善照寺砦
善照寺砦([鳴海城 周辺城郭])
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善照寺砦の口コミ情報
2022年09月13日 RED副将軍
織田信長 が今川義元との戦いの際に鳴海城を囲むように築いた三砦のひとつ🏯
信長はここから桶狭間へ奇襲をかけたとも。
桶狭間の戦いを知る上で欠かせない砦です。
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
1559年に織田信長により築かれた鳴海城に対抗するための砦。
1551年に織田信長の父である織田信秀が没し、家督を承継しますが、「うつけもの」の評判と実力に疑問を持つ国人衆に織田離反の動きが出ます。
鳴海城主の山口教継も織田氏信長から離反。大高城の水野氏を攻め落とし、今川義元への手土産として今川氏に属します。
山口教継は織田方の沓掛城も調略を用い奪取しましたが、その後に今川義元に駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられました。
鳴海城には今川家臣の岡部元信が入城し、大高城には同じく今川家臣の朝比奈輝勝が入城。織田氏と今川氏の争いの最前線となりました。
1559年、織田信長はこれに対抗するため、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。
1560年に、丸根砦の戦いから桶狭間の戦いが勃発。善照寺砦には佐久間信盛が守っていました。
今川勢の主力部隊が丸根砦、鷲津砦に攻め寄せ、手薄となった本体に奇襲をかけるため、織田信長は善照寺砦に2千の兵を集結させ、今川義元のいる桶狭間に向かったとも云われています。
見所
現在は、住宅地の中に砦公園として整備されています。
当時は堀と土塁を巡らせた館型の砦であった様です。堀や土塁は見当たりませんが、今でも砦跡を思わせる小高い丘の地形が確認できます。
2021年03月13日 【城郭道】たっきー
鳴海城から東にある善照寺砦。現在は砦公園となっています。説明板が建てられ、見ることができます。公園は高いところにあるので当時は周辺を見渡せたのかもしれません。ここに織田軍の旗や陣幕があったとなると興奮してしましますね。想像力が鍵です。