丹下砦
丹下砦([鳴海城 周辺城郭])
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丹下砦の口コミ情報
2022年12月09日 RED副将軍✳️
織田信長が今川義元との戦いの際に鳴海城を囲むように築いた三砦のひとつ🏯
オススメ度 ★⭐︎⭐︎⭐︎⭐︎
1559年に織田信長により築かれた鳴海城に対抗するための砦。
1551年に織田信長の父である織田信秀が没し、家督を承継しますが、「うつけもの」の評判と実力に疑問を持つ国人衆に織田離反の動きが出ます。
鳴海城主の#山口教継 も織田信長から離反。大高城の水野氏を攻め落とし、今川義元への手土産として今川氏に属します。
山口教継は織田方の沓掛城も調略を用い奪取しましたが、その後に今川義元に駿河へ呼び寄せられ親子共ども切腹させられました。
鳴海城には今川家臣の岡部元信が入城し、大高城には同じく今川家臣の朝比奈輝勝が入城。織田氏と今川氏の争いの最前線となりました。
1559年、織田信長はこれに対抗するため、鳴海城を取り囲むように丹下砦、善照寺砦、中嶋砦の三砦を築き、さらに大高城との連絡を絶つべく、大高側に丸根砦、鷲津砦を築きました。
1560年に、丸根砦の戦いから桶狭間の戦いが勃発。
今川勢の主力部隊が丸根砦、鷲津砦に攻め寄せ、手薄となった本体に奇襲をかけるため、織田信長はまず丹下砦に入り、次に善照寺砦に移り2千の兵を集結させて今川義元を急襲し討ち取りました。
丹下砦には水野帯刀、山口海老丞が配置させました。丹下砦は鳴海城の北方に孤立した前線基地であり、敵勢をおびき寄せる目的であったと考えられています。
見所
光明寺の裏山が砦跡でしたが、現在は墓地となり周辺も宅地化により消失。
東側の宅地内に案内板が立っています。
2019年11月01日 -・・-・
丹下砦は信長公記・首巻35,36に出てきます。桶狭間の戦いのとき、織田信長は熱田を出た後、鎌倉街道で天白区野並から南へ進み、緑区鳴海町赤塚(新海池の北~西)辺りで街道を外れて西へ進み、丹下砦へ到着したでしょう。
丹下砦は愛知県図書館所蔵の「愛知郡村邑全図 鳴海村」(寛政年間・1790年代頃)に「丹下 古城跡」として載っていますが、丹下砦の正確な場所は分らなくてなっています。鳴海町丹下の光明禅寺の少し北側辺りだろうとする資料もあります。光明禅寺は南斜面途中にあり、寺北側には墓地、もう少し北に丘のピークがあります。墓地北辺から鳴海城、善照寺砦とも見通せます。鳴海城までは南へ直線距離で600m、善照寺砦までは南東へ850mです。
丹下砦とされる場所あたりは鳴海城の西側を通る旧東海道を北へ10分程度歩いたあたりです。目印は旧東海道・鳴海宿西側入り口にあたる丹下常夜灯です。常夜灯を右へ入り50mくらい先、左手に光明禅寺入り口が出てきます。お寺の駐車場はありますが、丹下砦が目的では使えません。付近は道が狭く駐車場は無いと思ってください。
光明禅寺入り口前の道路幅の半分は真池川が暗渠化されたものです。川は砦の南側から西側へ回り込むように流れています。道の南側は低くなっているので、道が土塁で、川が堀か?と想像したくなります。川は「愛知郡村邑全図 鳴海村」に書かれていて、1634年(寛永11年)に農業用水確保目的で作られた新海池から流れています。暗渠化される前の川北側は田んぼでした。もう少し前は南側にも田が広がっていたので、川は農業用水路、道は堤防であったと考えられます。川は1990年前後に暗渠化されました。
丹下砦西側を通る旧東海道は、昔の海岸線です。当時は干潟が広がっていたでしょう。砦は鳴海城と水運監視、鎌倉街道近くで砦間連携し易い絶妙な立地であったと考えられます。砦の北400mには千句塚公園があり松尾芭蕉が「星崎の闇を見よとや啼く千鳥」と呼んでいます。江戸時代でも干潟であったと分かります。
丹下砦も中島砦、善照寺砦と同じく、たくましい妄想力が必要です。(^^;)