菊川城館(きくかわじょうかん)
菊川城館の基本情報
通称・別名
- 菊川城館[横地城(金寿城)・高田大屋敷]
所在地
- 静岡県菊川市東横地(地図は横地城を示す)
旧国名
- 遠江国
分類・構造
- 城館遺跡群
天守構造
- -
築城主
- 横地家長[横地城]、内田氏?[高田大屋敷]
築城年
- 室町時代前期[横地城]、鎌倉時代?[高田大屋敷]
主な改修者
- -
主な城主
- 横地氏[横地城]、内田氏[高田大屋敷]
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)[すべて]
指定文化財
- 国史跡(菊川城館遺跡群)
再建造物
- 石碑[横地城]、説明板[すべて]
周辺の城
-
黒田代官屋敷(静岡県菊川市)[4.5km]
勝間田城(静岡県牧之原市)[6.6km]
朝比奈城(静岡県御前崎市)[8.0km]
高天神城(静岡県掛川市)[8.2km]
相良城(静岡県牧之原市)[8.7km]
諏訪原城(静岡県島田市)[10.0km]
掛川城(静岡県掛川市)[10.9km]
小山城(静岡県榛原郡)[13.1km]
横岡城(静岡県島田市)[14.0km]
横須賀城(静岡県掛川市)[14.2km]
菊川城館の解説文
[引用元:Wikipedia「菊川城館」の項目]
横地城(よこちじょう/よこじじょう)[1]は、静岡県菊川市東横地にあった日本の城。別名金寿城。城跡は2004年(平成16年)9月30日に「菊川城館遺跡群」の一部として国の史跡に指定されている[2](菊川城館遺跡群は高田大屋敷遺跡と横地氏城館群で構成されており、横地城跡は後者に属する)。
概要
古くから当地を本領とし、『吾妻鑑』などにも登場し鎌倉時代には御家人、室町時代には奉公衆として幕府に仕えた名族横地氏によって築城された。創築年代は室町時代初期とされるが、15世紀半ば頃とも考えられている。牧ノ原台地から西側の菊川水系の平野部に伸びる丘陵上および谷地形を利用して造られており、その規模は東西400メートル×南北450メートルを測る。尾根の上部に「東の城」・「中の城」・「西の城」という三つの主要区画があり、大小の曲輪や堀切、土塁、竪堀などが残る。
駿河守護今川義忠と遠江守護斯波義廉の対立に際し、同族の勝間田氏と共に斯波氏方について挙兵するも、今川義忠に攻められ1476年(文明8年)に落城した。
現在も発掘調査が進められている。周辺一帯は御前崎遠州灘県立自然公園に指定されている。
歴史
- 室町時代初期 ‐ 横地太郎家長によって築城される。
- 1476年(文明8年) ‐ 今川義忠に焼き討ちされ落城。城主横地秀国が討死。
歴代城主
- 初代: 横地太郎家永(1052 - 1126)源頼義の子八幡太郎義家の落し子
- 2代: 横地太郎頼兼(1107 - 1142)横地系図の一族、次男は勝間田に住む
- 3代: 横地太郎長宗(1132 - 1176)保元の乱で後白河天皇方に味方し活躍
- 4代: 横地太郎長重(1162 - 1222)源義経に従い、源平合戦で功をあげた
- 5代: 横地太郎長直(1214 - 1276)幕府御家人として、御所奉公した
- 6代: 横地太郎師重(1235 - 1277)弓の名手で、鎌倉鶴岡八幡宮の弓始儀式を勤めた
- 7代: 横地太郎師長(1257 - 1307)従五位下、山城守として、反幕謀反に勲功
- 8代: 横地太郎長国(1279 - 1332)鎌倉住まい、笠置城攻めで功をあげた
- 9代: 横地太郎長則(1314 - 1361)北条氏滅亡、足利氏へ
- 10代: 横地太郎家長(1337 - 1409)従五位下、山城守青年武将(太平記)
- 11代: 横地太郎長豊(1383 - 1437)遠江守で、将軍の御供衆として京都に滞在
- 12代: 横地太郎長泰(1413 - 1439)永享の乱 箱根水呑戦で戦死
- 13代: 横地太郎長秀(1434 - 1494)足利義政に仕えたが、応仁の乱で敗北
- 14代: 横地太郎秀国(1465 - 1476)北条早雲の反今川攻撃により、転戦後討死
- 15代: 横地太郎元国(1505 - 1554)武田信虎を頼って甲斐国へ、再興ならず
その他
- 横地氏は全国の横地姓のルーツであるといわれている。
- 横地城を攻略した今川義忠はその帰路に遠江国塩買坂で、横地の残党に襲われ討死。
- 勝間田城(静岡県牧之原市)城主の勝間田氏は横地氏の分家。
- 近くにある「金玉落としの谷」は珍地名として知られる。
参考文献
- 溝口彰啓 2009「横地城」『静岡の山城ベスト50を歩く』(加藤理文・中井均 編) サンライズ出版 pp94-97
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菊川城館の口コミ情報
2024年11月21日 RED副将軍
高田大屋敷[菊川城館 周辺城郭]
鎌倉御家人である内田氏の居館跡🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。鎌倉時代に内田氏により築かれたと考えられています。
内田氏は、鎌倉御家人で源頼朝の重臣であった工藤祐経の系譜とされ、孫にあたる内田致茂は内田氏の祖とされます。
「内田家文書」から遠江国内田庄下郷の地頭が内田氏であったことが判明し、承久の乱の後にこの地の地頭となり、高田大屋敷を築いて居館とした様です。
その後、14世紀半ばに本拠を石見国に移したと見られています。
見所
菊川城館遺跡群として国史跡に指定されています。
耕作地の中に東西70m、南北93mの土塁が残っています。
南側から西側は旧河川と湿地を利用した堀跡が巡り、北側から東側は上小笠川の流路に囲まれた方形居館跡であったことが調査により分かっています。
地味で通り過ぎてしまいそうな国史跡です。
案内板が立っていますが文字は掠れてしまって判読困難です。
2024年04月16日 長谷川兵部丞平蔵
菊川城館
横地城跡ともいわれ、室町時代の国人領主の山城の遺構(切岸や堀切、曲輪そして、一騎駆け)がしっかり管理されて見学しやすいです。麓の駐車場もあり、アクセスもいいです。東と西、そして中の城と色々な味わいが楽しめる城址で、土の城ファンは必見です。金玉落としでもTVで紹介されてました。
掛川城や高天神城からも程よい立地です。菊川文化会館アエルで土日でも御城印、購入できます。
2023年09月04日 RED副将軍
菊川城館
登録地点である横地城の口コミです
約450年もの間、東遠を支配した横地氏の居城🏯
オススメ度 ★★★★⭐︎
築城年代は不詳。室町時代初期に横地家長により築かれたとされます。
横地氏は源義家の系譜とされます。源義家が前九年の役で奥州へ向かう途中、磐田見付宿で藤原光頼の娘との間に授かった落とし子が、源義家の後ろ盾により横地村に居を構え横地家永を名乗ったのが横地氏の始まりとされます。
横地氏は鎌倉時代には御家人、室町時代には奉公衆として幕府に仕えた名族として当地を支配しました。
その後、10代当主の横地家長が横地城を築いたとされます。
1476年、駿河守護の今川義忠と遠江守護の斯波義廉の対立に際し、同族の勝間田氏と共に斯波氏に横地氏は付きますが、今川義忠の侵攻により落城。
しかし、今川義忠は帰路に塩買坂で横地氏の残党によって討死。
1506年には14代当主の横地秀国は、北条早雲による反今川攻撃に従って転戦するも討死となり、約450年もの間、この地を支配した横地氏は勢力を失い、武田信虎を頼って甲斐国へと落ち延び歴史の表舞台から消えたとされます。
見所
牧の原台地の南西端に位置し、谷部と丘陵部の天然の要害を利用して築かれています。
大きく東の城、中の城、西の城、詰の丸の郭群で構成されており、西の城の西側と東の城の東側にそれぞれ一騎駆と呼ばれる両サイド絶壁の細尾根が付されています。
東の城は本丸と金寿丸で構成され遺構が良好に残存しています。特に北へ伸びる尾根筋を堀切で分断し郭が形成されており一番の見所です。
西の城は二の丸とされ、現在は横地神社が鎮座し土塁が残っています。
中の城は、東の城と西の城の間にあり、兵器庫、干し飯庫があったとされ、木戸跡が残っています。
菊川城館遺跡群を構成するひとつとして国史跡に指定されており、駐車場も完備しています。
2022年04月19日 ファン掃部助トム治郎
菊川城館
横地城という国指定史跡です。今川義元以前の遠江の歴史を味わえる場所で一見の価値あります。
2022年01月18日 Yana右兵衛督
菊川城館
横地神社を超えて本丸まで行きました。とても見晴らしが良い場所です。
2021年05月04日 山西の無職人千閑斎
高田大屋敷[菊川城館 周辺城郭]
高田大屋敷遺跡は横地氏城館跡と共に菊川城館遺跡群を構成しています。
発掘調査は行われた様ですが、字の消えかかった看板が荒地にポツンと立っています。
中世の方形居館跡という事で北側に土塁、南側に堀っぽい雰囲気が残っています。
2021年04月24日 山西の無職人千閑斎
棚草城[菊川城館 周辺城郭]
棚草城の詳細は良くわかりませんが、三郭に今川宮が有り今川氏真と朝比奈小十郎が水神として祀られいる事から朝比奈小十郎に関係する城と思われます。
三郭の下に有った雲林寺は建物が無くなり更地になっていました。
主郭から三郭は全て茶畑でしたが、全く手入れされていない茶の木の樹海です。この樹海を抜けると山林部に堀切等若干の遺構が残っています。
2021年01月17日 Ryochin左京進
金玉落としの谷[菊川城館 寺社・史跡]
木の玉落としの間違いらしく、現在では碑が立っていたり、毎年谷の下で金色のボールを拾う祭りもあるらしいです
2020年11月07日 山西の無職人千閑斎
今川さま[菊川城館 寺社・史跡]
小和田先生の「歴史探索入門」に掲載されている*今川様*を訪ねてきました。今川氏真が朝比奈孫十郎に命じて用水を作らせ、水神として祀られています。現在も毎年3月13日に自治会の主催により祭事が行われているようです。裏山には土塁?や堀切?がありました、一帯は茶畑ですが、曲輪や切岸っぽい地形です。多分、棚草城です。
2019年10月22日
菊川城館
菊川城館は、横地城跡で検索した方が良く、歴史としては、
源義家の庶長子・横地家永を祖とします。
1051年、陸奥の安倍頼良討伐に向かった源頼義が、長雨で遠江国見付に20日程留まり、その時、源頼義の嫡男・源義家が相良荘司・藤原維頼の娘を寵愛し、子が出き、
この子が横地家永で、横地に居を構えたそうです。
山城の中心「東の城」からは南に遠州灘、東に牧之原台地、その後方から北にかけて赤石山脈と南アルプスを望むことができます。 「東の城」から西に向かえば「千畳敷」、「一騎駆け」、「横地一族の墓」などが、いたるところに名残をとどめており、時を越えて“中世の世界”を感じることができるそうです。
駐車場もいくつかあるみたいですが、
私が行ったところは、2、3台しか停められませんでした。
2016年12月30日 まー刑部卿
菊川城館
『◯玉落としの谷』は現地にある標柱及び説明板そのままに記しましたが不適切な表現ということで記載出来ませんでした。
なお◯は金が入ります。
2016年12月30日 まー刑部卿
菊川城館
横地城跡案内図から登城口が3つあることがわかり県道245号線を御前崎市方面へ進むと『横地城跡入口』(先程の看板とは別)の看板があり左折。この道路は道幅広いですが大久保農道という道路で牛池と上池の間の道を進んだ先に駐車場有り(トイレなし)。農道をそのまま進むと駐車場とトイレが有ります。登城口から進むと一番初めに進みかけた道とぶつかる。更に進むと『◯玉落としの谷』→『二の丸跡斜面の井戸』→『二の丸跡に鎮座する横地神社』石段脇に『土塁壕跡』→『千畳敷(広場、横地城址石碑有り)』→『中城跡』と木戸があったと思える土塁有り→本丸(金寿城)の看板を進むと『木戸』→『井戸跡』を過ぎて本丸跡の石碑に到着。眺め良し。『一騎駆』は本丸下にある。自然公園のため草刈りしてあって歩きやすかったです。
2016年12月30日 まー刑部卿
菊川城館
横地城跡へは県道245号線に消防団の建物先右手に『横地城跡入口』にデッカい看板があったので行ってみました。進んでいき墓地を過ぎた辺りから道幅車一台分の道をひたすら上がる。途中横地一族の墓や斯波武衛邸宅跡、武衛原庭園跡があり茶畑が出現。この辺りは道幅は狭く側溝があったりで危なかった。軽自動車だったら余裕。更に進むとかくし井戸、のろし台跡の看板有り更に進むと(途中で引き返し消防団建物前に駐車し歩いて進む)横地城跡案内図と駐車場が有ります(トイレなし)。