深溝城(ふこうずじょう)

深溝城の基本情報

通称・別名

所在地

愛知県額田郡幸田町大字深溝字丸の内、城山

旧国名

三河国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

大庭朝満

築城年

不明

主な改修者

主な城主

大庭氏、松平氏、板倉氏

廃城年

元和元年(1615)

遺構

消滅

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

上ノ郷城(愛知県蒲郡市)[4.4km]
形原城(愛知県蒲郡市)[5.5km]
山中城(愛知県岡崎市)[7.9km]
東条城(愛知県西尾市)[7.9km]
本證寺(愛知県安城市)[10.7km]
桜井城(愛知県安城市)[11.9km]
西尾城(愛知県西尾市)[12.1km]
岡崎城(愛知県岡崎市)[13.1km]
安祥城(愛知県安城市)[13.8km]
箱柳城(愛知県岡崎市)[14.5km]

深溝城の解説文



深溝城(ふこうずじょう)は、愛知県額田郡幸田町深溝にあった戦国時代から江戸時代初期の日本の城。

歴史 

大庭氏[1]により、寛喜3年(1231年)、あるいは正慶元年(1332年)に築城とも言われるが、築城年代は不明である。この深溝城を松平信光(寛正6年(1465年)説)、または松平忠定が奪取した(深溝紀略、大永3年(1524年)説)という。他に永正2年(1505年)説。

『三河物語』、東照宮御実紀などには、大庭氏の登場はおろか、深溝城の奪取についても一切記載がなく、松平氏が深溝城を拠点とする以前については不明である。

『宗長日記』には、大永6年(1526年)、「松平大炊助宿所連歌。沢のうへの山たちめぐる春田かな此所の様なるべし。」と記載がある。

三河物語に、三河一向一揆の項目で、不高須(深溝)之松平主殿之助(伊忠)殿、と記載ある。

深溝城は松平氏のものとなり、吉良氏との戦いの拠点になった。代々深溝城主になった一族を深溝松平家という。それから城主は二代目好景、三代目伊忠、四代目家忠、五代目忠利と続き、慶長19年(1614年)に忠利が三河吉田藩の吉田城へ移った事で、深溝城の深溝松平氏の支配は終わる。元和元年(1615年)、深溝城は廃城となり、以後陣屋と称した。

現在の深溝城址 

明治維新を迎えて陣屋も廃され、昭和に入って民間に売却され工場用地となった。現在はその一角に看板と記念碑が建っているだけである。石垣のようなものも窺えるが、建物などは跡形もない。そのため、当時の構造が全く分からない状態となっている。

幸田町郷土資料館には深溝城の模型が展示されているほか、陣屋絵図の写しを所蔵している。

深溝城の口コミ情報

2023年07月22日 ペスカトーレ
深溝城



現在は、説明看板があるだけで、遺構は残って無さそうです。

2022年03月22日 在来線男右京進
深溝城



道路の曲がり角に石碑と案内板がありますが、あまりに狭いです。

2020年11月03日 ばらく~だ
深溝城

城跡には石碑と案内看板があるのみですが、近くの本光寺には、深溝松平家歴代の墓所があります。

2020年10月20日 関白じゃりんこみらい♪
深溝城



残念ながら、石碑と説明板が有るだけです。周辺の地形と地名が城か屋敷が有ったのかなと、感じさせてくれるくらいです。

2019年07月16日 板垣駿河守信方
深溝城

江戸初期は板倉内膳正重昌公の所領でした。島原の乱で先陣の総大将を務め壮絶な討死を遂げられました。

2012年10月05日 熊谷三河守一哉
深溝城

現在は(株)三協幸田工場となっているので、ナビを利用する際はそちらを目的地にするといいかも。

深溝城の周辺スポット情報

 坂崎城・天野康景邸(周辺城郭)

 医王神古墳(寺社・史跡)

 三光院(寺社・史跡)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore