堤本地城(つつみほんじじょう)
堤本地城の基本情報
通称・別名
- 堤城、本地城
所在地
- 愛知県豊田市堤本町根岸
旧国名
- 三河国
分類・構造
- 丘城
天守構造
- -
築城主
- 畠山六郎
築城年
- 応永9年(1402)?
主な改修者
- -
主な城主
- 畠山氏、本田氏
廃城年
- 応仁元年(1467)頃
遺構
- 曲輪、土塁?
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
沓掛城(愛知県豊明市)[5.7km]
知立城(愛知県知立市)[6.1km]
上野上村城(愛知県豊田市)[6.9km]
挙母城(愛知県豊田市)[7.1km]
重原陣屋(愛知県刈谷市)[9.0km]
寺部城(愛知県豊田市)[9.5km]
奥殿陣屋(愛知県岡崎市)[10.7km]
岩崎城(愛知県日進市)[10.8km]
古瀬間城(愛知県豊田市)[10.9km]
刈谷城(愛知県刈谷市)[11.3km]
堤本地城の解説文
堤本地城の口コミ情報
2024年08月20日 RED副将軍
堤本地城
尾張国守護畠山氏一族の城跡🏯
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代等の詳細不詳。1402年頃に畠山六郎が築いたとされます。
畠山六郎は尾張国守護である畠山家国の六男とされ、その後は安祥の本田氏の所領となりましたが、室町時代中期に畠山氏の滅亡とともに廃城となった様です。
見所
現在は八幡社の境内となり城跡碑が階段下に建っています。小高い丘陵上にありますが遺構はほぼ消失。土塁が残るとのことですが分かりませんでした。
2024年06月27日 3人のパパ右衛門督は単身赴任
堤本地城
駐車場有りません城跡の雰囲気は無いです。
2024年06月21日 わた
堤本地城
神社であり、古墳でもあり、そして城あとでもあり。低い丘でしかないので、守るには難儀な場所かも。
2024年06月12日 株
堤本地城
かなり分かりにくい場所にあります 駐車場ないので入り口前に止めるのがベスト
2022年06月13日 れいぶ尾張守りっく
堤本地城
なかなか細い道で 車で行くのは難しいです 傍に神社がありました
2022年04月20日 兵部卿名古屋雅博️⚔️赤備
堤本地城
八剣社の周りが本丸跡のようです。下に駐車場は見当たりませんでした。
2021年10月24日 青コアラ美濃守
御茶屋御殿跡[堤本地城 寺社・史跡]
桶狭間の戦いの後、徳川家康(松平元康)が大高城から岡崎城へ帰る際、この地へ立ち寄ってお茶を飲んだことから御茶屋という地名が残っています。
御茶屋御殿跡は慶長17年、家康が平針街道を通った際に設けられた休憩所の跡で、現在は明和2年(1765)に建てられた祠がありますが、私有地につき立入禁止の看板がある為、遠くから眺めるのみです。
2021年10月24日 青コアラ美濃守
堤本地城
八幡社の境内が城跡とされています。南から来ると小高い丘になっていて、城の雰囲気が感じられます。
石碑の側面に城の歴史等が記されていて、土塁が残っているとの事だったので探してみました。社務所の北側に僅かに土塁の残骸っぽいものがあり、他に無いので多分それかなと思いますが確信は持てません。
参道は一応車が通れるようにはなっていますが、狭くて急な所もあり、また境内に乗り入れられないようにロープがしてあったので、歩いて来るのが無難だと思います。
2021年03月13日 まいける丹後守【桔梗】
福谷城[堤本地城 周辺城郭]
福谷城は、室町(むろまち)時代(15世紀後半)に築造された戦国時代の平山城(ひらやまじろ)です。1984年から実施された発掘調査により、Ⅰ郭(本丸)を中心に、Ⅱ郭(二の曲輪)、Ⅲ郭(北腰曲輪(きたこしぐるわ))、Ⅳ郭(東腰曲輪)、Ⅴ郭(隅櫓)の5つの郭(かく)と、北、西、南部は空堀(からぼり)、東は崖(がけ)を配した構造であることが判明しました。
遺物はⅡ郭で最も多く出土していますが、白磁小杯(はくじしょうはい)、天目茶碗(てんもくちゃわん)、茶入(ちゃい)れなどの喫茶用具と共に、すり鉢(ばち)、内耳鍋(ないじなべ)などの炊事・調理用具が出土し、当時の城内での生活を知る事が出来ます。
又、城主は、後に徳川四天王の一人と言われた酒井忠次(さかいただつぐ)、地元の土豪(どごう)原田氏重(はらだうじしげ)の名が伝えられ、尾張、三河が緊張関係にあった16世紀中葉には、柴田勝家(しばたかついえ)を将とする織田方と激しい攻防があり、多数の死傷者があったと伝えられています。
現地説明板より。
現地は道も狭く駐車場はありません。郭Ⅰの北は幼稚園がありますのでお静かに。福谷区民会館の駐車場のフェンスの南に説明板があります。その場所に数台停められそうです。あくまで自己責任でお願いします。
①郭Ⅰ説明板
②福谷区民会館に設置された説明板
③郭Ⅰ土塁
④郭Ⅰ北の堀跡
⑤郭Ⅲ北の堀跡(私の推定)
2020年08月14日 ばらく~だ
堤本地城
ここは車駐車できる所なさそうです。自分は鳥居と隣の写真屋さんの間に止めましたが、長居は出来ませんでした。
2017年01月22日 陸中守じゃりんこみらい28
堤本地城
本丸裏手には、古墳、大椎の木、民家の間から登る小口らしき所が見られました!車で通りすぎてしまった為裏手から登城し見つけられたのです。
遺構
豊田市堤本町東側に広がる台地南先端部に位置する丘城である。周辺には自動車工場などが建ち並ぶ。『愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ(西三河地区)』によると集落のすぐ上に位置することから在地小領主の居館と考えられるとあり、規模はそれほど大きくなかったであろう。現在城跡は応神天皇と祭神とする八幡社の境内となっており、明瞭な遺構は確認することはできない。
ただし、南側から境内へ上る階段脇には「本地城址」の石碑が建てられており、そこに記された解説によると周囲に土塁の遺構が残るとされる。また、八幡社の由緒書きによると天正7年(1579)に当地に遷座したとあることから、現在の境内は堤本地城の郭跡をそのまま利用したとも考えられる。
なお、同地には城塚古墳という円墳が残されているが発掘調査により7世紀後半のものと判明し、城との直接的な関係はないと見られている。
歴史
『高岡町誌』によると、南北朝期に尾張守護であった畠山氏の一族畠山六郎が応永9年(1402)頃に築いたとされ、その後は安祥(安城市)の本田氏の領するところとなったが、室町時代中期に廃城となったという。交通
・高岡ふれあいバス堤上町バス停から徒歩で約3分参考文献
・『愛知県中世城館跡調査報告Ⅱ(西三河地区)』愛知県教育委員会、1994年3月。・『日本城郭大系 第9巻』新人物往来社、1980年。