二連木城(にれんぎじょう)

二連木城の基本情報

通称・別名

所在地

愛知県豊橋市仁連木町

旧国名

三河国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

戸田宗光

築城年

明応2年(1493)

主な改修者

主な城主

戸田氏

廃城年

天正18年(1590)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

再建造物

碑、説明板(大口公園ご案内)

周辺の城

吉田城(愛知県豊橋市)[2.0km]
牛久保城(愛知県豊川市)[5.2km]
牧野城(愛知県豊川市)[6.2km]
月ヶ谷城(愛知県豊橋市)[6.6km]
伊奈城(愛知県豊川市)[7.8km]
宇津山城(静岡県湖西市)[11.0km]
高縄城(愛知県豊橋市)[11.4km]
野田城(愛知県新城市)[13.4km]
千頭峯城(静岡県浜松市)[14.4km]
雨山城(愛知県岡崎市)[14.6km]

二連木城の解説文



二連木城(にれんぎじょう)は、愛知県豊橋市仁連木町(三河国渥美郡北端)の朝倉川南岸にあった戦国時代の日本の城。「楡(にれ)の木」から名が付いたと言われ、仁連木城とも書く。

歴史 

築城まで

築城したのは明応2年(1493年)で戸田氏中興の祖戸田宗光(全久)である。

戸田宗光は、京都の室町幕府政所執事の伊勢貞親に仕えていた。三河国守護の細川成之から三河国額田郡で狼藉を働く者の鎮圧願いが出され、8代将軍足利義政は戸田宗光と義父松平信光に命を下した。宗光は義父松平信光と共に賊の首をあげ京へ送ったが、宗光は三河国で勢力を持ち始める。応仁の乱{応仁元年(1467年)〜文明9年(1477年)}が始まり、群雄割拠の時代が来ると、文明7年(1475年)、渥美郡大津城(豊橋市老津町)に入り、文明9年(1477年)郡代一色政照を渥美郡大草村(愛知県田原市)に隠居させ、政照の養子分になることで郡の統治権を得る。文明12年(1480年)に田原城(田原市)を築城する。

明応2年(1493年)、豊川北岸の郡である宝飯郡長山一色城(現、豊川市牛久保町)で、主君一色時家を討ち君臨していた波多野時政(全慶)と、同じ故一色時家家臣牧野成時(古白)は灰野原の戦いを起こしていた。宝飯郡で大混乱の年、渥美郡の北の端である朝倉川沿いの丘の上に二連木城を築城し、宗光は二連木城へ移る。これによって、二連木城を渥美郡北部の根城とし、息子の憲光に譲った田原城と共に戸田家の中心拠点となる。そして、戸田宗光は渥美郡完全制圧を図る。

築城後

永正5年(1508年)、戸田氏中興の祖・戸田宗光は没し、子の憲光は亡父宗光のために二連木城の近くに全久院(豊橋市東郷町)を建立した。

天正18年(1590年)最後の二連木城主戸田康長(戸田松平家の祖で松平姓を受ける)は徳川家康の関八州へ移封と共に去り、二連木城は主を失った。しかし、松平姓を受け、徳川松平一族と同格となった仁連木戸田家は宗家を名乗り、田原戸田家は分家となる。

この年、この東三河地域(当時、4郡で総石15万2000石)へ入った池田照政(播磨国姫路城へ移封時に輝政と改名)は吉田城を拠点とし、二連木城を廃城とした。

廃城後

城跡は大口公園(おおぐちこうえん)となった。公園の名は初代豊橋市長であり衆議院議員であった大口喜六(1870年〈明治3年〉 - 1957年)にちなむ。

今橋城(吉田城)との関係 

抗争期

明応2年(1493年)に灰野原の戦いで勝利した牧野成時(古白入道)は豊川の東岸へ渡り、二連木城の西1km半ほどの所に永正2年(1505年)今橋城(後に吉田城に改名。現在の豊橋市今橋町)を築いた。

しかし、戸田氏と二連木城にとってみれば、憂慮する事態である。渥美郡(豊川・朝倉川南岸)の完全なる支配を目論む戸田氏には、隣郡の宝飯郡から牧野氏が、わざわざ豊川を越えてまで築いてきた今橋城の存在は目障りでしかなかった。そもそも今橋城の大手門は、築城時には東へ向けられていた。すなわち、東に在った二連木城への対抗を意図した城砦であることは明白である。

同じ朝倉川南岸で近くに有るが、北の朝倉川方面から二連木城を見れば明らかに小山でありこの辺りで一番高い地点であるのに対し、今橋城(吉田城)は豊川・朝倉川の合流地点ではあるが、西に対しては少々高い地点であるものの南や東に対しては完全なる平城となっていた。この後、戸田氏は今橋城攻略に力を注ぎ始めた。

形態が異なる城のそれぞれの支配者、二連木城の戸田氏と、今橋城の牧野氏は築城の翌年(1506年)に激突、古白は敗死した。しかしこれは両氏による度重なる抗争の始まりでしかなく、目まぐるしく替わる支配権の奪い合いで、対立を深めた。やがて、これに西三河の松平氏も加わり、三つ巴の今橋城争奪の抗争は熾烈をきわめた。それは吉田城と改名後も同じである。

その吉田城争奪戦が沈静化するのは、今川義元が三河国の本格支配に乗り出した頃である。吉田城を入手した今川氏は、城代を派遣し三河支配の拠点と定めた。だが、永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで義元討ち死によって、支配力に陰りが出始めた。

その頃、吉田城城代として置かれていた大原資良(小原という文書も残る)と懇意となった二連木城主 戸田重貞は、永禄7年(1564年)に吉田城から人質となっていた母の奪還に成功、徳川家康陣営へ転属した。このため、二連木城(徳川陣営の戸田氏)と吉田城(今川氏)は再び敵対関係に陥った。

支城的役割の時期

しかし、その敵対関係は長期化せずに翌8年(1565年)、家康の攻勢に晒された大原資良の吉田城開城退去によって収束する。

同じ徳川陣営下となった吉田城と二連木城であったが、今川支配時代と同様に吉田城代の指揮下に組み込まれたため、また吉田城との連携に欠かせない位置と距離に在ったために二連木城は、自ずと支城的役割を担うこととなった。

危機に陥ったのは、元亀2年(1571年)。主家 徳川氏が関係悪化に陥った甲斐武田氏から、領国を東と北から攻め立てられた頃である。

信濃から南下する武田軍に対し、山家三方衆などのように降伏する者まで現れるようになった東三河。設楽郡の菅沼定盈を4月28日には退散させた武田軍は南進を止めず、吉田城まで攻囲した。その時、二連木城も攻撃対象として狙われたのである。

しかし、吉田城ほどの防御力を有していなかった為か、結局は落城。城兵などは吉田城に退散したという(二連木城の戦い)。

廃城期

東三河4郡を領した池田照政(後の輝政)の入封以降、二連木城一帯は吉田城の直接支配下となったため、近すぎる二連木城は必要性を失い、廃城となった。二連木城の廃城に伴い、吉田城でも東に向けられていた大手門を南側に移転させている。

その他 

ちなみに最後の吉田城主松平信古は大河内氏であるが、長沢松平家の養子として松平氏を名乗る家である。二連木城初代城主戸田宗光の妻の父は松平信光であるが、長沢松平家{拠点は長沢城(現、豊川市長沢町)}は信光の十一男松平親則を祖とするという縁がある。

アクセス 

豊橋鉄道市内線東田電停(安全地帯がなく、走行する自動車に注意)下車 北へ徒歩5分 大口公園

概要 

二連木城の口コミ情報

2024年02月24日 赤い彗星東市佑
二連木城



現地に行ってもわかりにくいです。階段を登っていくと開けていて、やっと二連木城趾の石碑に会えます。

2024年02月15日 長谷川雅楽助平蔵
二連木城



大口公園と名前を変えていますが、石碑もあり、土塁や切岸など遺構はしっかりと確認できます。一方通行が多い地区なので、車で尋ねられる時はご注意を。

2024年01月06日 伊東外記胤康
二連木城



二連木城は現在公園になっていて、本丸を囲む土塁が良く残っています。坂の下からは公園の入口が登りなので坂の上から行くことをオススメします。

2023年04月01日 今川党山県右兵衛尉ニャン八
二連木城



白に近づくにつれ、一方通行が多くなるので注意です。駐車場はないので無料の競輪場の駐車場を使いました。

やっとの思いで辿り着いた先には、立派な土塁。やはり流石です。土塁の周りの道路に注目すれば、堀切があったことが分かります。5分くらいで回れるので寄る甲斐は充分にあるかと。

面白い城なので、おすすめいたします。

2023年02月14日 RED副将軍
二連木城



後に徳川氏に属して多くの近世大名・旗本、大藩重臣を輩出した戸田氏の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

1493年に戸田宗光により築城されました。北の牧野氏、東の今川氏に対抗するための拠点として機能しました。1497年、戸田宗光は本拠地の田原城を嫡男の憲光に譲り、二連木城に移ります。さらに今川氏の船形山城を落とし遠江西部に支配地を拡大。しかし、1499年に今川勢の逆襲を受けて船形山城で戸田宗光は討死。戸田憲光は今川氏に恭順して旧領の維持を図り、嫡男の政光を二連木城主としました。1506年、今川氏とともに牧野氏の吉田城を落とすも、今川氏の思惑で牧野氏により吉田城、二連木城を奪われてしまいます。しかし1537年に奪還します。1546年、今川義元の大軍によって吉田城が落城、城主の戸田宣成は討死。二連木城の戸田宣光は今川方に従っていましたが、1547年、竹千代(徳川家康)を駿府へ送らず織田氏に渡してしまったことで今川義元の怒りを買い、大軍に攻められて落城。今川義元が桶狭間に討たれると、1564年に徳川家康は吉田城に侵攻し、城主の戸田重貞は開城。以降、徳川氏に属し、武田氏との抗争期に二連木城を守り、高天神城攻めに加わわりました。そして徳川家康は松平姓と葵紋を許して戸田氏の功績に報います。1590年、徳川家康の関東移封に従っていき二連木城は廃城となりました。

見所
現況は本丸が大口公園、二の丸が老人福祉センターとなっており改変されています。本丸を巡る土塁が残存しています。本丸と二の丸の間の小路はかつての堀の跡です

2023年01月30日 noble式部卿弥勒菩薩
二連木城

早朝、早出特打で範囲極小の処、市電で行ってまいりました。遺構、よく残っているのですが、土塁の城内側に必ず溝が巡っているのが謎でした。あれは何なのだろう?敵襲用の堀だったら構造が逆だし、そもそも堀と言うほどではなくあくまで『溝』程度だし、排水溝みたいなもんなんですかね?

2022年05月07日 Yana中務大輔
二連木城



公園の奥に石碑がひっそりと立っています。

2022年05月05日 勘解由長官蛙喜
二連木城



閑静な住宅街に城址がありました。本丸は大口公園になっていて、土塁など綺麗に残されていました。二ノ丸は隣の施設になります。公園の入口には大きなムクロジがあり、沢山の実が落ちていて美しく光っていました。

2022年04月02日 おしろ三河守めぐろう
二連木城



住宅街の中の素晴らしい城址公園。こじんまりとしているが城好きの欲求を充分満たしてくれます

2021年04月20日 北条美濃守時章
二連木城



土塁がよく残っていて、堀もよかったです。堀が前日雨で水堀になっていました。


2020年11月29日 横山日向守忠篤
二連木城



土塁の一部は良い大きさで残っていてとても良い状態でした。
ただ公園ですが駐車場はないので、隣接する競輪場の無料駐車場に止めて訪問されると良いと思います。

2020年08月12日 鵜乃 左近衛少将 朋征
大口公園[二連木城  その他]



小さな公園の一角に、案内があるぐらいで、分かりにくい城跡です。探せば、空堀や土塁のあとがあるので、じっくりと時間をかけれる方に向きです。


2020年05月23日 OROKA参議
赤岩城[二連木城  周辺城郭]



赤岩城は仁連木城の西に位置する城で、仁連木城の戸田氏か吉田城(今橋城)の牧野氏の城(いずれかの詰め城)ではないかとの事です。

赤岩寺の裏の山の中腹に築かれていて、車で行かれるなら赤岩寺の駐車場に停め、参拝のついでに登城されると良いかと。

寺の裏手に整備された遊歩道があり、15分ほど上へ上へと登ります。愛宕神社をすぎ、さらに登ると尾根道の途中に結構唐突に郭や土塁が現れます。あまりの唐突さにそのままスルーしそうになりますが、進むとこの城の一番の見所である大堀切がドカンと現れるので、最後まで気づかない事はないと思います。
そう、この大堀切はこの地域一帯でも指折りの見事さで、唐突さも含めつい感嘆の声が出るほどです。

…そして、郭と土塁、この大堀切で城の遺構は終わりです。遊歩道はまだ上へと続きますが、しばらく進んでも私には遺構らしきものは見つけれませんでした。

城の規模はかなり小さく、ぶっちゃけ大堀切を見たらもう帰る、くらいの感じになりますけど、仁連木城や吉田城(今橋城)にも詰め城があったんだろうなぁとか考察されたい方は、ぜひ行ってみてください。

2019年05月18日 しげぽん
二連木城



周辺は公園として整備されてます。北側にある大口公園から階段をあがるとすぐの場所に城址の碑があります

2018年04月02日 
二連木城

公園の隣に、や●ざの事務所があるので、カメラ持ってウロウロしない方が身のため。

2018年04月01日 ライ
二連木城

大口公園に駐車場はありませんが、近くに豊橋競輪場があります。
競輪のついでに大口公園(二連木城址)を攻めてきました。

2014年10月12日 右近衛中将黒熊
二連木城

市電に乗って、歩いてきました。歩いても苦にならない距離で、住宅街の一角にあります。確かに駐車場はなく車では避けたほうがいいかも。

2014年09月13日 クノール尾張守
二連木城

大口公園となっていますが、駐車場なく、周辺の路駐も難しいのでお車での登城はお気をつけください。

2013年01月06日 奥州王征夷大将軍毘沙門天乱丸
二連木城

現在、大口公園として整備され、住宅街の中の公園になってます。
豊橋鉄道市内線豊田駅下車、北へ5分ほど右側にある公園です。
土塁の一部も確認されます(^_^)b

2010年10月18日 三河守コーキしゃん
二連木城

公園として整備されてますが土塁が残っていてお城として形を留めています

二連木城の周辺スポット情報

 土塁(遺構・復元物)

 土塁(遺構・復元物)

 城址碑(碑・説明板)

 二連木城址(碑・説明板)

 船形山城(周辺城郭)

 赤岩城(周辺城郭)

 牛川洞穴遺跡(寺社・史跡)

 頼朝公駒止之櫻(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 大口公園(その他)

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