高縄城(たかなわじょう)

高縄城の基本情報

通称・別名

大津城、老津城

所在地

愛知県豊橋市老津町字西高縄

旧国名

三河国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

戸田宗光

築城年

文明7年(1475)

主な改修者

主な城主

戸田宗光

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、土塁

指定文化財

再建造物

周辺の城

田原城(愛知県田原市)[6.4km]
吉田城(愛知県豊橋市)[10.4km]
二連木城(愛知県豊橋市)[11.4km]
伊奈城(愛知県豊川市)[11.5km]
牛久保城(愛知県豊川市)[13.9km]
牧野城(愛知県豊川市)[16.5km]
形原城(愛知県蒲郡市)[17.7km]
月ヶ谷城(愛知県豊橋市)[17.9km]
宇津山城(静岡県湖西市)[19.5km]
上ノ郷城(愛知県蒲郡市)[19.7km]

高縄城の解説文



大津城(おおつじょう)は、愛知県豊橋市老津町にあった日本の城。別名高縄城(たかなわじょう)。現在の地名に合わせて「老津城」という表記もある。

概要 

戸田全久入道(宗光)が三河国渥美郡に最初に入った拠点である。現在の豊橋市立家政高等専修学校の周辺にあたり、学校の北や西に堀や土塁が現存する。

老津町は元来大津と呼ばれていたが、明治11年(1871年)の郡区町村編制法とともに愛知県渥美郡老津村に改名した。 由来は紫式部の「老津島 島守る神や 諫むらん 波もさはがめ 童べの浦」にちなむ。

歴史 

文明7年(1475年)、松平信光の娘婿で三河国碧海郡上野に拠点を置いていた戸田宗光が知多郡河和経由で東三河の渥美郡に進出し、大津城(高縄城)に入るが文明11年(1479年)戸田宗光、大津から田原へ移る。 文明13年(1481年)渥美郡代の一色七郎が没し、戸田宗光は田原城(同県田原市)を築き、そちらへ移った。

明応2年(1493年)、宗光は渥美郡支配を強めるために、同郡の北端に新築した二連木城(同県豊橋市仁連木町)へ移り住み、子の戸田憲光に田原城主を譲る。大津城の役割は一時、低下する。その後、永正2年(1505年)、牧野古白吉田川(河川・豊川の旧名)の西岸から牧野氏が渥美郡に進出し、今橋城を築いて戸田氏に対抗する。戸田氏と牧野氏の覇権争いの決着を見ずに、宗光は明応9年(1500年)、船形山の戦い(普門寺)で今川に討ち取られ死去するものの、戸田氏は大津城は今橋城への対抗上、田原城二連木城の連携に欠かせない城として再び重要度が高まった。この後たびたび吉田、田原で戦が起こり、拠点として使われたとされる。

史料 

  • 「三河大津」矢守一彦編『浅野文庫蔵諸国古城之図』新人物往来社、1981年、広島市立中央図書館蔵

所在地 

  • 愛知県豊橋市老津町字西高縄

交通 

公共交通機関(鉄道)
  • 豊橋鉄道渥美線 老津駅下車、南へ徒歩で約5分。

自動車(自家用車)
  • 国道259号(田原街道)老津町交差点から南へ。

高縄城の口コミ情報

2026年02月08日 火の玉しんちゃん
杉山城[高縄城  周辺城郭]



〘所在地〙愛知県豊橋市杉山町

杉山城は戸田氏が渥美郡に勢力を伸ばす前にこの地を支配していた土豪・杉浦右衛門太夫もしくは杉山久助俊輝の居城とされています(「三河国二本松」に記載が有るようです)。
寶林寺周辺が城趾とされ、寶林寺周辺には城館の雰囲気が漂っています。
門の南側や寺の北東部は堀跡のようになっており、北側の墓地の駐車場は寺よりも更に高台になっていています。
駐車場周辺には城山の地名が残っており、周囲の眺望もなかなかのものでした。

「史跡夜話」というサイトを参考にすると、この丘地には杉浦氏の家臣松岡治右衛門の居城があったとされ、寶林寺の東側の台地が杉山城ではなかったかと推測しているようです。
せっかくなのでそこも訪問してみましたが城址の雰囲気はそれ程感じることはできませんでした。

2026年01月17日 火の玉しんちゃん
畔田城[高縄城  周辺城郭]



[所在地] 愛知県豊橋市城下町

豊橋の太平洋側の台地は侵食され崖状になっておりその下に砂浜が広がっています。

畔田城の主郭はその断崖に向かって築かれているので登城口は北側についています。堀道を主郭に向かって進んで行くと、東西に土塁を備えた郭らしき扁平地が複数有り、土橋を備えた堀切の先に二郭とされる狭い郭が有ります。その先に大きな堀切があり木橋が架かっています。主郭堀切の東側の幅は非常に広く、二郭東端からはスロープが堀底まで続いています。この辺りが少し不自然に思われ、後世に改変を受けたのではないかと思いました。

主郭北側には二つの祠が有り、背後に土塁が残っています。主郭の南側にも腰郭が有り堀切も有りましたが、先が崖になっているかもしれないのでそれ以上は進まずに主郭へ戻ることにしました。

比較的急な切岸なので地面を掴むように登って行きます。こうすると重心が前に傾くので自分の体重で後ろに引っ張られることはありません・・最近運動不足で体重が増加傾向なんですよ。

帰りは主郭堀切に降りてからスロープを登って二郭に登ってみました。ここは戦争の際に連絡路として追加されたんだろうか?

いずれにしても二郭は狭く、戦国時代では馬出しの様な使い方をされたのではないでしょうか。そうであれば大規模な堀切を二つ備えた主郭の守りに特化した城と考えられます。平時の生活の場は三郭とされる場所以北となりますか?🤔

2026年01月17日 火の玉しんちゃん
畔田城[高縄城  周辺城郭]



[所在地] 愛知県豊橋市城下町

畔田城は豊橋南部に勢力を誇った畔田氏の城とされています。戸田宗光が文明7年(1475)に高縄城を築き豊橋に進出して来ると、畔田氏は戸田氏に従いました。

その後 田原戸田氏は今川家の人質・松平竹千代(後の徳川家康)を奪い織田に引き渡したことで今川義元の怒りを買い攻め滅ぼされますが、その時は畔田氏は今川氏に従っています。

桶狭間の戦いの後、今川氏は勢力を急激に失墜、永禄7年(1564)には徳川家康によって三河から追われ、畔田氏も遠江に落ち延び没落してしまったようです。

畔田城は豊橋では最も遺構の残っている城の一つで、土塁や大規模な堀切などを見ることが出来ます。ただし、太平洋戦争時に遺構の改変が行われたとされ、私は二郭周辺でそれが行われたのではないかと思いました。

太平洋からの攻め手に対しても有効な立地条件にある城で、訪問する度にいろいろと考えさせられてくれます。

2026年01月17日 火の玉しんちゃん
大崎城[高縄城  周辺城郭]



[所在地] 愛知県豊橋市船渡町

永正15年(1518)今川氏の支援を受けた牧野氏に今橋(吉田)城を追われた戸田宣成は大崎城を築き牧野氏に備えました。伊庭氏の城を改修したという説もあり、伊庭氏は約1km南の伊庭城に移ったものと見られます。龍源院の北側の竹藪が主郭跡と見られます。これまで主郭を訪問したことはありませんが、幸稲荷神社一帯が二郭と見られ、三河有数とも称される空堀が残っており、本丸の高い切岸を仰ぎ見る事が出来ます。また二郭跡には土塁も残っているようです。豊橋の城址で空堀が良く残っている城は吉田城を別格とすれば畔田城と大崎城だと思います。

龍源院の参詣道の脇に比較的新しい標柱が立っています。

2026年01月14日 火の玉しんちゃん
伊庭城[高縄城  周辺城郭]



[所在地]愛知県豊橋市大崎町

伊庭城は伊庭藤太、もしくは磯田民部の城とされています。伊庭藤太は大崎城にも居たとされ、有力な武将戸田氏に従う土豪だったと考えられています。伊庭氏が戸田氏の支配下にあったのであれば、伊庭城は田原城か大崎城の支城という扱いになると思います。

地主側の住宅側に土塁のような土盛りが続いていますが写真は自重させていただきます。かつては海に面していたと思われ、丘陵の中段にも住宅があることから複数の郭があったかもしれません。

2026年01月14日 火の玉しんちゃん
大崎陣屋[高縄城  周辺城郭]



[所在地]愛知県豊橋市船渡町

江戸時代、大﨑城の跡地に旗本 中島与五郎が陣屋を構え明治時代まで存続したとのことです。城郭大系に記載が無いものの大崎城の空堀は豊橋市でも有数の物で、陣屋時代でもそのまま活用されたのではないでしょうか。

2026年01月14日 火の玉しんちゃん
波入江城[高縄城  周辺城郭]



[所在地]愛知県豊橋市老津町波入江
祥雲寺の北東の丘陵が城址とされています。
遺構は見当らないものの、かつては堀跡があったようです。現状ただの扁平地になりますが、波入江の名が示す通り昭和30年代までは近くに海が迫っていたとされ、海側の切岸に雰囲気が残っています。
戸田甚七郎政光が城主の一人とされますが、戸田氏に属する城で田原城の支城の役割を果たしていたことは確実だと思います。

2026年01月13日 火の玉しんちゃん
草間城[高縄城  周辺城郭]



[所在地]愛知県豊橋市草間町向西
築城年代ははっきりしませんが当地の土豪・芳賀七郎が居城していたとされています。後に畔田氏の一族の畔田監物の城となりました。素盞嗚神社から西に続く丘陵が城址と思われ、西端に主郭が設けられ東を除く三方を海に囲まれていたようです。昔はこんなところにまで海が迫っていたのか・・

2026年01月13日 火の玉しんちゃん
北裏城[高縄城  周辺城郭]



[所在地]愛知県豊橋市老津町
戸田忠次の父・忠政が波入江城より移り住んだとされています。住宅が点在しているので写真は割愛しますが、周囲は急坂になっていて比較的高台に位置します。現状キャベツ畑ですが元城主の隠居城としてはこれで十分かと

2025年10月16日 初老バイト
高縄城



豊橋家政学校の正門に、案内板が立っています。北側に土塁が残っているとのことですが、初老の変なオジサンが彷徨いていたら通報されそうなので、早々に立ち去りました。家政学校が本曲輪なら、かなり大きな城だと推測出来ます。

2025年10月15日 大谷大蔵卿吉継
高縄城

リア攻めは学校近くまで行きます。通りの道路が狭いので大型の車はすれ違い注意ですね

2025年07月18日 おさむ宮内大輔
高縄城

豊橋鉄道の老津駅から歩いて数分、住宅街の中にひっそりと佇む城址です。現在は学校敷地の一角となっています。

2023年06月17日 ペスカトーレ
高縄城



高縄城跡と書いてある杭が有るだけです、

前の道は車のすれ違いが出来ない幅にの、両側通行で、しかもそこそこ通行量が有ります。

全くお勧めはできません。

2023年04月10日 【不楽是如何】まつ2左近衛大将
高縄城



民家の中を突っ切って土塁に辿り着けるようなところでした。

2023年01月30日 noble大納言弥勒菩薩
高縄城

相変わらず深夜の『怪しい人』行軍だったので、城域全般は把握できず。。。しかし、先駆者が申されていた、学校正門脇の城址標柱は全うにちゃんと建て直されていましたよ!

2022年06月20日 左近衛中将かめかめ
畔田城[高縄城  周辺城郭]



海を背に存在していた畔田城。近くに公民館がありますので車はそちらへ停めさせて頂きました。登城口はマップを参考に行けば問題ありません。

遺構は、土塁、堀切など現存しており、楽しめる城郭です。

写真1:最初にお目にかかれる横堀(堀切?)。
写真2:横堀の終点は崖。
写真3:切り通し。ワクワクしてきます。
写真4:食い違い虎口を形成する土塁。
写真5:主郭側の堀切。海からの登城路のよう。
写真6:主郭側堀切の東側堀底に土塁あり。
写真7:主郭下の横堀。

2021年06月13日 ようこちゃん
高縄城



校門の前に石碑が復活していました。以前はなかったと思いますが…

2021年01月24日 三河守フロクニ
高縄城

高校の南東のお寺の南に駐車場有り。県道は交通量も有り、路駐は難しい。高校は門周辺を整備中で石碑等見当たらず。

2020年12月31日 がっくん
高縄城

車で行くなら線路越えて、坂の上の専修学校を100mほど過ぎた先の交差点左側に停められるスペースがあります。

2020年10月04日 ばらく~だ
高縄城



未だ、碑は復活していない模様。電車でいきましたが、豊橋鉄道渥美線は1時間4本走っていますので、かなり便利です。

2020年07月22日 大隅守
畔田城[高縄城  周辺城郭]



近くの城下老人憩いの家に車を停めます
そこの玄関口に縄張り図と年表が書いてあります。
遺構は良子に残ってます。

2019年05月18日 しげぽん
高縄城



学校の正門のところにあった城址碑は工事の為に今は移動されてるみたいです

2010年10月18日 三河守コーキしゃん
高縄城

校内に石碑があり西側に土塁が残っています

高縄城の周辺スポット情報

 大崎城空堀(遺構・復元物)

 高縄城址の碑(碑・説明板)

 畔田城(周辺城郭)

 大崎城(周辺城郭)

 大崎陣屋(周辺城郭)

 北裏城(周辺城郭)

 伊庭城(周辺城郭)

 波入江城(周辺城郭)

 草間城(周辺城郭)

 高打場台場(周辺城郭)

 杉山城(周辺城郭)

 高塚陣屋(周辺城郭)

 畔田城登城路入口(その他)

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