刈谷城(かりやじょう)

刈谷城の基本情報

通称・別名

亀城

所在地

愛知県刈谷市城町1

旧国名

三河国

分類・構造

平城

天守構造

築城主

水野忠政

築城年

天文2年(1533)

主な改修者

主な城主

水野氏、深溝松平氏、久松松平氏、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏、土井氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、土塁、横堀(水堀)、移築辰巳櫓(妙福寺〈碧南市〉)

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

緒川城(愛知県知多郡)[2.0km]
重原陣屋(愛知県刈谷市)[3.2km]
吉川城(愛知県大府市)[5.5km]
知立城(愛知県知立市)[5.6km]
丸根砦(愛知県名古屋市)[9.1km]
大高城(愛知県名古屋市)[9.5km]
沓掛城(愛知県豊明市)[9.5km]
鷲津砦(愛知県名古屋市)[9.7km]
鳴海城(愛知県名古屋市)[10.7km]
堤本地城(愛知県豊田市)[11.3km]

刈谷城の解説文



刈谷城(かりやじょう)は、三河国碧海郡刈谷(現愛知県刈谷市)にあった日本の城。正しくは「刈屋城」であるが、刈谷市が1950年(昭和25年)4月以降に市制施行してから「刈谷」と表記されるようになった。

刈谷城 

現在の刈谷市城町1丁目にあった城。別名「亀城」と呼ばれる。以下は、この「刈谷城」に関する記述である。

城の構造

衣ヶ浦(ころもがうら、三河と知多半島の間に位置する入江)の北端東岸に面して築かれ、西から順に本丸、帯曲輪、さらに、入江のない他の三方に堀が巡らされて二の丸、三の丸と続き、三の丸東側に大手門が置かれていた。天守はなかったが、北西と南東に隅櫓があり、周りを土塀で囲んで本丸を形成、二の丸との間には内堀と馬出しが設けられていた。

歴史

天文2年(1533年)水野忠政により築城。築城後忠政は本拠地を緒川から刈谷に移しており、徳川家康の生母於大は刈谷城から岡崎の松平広忠に嫁している。於大は父忠政の死後、兄水野信元が今川氏を離れ織田氏についた(織水同盟)ため松平氏を離縁された後も刈谷城近くの椎の木屋敷で久松氏に再嫁するまでの日を過ごしている。

『三河物語』によると、桶狭間の合戦の項目で「小河より水野四郎右衛門尉(信元)殿方カラ、浅井六之助(道忠)ヲ使にコサせラレテ」との記述があり、桶狭間の合戦当時、水野信元は緒川城もしくはその周辺を守備していたか、あるいは日和見をしていたものと考えられる。また、『三河物語』の三河一向一揆の項目では、水野下野守(信元)殿、雁屋(刈谷)より武具にて佐崎之取出え見舞に御越有。」と記述がある。

なお、刈谷は、当初は「谷」ではなく「屋」を当てられていた。『三河物語』においても「屋」を当てられている。また、『信長公記』の天正8年(1580年)8月20日の項目においても「小河かり屋」と「屋」が当てられている。

その他にも、永禄3年(1560年)6月8日付の岡部元信宛の今川氏真判物に「苅屋城以籌策、城主水野藤九郎其外随分者、数多討捕、城内放火、粉骨所不準于他也」とあり、屋が当てられている。従来、鳴海城から引き上げる途中の岡部元信により城主の水野信近は討ち取られ、城は落城したと解釈されてきたが、この判物には城に火を放ったとは書かれているものの攻め落としたとは書かれていないため、岡部隊は味方の支援を得られなかったために落城させられずに駿河に戻ったとするのが近年の説である[1][2]

水野信元は天正3年(1575年)佐久間信盛の讒にあい、信長から武田方への内通を疑われ、命を受けた家康に殺害されるという非業の最期をとげ、刈谷城は佐久間信盛の領有となる。後に信盛は信長に追放され、信元の末弟忠重が城主となって水野氏の領有に復した。忠重、勝成、忠清と5代百年の水野氏の居城を経て、寛永9年(1632年)に深溝松平家入城、その後久松松平家(1649年)、稲垣氏3代(1651年)、阿部氏2代(1702年)、本多氏(忠勝系、1710年)、三浦氏3代(1712年)と頻繁に城主の交代があった(城主の詳細については刈谷藩を参照)。永享4年(1747年)より土井氏が入封し9代の支配の後、明治4年(1871年)の廃藩を迎え、城は破却された。

明治時代以後城域地は国有化された後、旧士族に払い下げられた。さらに昭和11年(1936年)刈谷町が譲り受け公園として整備されたが戦時中には軍の高射砲陣地が置かれ老松は切り払われ荒廃した。戦後に至り徐々に植栽・公園整備され現在は桜の名所となっている。また旧三の丸には藩校文礼館の流れを汲む刈谷市立亀城小学校および刈谷市郷土資料館(国の登録有形文化財)が建つ。

隅櫓や石垣、城門を復元する再整備計画があり、平成31年(2019年)3月24日に刈谷市歴史博物館が開館し、令和2年度(2020年度)以降に隅櫓や石垣の完成が予定されている。

遺構

現在、城跡のうち本丸および帯曲輪の一部が亀城公園となっている。建物や石垣の遺構を留めないが、本丸を囲む土塁が残存する他、帯曲輪東側の堀は拡幅されて池となっており、かつての城郭の名残りをとどめている。また北西隅櫓の跡に建てられた建物の裏側にごくわずかながら当初の石垣が残されている(ほとんどの石は新しいものである)。妙福寺に辰巳櫓が移築現存している[3][4]

復元整備計画

残っている城絵図や調査を元に江戸時代の北西隅櫓、南東隅櫓、多門櫓、表門、裏門、土塀を復元する計画が進んでいる[5][6]

城絵図・模型など

  • 刈谷城復元模型 - 刈谷市郷土資料館に縮尺模型が展示されている。
  • 刈谷城絵図 - 同上に複写が随時展示のほか、市内の「亀城公園再整備事業」立看板でゆるキャラ「かつなりくん」が説明・解説する場合がある。

刈谷古城 

刈谷城の前身として刈谷古城(元刈谷城)が存在したとされる。15世紀代の禅僧・万里集九による紀行文『梅花無尽蔵』の、文明17年(1485年)の「矢作在三川、蓋水野所住刈屋城東三里」との記述を根拠に、刈谷市教育委員会は文明年間(1469年-1486年)に水野貞守により築城されたとしている[7][8]。その後、天文2年(1533年)水野忠政による現在の刈谷城築城により廃城となったという。

ただし、江戸時代の元文5年(1740年)成立の『三河国二葉松』「参州古城記」には刈谷古城(元刈谷城)について記述がなく、緒川城から刈谷城に移転したと書かれている。安永9年(1780年)成立の『三河古城記』や徳川家・織田家の史料、元禄15年(1702年)成立の『藩翰譜』水野家所伝にも記述がない。『尾張群書系図部集』(加藤國光 編 1997年『尾張群書系図部集』続群書類従完成会)においても水野貞守は緒川城主とのみなっており、実態はよくわかっていない。

古城の城跡は現・刈谷城の南約1キロメートルの刈谷市天王町2丁目・6丁目とされ[9]、現地表上に明確な遺構はなく宅地および畑となっているが、「刈谷古城(県遺跡番号530104)」として周知の埋蔵文化財包蔵地となり、灰釉陶器や山茶碗が発見されている[10]。市道をはさんで南に本刈谷神社がある。

アクセス 

敷地内の刈谷市体育館には駐車場がある。

  • 名鉄三河線 刈谷市駅下車、徒歩で約15分。
  • JR東海道本線 逢妻駅下車、徒歩で約15分。

参考文献 

  • 刈谷市史編さん編集委員会編 1989『刈谷市史』刈谷市
  • 刈谷市教育委員会編 2011 『歴史の小径』(城下町周辺)(http://www.city.kariya.lg.jp.cache.yimg.jp/kankobunka/rekishibunka/bunkazai_iseki/bunkazaipanfuretto.files/syuuhen120112.pdf)公式文化財パンプレット
  • 刈谷市編 2015 『刈谷城跡確認調査概要報告書-―亀城公園再整備事業に伴う遺構確認調査-』(http://www.city.kariya.lg.jp/kurashi/sumaikankyo/koen/kouen201302191043499.files/kijo01-siryo1.pdf)

刈谷城の口コミ情報

2024年11月03日 尾張守たまきち
刈谷市歴史博物館[刈谷城  御城印]



ここに展示されている[城郭模型]は、必見です。常設展示は入場無料。

2024年10月28日 尾張守たまきち
刈谷古城[刈谷城  周辺城郭]



1476年頃、衣ヶ浦を挟んだ西側にあった緒川城の城主であった水野貞守が刈谷に進出して、城を築いた最初の「刈谷城」。衣ヶ浦をめぐる水運を利用した勢力拡大を図ったもの。

その後、1533年にこれまでの城が手狭になったという理由で、現在の亀城公園の地に水野忠政が新たな「刈谷城」を築城し、刈谷古城は廃城となった。現地には、遺構や解説板はありませんでしたが、周辺より一段高い台地となっていました。

2024年06月19日 たすく
刈谷城

刈谷城の近くに資料館があります。リニューアルしてからなかなか良くなりました。是非立ち寄ってみて下さいね。

2024年05月21日 草太兵部卿
刈谷城

こじんまりとしてますが、雰囲気の良い、すてきなお城でした!

2023年04月28日 もいち
刈谷城



水野忠政が築城し緒川城から移動。海(現在の境川)に西側を守られその他は広い堀で守られている。現在は遺構は見られないが、発掘調査結果をベースに櫓等を復興する予定あり

2022年10月16日 RED副将軍
刈谷城



今川氏、織田氏の間で生き抜きをはかった水野氏の居城🏯

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

1533年、水野忠政により築城。
水野忠政は松平広忠に娘の於大を嫁がせ、松平氏と姻戚関係を結んでいました。その間の子の竹千代は後の徳川家康であることは有名な話。
水野忠政を継いだ水野信元は、織田信長に属し、松平氏も織田信長と結ぶことを要求。しかし、松平広忠は於大と離縁して拒否します。於大は刈谷城に戻され、竹千代は松平家に残されます。
1560年の桶狭間の戦いでは水野信元は緒川城へ入り、刈谷城は弟の水野信近が入城。表面的には織田勢ですが、今川義元、織田信長の勝った方に付く曖昧な態度で積極的に戦いませんでした。
しかし、今川義元が討死すると、鳴海城の岡部長教が刈谷城へ攻め寄せ、水野信近は討ち取られます。しかし、水野信元は直ぐに刈谷城を取り戻したと云われます。
代々水野氏の居城でしたが、1632年に水野忠清が三河国吉田に転封すると、深溝松平氏、久松松平氏、稲垣氏、阿部氏、本多氏、三浦氏と城主が続き、土井氏が9代続いて明治維新を迎え、1871年の廃藩置県により破却されました。

見所
現在は本丸が亀城公園として整備。
城跡公園といえ、水堀と土塁の一部が残っていますが、城跡とは分からないくらい改変されています。
刈谷城は明治まであったとは思えないくらい埋め立てられています。
それにしても子猫が多かったことが印象的。

2022年09月12日 三宅三河守康貞
刈谷城



亀城公園内にひっそりと跡地について表記がありました。近くの刈谷市歴史博物館には当時の城下町の復元もされている。

2022年05月06日 近藤淡路守承山
刈谷城

刈谷城からは少々離れていますが、刈谷駅前観光案内所にて刈谷城盛上げ隊藩主印が販売されています。全6種類で300円/枚。他にも刈谷城盛上げ隊のタオルやポストカード、缶バッジなども発売中です。

2021年10月22日 おっちゃん868号
刈谷城



刈谷城の別名「亀城」にちなみ、現在は亀城公園として整備されています。石垣や遺構は残っていませんが、池のあたりに土塁が見えます。現在は「刈谷」と表記していますが、昔は「刈屋」だったとか。

2021年10月11日 
刈谷城

近くに2019年に出来た刈谷市歴史博物館も、是非一緒に見学すべきです。

2021年04月25日 
刈谷城

戦国の世に傾奇者として名を馳せた、水野勝成縁の三河国、刈谷城跡に行って来ました。小振りではありますが土塁に囲まれ元は堀であったであろう池が残され、公園として整備されています。
案内板によると隅櫓の復元計画もあるとの事。
その姿が再現された頃に、またお邪魔します。(・∀・)

2021年03月28日 鉄武蔵守紺太郎信繁
刈谷城



お堀端の広い駐車場は週末は体育館利用の方で埋まってました。お城目当てなら刈谷市歴史博物館の駐車場(無料)に停めて二階の常設展(無料)で学習してから本丸まで歩くのが宜しいかと思います。一階には再建予定の隅櫓ペーパークラフトや城関連書籍も販売。トイレも公園より綺麗です。 写真は展示物の城の模型と南東隅櫓・多聞櫓土塀など再建予定地付近を本丸内側から。完成したら是非また来てみたいです。なお今年も桜祭りは中止との立て看板有り。

2020年12月03日 在来線男右京進
刈谷城



城らしいものはあまりありません。少し高いところに刈谷城趾の石碑があります。城の回りに少なくともトイレが3ヵ所あります。新しくはないですが、きれいにされています。池が回りにあり、なぜか檻の中にクジャクが飼われています。駐車場は30台くらい停めれます。もちろん無料です。

2020年08月17日 作兵衛尾張守名古屋お城物語
刈谷城



後に福山藩主としても有名な鬼日向水野勝成が初代藩主を努めた刈谷城。現在は亀城公園として市民の憩いの場となってます。
遺構はほぼ消滅して有りませんが南東隅櫓、多聞櫓などの再建の為、現在発掘調査が行われています。
市民の反対や耐震対策により工期がかなり遅れてますが間もなく建設が開始されるでしょう。
再建されたらまた投稿したいと思います。

駐車場は年中無休、24時間無料で使用可能です。
トイレも完備されてるので待ち合わせや城攻め車中泊には最適かと思います。

刈谷城の北東には家康の母於大が水野家に戻された際、一時住んでた椎の木屋敷跡が公園として残されてます。刈谷市体育館の横には刈谷市歴史博物館も無料で楽しむ事が出来るのでどちらも訪れてみては如何でしょうか。春には桜祭りで賑わいますよ。

櫓再建が待ち遠しいですね!

2020年07月28日 織田上総介晃司
刈谷城

亀城公園として、駐車場はたくさんあります。
が、遺構としてはほとんどありません。

2019年04月14日 我流尾張守クール
刈谷城

刈谷市歴史博物館

2019年3月24日にオープンしました。
刈谷城(亀城公園)北側に在り、刈谷城を攻める前に見学することをお薦めします。
常設展は無料で見学出来ます。さすがはト◯タご三家が集まる刈谷市です。

開館記念企画展の水野勝成展ではアプリ内水野勝成公イラストの「総髪兜」が野田八幡宮より寄託されて展示されています。

戦国最強とも言われる鬼日向勝成公の足跡を勉強することが可能です。


2018年11月26日 あるくま
刈谷城

城らしきところはほぼ消滅。普通の公園と学校などになっています。代わりに近くの郷土資料館(元小学校)で昔を忍びました。

2017年05月08日 かよぱぱ和泉守
刈谷城

周辺は総合公園になってるので、駐車場に困ることは無いかと思います。刈谷城の石碑は手前の交差点に豊田佐吉の胸像と並んで立ってました。

2016年03月01日 ソバッソ80.0
刈谷城

ぶちょさんと行って来ました

愛妻川ってステキな名前の川と
猿渡川っても一つな名前の川の
中洲にあります。刈谷スタジアムと小学校が隣にあり、敷地は広かったんだろうと。

公園化されており遊具やら鳥の飼育オリがあり、散歩や家族のだんらんには持ってこいです。スタジアムでは野球の試合してたので、日曜っぽい音が聞こえます。

遺構は、拡張整備された水堀と、城跡東側にある水路が恐らく内堀の名残り。水路の手前側は若干こんもりしてるんで、土塁跡を利用したと考えてます。

石垣が残ってるらしいんすけど、城跡北側の建物(何かは分からんす)近くの通路に、モルタル補強してない石積み的なんがあるんで、それじゃないかなーと。
でも自信ないんで、もし情報お持ちの方おられましたら、お手数ですが更新してあげて下さい。


城跡の利用方法その一、公園化。
ほとんど残ってないけど、僕はこーゆートコ散策して、平和な時間を感じるのキライじゃないです。

2015年03月28日 左馬頭小十郎子
刈谷城

桜祭りで屋台が出てましたよ~
桜はまだ咲き始めって感じでしたけどね。
来週は満開かな!

2013年10月02日 青コアラ美濃守
刈谷城

復元計画が進んでいるようで、市役所のロビーに復元模型が展示してあります。
また、かつての城域と現況を重ね合わせた地図が置いてあるので、それを片手に街歩きもいいかと。(遺構はほとんどないので、かなりの想像力が必要ですが…)

2013年03月03日 ぽえぞお弾正少弼黄金旅程
刈谷城

公園の下部分は整備中で立ち入り禁止になってます。
トイレを借りたかったのですが、目につく何処も使用禁止…(‾○‾;)
かなりヤバい状況だったので早々に退却…(ノ△T)

2012年02月26日 日光人
刈谷城

只今、亀城公園内の刈谷城跡は22年度に発掘調査が行われて幾つかの遺構が発見され、工事用の柵とブルーシートに覆われてみ見る事ができませんでした!
up写真は刈谷城跡の発掘調査した場所が赤く記されてました。


2010年10月18日 三河守コーキしゃん
刈谷城

遺構は殆ど残っていませんが水堀は結構幅があります

刈谷城の周辺スポット情報

 本丸(遺構・復元物)

 戌亥櫓跡(遺構・復元物)

 辰巳櫓(遺構・復元物)

 本丸裏門(遺構・復元物)

 本丸表門(遺構・復元物)

 城趾碑(碑・説明板)

 椎の木屋敷跡(碑・説明板)

 刈谷城町口門跡(碑・説明板)

 刈谷藩藩校文礼館跡(碑・説明板)

 刈谷城大手門跡(碑・説明板)

 刈谷城三の丸跡(碑・説明板)

 刈谷城本丸跡(碑・説明板)

 刈谷古城(周辺城郭)

 小垣江新庄城(周辺城郭)

 小垣江地内城(周辺城郭)

 小垣江須賀城(周辺城郭)

 市原稲荷神社(寺社・史跡)

 山の神遺跡(寺社・史跡)

 刈谷市歴史博物館(御城印)

 刈谷市産業振興センター 1F(御城印)

 トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 刈谷市歴史博物館(関連施設)

 亀城公園(関連施設)

 刈谷市郷土資料館(関連施設)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore