沓掛城(くつかけじょう)

沓掛城の基本情報

通称・別名

沓懸城

所在地

愛知県豊明市沓掛町東本郷

旧国名

尾張国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

藤原義行

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

藤原氏、近藤氏、梁田氏、織田氏、川口氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

県史跡(沓掛城址)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

堤本地城(愛知県豊田市)[5.7km]
鳴海城(愛知県名古屋市)[6.7km]
知立城(愛知県知立市)[6.8km]
丸根砦(愛知県名古屋市)[7.0km]
鷲津砦(愛知県名古屋市)[7.2km]
大高城(愛知県名古屋市)[7.8km]
星崎城(愛知県名古屋市)[8.3km]
鳥栖城(愛知県名古屋市)[8.5km]
岩崎城(愛知県日進市)[8.7km]
重原陣屋(愛知県刈谷市)[8.9km]

沓掛城の解説文



沓掛城(くつかけじょう)は、尾張国愛知郡沓掛、現在の愛知県豊明市沓掛町にあった日本の城。旧記には沓懸城とも書かれている。豊明市指定史跡[1]

沿革 

沓掛の地は、北方の長久手・岩崎方面からの街道と鎌倉往還とが交差する場所にあり、交通の要衝といってよく、その抑えとして古くから城館があったとしてもおかしくはない地形である。

沓掛城の存在がおぼろげながら現れるのは、正中2年(1325年)、正中の変を経た後醍醐天皇が、沓掛の住人近藤宗光を召しだしたという記録である。また、応永年間(1394年 - 1428年)には城が築かれ、築城者は藤原義行との説もある。近藤宗光と藤原義行との関係は定かではないが、室町時代を通じ、近藤氏が沓掛城主となっていたことは確かである。戦国時代に入り、9代目の近藤景春は松平広忠の家臣となっていた。天文10年(1541年)頃より尾張国中に織田信秀の勢力が強くなり、しばしば三河へ出兵するようになると、近隣の土豪とともに信秀に追従した。しかし、天文20年(1551年)の信秀死後は二転して、鳴海城主山口教継・教吉父子とともに今川義元の傘下に入った。

永禄3年(1560年)、駿河・遠江・三河の兵約2万5千の大軍を率いた今川義元は、5月18日(新暦6月11日)、池鯉鮒を出立して沓掛城に入った。この時の城主は近藤景春であった。ここで義元は軍評定を開き、大高城への兵糧入れや各武将の部署の再確認を行ったものと思われる。翌19日朝、義元は本隊を従え沓掛城を出発した。一説にはこの時、義元は落馬し、側近があわてて輿に乗り換えさせたという。その後、義元は大高道を通って桶狭間に入り、運命の桶狭間の戦いに遭遇するのである。

城主近藤景春は沓掛城に戻り、刈谷城攻めを行ったりしたが、5月21日、織田勢により城攻めを受け落城、景春は討死して近藤氏による支配は終わった。

変わって城主になったのは、桶狭間の戦いで勲功一番と称され、沓掛三千貫文を与えられた簗田政綱(簗田出羽守)であった。天正3年(1575年)、簗田政綱は加賀天神山城主となって去り、その後は織田信照、川口宗勝が城主を勤めた。

慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いにおいて川口宗勝は西軍に参陣、敗戦後捕らえられて伊達政宗にお預けとなった。ここで沓掛城は収公され廃城となった。

規模 

東西288メートル、南北234メートルで、本丸、二の丸、諏訪曲輪などで構成され、総堀に囲まれる形式であった。当時としては、比較的規模の大きな城といえる。天守などの櫓や石垣は当初より存在しない。

現在 

豊明市により、1981年(昭和56年)から1986年(昭和61年)にかけて発掘調査が行われた[2]。その後、城跡は「沓掛城址公園」として整備されている。現在は本丸、空堀、諏訪曲輪などの遺構が残っており、良好な保存状態にある。なお、蓬左文庫所蔵の「沓掛村古城絵図」を参照すると、遺構は当時とほとんど変わっていない。

旧豊明市立唐竹小学校の市共生交流プラザ「カラット」にある豊明市歴史民俗資料室には、桶狭間の戦いに関連する資料の展示があり沓掛城址の遺物も展示物に含まれている[3]

参考文献 

  • 『尾張名所図会』 第五巻 沓掛城跡、1844年

沓掛城の口コミ情報

2024年04月11日 尾張守たまきち
豊明市役所産業支援課[沓掛城  御城印]



御城印は豊明市役所2階の産業支援課で購入出来ます。沓掛城のパンフもありました。

2024年04月10日 尾張守たまきち
薬師ヶ根城[沓掛城  周辺城郭]



沓掛城の支城。
沓掛城主近藤景春は織田信秀の死去に伴い、今川方に寝返った。1560(永禄3)年には今川氏の家臣で今川義元の妹婿である浅井政敏に本城の沓掛城を明け渡し、自身は薬師ヶ根城へと移った。桶狭間の戦いで総大将の今川義元が討たれると、景春は織田氏の掃討軍の攻撃を受け討死。このとき薬師ヶ根城も廃城になった。

城域は不明確で、碑や案内板は無いが、一之御前社(当時は創建されていない)の東方の薬師ヶ根辺りとされている。一之御前社から薬師ヶ根辺りには高台が続いていました。

2024年04月10日 尾張守たまきち
沓掛砦[沓掛城  周辺城郭]



沓掛城の出城の役割を担った砦。遺構は無く、楠木と地蔵堂があります。

2024年04月10日 尾張守たまきち
大脇城[沓掛城  周辺城郭]



遺構は発見されていたそうですが、豊明IC開発時に埋め立てられたとの事です。

2024年02月18日 松平左馬頭長七郎長頼
曹源寺[沓掛城  寺社・史跡]

曹洞宗のお寺で、1560年(永禄3年)桶狭間の戦いの際に、当時の和尚快翁龍喜が戦死者(約2500人)を引導焼香し、葬ったとの事。(Wikipedia参照)

2023年03月21日 三河守天天丸
沓掛城



到着時はすっかり日没。石碑だけの城跡が多い中、きれいな公園になっていて、10台ほどの駐車場とトイレ完備されています。暗くなってからは、やはりお堀や井戸は怖いです。一人はなおさら。スマホの明かりで散策。3月半ば過ぎでしたが、桜はまだまだのよう。満開の時は賑わいそうです。

2023年02月05日 6777ヘッズ
沓掛城



桶狭間へ行くならここからできれば、裕福寺も行っておきたい

2023年01月26日 長谷川雅楽助平蔵
沓掛城

駐車場があり、見事な堀や曲輪、井戸が残されています。今川義元が最後の夜を過ごしたなと、思いを馳せることができます。鎌倉街道から鳴海に向かうと見せて、大高へ向かったのか。大高へ直接向かったのか。歴史ロマンは最高ですね。

2021年11月02日 しげしげ主税頭信繁
沓掛城

10台位停められる駐車場があり、きれいなトイレも完備されてます。

2021年10月15日 大納言まりべえ
沓掛城



1560年(永禄3年)桶狭間の戦い。3千の織田軍が2万5千ともいわれる今川軍を破ったことでも有名です。沓掛城址公園は、その戦いの前夜、今川義元が着陣した城の址。義元はここから大高城(名古屋市緑区)へ向かう途上で討ち取られました。現在は、本丸址、二の丸の一部、土塁、内堀、諏訪曲輪などが残り、公園として保存整備されています。🅿️🚾あり。

2021年09月13日 きむねこ
沓掛城

公園に駐車場は完備されていますが、今回はたまたま改装工事中で使用ができませんでした。公園までのルートは3か所位ありますが道が狭いため注意が必要です。御城印は車で15分程離れた豊明市役所の2階産業支援課窓口18番で販売しています。

2020年12月28日 近藤淡路守承山
沓掛城

ふるさと納税返礼品やイベント等で入手出来た御城印が2020年11月より豊明市役所2階の産業支援課にて1枚300円で購入出来ます。
ただし市役所ですので、土日・祝日・年末年始は開庁しておらず入手不可です。

2020年11月24日 ゆーみん
沓掛城



あまり広くはないですが、綺麗に公園として整備されています。
本丸跡の芝生広場をぐるっと一周、桜の木が植えられており、桜の季節には非常に綺麗だろうなと容易に想像出来る景色です。
本丸・二の丸・曲輪・堀など、しっかりと遺構が見られます。
大手門から見て右手の方に、堀の中に降りられる階段があります。
堀の中から見上げた景色は何ともワクワクします。ぜひ降りてみてください。

2020年04月20日 隼人佑やす
沓掛城

今川義元公が戦死前日に宿泊したと言われるお城。この城から義元公が当日通ったであろう桶狭間までの道のりを辿りました。陣を張ったおけはざま山の頂上の見晴らしは、その当時良かったと思います。

2017年05月28日 OROKA参議
沓掛城

この城の見時は、まずは4月の桜の時期です。本丸の土塁に沿って桜が植えられているので、空堀に散る桜吹雪はなかなかの景色。
そして、もう一つは8月です。
例年「豊明花火」が8月の第1週の日曜に開催されています。それがこの沓掛城からしっかり見ることができ、しかも夜の城をほぼ独占できます( ´∀`)
本丸土塁に座り、今川義元公の桶狭間前夜を偲びつつ、花火とともに諸行無常を感じてみては?

虫よけ、飲み物を用意と、該当年のイベントスケジュール確認をしっかりと!

2017年05月27日 OROKA参議
沓掛城

桶狭間に来られる方は、ぜひ沓掛城へ!

今川義元公が桶狭間の戦い前夜に泊まった平城です。現在は公園として整備されていますが、空堀と土塁に囲まれ虎口もあり、城として往時を想像しやすいです。義元公がどんな気持ちで泊まったのかぼんやり考えてみるのも楽しいのでは。

車で来るなら駐車場は5台分ほどあります。電車だと名鉄前後駅か豊明駅からバスで。

なお、名鉄前後駅のそばにある和菓子屋「久乃屋」さんには桶狭間古戦場もなかと、同どらやき(信長:つぶあん、義元:しろあん)が売られているので、お土産として話のタネにはオススメです♪(普通に美味しいですよ)


2016年06月19日 カーネル
沓掛城

名鉄前後駅から駅を背に北東へ40分ほど歩くとひまわりバス「沓掛城址前」バス停があるので、その先で右折

少し歩くと公園の駐車場に着きます。城は平城で面積も小さいですが、深い堀に囲まれていて来た甲斐がありました
堀に降りる階段もあり、堀に降り立つと、幅と深さに感服しました

帰りは駐車場とは反対側に抜けて駅に向かいました。スーツ姿でも行けますが、往復で2時間弱。ずっとコンクリの上を歩くので時間以上にダメージがありました

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです

2014年03月02日 尾張守ひろっちぃ
沓掛城

神社のあるあたりが本丸跡ですが私有地につき立ち入り禁止状態です。

城趾公園として整備され土塁や郭がよくのこされてます

沓掛城の周辺観光情報

戦人塚

桶狭間の戦いの戦死者約2,500人を供養した塚。現在も曹源寺の住職が供養を続けている。桶狭間古戦場とともに、国の史跡として指定されている。

高徳院

明治27年(1894)に高野山から桶狭間古戦場へ移転。敷地内には、今川義元の仏式墓所や本陣跡の石碑、今川軍の重臣・松井宗信の墓碑が残っている。

阿野一里塚

旧東海道の一里塚。慶長9年(1604)、徳川家康の命により、街道の両側に一里ごと設けられた。現在も道の両側に塚が残っているのは全国でも珍しく、貴重な史跡である。

桶狭間古戦場

今川義元の本陣の場所は諸説あるが、ここは唯一、国指定史跡となっている場所である。敷地内に点在する「桶峡七石表」は、義元をはじめとする今川軍7人の戦死場所を示すといわれる。

情報提供:豊明市産業振興課

沓掛城の周辺スポット情報

 (遺構・復元物)

 侍屋敷跡(遺構・復元物)

 諏訪曲輪跡(遺構・復元物)

 本丸跡(芝生広場)(遺構・復元物)

 大手門跡(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 碑・説明板(碑・説明板)

 (碑・説明板)

 今川義元墓碑(碑・説明板)

 今川義元戦死之地碑(碑・説明板)

 今川義元仏式の墓碑(碑・説明板)

 桶狭間古戦場碑(碑・説明板)

 大脇城(周辺城郭)

 傍示本城(周辺城郭)

 沓掛砦(周辺城郭)

 薬師ヶ根城(周辺城郭)

 瀬名氏俊陣跡(寺社・史跡)

 今川義元本陣跡(寺社・史跡)

 今川義元公首検証之跡(寺社・史跡)

 今川治部大輔義元之墓(寺社・史跡)

 桶狭間古戦場 伝説地(寺社・史跡)

 おばけ地蔵(寺社・史跡)

 今川義元公戦死の地(寺社・史跡)

 今川義元公駒つなぎのねず(寺社・史跡)

 今川義元公本陣(寺社・史跡)

 曹源寺(寺社・史跡)

 豊明市役所産業支援課(御城印)

 トイレ(トイレ)

 桶狭間古戦場公園公衆トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 沓掛城駐車場(駐車場)

 管理事務所(関連施設)

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