鳴海城(なるみじょう)

鳴海城の基本情報

通称・別名

根古屋城

所在地

愛知県名古屋市緑区鳴海町字根古屋

旧国名

尾張国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

安原宗範

築城年

応永元年(1394)

主な改修者

主な城主

安原氏、山口氏、岡部氏、佐久間氏

廃城年

天正年間(1573〜1592)?

遺構

曲輪、横堀

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

鷲津砦(愛知県名古屋市)[1.5km]
星崎城(愛知県名古屋市)[1.8km]
丸根砦(愛知県名古屋市)[2.0km]
大高城(愛知県名古屋市)[2.3km]
鳥栖城(愛知県名古屋市)[3.2km]
沓掛城(愛知県豊明市)[6.7km]
吉川城(愛知県大府市)[8.7km]
古渡城(愛知県名古屋市)[9.0km]
末森城(愛知県名古屋市)[9.6km]
荒子城(愛知県名古屋市)[10.4km]

鳴海城の解説文



鳴海城(なるみじょう)は、愛知県名古屋市緑区鳴海町にあった日本の城。別名「根古屋城(ねごやじょう)」。

概要 

室町時代の応永年間に足利義満の配下であった安原宗範によって築かれた。その際にこの地にあった成海神社は北の乙子山に移された。宗範の死後、廃城になったといわれる[1]

戦国時代の天文年間には尾張国の織田信秀の支配下にあり、配下である山口教継が駿河国の今川義元に備えるべく城主を務めていた。しかし信秀が没すると、息子の信長を見限った教継は今川氏に城ごと寝返った。その後、教継は息子の山口教吉に鳴海城を任せる。天文22年(1553年)、信長は800の兵をもって鳴海を攻めるが落とすことができなかった。やがて教継父子は義元により切腹に追い込まれた(これは信長の計略によるともいわれている)。結果的にいつ寝返るかわからない外様の山口氏から今川家譜代の岡部元信に城主が変更され今川家直轄の重要拠点になった。これに対抗すべく、信長は永禄2年(1559年)ごろに鳴海城の周囲に丹下砦、善照寺砦、中嶋砦を築いた。

永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いが起こり、今川軍はまず大高城に付けられた織田方拠点の各砦の排除を敢行し、残りの鳴海城に付けられた三砦の排除を残すのみとなり作戦は順調かにみえたが、作戦総司令部である義元本陣が織田本隊の強襲により総大将義元が討ち取られ総崩れとなってしまった、しかしあくまで本隊が敗北したのみであったので、砦排除のため待機中であった鳴海城兵はかなりの兵数を維持していたと思われ無傷であった。信長との交渉の結果、元信は義元の首級と引き換えに城を明け渡すという条件を呑み、ついに城は信長の手に落ちた。戦後、佐久間信盛・信栄父子が城主をつとめ、天正末期に廃城になったといわれる。現在でも彼の名にちなんだといわれる「作町(さくまち)」という地名が城下に残っている。

城の規模は記録によっては一定しないが、丘陵の西に立つ東西に長い城郭であったようだ。たとえば『鳴海誌』によると「東西75間半、南北34間」とされている。現在城があったとされる場所は、道路を隔てて西側の城跡公園から、天神社のある東の小さな高台あたりといわれる。これらには碑が立っているほか、近辺にある東福院という寺院には、鳴海城の廃材で造られたという門が存在する[2]。それほどはっきりとした遺構は残っていないが、公園の近辺には空堀や土塁状の地形が存在する。

遺構・近隣施設 

鳴海城跡公園には何もない行き止まりの公園(児童遊具の富士山がある)になっている。鳴海(成海)神社にも遺構は残されていない。城跡公園の向かいの小さな神社(天神社)に城跡碑と説明板。

  • 登城口 - 公園東側から続く。
  • 天神社 - 城址碑。境内に土塁跡らしき地形が散見される。
  • 東福院 - 山門の左に由来など記す案内板。

交通 

  • 名鉄名古屋本線 鳴海駅より北へ徒歩で約5分。

参考文献 

  • 名古屋市緑区 2013年 緑区制50周年記念誌『緑区誌』(https://www.city.nagoya.jp/midori/page/0000057984.html)名古屋市公式HP

鳴海城の口コミ情報

2024年08月19日 図書頭RedKing
鳴海城



名鉄鳴海駅から坂を登ってすぐ銀行前の高札を見て、そして立派なお寺の西側の公園です。

戦国の頃は北の星崎、南の大高まで海岸線だったのでしょう。東海道が麓の谷間を縫って行くようなルートで桶狭間古戦場伝説地へ向かいます。JR線とは異なり名鉄の線路が要衝を抜けて行きます。

流石に今川方重要拠点で街道の往来ならずも眺望抜群(当時は宮の渡し場まで海岸線)とは言え、あっちもこっちもビル、工場に大商業施設です。

信長は、街道筋は当然、津島から知多まで湊や漁村までも情報網を構築していたのでしょうか。

センターも公園も城や合戦の関連説明はなく、専ら古戦場で一括対応と言うところでしょう。

その昔、東海道を徒歩で何回かに分割して行きましたが、つくづく隣の有松の宿場町が異彩を放っています。この時期殺人的日射に照り返しではお勧め出来ませんが、有松鳴海の絞りは庶民には高嶺の花とは言え、たたずまいと言うか江戸時代の雰囲気だけでもお楽しみいただけます。

2024年06月22日 RED副将軍
鳴海城



桶狭間の戦いにおける今川義元の重要拠点⚔

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

応永年間(1394年~1427年)に安原宗範により築城と云われます。
安原宗範は、室町幕府の幕臣であり足利義満の配下であったとされます。
天文年間(1532年〜1555年)には織田信秀の支配下となり、家臣の山口教継が城主となり今川義元に備えていました。
1551年に織田信長の父である織田信秀が没し、家督を承継しますが、「うつけもの」の評判と実力に疑問を持つ国人衆に織田離反の動きが出ます。 鳴海城の山口教継も織田信長から離反し、大高城の水野氏を攻め落とすと今川義元への手土産として今川氏に属します。
山口教継は織田方の沓掛城も調略を用い奪取しましたが、その後に今川義元に駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられました。切腹の理由は謎ですが、一説には信長の調略とも言われています。
永禄年間(1558年〜1570年)には今川義元は重臣の岡部元信を鳴海城に入城させ、大高城には同じく重臣の朝比奈輝勝が入城。織田氏と今川氏の争いの最前線となりました。
1559年、織田信長はこれに対抗するため、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。
1560年に桶狭間の戦いが勃発。今川勢の主力部隊が丸根砦、鷲津砦に攻め寄せ、手薄となった本体に奇襲をかけるため、織田信長はまず丹下砦に入り、次に善照寺砦に移り2千の兵を集結させて今川義元を急襲し討ち取り今川勢は総崩れとなりました。
その後、鳴海城には佐久間信盛が入城しましたが天正年間(1573年〜1592年)に廃城となった様です。

見所
天白川の東岸、扇川の北岸に位置する平山城であり、城下の街道と宿場を押さえる要衝でした。
現在は市街化により遺構は消失。
現在は、主郭部が鳴海城跡公園となり、道を挟んだ天神社の境内に城址碑が立っています。
また、北側麓の東福院の山門は鳴海城の古材が使われていると伝わります。

2024年04月07日 尾張守たまきち
桶狭間古戦場観光案内所[鳴海城  御城印]



鳴海城の他、丹下砦・善照寺砦・中島砦の4枚組セット販売:1,000円でした。

2023年12月17日 鬼殺隊桃太郎
鳴海城

公園の前の道でを左に進むと、民家で行き止まりなので、気を付けて下さい。

2023年04月24日 RED副将軍
中島砦[鳴海城  周辺城郭]



織田信長が今川義元との戦いの際に鳴海城を囲むように築いた三砦のひとつ🏯

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

1559年に織田信長により築かれた鳴海城に対抗するための砦。
1551年に織田信長の父である織田信秀が没し、家督を承継しますが、「うつけもの」の評判と実力に疑問を持つ国人衆に織田離反の動きが出ます。
鳴海城主の#山口教継 も織田信長から離反。大高城の水野氏を攻め落とし、今川義元への手土産として今川氏に属します。
山口教継は織田方の沓掛城も調略を用い奪取しましたが、その後に今川義元に駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられました。
鳴海城には今川家臣の岡部元信が入城し、大高城には同じく今川家臣の朝比奈輝勝が入城。織田氏と今川氏の争いの最前線となりました。
1559年、織田信長はこれに対抗するため、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。
1560年に、丸根砦の戦いから桶狭間の戦いが勃発。善照寺砦には佐久間信盛が守っていました。
今川勢の主力部隊が丸根砦、鷲津砦に攻め寄せ、手薄となった本体に奇襲をかけるため、織田信長はまず丹下砦に入り、次に善照寺砦に移り2千の兵を集結させて今川義元を急襲し討ち取りました。
中島砦には梶川高秀が守備していたとされます。

見所
扇川と手越川の合流地点に築かれていましたが、現在は宅地化により遺構は消失。
民家の庭先に城址碑が立つのみですが、地主さまのご厚意により城址碑を見ることができるようになっています。

2023年02月09日 建礼門院能登守
鳴海城



南も北も低くなっている高台にあります。南側には、名鉄の高架が見えます。

2023年01月26日 長谷川兵部丞平蔵
鳴海城

無料の駐車場はありません。徒歩1分にコインパーキングあります。遺構かなと推定される坂はありますが。公園に碑があります。

2022年12月09日 RED副将軍
丹下砦[鳴海城  周辺城郭]



織田信長が今川義元との戦いの際に鳴海城を囲むように築いた三砦のひとつ🏯

オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎

1559年に織田信長により築かれた鳴海城に対抗するための砦。
1551年に織田信長の父である織田信秀が没し、家督を承継しますが、「うつけもの」の評判と実力に疑問を持つ国人衆に織田離反の動きが出ます。
鳴海城主の#山口教継 も織田信長から離反。大高城の水野氏を攻め落とし、今川義元への手土産として今川氏に属します。
山口教継は織田方の沓掛城も調略を用い奪取しましたが、その後に今川義元に駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられました。
鳴海城には今川家臣の岡部元信が入城し、大高城には同じく今川家臣の朝比奈輝勝が入城。織田氏と今川氏の争いの最前線となりました。
1559年、織田信長はこれに対抗するため、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。
1560年に、丸根砦の戦いから桶狭間の戦いが勃発。
今川勢の主力部隊が丸根砦、鷲津砦に攻め寄せ、手薄となった本体に奇襲をかけるため、織田信長はまず丹下砦に入り、次に善照寺砦に移り2千の兵を集結させて今川義元を急襲し討ち取りました。
丹下砦には水野帯刀、山口海老丞が配置させました。丹下砦は鳴海城の北方に孤立した前線基地であり、敵勢をおびき寄せる目的であったと考えられています。

見所
光明寺の裏山が砦跡でしたが、現在は墓地となり周辺も宅地化により消失。
東側の宅地内に案内板が立っています。

2022年09月13日 RED副将軍
善照寺砦[鳴海城  周辺城郭]



織田信長 が今川義元との戦いの際に鳴海城を囲むように築いた三砦のひとつ🏯
信長はここから桶狭間へ奇襲をかけたとも。
桶狭間の戦いを知る上で欠かせない砦です。

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

1559年に織田信長により築かれた鳴海城に対抗するための砦。
1551年に織田信長の父である織田信秀が没し、家督を承継しますが、「うつけもの」の評判と実力に疑問を持つ国人衆に織田離反の動きが出ます。
鳴海城主の山口教継も織田氏信長から離反。大高城の水野氏を攻め落とし、今川義元への手土産として今川氏に属します。
山口教継は織田方の沓掛城も調略を用い奪取しましたが、その後に今川義元に駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられました。
鳴海城には今川家臣の岡部元信が入城し、大高城には同じく今川家臣の朝比奈輝勝が入城。織田氏と今川氏の争いの最前線となりました。
1559年、織田信長はこれに対抗するため、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。
1560年に、丸根砦の戦いから桶狭間の戦いが勃発。善照寺砦には佐久間信盛が守っていました。
今川勢の主力部隊が丸根砦、鷲津砦に攻め寄せ、手薄となった本体に奇襲をかけるため、織田信長は善照寺砦に2千の兵を集結させ、今川義元のいる桶狭間に向かったとも云われています。

見所
現在は、住宅地の中に砦公園として整備されています。
当時は堀と土塁を巡らせた館型の砦であった様です。堀や土塁は見当たりませんが、今でも砦跡を思わせる小高い丘の地形が確認できます。

2022年04月10日 鬼の作左衛門しゅうた
鳴海城



名鉄鳴海駅から徒歩で5分ほどで着きます。遺構はあまりありませんが、石碑などがあります。江戸時代に鳴海宿として栄えた面影を残しています。

2021年08月16日 左近衛少将桜姫
鳴海城

公園になってる。桶狭間の戦いの切っ掛け。この城主が今川に通じ、大高城を奪われた。いつか行きたいと思いを馳せ、ついに実現。熱田神宮〜鳴海城〜大高城〜丸根砦〜鷲津砦と行軍。高低差や配置がリアルで感無量。凄まじい坂、道の狭さ、曲がり角の多さ。でも他より一番低いくてユルイ?城址の行き止まりが住宅で笑えた。

2021年03月21日 明石家船上
鳴海城



扇川の河岸段丘の端に築かれた中世〜近世の城跡
織田vs今川の争いで、最前線になっていた。
南の扇川側は、高低差10メートル以上の崖になっており、北側に向いた防御を構築したと考えられる。
遺構に南側の土塁が残っている。

2021年03月13日 【城郭道】たっきー
善照寺砦説明板[鳴海城  碑・説明板]



善照寺砦跡で砦公園にある説明板。名古屋市によくあるものや周辺案内図、信長攻略と書かれた金の物があります。スポットで地図に示したところがちょうどそこです。

2021年03月13日 【城郭道】たっきー
善照寺砦[鳴海城  周辺城郭]



鳴海城から東にある善照寺砦。現在は砦公園となっています。説明板が建てられ、見ることができます。公園は高いところにあるので当時は周辺を見渡せたのかもしれません。ここに織田軍の旗や陣幕があったとなると興奮してしましますね。想像力が鍵です。

2020年12月14日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
鳴海城

城跡は公園化されていて、ほんの少しの遺構があるのみです。道は狭く、公園まで車で突入すると行き止まりになり、Uターンできません。行かれる方は付近に車を停めて歩くか、交通機関をお勧めします。鳴海駅から歩いて数分です。

2020年11月26日 ゆーみん
鳴海城



名鉄名古屋本線鳴海駅から北東方向に歩いて行くと、右手に三菱UFJ銀行があり、道を挟んで向かいにある天神社内に鳴海城址の石碑があります。
天神社から、大きな通りを挟んで西の方向に鳴海城跡公園があり、そのあたりに本丸があったとされています。
周囲には少しですが遺構が残っているようですが、初心者の私にはあまりよくわかりませんでした…
周囲には桶狭間の戦いで要所となった砦がたくさんありますので、お時間ある方は歩いて回ってみてください。
お車でお越しの方は、鳴海駅北東の本町交差点東側にコインパーキングがありますのでそちらをご利用ください。

2020年05月06日 【城郭道】たっきー
鳴海城

丸根砦、鷲津砦から徒歩で行こうとする方、徒歩25分ほどですがだいぶあります。時間にゆとりを持って行くことをおすすめします。


ちなみに丸根砦、鷲津砦、鳴海城、丹下砦は、半日ほどでまわれます。桶狭間めぐりをしたい方には持ってこいです。


2019年07月06日 
三王山(三の山織田信長陣所)[鳴海城  周辺城郭]

信長公記首巻「三の山赤塚の合戦の事」に登場する、鳴海城の山口教吉兵1500に対して織田信長兵800で布陣した高地です。戦いの舞台は此処の東(鳴海城北)の赤塚となります。鳴海城方向と当時は織田方勢力圏である東方向への高低差はあまりありませんが、西側の山口パパ方向には防御も動向把握にも有効な場所だったように感じます。信長は、山口氏が押さえてある東海道を避け北の中根より此処へ進んだそうです。現在はこの合戦関連よりも松尾芭蕉生前に唯一建立の句碑が遺る千句塚公園として地域に親しまれています。尚武祭や海の日、クリスマスの花火を混雑無しに眺められるスポットでもあります。後に築かれる丹下砦は、三王山から鳴海城方向へ延びる丘陵の南端になります。

2016年03月01日 ソバッソ80.0
鳴海城

ここは何にも残ってない

そう思ってらっしゃるアナタ!
遺構パラダイスです!
平山城なんです!

小高い丘上にある、一見ただの公園です 。周りは民家と藪と崖です。
でも、それがいいんです。

崖は切岸跡
藪は土塁跡

です。チョー楽しいっすよ。

公園から奥には車では進めません。Googleマップではうねった道があるんで行けるといいますが、細くて原付きしか通れないっす。しかしこのうねった道がまた土塁跡なんす。
公園隣のお宅にお住いのオッちゃんとお話しして、自宅に土塁と堀があった事を教えて下さいました。「頑張って潰したんやー、大変やったんよー」と笑

しかし教えて下さった土塁の幅は相当広く、切り立った崖上と、当時は周辺は海だった事を考えると、かなりの要害だった事は容易に想像出来ます。

麓の東福院の門は、オッちゃんは移築門と仰ってましたが、僕には分からんす。
東福院の裏には水路があり、城壁に沿っていますので恐らく堀跡かと。


と、書いたものの人によってはホント何にもない場所っす。建物とか石垣フェチな方へは自信を持ってオススメしません!

2012年05月09日 くろちゃん右大臣
鳴海城

鳴海駅から花井の交差点へいく左手に城址公園がある。花井交差点を東に進むとかってルー・ゲーリッグを擁する米大リーグ選抜チームやベーブ・ルースを擁する米大リーグ選抜チームが訪れた
鳴海球場跡地にある名鉄自動車学校の道路はさんで南側に信長方の善照寺砦のあった砦公園があります。
桶狭間の戦いは迂回せず正面衝突である
が通説になりつつありますね。
ゆっくり歩きたいですね。




2011年06月13日 織田上総介弘続
鳴海城

殺風景で何も無く 城跡公園も、想像してたよりしょぼく がっかりした。

2010年08月29日 三河守コーキしゃん
鳴海城

東福院の鳴海城の廃材で造られたという門発見

鳴海城址公園の西に東福院あります

2010年07月21日 徳川内大臣源朝臣康武
鳴海城

[武将像]近世の曙像
桶狭間の戦いの舞台となった地に、織田信長像と今川義元像が揃って鎮座。
鳴海城跡にあるのではない。

鳴海城の周辺スポット情報

 小曲輪(遺構・復元物)

 東海道 鳴海宿高札場(遺構・復元物)

 門(鳴海城廃材使用)(遺構・復元物)

 善照寺砦説明板(碑・説明板)

 鳴海城址 記念碑(碑・説明板)

 徳川家康人質交換記念碑(碑・説明板)

 鳴海城跡公園の碑(碑・説明板)

 旧鎌倉間道追分(碑・説明板)

 三王山(三の山織田信長陣所)(周辺城郭)

 丹下砦(周辺城郭)

 善照寺砦(周辺城郭)

 中島砦(周辺城郭)

 桜中村城(周辺城郭)

 市場城(周辺城郭)

 寺部城(周辺城郭)

 戸部城(周辺城郭)

 成海神社(寺社・史跡)

 桶狭間古戦場観光案内所(御城印)

 砦公園公衆トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

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