吉川城(よしかわじょう)
吉川城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 愛知県大府市宮内町4、5
旧国名
- 尾張国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 吉加波入道
築城年
- 応永4年(1397)
主な改修者
- -
主な城主
- 吉川氏、花井勘八郎
廃城年
- 天正8年(1580)
遺構
- 消滅
指定文化財
- -
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
緒川城(愛知県知多郡)[4.6km]
刈谷城(愛知県刈谷市)[5.5km]
大高城(愛知県名古屋市)[6.7km]
丸根砦(愛知県名古屋市)[6.8km]
鷲津砦(愛知県名古屋市)[7.3km]
重原陣屋(愛知県刈谷市)[8.6km]
鳴海城(愛知県名古屋市)[8.7km]
星崎城(愛知県名古屋市)[9.6km]
知立城(愛知県知立市)[10.3km]
沓掛城(愛知県豊明市)[11.1km]
吉川城の解説文
[引用元:Wikipedia「吉川城」の項目]
吉川城(よしかわじょう)は尾張国知多郡(現・愛知県大府市吉川町1丁目)にあった日本の城。
概要
「清涼寺旧記」によれば応永4年(1397年)、吉加波(吉川)入道によって築かれた平城であったとされるが、戦国時代に至って花井氏の居城となったという。花井氏の居城となった経緯は不明。天正年間には花井氏5代・播磨守平次の子・勘八郎が居を構えていたが、寺本城(現在の知多市にあった)に移ったため、天正8年(1580年)に廃城となったとされる[1]。
現状
城のあった周辺はかつて「吉田町城ノ内」と言う地名であったが、廃城となった後の吉川城がどうなったかは詳しい記録もなく定かでない。また、近年になって土地区画整理事業が行なわれた際にも発掘調査などが行なわれた記録は無く、遺構なども全く残されていない。国道155号沿いに城址碑が立ち、城内にあったと伝わる弁財天が小さな祠に祀られているのみである。
周辺
城址碑から国道を挟んだ北側の小山に吉川熊野神社があるが、築城と同時期に創建されたとされている。
参考文献
- 『大府市誌』- 大府市誌編さん委員会 編、大府市 発行、1986年
- 『文化財・史跡』(PDF)(https://www.city.obu.aichi.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/003/432/15_cultural_helitage_historical_sites.pdf)大府市公式HP
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吉川城の口コミ情報
2022年12月17日 松平長七郎兵部少輔長頼
城跡看板[吉川城 碑・説明板]
横根城跡の看板は、近くの畑の上に設置されてます。掲載してる写真は、降雨時に撮った為、見にくいですが、晴天時には、はっきりと見えると思います。
2022年11月12日 兵部卿さんちゃん
吉川城
小さな祠と石碑がぽつり…近くのコンビニから歩いて登城?してきました。向かいの喫茶店が気になる…
2022年11月06日 松平長七郎兵部少輔長頼
追分城[吉川城 周辺城郭]
構造・平城
築城主・不明
築城年・不明
廃城年・不明
主な城主・不明
遺構・無し
再建造物・城跡説明板
住所・愛知県大府市東新町3丁目
現在、大府北中学校になっています。
2022年11月06日 松平長七郎兵部少輔長頼
木田城[吉川城 周辺城郭]
構造・平山城
築城主・不明
築城年・不明
廃城年・不明
主な城主・荒尾氏、池田恒興、池田輝政
遺構・堀跡
住所・愛知県東海市大田町城山15-1
2022年08月01日 近江守フロクニ
吉川城
吉川熊野神社の南方向に道路を挟んでポツリと有る。石碑は良いのが建ってるのにちょっと寂しい。
2021年03月21日 国府左京大夫城介
寺本城[吉川城 周辺城郭]
村木砦の戦いで城下を焼かれた花井氏の居城
【歴史】
築城年は不明だが、城内にある津島神社の嘉吉3年(1443)に花井信忠が建立したとされるので、室町中期には築城されたと推測できる。
築城者は、花井氏。
今川義元が尾張に勢力を伸ばしてくると、花井氏は人質を今川氏に出し、那古野城と緒川城の連携を遮断する役目を担っていました。天文23年(1554)に、織田信長が村木砦を落とすと、その翌日に寺本城に兵を派遣し、城下を放火した。その後、花井氏は織田信長の軍門に下り、佐治氏と共に知多水軍として、各地を転戦しています。関ケ原の戦いでは、東軍に属すが、西軍の九鬼水軍に攻められ落城した。
別名:堀之内城、青鱗城
【遺構】
知多市堀之内地内にある比高20mの丘(天王山)に築かれている。
主郭である頂上部に津島神社があり、平坦な三角形状の削平地が広がっており、その北側に10mほど下ったところに、細長い腰曲輪がある。
【感想】
堀之内集落の中にあり、特に説明板もないため、どこが入口か分からず、ぐるっと一周してしまった。とは言っても一周10分程度なので、それほど大きくなく地方の豪族の居城らしいと感じました。
さて、この城に登ってみると、全く堀というものがなく、あくまでも地形の峻嶮さを頼りにしている城です。南側はほぼ崖、北側には腰曲輪があるが、そこも高低差があり、容易に登れません。だからこそ、村木砦の戦いの後、信長が無理に城を攻めるのではなく、城下を焼き払ったというのも納得することができます。
北側の曲輪に降りる方法ですが、津島神社の裏手がやや緩やかな地形になっており、そこからならば楽に下りれます。自分はそこに気づかず、主郭の中央部あたりから、木にしがみつきながら下りていきました。
【アクセス】
名鉄常滑線・寺本駅から徒歩10分。
登城口は西側からしかなく、堀之内公会堂を目標にすると分かりやすい。
なお、堀之内集落は道が狭く、駐車するスペースはない。
【写真】
1:登城口
2:堀之内の地名
3:津島神社
4:主郭
5:主郭から腰曲輪を望む
6:腰曲輪
2018年02月21日 落武者 明石全登
吉川城
この地区には、吉川さんが多い