伊奈城(いなじょう)
伊奈城の基本情報
通称・別名
- 上嶋城
所在地
- 愛知県豊川市伊奈町柳、深田、丸ノ内
旧国名
- 三河国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 本多定忠
築城年
- 享徳年間(1452〜1455)
主な改修者
- -
主な城主
- 本多氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、井戸跡
指定文化財
- 市史跡(伊奈城跡)
再建造物
- 石碑、模擬櫓
周辺の城
-
牛久保城(愛知県豊川市)[4.7km]
吉田城(愛知県豊橋市)[6.0km]
牧野城(愛知県豊川市)[7.7km]
二連木城(愛知県豊橋市)[7.8km]
上ノ郷城(愛知県蒲郡市)[11.3km]
高縄城(愛知県豊橋市)[11.5km]
月ヶ谷城(愛知県豊橋市)[12.5km]
雨山城(愛知県岡崎市)[12.5km]
形原城(愛知県蒲郡市)[13.6km]
田原城(愛知県田原市)[14.6km]
伊奈城の解説文
[引用元:Wikipedia「伊奈城」の項目]
伊奈城(いなじょう)は、三河国宝飯郡伊奈村(現愛知県豊川市伊奈町柳)にあった日本の城。豊川市指定史跡。
概要
室町時代に本多定忠・本多定助によって築城された中世城館で、約150年間伊奈本多氏の居城であった。
主郭は深田の中にあり河川に囲まれ主郭周囲は土塁でめぐらされていた方形居館型の城郭[1]。
徳川家の家紋「葵の紋」発祥ゆかりの地として知られている。
沿革
15世紀中ごろ、本多定忠・定助が伊奈城を築城[2]
文明年間(1469年-1487年)ころ、幕府直轄領になっていた[3]。
大永6年(1526年)ころ、今橋牧野氏の勢力下になっていた。
享禄2年(1529年)松平清康が吉田城攻めの後田原城を従属。本多正忠は松平勢に参戦、清康を伊奈城に招き祝宴を開く。[4]詳細は「三河国平定」参照
このときの逸話が「葵の紋」発祥ゆかりの地の由縁となる[5][6]。天文17年(1548年)ころ、今川氏統治下本多氏が領地回復。
永禄年間(1558年-1570年)大塚の岩瀬氏に攻められたが柳堤にてこれを退ける。
永禄6年(1563年)今川氏に伊奈城一円の確保を命じられ本地還付と新知扶助を約束。
永禄7年(1564年)徳川家康東三河に進出、この時本多忠次は家康に従属し功をなす。
天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に伴い本多氏は下総国小篠に国替えとなり廃城。
歴代城主
- 本多定忠
- 本多定助
- 本多正時(泰次)
- 本多正助
- 本多正忠
- 本多忠俊
- 本多忠次
- 本多康俊(酒井忠次二男) 下総国小篠へ転封
廃城後
文化10年(1813年)膳所藩主本多家家臣黒田忠明が花ヶ池に建碑[7]。
大正2年(1913年)元膳所藩藩士平田好の篤志に基づき伊奈城趾土塁上に建碑[8]。
平成6年(1994年) 発掘調査実施 堀跡・逆茂木跡、礎石等の遺構などが確認された。
平成9年(1997年) 小坂井町(現豊川市)史跡に指定。公園として整備。
縄張り
湿地帯(深田)に立地し主郭は三方を河川に囲まれ、周囲の土塁上に3か所の矢倉を有し、主郭内には生念台とよばれる火葬施設があった。
周りには腰曲輪が付属し南虎口には馬出に似た構造をもち南方の屋敷に通じる城道につながる。また、主郭周囲の河川は河口から城下まで船で行き来できたと云われている。[9]遺構
土塁
郭跡と主郭北側の土塁が残る。
1997年(平成9年)3月3日に「花ヶ池」とともに町の史跡に指定された。
同年、公園整備に伴い堀・逆茂木等発掘調査で発見された遺構を模したものが配されている。
土塁上に建つ石碑は大正2年(1913年)(忠俊三百五十年忌)に元膳所藩藩士平田好の篤志に基づき建てたもの。前面は元膳所藩藩主本多康穣書。花ヶ池
「葵の紋」発祥にまつわる城域の池。「葵ヶ池」とも呼ばれた。
平成9年(1997年)に「花ヶ池公園」(同町丸ノ内)として整備された。
池内に建つ石碑は文化10年(1813年)膳所藩主本多家家臣黒田忠明が建てたもの。仲仙寺 山門
伊奈城廃城後、城門が伊奈本多氏の菩提寺 東漸寺に移築、後年仲仙寺(同市御津町金野)に移されたと伝わる。
伊奈本多氏来歴
三河国平定
東三河攻め
1529年(享禄2年)、三河平定を推し進める松平清康(徳川家康の祖父)は東三河へ進攻して吉田城(豊橋市)へ迫った。伊奈城主本多正忠は姻戚関係であった吉田城主牧野氏との関係を絶ち、いち早く清康の陣に参じた。夜陰に紛れて吉田川を渡り、吉田城の東門を打ち破って城内に突入し松平勢を導き入れたという。
田原攻め
吉田城を攻略した清康は休む間もなく軍を田原城攻略へ向けた。しかし、田原城主の四代目戸田宗光は、戦わず清康の下へ降った。この時、宗光は清康の一字を貰い受けて「戸田康光」と名乗る。この田原攻めでは正忠らの本多勢が先導役を果たしたとされている。
この後、清康は吉田城へ凱旋し、東三河の諸豪族の服従を受けて、本拠地の岡崎へ戻るが、田原城から吉田城への凱旋の途中、伊奈城へ立ち寄って勝利の祝宴を開いた。その際に正忠は、城内にあった「花ヶ池」の水葵の葉に肴を盛って差出したという。
清康は喜悦して、
と本多家の「立葵紋」を所望したという。このことにより、正忠は清康への心服の情が一層深まったとされる。
後に立葵紋は松平家の紋となり、家康の代に「三葉葵紋」となったとされる。
守山崩れ
破竹の勢いで三河を平定した松平清康であったが、1535年(天文4年)の尾張の織田信秀攻めで出陣中に守山で家臣に殺害されてしまう(「守山崩れ」)。
この事により、松平氏による三河支配は瓦解して、再び三河国内は乱れてしまった。
今川義元と桶狭間
守山崩れの後、三河国は駿河・遠州の今川義元による版図となり、正忠は今川方の属将となる。正忠の後に、忠俊が伊奈城主を継いだ。
1560年(永禄3年)、桶狭間で今川義元が敗死すると、忠俊は子の光忠と共に松平元康(徳川家康)の下に参じて戦功を重ねることとなる。忠俊の後、光忠は病身であったため弟の忠次が伊奈城主となる。
再び三河国平定へ
1564年(永禄7年)、光忠と忠次は吉田城攻めを家康に進言、二連木城の戸田重貞を説いて味方にするなどして活躍した。この功により伊奈城主の忠次には五千貫の地が与えられた。
忠次は酒井忠次と陣を同じくして、姉川・長篠、高天神城と戦い続け、戦功を重ねた。しかし、忠次には子がなかったため、同陣の酒井忠次の次男を養子で迎え、名を康俊とした。
家康関東移封と廃城
1590年(天正18年)、家康の関東移封に伴い、伊奈本多氏は先祖代々約150年間住み続けてきた伊奈城を去ることとなる。伊奈本多氏の封地は、下総国小篠郷五千石であった。伊奈城はその後、廃城となる。
その後
1600年、関ヶ原の戦い後、康俊は三河西尾城二万石の大名となった。養父忠次は西尾で没した。
1615年、大坂の陣の戦功で近江膳所城三万石を拝領した。康俊の後は俊次が継いだ。俊次は後に加増再封されて七万石の藩主となる。以後十三代膳所藩主として続き、明治を迎えた。
アクセス
鉄道
- 東海旅客鉄道(JR東海)
- 東海道本線:西小坂井駅から徒歩で約30分。伊奈城趾公園として整備されている。
自家用車
- 東名高速道路:豊川ICから約30分。
- 国道23号(豊橋バイパス):小坂井御津IC・前芝IC
- 伊奈城趾公園駐車場(無料)
周辺
- 花ヶ池公園(同町丸ノ内)
- 「葵の紋」発祥にまつわる池。市指定史跡。
- お松見(おしょうけん)(同町鶴田)
- 伊奈本多氏の墓所。忠俊夫妻・光忠夫妻・忠次 の墓碑が祀られている[10]。市指定史跡。
- 東漸寺(同町縫殿)
- 本多正時が菩提寺として開基。舞々辻にあった五輪塔等が移され伊奈城主五代の墓所として再建。
- 本多忠俊公夫妻の埋葬地(同町松間)
- 本多忠俊夫妻の埋葬塚で「お松見」が造られる以前の墓所であったと考えられている。[11]
- 舞々辻(まいまいつじ)墓所跡(同町舞々辻)
- 前山神社付近に伊奈城主累代の墓所があったとされ、大正のころには消失している。当地にあった五輪塔等は東漸寺に移された。
- 若宮八幡社(同町宮坪)
- 本多正時の時に社殿を再建、正時が植えたと伝わるイヌマキ2本(若宮八幡社のイヌマキ)が残る[12]。
- 永正寺(同町大明神)
- 佐奈川
- 柳堤は現在の佐奈川にかかる柳橋(県道384号(旧平坂街道))近辺。伊奈城築城のころ造られたと云われている[13]。
[続きを見る]
伊奈城の口コミ情報
2024年06月23日 内匠頭RedKing
伊奈城
R23BPと東海道新幹線が交わる辺り、田園地帯です。名鉄名古屋本線伊奈駅もJR東海道本線西小坂井駅も近いと言う便利の良い土地です。近くに案内表示も多く迷わないと思います。屋外便所に手作り解説が多数掲示されて、地元の皆さんに大事にされています。
2022年11月28日 半月三河守虎陵
伊奈城
豊川市観光協会に問い合わせを行うか、イベントなどの時は模擬櫓の中に入る事が出来ます。階段は、梯子が掛かっているだけなので、注意が必要です。
2022年03月22日 在来線男右京進
駐車場[伊奈城 駐車場]
車は20台くらい止めれます。ただ県道から来るとセンターラインの無い道になります。
2022年02月07日 駿河守じゅんじん
伊奈城
令和4年3月31日までに物見櫓下方左側掲示物の写真を撮影して小坂井生涯学習センター窓口にて見せると御城印がもらえます。
2022年01月04日 RED副将軍
伊奈城
公園となりL字状の高土塁が残ります🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1450年頃に本多定忠によって築城されたと言われています。
伊奈本多氏は今川氏に属していましたが、今川氏滅亡後は徳川氏に属し、1590年に徳川家康が関東移封となれば、下総国小篠に移封となりました。
徳川家臣の本多性といえば本多忠勝や重次、正信が有名ですが、伊奈本多氏は別家です。しかし、系譜を辿れば祖先は同じの様です。
伊奈本多氏も東三河平定の功績により普代大名として存続しました。
見所
本丸跡にはL字状の高さ約3mの高土塁が残り、土塁上には城石碑が建っています。
城址公園として整備、模擬櫓が建造されています。
2021年12月20日 虹ノ松能登守
伊奈城
現在、愛知県で行われている御城印めぐりで訪問しました。田んぼの中にポツンとあり場所はわかりやすかったです。城跡は公園になってますが、石碑と説明看板、建物の礎石の復元がありました。
2021年05月30日 ばらく~だ
伊奈城
伊奈城は、本多家、徳川家の葵紋のゆかりの地だそうです。池の傍らに二葉葵が植えられています。
敷地内トイレの壁に縄張図、伊奈本多家家系図等の資料が貼り出されています。そちらを見てから見学するといいと思います。
2020年11月01日 よだゆう三河守
伊奈城
伊奈城は綺麗に整備されています。ギリギリですが葵の葉も見られます。
2020年08月15日 OROKA参議
茂松城[伊奈城 周辺城郭]
【注意:三河最大級の井戸!】
茂松城は、伊奈城の北西に位置する城。
もとは源範頼が三河守だった頃の居館と伝えられ、その後は細川勝久が城主となったが、今川義忠に攻め落とされた。さらに牧主計が城に入ったが、桶狭間で戦死したため廃城になったそうです。
現在の立地は県立御津高校の横の山になります。
アクセスは高校の正門を右折し、道を少し進んだところの右手にフェンスの切れ目があります。ここから山に入り登って行きましょう。
なお、駐車場はないので私は付近に路駐しました。(このあたり自己責任で)
登り始めると簡単なハイキング道のようになっていますが、行きすぎると城を通りすぎてしまう構図なので、郭かなぁとか感じる場所が出てきたら右手に直登してください。城を感じる嗅覚が試されます。
遺構としては、いくつかの郭と主郭が三方を土塁に囲まれ虎口もおそらく2つ。土塁の背後にはしっかりめの堀切(写真録ってなかった~…)があり、見応えがあります。
また、堀切とは逆側の郭に降りると三河最大級と言われる井戸があります。直径3メートル、深さ6メートルほど。フェンスやロープもなく、直角な側面…落ちたら自力では絶対に登れないという恐怖を感じるレベル、かつ本丸から調子に乗って走って降りてくると、ちょうど落ちるような位置取り…井戸のくせにどの遺構よりも殺意高いです。
しかし、この大きさ立派さ、見る価値はあります!
ちなみに高校のテニスコートすぐ裏という立地、カメラ持ってウロウロしてて女子高生らに不審者扱いされても責任は持ちません。そういう意味でもなかなか難攻不落な城ですな(*´-`)
2020年08月13日 JUMP三河守
東海道 赤坂本陣跡[伊奈城 碑・説明板]
東海道赤坂の本陣跡です。
2020年01月11日 なおさん
伊奈城
ちゃんと整備されて
土塁に登って辺りを散策しました
2019年05月18日 しげぽん
伊奈城
畑の中に城址はあります。
伊奈城跡公園として整備されています。
城址の東側に駐車場があるので、自動車でも来やすいです。
2018年09月20日 愛甲太閤【相模の狂人】
伊奈城
R23号豊橋バイパスの前芝ICから車で5分、東海道新幹線そばの長閑な水田地帯にあります。鎮守のような森で覆われている様子は近づけばすぐにそれと分かります。
城址公園として整備されている中に長さ50m、高さ3mばかりの土塁が1本残っています。土塁は脚部が石積みで保護されて完全な原型ではありません。説明板類も整備されています。
今残っているのは土塁が1本だけですが、廃城後に相当な部分が崩されて水田にされたのでしょう。土塁に登って、土塁や堀などで囲われた往時の姿を想像するとゾクゾクして来ます。
2017年04月29日 我流尾張守クール
伊奈城
旧小坂井町時代にふるさと創生事業の一環で発掘、城跡公園として整備されています。伊奈本多氏の居城で、土塁が形よく残されていました。
徳川葵紋発祥ゆかりの地とされていることを知りました。近くの花ヶ池公園を一緒に観るとよいと思います。R23から直ぐです。革靴でも十分に観て廻れました。
2010年09月28日 ながしの権兵衛
伊奈城
「伊奈城之図」(江戸時代)初公開!
2010.11.7まで豊川市桜ケ丘ミュージアムにおいて、特別展「新豊川市の文化財展」を開催中。
旧小坂井町の東漸寺所蔵で門外不出だった伊奈城之図がただいま初公開されています。
月曜日休館(10月11日は開館するようです)。
入館無料。駐車場あり。
(注)休館日、開館時間など詳細については、直接問い合わせてください。
2010年06月09日 ながしの権兵衛
伊奈城
宝飯郡小坂井町は、平成22年2月1日に豊川市に編入合併されています。