安祥城(あんしょうじょう)
安祥城の基本情報
通称・別名
- 安城城、森城
所在地
- 愛知県安城市安城町城堀30
旧国名
- 三河国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 和田親平
築城年
- 永享12年(1440)
主な改修者
- -
主な城主
- 和田氏、松平氏
廃城年
- 永禄5年(1562)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀
指定文化財
- 市史跡(安祥城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
桜井城(愛知県安城市)[2.8km]
本證寺(愛知県安城市)[5.2km]
岡崎城(愛知県岡崎市)[5.6km]
井田城(愛知県岡崎市)[6.9km]
上野上村城(愛知県豊田市)[8.1km]
重原陣屋(愛知県刈谷市)[8.7km]
知立城(愛知県知立市)[8.9km]
西尾城(愛知県西尾市)[10.0km]
箱柳城(愛知県岡崎市)[10.0km]
刈谷城(愛知県刈谷市)[11.5km]
安祥城の解説文
[引用元:Wikipedia「安祥城」の項目]
安祥城(あんじょうじょう、あんしょうじょう)は、三河国碧海郡安城(現在の愛知県安城市安城町)にあった日本の城。城跡は安祥城址公園として整備されており、安城市指定史跡[1]。跡地には安城市歴史博物館・安城市民ギャラリーなどがある。
歴史
永享12年(1440年)、三河国碧海郡周辺を支配していた和田氏(畠山氏の一族と言われる)の和田親平が築城したとされる(安祥城築城以前は、西隣の安城古城が本拠地になっていた)。築城当初は居館であった。
『東照宮御実紀』巻一には「畠山加賀守某が安祥の城を攻め抜かれ」と記載されている。
『新編柳営続秘鑑』「十二巻・葵之御紋来由」によると、松平信光が、文明11年7月15日(1479年8月2日)の安祥城攻めの時、酒井氏の祖である酒井親清に、三葵の葉の家紋を与えたという(その後、文亀元年(1501年)9月、松平長親の時に今川方大将の北条早雲と岩付の城下の岩津城下にて合戦勝利、先陣の酒井左衛門尉・氏忠・入道浄賢の働きを顕彰し、信光が与えた三ツ葵の酒井氏の家紋を奉還してもらい、徳川家の家紋となったという。これ以後、酒井氏は、葵紋に似た酸漿(カタバミ)の家紋となったという)。
大永4年(1524年)、4代目の松平清康は、岡崎城を取得し、松平氏の拠点を岡崎に移した[2][3]が、安祥城も、安祥松平家(徳川本家)の重要拠点であり続けた。『徳川実紀』によれば、「御身は猶安祥におはしける。」とある。大永7年(1527年)、連歌師の宗長が安祥に入ったときに、松平信定(清康の叔父)が出迎えている。通説では、信定は叔父である松平親房の養子になった桜井城に入ったとされているが、村岡幹生は同年時点で親房の嫡男である将監某が健在であるためまだ養子にはなっておらず、清康が岡崎城から戻らなかったために空城になっていた安祥城に入っていたとする[4]。
しかし、天文4年(1535年)に清康が家臣に殺され森山崩れが起こると、継嗣・広忠を一族の松平信定が岡崎城から追放し実権を握るが、翌天文6年(1536年)に信定が岡崎城を退去したため、広忠が再入城する(その後、信定は許される)。しかし、三河の諸豪族が相次いで離反し、一族からも謀反が起こるなど松平氏は弱体化した。
天文9年(1540年)、松平氏が弱体化したこの機に尾張国古渡城主・織田信秀が安祥城を攻撃し落城させ、城代に織田信広を置いた(第一次安城合戦)。また、信秀の攻撃は失敗したと言う異説もあり、その説によると天文13年(1544年)8月にもう一度織田敏宗に攻撃させるも失敗し、翌月、織田信秀が3度目の攻撃をして落城させたとされる(第二次安城合戦?)。
天文14年(1545年)、広忠は安祥城を奪還するために出陣する。家臣は勝機は無いとして攻撃の中止を進言するが、広忠は聞き入れず戦いを挑む。しかし、織田勢の挟撃に合い大敗、広忠の命も危うくなったが、本多忠豊をはじめとする家臣の奮戦によって岡崎に逃げることが出来た(忠豊は広忠の身代わりになって討ち死にした)。この戦いに敗北したことによって、松平氏の弱体化は、決定的なものとなる(上記の説が正しければ第三次安城合戦そうでなければ、第二次安城合戦)。
天文16年(1547年)、織田氏の討伐軍が侵攻し、それに耐えることが出来ないと考えた広忠は、やむなく今川氏に救援を求める。これに対し、今川氏の当主・今川義元は人質として、竹千代(徳川家康)を引き渡すことを要求する。広忠はこれを受諾し、竹千代を駿府に送るが途中で戸田康光に拉致され尾張の織田氏に売られてしまう。しかし、これによって松平氏は今川氏の傘下に組み込まれることとなる。そして、天文18年(1549年)に広忠は病死する。
これに対する今川氏の対応はすばやく、同年3月に太原雪斎率いる約1万の軍勢で安祥城を攻め、落城寸前まで追い詰めるも城兵の奮戦によって失敗するが(第四次あるいは、第三次安城合戦)、同年11月8日(11月26日)から9日(11月27日)にかけて再び攻撃し落城させる(第四次あるいは、第五次安城合戦)。
『柳営秘鑑』の「巻ノ三」には、徳川家康の扇の御馬印は天文18年(1549年)の安祥城攻めの時に(討ち死にした本多忠高に由来するという)、その子の忠勝が継承し、文禄2年(1592年)に、家康の所望で馬印にしたとある。
このとき城代の織田信広を捕縛し、織田家に奪われた竹千代と人質交換をする。今川氏は攻略した安祥城に天野景泰、井伊直盛らを城番として置き、更に岡崎城にも城代を派遣して三河国を統治した。この後、今川義元が桶狭間の戦いで横死し、松平氏は独立し、織田氏との間に清洲同盟が締結されたことで安祥城の前線としての価値が薄れ、永禄5年(1562年)ごろ、廃城される。その後、小牧・長久手の戦いの時にも兵が置かれた。
城郭他
舌状台地の先端に位置し周囲を森と深田に囲まれていて、その内側に土塁や堀があり、天守を持たない平山城だった。室町時代中期に築城され、織田氏、今川氏、松平氏との間で激しい戦闘が繰り広げられた。『岡崎領主古記』に安祥森城、『三河国二葉松』に安條古城・云城森、という記載があるが、徳川の同時代史料(『家忠日記』や大久保の『三河物語』)には、別名の森城なる記載はない。『寛政重脩諸家譜』では安城城とある。
徳川最古参の三河安祥之七御普代の発祥の地でもある。三河安祥之七御普代とは、酒井左衛門尉・大久保・本多・阿部・石川・青山・植村、または酒井・大久保・本多・大須賀・榊原・平岩・植村を指す(『柳営秘鑑』)。
『信長公記』に「三川の内あん城と云ふ城」と記載される。織田氏が保有していた時代には三河進出の牙城となった。
現在は、地表上では碑・塚・切岸・堀・一部曲輪などが残るだけである。本丸跡は1792年(寛政4年)以降、大乗寺(了雲院)境内となっているが、1988年(昭和63年)から数回の発掘調査が行われ、境内地下にも戦国時代の遺構が残っていることが判明している。二の丸は八幡社、三の丸は大乗寺の裏手あたり。
アクセス
- 鉄道
- 名鉄西尾線 南安城駅から徒歩12分。
- バス
- あんくるバス(市内循環バス)- 1番系統安祥線(川島行き)「歴史博物館」下車。JR安城駅より10分、名鉄南安城駅より6分。
出典
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安祥城の口コミ情報
2023年09月26日 SG
安祥城
安城市歴史博物館で三河本多一族の特別展がやってました
2023年08月28日 クノール尾張守
安祥城
隣に歴史博物館があり安城城を取り巻く歴史を勉強できます。
2023年03月05日 井伊図書允直憲
安祥城
駐車場は無料で広い。歴史博物館横に史跡マップがあり、徒歩で安祥合戦の跡地を巡るのに丁度いい。本證寺との無料シャトルバスも期間限定で運行中です。
2023年02月19日 リラックマʕ•ᴥ•ʔ式部大輔
安祥城
家康公をはじめ優れた武将を輩出した安祥松平氏。隣接する歴史博物館では、特別展「家康と一向一揆」が開催されており、大河を観る上でも理解が深まります。
2023年02月18日 だい
安城陣屋[安祥城 周辺城郭]
旗本久永氏の陣屋跡です。安城市が立てた看板があるのみです。付近に駐車スペースは無いため徒歩での訪問となります
2023年02月06日 長谷川玄蕃助平蔵
安祥城
遺構は、本丸と二の丸の曲輪に切岸が確認できます。安祥城址公園として整備されており、安城市跡地には安城市歴史博物館で御城印も買えます。織田と松平との争奪戦の如く、ボケ◯ンGOのメッカの様でした😆三河一向一揆の展示も見れますよ‼️
2023年01月14日 RED副将軍
安祥城
松平氏の本拠地🏯
織田氏、今川氏、松平氏の間での激戦の地⚔
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1440年に和田親平により築城された居館が始まりとされます。
和田氏は畠山氏の系譜でこの辺りを支配していた在地土豪です。
1471年に松平信光が攻略して以来、松平親忠、長親、信忠と続き、1524年に徳川家康の祖父にあたる松平清康が岡崎城に移るまで松平氏の本拠地として機能しました。
1540年、尾張より勢力を拡大していた織田信秀による侵攻にて落城。その後も松平氏は奪還を目指して幾度も安祥城を舞台に攻防戦を繰り広げました。
やがて、松平氏は竹千代(徳川家康)を人質に出すことで駿河の今川義元と同盟を締結します。しかし、今川義元の駿府城に移る途中で織田信秀に寝返った田原城の戸田康光によって竹千代は織田方に連れ去られる事件が勃発。
1548年、松平氏は今川氏の援軍を得て安祥城に進撃し落城。城主の織田信広を捕縛し竹千代との人質交換を成功させたというエピソードがこの安祥城にはあります。
織田信広はこの失態により長男にも関わらず家督承継から外れ、弟の織田信長が承継することになったとか…
その後は、今川氏家臣の天野景泰、井伊直盛を城番として配するも、間もなく桶狭間合戦において今川義元が敗死。松平氏は独立し、織田氏と清洲同盟を結んだため重要性が無くなり安祥城は廃城となりました。
見所
舌状台地の先端に築かれていましたが、現在は公園、寺社の境内となり大きく改変されています。周囲は沼沢地の要害でしたが埋め立てられ面影はありません。
主郭は大乗寺、二郭は八幡社の境内となり、曲輪や堀、土塁の名残の様なものが感じられる程度です。
徳川家康ゆかりの城跡です。大河好きならぜひ!
2022年02月18日 在来線男右京進
安祥城
1年ぶりに行きました。今は愛史協の御城印を配っていますが、来年くらいに独自の御城印が出来るそうです。
2021年12月26日 安東尾張守伊賀氏
安祥城
安城松平4代(親忠、長忠、信忠、清康)4代清康(家康の祖父)が岡崎に本拠を移すまでの居城であった
2021年12月06日 虹ノ松能登守
安祥城
徳川家康の祖父の居城と説明がありましたが、今は神社と寺、公園になっていて建造物などは残っていませんでした。
隣に安城市歴史博物館があり、そこの駐車場に止めてぐるりと散策できます。個人的には、笙の塔というオブジェが面白かった。風が吹くと音が鳴ります。
2021年10月17日 スーさん
安祥城
現在城跡は神社とお寺になっています。土塁の跡が少し残ってます。12/28までに写真を撮って、公園内の歴史博物館で見せると無料でお城印が貰えます。11/14まで「加賀本多家」-その歴史と至宝展もやってます。本多正信家の歴史がわかって、なかなかよかったです。
2021年03月25日 在来線男右京進
安祥城
少し高い城跡はお寺になっており、平地に安城市歴史博物館と市民ギャラリーと庭園があります。歴史博物館は古代が中心で松平氏や江戸時代も少しあります。珍しい土産物販売コーナーもあります。駐車場は100台くらい大丈夫です。
2020年12月07日 しげしげ主税頭信繁
安祥城
安城歴史博物館の隣ですので、駐車スペースはかなりあります。
2020年11月15日 兵部大輔yohman
安祥城
ごく一部ですが、土塁と水掘が復元されています。城址公園内には歴史博物館があります。
2020年10月19日 みその対馬守
安祥城
我が故郷の安祥城、寺門は歴史的雰囲気が有ります。ここで松平と織田の合戦が数回あったと思えば、益々思いが馳せます。18日は東大の金子先生の「酒井忠次」講演が隣接の歴史博物館でありました。
2020年08月31日 おさむ
安祥城
安城市歴史博物館が併設されており、展示や図録販売が充実しております。安祥長家や安城合戦を学習したくなります。
2020年08月18日 成瀬隼人正
安祥城
安祥城は平城で遺構は有りません。現在は安城歴史博物館が有ります。芸州浅野家に伝わる絵図面ではしっかりした縄張りです。安城歴史博物館内に複製が展示されています。秀吉のレガリア小説の描写もピッタリ!