得を目論んだ。天正元年(1573年)の諏訪原城の築城もその一環であり、普請奉行馬場信春、その補佐を武田信豊に命じ、東海道沿いの牧之原台地上に城を築かせたという。ただし、このことを記す史料が『甲陽軍鑑』など後代に成立した史料のため、築城者については確定できないものの、この時期の築城は間違いないと考えられている(『武徳編年集成』には永禄12年(1569年)に「金谷城」を築城したとあるが、この城が諏訪原城と同一かどうかは断定できない)。信玄後期から勝頼期に建設された城郭の特徴である、台地の突端部を利用し戦闘正面を限定させる構造となっている。小山城と共に、大井川西岸の防衛線及び高天神城への補給線を確保する重要な拠点となった。

武田氏と徳川氏による争奪戦

その後も勝頼は遠江への攻勢を強め、天正2年(1574年)には主要拠点であった高天神城[1]も武田氏の手中としている。ところが天正3年(1575年)5月、長篠の戦いで武田軍が織田徳川連合軍に大敗した。徳川家康は直ちに反攻に転じて三河・遠江の武田氏の各拠点の攻略に乗り出し、諏訪原城も7月中旬ごろから徳川軍により包囲された。武田方は在番衆の今福虎孝や室賀満正、小泉昌宗以下抗戦の構えを見せ、1ヶ月余りの攻防戦が繰り広げられた。しかし、徳川軍による包囲と攻撃を支えることができず、また敗戦の痛手から勝頼が援軍を派遣できなかったこともあり、開城し城兵は小山城に退去した。徳川氏が奪取した日時は、天正3年8月(日付は異同あり)[2]とされる。

攻略後、徳川氏はこの城を拠点に武田軍の監視・牽制や駿河国への攻撃を続け、殊に高天神城への大井川沿いの補給路を封じたことで戦いを有利に導いた。またこの間、徳川氏は城の大規模な改修を行っており、現在見られる城の遺構はこの時代のものになる。

廃城以後

その後、天正10年(1582年)3月、甲州征伐で武田氏が滅亡すると牧野城の存在意義が薄れ、天正18年(1590年)に廃城となった。

明治維新を迎えると、元将軍の徳川慶喜が駿府に配されると慶喜を慕って随従した旧幕臣たちが、自活のために荒廃していた牧野城周辺に移住して開墾し主に茶畑とした。現在も城址一帯は茶畑となっているが、比較的保存状態が良く、大掛かりな堀や曲輪などが残っている。

昭和29年(1954年)3月26日、城跡の一部が静岡県の史跡に指定され、発掘調査を経て昭和50年(1975年)11月25日には国の史跡に指定、平成14年(2002年)12月19日には一部区域が追加指定を受けている[3] 。現在の史跡指定地は、南北約580m、東西約1,450m、約11万3千m2に及んでいる。

平成29年(2017年)4月6日、「続日本100名城」(146番)に選定された。

城主・城番 

武田氏の城主・城番は諸説あるが、落城時は武田氏家臣今福氏や信濃小県郡の国衆室賀・小泉氏などが城番であったとされる[4]

徳川家康は諏訪原城を手に入れると、城主として一時的に今川氏真が任じられた以外は、常駐の城番(定番衆と呼ばれた、松平家忠(甚太郎、東条城主)・牧野康成(新次郎、牛久保城主)など)を複数置く一方、別に交替で守備や普請を担当する交代番の人々(牧野番と呼ばれ、西郷家員(孫九郎、西山城主)・松平家忠(又八郎、深溝城主)・戸田康長(新六郎、二連木城主))を定め、交替は西郷氏→松平氏→戸田氏の順でほぼ半年毎に約1か月間勤めた。この守備体制は天正10年(1582年)の甲斐武田氏滅亡まで継続された。[5]

牧野城への改名 

天正3年8月に諏訪原城が徳川方の手に入ると家康は喜び、古代中国の故事にちなんで牧野城と呼称を改めたとされる。

すなわち、周の武王が殷の帝辛(紂王)を牧野(ぼくや、中国の地名)に破った故事により、周王朝から松平康親を周防守に改称させ、また牧野康成の名字と故事の起きた地名牧野(ぼくや)が通じていることから、縁起の良い名称として牧野城に改めたとされる(「寛政重修諸家譜」[6])。

  • 家忠日記と常山記談の記述の相違
『家忠日記』では、天正6年の遠江国牧野城についての堀普請の記述があるが、すでに諏訪原城という呼称の記載はない。また、家忠日記では、「牧野原城帰陣」、「牧野城普請」、「牧野原普請出来て」、と記載あるため、牧野原城とも呼称していたようである。

『常山記談』に、「松平忠次諏訪原城を守らるゝ事」[7]、として、諏訪の原の城を牧野の城と改めたとあるが、同時代史料の家忠日記に、松平忠次が城主をした(記述はなく、別の人物)、牧野城に改名したという記述はない[8]

  • 牧野氏寄りの東三河郷土文献類の記述
『牛窪記』に初出、『牛窪密談記』、『宮嶋伝記』、『参河国聞書』、『牧野家家史』では、おおむね話のあらすじが同じで、諏訪原城を攻めて落城させた後、松平康親と牧野右馬允を城主に派遣し、守護させる。この時、徳川家康が、牧野氏の牧野と中国の故事に通じることから、牧野城(牧野原城)と改めたという。その後、天正7年(1579年)まで守護したという。牧野家譜では、松平康親と牧野右馬允と交代して守備し、天正12年(1584年)まで、牧野康成が守るとある、また、中国の故事の牧野(ぼくや)になぞらえて牧野と名付けたのは、俗説で誤りとしている。

前出の家忠日記にある、松平甚太郎、西郷家員、松平家忠の牧野城番については、一切触れていない。

発掘調査 

平成21年(2009年)から27年(2015年)にかけて、諏訪原城の発掘調査が行われた。発掘調査の成果として、元来は甲州流築城術の典型とされた縄張の内、武田氏時代に構築されたのは本丸と南端にある小型の丸馬出のみと判明した。

結果として二の丸やそれに付随する大型の丸馬出は徳川氏が整備した可能性が高く、これまでの丸馬出=武田氏の築城という固定観念の見直しや、低評価だった徳川氏の築城技術に対する再検討を促すことになった。

平成28年度(2016年)には発掘調査に基づき、二の丸北馬出にあった薬医門が復元された。

交通アクセス 

  • 東海道本線金谷駅から西へ徒歩30分。駅から旧東海道の石畳を登ってしばらく歩くと城跡に至る。また、金谷駅から島田市営のコミュニティバス(菊川神谷城線)も利用できる(平日は5往復、土曜・日曜・祝休日は3往復)[9]

参考文献 

  • 盛本昌広『松平家忠日記』(角川選書、1999年)ISBN 4-04-703304-9 / c0321
  • 『増補・続史料大成19(家忠日記)』(臨川書店刊、1933年)ISBN 4-653-00465-X
  • 平山優『武田氏滅亡』(角川選書、2017年)

諏訪原城の口コミ情報

2023年11月25日 kazmame
諏訪原城



車で駐車場まで行けば、ほとんど平ら。ウッドチップが順路にひいてありとても歩きやすかった。
かと思えば、堀がとても深く、立派な山城。富士山も見渡せて思いの外凄かった。

2023年11月07日 明石家船上
諏訪原城



空堀が、徳川期に掘り下げられたとしたも、すごく深い。
これである程度埋まった状態としたら、活動期にはどれだけ深く掘ってあったのか、と感じる。

2023年10月12日 千閑斎
大手外馬出[諏訪原城  その他]



令和5年10月現在、大手外馬出し西側茶園で基盤整備事業が行われています。今まで一塊の茶畑で分かり難かった大手外馬出しの全容がかなり掴み易くなってます。大手外馬出しをぶった斬る県道234号線は大型車の通行量が多いので注意が必要です。

2023年10月01日 中務卿一之介
諏訪原城



徒歩での行軍を考えている方に注意が一点。途中、旧東海道石畳を通りますが、急坂で足元も悪く滑りやすいです。決して侮らないように!

2023年05月07日 蔵人頭マックイーン
諏訪原城



馬出をとてもしっかりと見ることができ、また見学路も標識などがあり、整備されているのでとても良かったです。雨だと歩きにくそうですが。本曲輪からの大井川を見下ろす眺望もよかったです(写真から見える線路が東海道線です)金谷駅から行く場合は結構な上りになりますのでタクシーをおすすめします。私は1140円でした。駅にはコンビニは見当たりませんでしたが自販機で水分補給はできます。帰りは旧東海道を歩いて駅に行きましたが、なかなかの急坂の石畳で石が足にきついです。

2023年05月05日 吉沢中務大輔隆景
出曲輪[諏訪原城  遺構・復元物]



住宅地の間に、山城延命地尊参道入口からいけます。町の管理下の様です。

2023年05月05日 吉沢中務大輔隆景
今福浄閑戦死墓塚[諏訪原城  碑・説明板]



茶畑に囲まれて、ひっそりと立っています。

2023年04月12日 長森原
門・礎石[諏訪原城  遺構・復元物]



二の曲輪東馬出には2つの門礎石の遺構が残されており、ブルーシートで保護されたその礎石を見る事ができます。

2018年の島田市教育委員会による「史跡諏訪原城跡 発掘調査報告書」には、『明らかに門礎石と思われるが、北側の対になる礎石は亡失している。幅から考え、北側に存在する堀の崩落によって失われたか、堀際にあったため、後世の耕作、あるいは植林時に破棄されたことも考えられる。2石のみではあるが、共に現位置を保っているため、門礎石と判断した。』と記されています。

ここに門が建っていたとすると、門を突破して二の曲輪東馬出の内部に入ると東は急崖の行き止まりとなっており、もし北に有る二の曲輪東内馬出へ進みたければ、人1人通るのがやっとの極細土橋を渡らなければなりません。
そしてその土橋は、高所にある東内馬出から狙い放題のキル・ゾーンです。

発掘調査報告書によると、この土橋からは鉄砲玉が10個出土しており、諏訪原城南側の小曲輪群で合わせて計53発の鉄砲玉が発掘された事から、このエリアでなんらかの攻城戦が行われた可能性が考えられます。

なお、「史跡諏訪原城跡-平成21年度~平成27年度発掘調査報告書-」はネットから読めますが、従来、「武田系」城郭の典型とされてきた諏訪原城が、実は二の曲輪から西側のほとんどが徳川氏が改修したものであることが発掘調査によって明らかとなっており興味深い資料です。

「杉山城問題」もそうでしたが、過去の城郭研究が如何に思い込みや決め付けに彩られたものであったかを知り、また勉強になりました。

史跡諏訪原城跡-平成21年度~平成27年度発掘調査報告書-」2018島田市教育委員会
https://www.city.shimada.shizuoka.jp/shimahaku/docs/suwaharajyotyousakeeka.html

写真
①二の曲輪東馬出内に残る2つの門礎石。奥に見えるのは東内馬出へ続く極細土橋
②礎石はブルーシートで保護されている
③細くて傾斜のある土橋(危険なため進入禁止)
④東内馬出から見下ろす土橋

2023年02月15日 いれぶん武蔵守
ビジターセンター[諏訪原城  スタンプ]



熱心な方が担当されていて、2種類の御城印ガチャで求めましたら、物凄く話が弾んでしまいました。気がつけばアマビエ護符諏訪原城バージョン等までお土産に。模型や展示品も一見の価値のあるものばかりで、入場無料とはありがた過ぎます続100名城スタンプもあり駐車場完備無料、トイレまである優良施設でした

2023年02月06日 弾正忠ひろし
諏訪原城



無料駐車場あり。ビジターセンターも無料です。ビジターセンターは10:00から。 順路も分かりやすく案内板も丁寧です。外堀・内堀とも深く綺麗に残っています。本曲輪から観る大井川も壮観でした。

2023年02月05日 左京大夫日本三景を観に行こう
諏訪原城



続日本100名城のスタンプが有るビジターセンター迄は徒歩で30分くらいです。城址を散策したので金谷駅に戻るまで2時間くらい掛かりました。武田勝頼の家臣、馬場美濃守が縄張りした立派で広大な城址です。

2023年01月29日 樹信濃守義輝
諏訪原城



ビジターセンターで情報を得て、全体像を把握してから行くと良い。水の手曲輪への矢印看板はあるが、現地に案内版が見当たらず、気づかなければ県道381号に出てしまいます。悪路で高低差があるので転落に気をつけて。

2023年01月15日 城歩き
諏訪原城



ビジターセンターの展示で理解してから実際の縄張りを見て歩くと良く理解できます。ビジターセンターからはほぼ平坦で見て回るのは山城にしては楽でした。空堀の深さには驚きました

2022年07月27日 ピクニック勘解由長官
諏訪原城

ビジターセンターのスタンプが先週から新しくなったようです。スタッフさんも城巡りをされているようで話がはずみました。

2022年05月31日 山城守せんとくん
諏訪原城

諏訪原城のスタンプはよく知られたビジターセンターだけでなく、ビジターセンターから城跡に入ってすぐにあるポストの引き出しにもあります。どちらのスタンプもインクの状態が悪く、写りが汚いです。

2022年05月02日 七代目尾張守宗春
諏訪原城

諏訪原城を訪れたのは2度目ですが、改めて見ると、堀の深さに驚きました。やはり土の城No.1ですね。(個人の感想です)

2022年02月19日 千閑斎
本宮山城[諏訪原城  周辺城郭]



本宮山城は掛川市の事任八幡宮の奥宮の更に奥、本宮山の山頂に在ります。詳しい歴史は分かりませんが遠州三十六人衆の一人、加茂加次郎の城と考えられるそうです。

文明元年(1469年)、今川義忠が遠江に侵攻した際の戦乱に関わる城と思われます。
主郭には数基の磐座が在り、掃除していた地元の方によると此の場所は己等乃麻知媛命が初めて降りた地と仰ってました。

①ここから登ります、後に駐車場が有ります。
②こんな感じの山道…結構キツイっす。
③NHKの鉄塔、出曲輪だそうです。
④主郭西側の堀切。
⑤堀切からR1方向を望む。
⑥主郭の磐座。
⑦途中埋まっていた甕…時代は無さそうです
⑧入り口から階段を271段登ると奥の宮です。

2022年01月22日 千閑斎
10号堀[諏訪原城  遺構・復元物]



正面にある斜面の土塁は15堀の土塁につながってます。

2022年01月10日 千葉相模守早雲
諏訪原城



牧之原台地の先端部に後ろ堅固に作られた城。武田流築城術の特徴である丸馬出と三日月堀、その土木量の凄さを存分に味わえるとても面白い城です😁

ビジターセンターを出ると目の前が大手曲輪。埋まって浅くなっていますが南外堀が残っています。右手の諏訪神社が見える場所には二の曲輪大手馬出と三日月堀が早速ご挨拶😁そして馬出虎口の左側には諏訪原城最大の外堀が!

城友様の計らいで堀底までご案内😁
堀底に下りると、ここから生還するのはまず不可能だなと言うのが正直な感想です。幅や深さの規模が大きいのは言うまでもなく、堀の斜面が垂直もしくは反り返っている!これでは登れない😅河原石が土砂に混ざり崩れにくいというこの地ならではの特性を生かした作りになっているそうです。

続いては二の曲輪中馬出。三日月堀が最も見やすい場所。北馬出までの土橋には土塀が連なり、また一部は堀切になっていたようです。埋められたように土の色が違うのが分かります。北馬出には薬医門が設けられ、外枡形にする事で横矢が掛かります。

二の曲輪中馬出から二の曲輪には土橋が掛かりますが、当時は木橋だったと思われるそうです。木橋を復元して欲しい!😁二の曲輪は中央に仕切土塁があるが、とにかく広い!二の曲輪から土橋を渡ると本曲輪。その下には横堀があるが、一部には竪堀も。

本曲輪と二の曲輪に挟まれた谷には水曲輪があり、深い堀切も見えます!二の曲輪南馬出も規模は小さいが、丸馬出の形状が綺麗に残っています。見どころ満載の諏訪原城を是非見ていただきたいです😁

2022年01月06日 千閑斎
水の手曲輪[諏訪原城  遺構・復元物]



内堀(6号堀)から水の手に降りてみました。この道からは18号堀を経由して15号堀、16号堀の土塁の上に行けます。また突き当たりを右に行けば8号堀の土塁に登り堀底を経由して二の曲輪に上がれます。

①ここから降ります。
②降りた所。
③ヌタ場っぽい。
④ここを登る18号堀(竪堀)経由して15号堀。
⑤15号堀と主郭切岸。
⑥8号堀の土塁の上。
⑦18号堀を上から望む。
⑧8号堀の堀底。

2021年12月29日 千閑斎
水の手曲輪[諏訪原城  遺構・復元物]



需要は無いと思いますが、主郭から直接水の手曲輪に降りる城道を辿って見ました。藪が薄く危険生物が少ない今しか出来ないと思います。

①主郭南、此処から降ります。
②倒木跨いで進みます。
③降りずに東に折り返します。
④水の手曲輪の標柱と左側に井戸らしい窪み。

2021年12月12日 三河守ぱーる
諏訪原城



諏訪原城ビジターセンターでパンフレットがもらえます。山城というにはとても雄大な城で堀の深さにはホントに驚きます。本曲輪から島田の街や大井川が良く見えました。

2021年10月28日 千閑斎
野田の城山[諏訪原城  周辺城郭]



先日、主郭の整備作業中に中世の常滑焼の陶片が見つかりました。従って戦国時代にこの城が使用されている事は間違いない様です。

①野田の城山遠景、鞍部に古墳があります。
②切岸上の主郭
③堀切と土橋

2021年10月20日 千閑斎
諏訪原城



写真の通り来年一月末迄、北馬出しに入れませんm(_ _)m

2021年08月21日 千閑斎
諏訪神社[諏訪原城  寺社・史跡]



かつてこの諏訪神社の社殿を飾っていた武田菱の入った鬼瓦を拝見させた頂きました。なんとも言えぬ力を纏った鬼瓦です。

2021年06月26日 千閑斎
水の手曲輪[諏訪原城  遺構・復元物]



内堀の底カンカン井戸の前から下って行くと水の手曲輪です。道が細いうえ水が湧いていて足元は悪いのでお勧めしません。更に下って突き当たりを左に行くとR381、右に行くと旧東海道(ビシターセンター前の道)で城内に直接戻る道は有りません。

2021年06月18日 千閑斎
カンカン井戸[諏訪原城  遺構・復元物]



石を投げ込むと井戸が深いのでカンカンと音が聞こえる…今では埋まってすっかり浅くなってます。写真は主郭から内堀底のカンカン井戸を望んでいます。

2021年05月28日 千閑斎
大手北外堀[諏訪原城  遺構・復元物]



大手北外堀は巾約5m、深さ約6m、底面の巾約1.5mの箱堀。これに対する南外堀は薬研堀です。写真は西側終端部から二の曲輪外堀を望んでいます。

2021年05月27日 千閑斎
二の曲輪大手馬出[諏訪原城  遺構・復元物]



三日月堀の水は雨水が溜まっている訳でなく雨が降ると数日後に湧いてきます。

2021年05月02日 アンナ大炊助遠州守
諏訪原城

駐車場は車6〜7台くらい停められます。🅿️内に綺麗なトイレがありトイレ横の建物内に諏訪原城のジオラマがあって 職員の方が簡単な説明して下さいます❤️
御城印の販売(300円)もあって全体を見てからパンフが置いてあるので参考にしながら城址を歩くのがお勧めです❤️❤️ お勧めはお堀‼️‼️最高です😊もののふ(武士)達の思いに心を馳せながら好きな方は所要時間1時間くらい取るといいと思います😊

2021年05月01日 直江山城守優介
諏訪原城



馬出が非常に良い状態で残っているので、分かりやすく、戦の場面が想像できる山城だと思います。また、ニホンカモシカが生息しており、偶然遭遇することが出来ました。人には害を加えることはないそうです。

2021年04月29日 ゆかちん遠江守
諏訪原城



月曜日はビジターセンターがお休みです。馬出しが見事に残っています。10名くらいの年配の方の集団に遭遇したので、お城めぐりハイキングか?と思ったら、山菜採りでした。自然もたっぷりのステキなところでした。

2021年04月24日 千閑斎
潮海寺城[諏訪原城  周辺城郭]



徳川家康が諏訪原城攻めに使用した城と聞き訪れてみました。

菊川駅の北東方向にある潮海寺の薬師堂の裏山にあります。

薬師堂の裏の山林部を一時間ほど探索しましたが、はっきりした遺構は見つけられませんでした。

境内のあちこちに布目瓦等が散乱しており
長い歴史を感じられます。



2021年04月19日 千閑斎
堀田城[諏訪原城  周辺城郭]



縄張り図を城友様から頂いたので、城攻めしました。小さいながら堀切がたくさん有りお勧めの城との事でした。

県道34号を菊川から掛川方面に向かい、菊川堀田地内の交差点を左に曲りJRのガードを潜ります。そのまま道なりに進み西方川を渡ると曹洞宗正法寺があります。この寺の裏山が堀田城です。

墓地の裏に堀田城入り口の看板があります。
ここを登ると小さな社。ここから西に進み主郭に到達するまでに5本の堀切がありました。
小さな城ですが遺構は良く残っています。

この城の築城主や築城年は定かではありませんが、城主としては堀田正法(正法寺の開基)、また伝承では松下之綱が居城したと伝えられています。

松下之綱と言えば頭陀寺城松下屋敷、
遠州久野城…どちらもだいぶ離れていますが
関係あるのでしょうか?

家康が諏訪原城攻めの際、高天神城との連絡を遮断する為に富田城、海潮寺城等と共に使用したそうですが謎が多い城です。





2021年03月25日 千閑斎
堀切[諏訪原城  遺構・復元物]



16号堀、下に10号堀。二段構えの横堀、そして縦堀を登ると虎口、上からの攻撃は避けられない。


2021年03月19日 千閑斎
外周部遺構[諏訪原城  遺構・復元物]



県道381号外側にも遺構が残されています。小さな平場があります。下には段曲輪状の地形があり、縦堀状の地形もあります。

2021年03月01日 千閑斎
富田城[諏訪原城  周辺城郭]



この城は天正三年諏訪原城攻略の為、徳川家康により築城又は改修された城です。
高天神城と諏訪原城の連絡を遮断する役割がありました。

菊川カントリークラブの手前の道を登っていくとお約束通り神社があり境内に「富田城」の標柱が立ってます。
一見すると主郭かと思いますが、ここは4郭だそうです。主郭は堀切を挟んだ北側にあり茶畑になってます。

この近くには諏訪原城攻略の為、徳川家康が利用した城郭群がありました。機会を作り城攻めしたいと思います。



2021年02月27日 【城郭道】たっきー
二の曲輪北馬出の門[諏訪原城  遺構・復元物]

発掘調査の成果などを基に検討を重ね、城内の木材を一部に使用して、徳川氏時代の城門(薬医門)を復元した。
門からは北東の富士山も望める。なお、門扉は開閉可能で、攻め手が扉間に槍や刀を突き出しても閉門できるように、あえて隙間を空けている。 ディアゴスティーニ日本の城149巻より


2021年02月15日 三輪左近衛少将直虎
堀田城[諏訪原城  周辺城郭]

堀田城は室町時代に堀田正法が築いた城とされています。戦国時代は木下藤吉郎秀吉が最初に武家奉公した松下喜兵衛が城主だったという伝承が残っています。
菊川駅から歩いて10分少々の菊川運動公園の東に広がる丘陵が堀田城で予備知識を持たずに訪れました。規模は小さいが細い尾根にいくつもの堀切が穿たれているのが印象的で遺構は完全に残っています。
とにかく堀切の連続で長野県の山城のような巨大で鋭利な堀切ではないものの尾根をこれでもかと断ち切る遺構に驚かされました。


2021年02月09日 千閑斎
火剣山砦[諏訪原城  周辺城郭]



城友さんに案内していただき、大砲跡に行きました。今回は小夜の中山方面から城攻めしました。おかげさまで大砲跡と思われる遺構を見学する事が出来ました。

2020年12月28日 千閑斎
野田の城山[諏訪原城  周辺城郭]



観応の擾乱における伊達影宗の軍忠状にある大津城とされた城跡です。(地方史研究大井川2号 大塚勲) 駿河記には、永禄年中、武田の臣 初鹿野信昌、築き居すとあります。(諸説有ります) 中腹には城山古墳(竪穴式方墳)があり、現在では地元の人たちによる整備が進んでいます。

2020年12月13日 千閑斎
八号堀(ニノ曲輪外堀)[諏訪原城  遺構・復元物]



水の手曲輪から東内馬出しまで、土塁を伴う長い横堀です。ニノ曲輪東側土塁の上から覗いても良く見えます。

2020年11月06日 千閑斎
外堀[諏訪原城  遺構・復元物]



諏訪原城のある牧之原台地は大井川の洪積台地、砂礫層で構成されている。掘るのは大変だが崩れにくい。左側の土塁上に羚羊が居ました。

2020年10月18日 くみGON主殿頭
ビジターセンター[諏訪原城  スタンプ]



御城印はビジターセンターと島田市博物館で入手できます。私は島田市博物館で300円で購入しました

2020年10月06日 典厩MOTOI
諏訪原城



想像以上の規模で、堀や土塁の高さに感動しました。三日月堀が見事に保存されていて、どこまでが武田氏のオリジナルで、どこからが徳川氏の改築かは分かりませんが、一見の価値ある遺構です。
駐車場も台数は少ないですが綺麗に整備されており、そこから直ぐに登りも無く見る事ができます。オススメの城跡です。

2020年09月02日 龍馬備中守【】
火剣山砦[諏訪原城  周辺城郭]



静岡県の菊川市にある火剣山砦☆戦国時代に徳川家康が築きました☆目的は武田氏が支配する諏訪原城の兵の動きの監視☆
標高282mのピークに砦は位置します☆
痩尾根を加工した城郭は武田兵の籠る諏訪原城より直線1.5キロ☆往時の緊張感が伝わる距離となります☆

武田勝頼は高天神城攻略の為の足場として諏訪原城を築城☆遠江方面に睨みを効かせました☆

地元の伝承によれば徳川家康軍は火剣山砦から木製の擬砲を据えて諏訪原城を威嚇した様です☆

2020年08月18日 千閑斎
火剣山砦[諏訪原城  周辺城郭]



諏訪原城を攻略する為に、家康は此処に砦を築いて木製火砲で武田軍を大いに悩ませた…
とあります。

2020年08月15日 千閑斎
諏訪原城

大手曲輪内に今福浄閑斎戦死の碑がありますが、浄閑斎は天正九年に病没。諏訪原城が落城したのは天正三年。まぁそう言う事なんでしょう。

2020年07月27日 織田上総介晃司
諏訪原城

諏訪原城ビジターセンター前に駐車場が有り、停車。
歩いてすぐに諏訪原城があります。
もし満車でも西に少し進むと駐車場があります。

高低差が少ないので初心者・家族連れでも楽しめます。
夏草が茂っていても遺構がはっきりとわかりました。

2020年03月31日 北条大宰少弐氏光
諏訪原城



武田氏の築城技術が結集した丸馬出が1番の見どころですが、他にも綺麗に整備されている空堀などの遺構が数多く残る素晴らしい城郭です。

2019年08月17日 酒楽
ビジターセンター[諏訪原城  スタンプ]



開館時間は遅く10時から。
閉館時間は早く16時まで。
この日は運良く9:20頃に係りの人が開けてくれてラッキーだと喜んでいたら、城跡入口入ったすぐの所に、恐らく24時間利用出来そうなスタンプボックスがあったので、引き出しを開けてみると、中にスタンプがあった。

2019年04月25日 ひで掃部頭政宗
今福浄閑戦死墓塚[諏訪原城  碑・説明板]



徳川軍との戦で討ち死にされたとされる今福氏。後に徳川慶喜が大政奉還をして駿府へと移り、徳川の家臣だった人達によってお茶畑を作り、今もなお、こうしてひっそりと茶畑に囲まれながら城跡を見守っているかのように佇んでいる。 その事を思うと、平和な世の中だなと思う。

2019年03月31日 ソバッソ80.0
諏訪原城

三日月堀と連続馬出が有名な諏訪原城跡。東海道がスグ目の前を走り、緊迫感をヒシヒシ感じます。

とてもキレイに整備され、杖ついて腰曲がりまくった地元のお婆さんでも散策出来るくらい、足元は良いです。主郭にはウッドチップが敷き詰められ、膝に優しかったです。
主郭は先人の口コミ通り、過去に農地化した為に若干改修が入っています。石垣がありますが農地の名残です。

主郭背後、断崖絶壁エリアを散策すると、竪堀が数条あります。搦手の峠道からの侵入に対する設備のように見受けます。対面の出郭との位置関係から、ココを登るの嫌よなぁ、なんて思わされる場所です。
少々ヤブに突っ込みますが、なかなかいい残り方をしています。

東馬出は規模は小さいですが、土橋が細過ぎてコーフンします。デカイ三日月堀も楽しいですが、それ以外の整備が甘いエリアも遺構がいっぱいです。
武田建設の馬場民部さんが縄張りしている城跡は、どこもクオリティがスゴい。でもココを攻略しちゃう徳川もスゴい。

2019年03月28日 ドラガン尾張守店長
諏訪原城

金谷駅から徒歩で旧東海道を歩く。
石畳の金谷坂を駆け上がり、諏訪原城へ約20分。
新築のビジターセンターで学ぶ。
三日月堀と丸馬出。
東海道と言う交通の要衝でありながら、大井川が作った断崖絶壁の「後ろ堅固」なる要塞。
武田流築城術の傑作と言える。
続百名城効果で整備がどんどん進んでいる。
武田ファンには、是非とも見て貰いたい。

2019年01月02日 戸沢大膳大夫盛安
諏訪原城

金谷駅から旧東海道金谷坂の石畳を登った所にあります

スタンプは小雨が降ってたこともありろくに押せず、ガイダンス施設が出来て、屋内にスタンプが置かれるまで酷い状態が続くと思われます

本丸側から降った所には県道があり、こちらからも金谷駅へ行けますが、整備されてないので素直に旧東海道側から入った方がいいです、まだ見学順路に指定されてない道がいくつかあります。とりわけ本丸から裏手の県道に抜ける道は見学順路に指定されてない道を通ると途中で道がなくなり危険なので迂回するのをオススメします

2018年10月30日 まー刑部卿
諏訪原城

続100名城のスタンプのインク切れ発生。先程問い合わせ先に連絡し報告。明日以降補充する模様。
またガイダンス施設工事のため駐車場はトイレ脇の3台のみ駐車可。ガイダンス施設はあまり大きくない。駐車場満車時は県道351号線沿いに路駐出来るスペースからも登城可。登城路に測量杭がいたるところにあるのでご注意を。 馬出しが多すぎて頭混乱しました。外堀・内堀の深さ及び堀の中に井戸に驚く。人は2人ほど見かけた。


2018年05月24日 こうひろ☽
諏訪原城

カンカン井戸を南側へ下ると水の手曲輪源泉へ降りれます。他の豪快な曲輪と違い、せせらぎに包まれているととても癒されます。心の奥のドス黒いものが溶けていきます。30分程いましたが誰も来ませんでした。ぜひ行ってみて下さい。くれぐれも転んでお尻や靴を濡らさないよう、お気をつけください。城全体が綺麗になったのはいいけど三日月堀フェンスとポツンとある城門、個人的にはなんだかなと思ってしまいます。

2018年04月22日 摂政 浜べい
諏訪原城

金谷駅から旧東海道石畳を歩きましたが、急坂&足元があまり良くないので、それなりの用意が必要かと。体力に自信がないor天候が悪いならタクシーで向かうのか無難

2018年01月31日 野舘宮内少輔サラマンダー
諏訪原城

2018年1月31日11時40分(140分)

タクシーで行きましたが、新しく出来た駐車場には案内されず、トイレ、パンフレット等が分からない状態で攻城しました…

諏訪原城跡駐車場には新しいトイレ、パンフレット、スタンプ、案内板があります

今の時期は草も無く、雪も積もらないようなのでオススメです。馬出がくっきり分かりますよ~!!見応えありました~

積雪情報をくださった皆様、ありがとうございました~

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
諏訪原城

山道を車で登り途中に諏訪原城の看板がありますが、私が行ったときは草が凄く藪こぎしないといけない状態でした。車で上まで進むと平な平地に住宅や茶畑が広がりそこに駐車場があります。ここから入れば楽に遺構を見学出来ます。平なフィールドに遺構が広がってます。

2017年05月07日 かげちゃん参號
諏訪原城

大手曲輪跡の茶畑で新茶の摘み取り作業が行われていて、 向かいの農家で、今年の新茶の試飲がやっていました。くれぐれも、農作業の邪魔にならないように気を付けて下さい。

2017年03月07日 木下近江守湖一郎
諏訪原城

周辺同様、城跡もかつては茶畑でした。そのため、茶畑の時の石積みが本曲輪や仕切土塁に残されています。教育委員会さんにお伺いしたところ、仕切土塁は、茶畑の改植時にトラクターで石を集めたらしく、30〜40cm下に本来の土塁の土があり、鉄砲玉も出土しているそうです。

2016年12月05日 
諏訪原城

金谷駅からは、徒歩で20分くらいですが、途中の石畳の道は、雨の日は、非常に滑るので、ご注意ください。

登りはまだしも、下りは何回も滑ったので、遠回りして、舗装された車道を、行きましたが、こちらも、途中、急傾斜の坂道を通ります。

主要部や、堀底は、かなり草ぼさぼさですが、遺構は、ハッキリ確認できます。

新しい駐車場、お手洗いもできていました。

2015年11月29日 maria右京大夫
諏訪原城

諏訪原城近くの方に話を伺うと、発掘はまだまだ続くらしいとのことでした。
夏はヘビも出るし、本曲輪辺りはヤブ蚊が大量に襲ってくるとのこと。しかし、発掘途上のため立ち木も多いので、台地を吹く風は苦にならない程度でした。整備中のため立ち入り禁止も多く、用地買収された茶畑が木だけ抜かれたままの状態で、茶畑の石積みが残っていたり、足元はかなり悪いです。

土橋、馬出し、堀などの縄張りが初心者の私にもよくわかりました。何より、広大な本曲輪に驚きました。

本曲輪から、東には大井川越しに雄大な富士山が見えますし、北に目を移せば、南アルプスに連なる山並みが甲斐、信濃へと続いています。南は駿河湾、西は…牧之原台地が広がる眺望のよい場所に立地しています。

土曜日に行きましたが、工事はやってませんでした。平日のみなんでしょうね。

JR金谷駅からも近く、東海道の石畳が復元されている峠道も近くにあり、歌枕に名高い小夜の中山など歩かれるのもよいかと思います。


2015年01月03日 田部朝臣土持安房守
諏訪原城

バス停側駐車場が工事中で×肝心の丸馬出もほぼ全て発掘調査中で立入禁でした。しばらくはどうにもならないと思われます。近場の方は終了を教えていただけませんか?


2014年04月20日 尻啖え孫市弾正尹
諏訪原城

そもそもは武田方の高天神城への兵站確保を目的としているが、三方を崖に囲まれ攻撃を一方に限定する点や馬出し曲輪を多く設けるところなど他の武田の城、例えば大島城、高遠城、新府城などと共通しており、武田の築上術を堪能できる。城は後世のような守るものではなく攻めの拠点なのだろう。戦国最強の武田かくありなん。躑躅ヶ崎館のシンプルな縄張りや、敢えて北条流築上術と比較してみると非常に面白い。

2012年07月07日 
諏訪原城

武田の大井川流域確保の拠点となった、馬場信房の居城と伝わる城です。武田流築城術の代名詞といえる丸馬出し跡が残る数少ない城なので、武田好きにはオススメします

2012年03月14日 コアラ
諏訪原城

掘が素晴らしい!一部発掘が行われている。出口にこじんまりとしたcafeがあります。

諏訪原城の周辺スポット情報

 堀切(遺構・復元物)

 カンカン井戸(遺構・復元物)

 二の曲輪北馬出の門(遺構・復元物)

 外堀(遺構・復元物)

 内堀(遺構・復元物)

 二の曲輪大手馬出(遺構・復元物)

 東内馬出(遺構・復元物)

 大手南外堀(遺構・復元物)

 二の曲輪中馬出(遺構・復元物)

 二の曲輪(遺構・復元物)

 仕切土塁(遺構・復元物)

 本曲輪(遺構・復元物)

 二の曲輪南馬出(遺構・復元物)

 二の曲輪東馬出(遺構・復元物)

 二の曲輪北馬出(遺構・復元物)

 八号堀(ニノ曲輪外堀)(遺構・復元物)

 出曲輪(遺構・復元物)

 外周部遺構(遺構・復元物)

 10号堀(遺構・復元物)

 水の手曲輪(遺構・復元物)

 二号堀、(外堀北端部)(遺構・復元物)

 搦手口(遺構・復元物)

 旧東海道・石畳(遺構・復元物)

 東海道・菊川坂石畳(遺構・復元物)

 16号堀(遺構・復元物)

 20号堀(遺構・復元物)

 19号堀(遺構・復元物)

 番小屋(遺構・復元物)

 門・礎石(遺構・復元物)

 大手北外堀(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 諏訪原城跡地図(碑・説明板)

 城址碑(碑・説明板)

 今福浄閑戦死墓塚(碑・説明板)

 堀切(碑・説明板)

 諏訪原城(碑・説明板)

 火剣山砦(周辺城郭)

 火剣山砦(周辺城郭)

 野田の城山(周辺城郭)

 堀田城(周辺城郭)

 富田城(周辺城郭)

 潮海寺城(周辺城郭)

 本宮山城(周辺城郭)

 諏訪神社(寺社・史跡)

 亀の甲羅遺跡(寺社・史跡)

 島田宿 大井川川越遺跡(寺社・史跡)

 諏訪原城ビジターセンター(御城印)

 島田市博物館(御城印)

 ビジターセンター(スタンプ)

 スタンプ2(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 第二駐車場(駐車場)

 島田市博物館(関連施設)

 東海道・一里塚跡(その他)

 東海道・飛脚問屋跡(その他)

 東海道・金杉宿本陣跡(その他)

 東海道・日坂宿(その他)

 大手外馬出(その他)

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