天方城(あまがたじょう)

天方城の基本情報

通称・別名

天方新城

所在地

静岡県周智郡森町向天方

旧国名

遠江国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

山内道美

築城年

応永年間(1394〜1428)

主な改修者

主な城主

山内氏、天方氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)、竪堀

指定文化財

町史跡

再建造物

模擬櫓、石碑、説明板

周辺の城

飯田城(静岡県周智郡)[5.4km]
久野城(静岡県袋井市)[9.2km]
社山城(静岡県磐田市)[9.5km]
掛川城(静岡県掛川市)[10.0km]
二俣城(静岡県浜松市)[13.0km]
鳥羽山城(静岡県浜松市)[13.2km]
犬居城(静岡県浜松市)[13.8km]
匂坂城(静岡県磐田市)[14.1km]
横岡城(静岡県島田市)[14.9km]
馬伏塚城(静岡県袋井市)[15.3km]

天方城の解説文



天方城(あまがたじょう)は、遠江国(現在の静岡県周智郡森町向天方)にあった日本の城。山城。「本城」と「新城」が存在し、新城は森町指定史跡[1]

歴史 

天方新城は、太田川に沿って静岡県道58号袋井春野線を北上すると、森町市街地(城下から向天方)辺から北東に聳える城山(比高250メートル)にあった。かつてはこの城のみが天方城だと思われていたが、『遠州天方古城絵図』の発見により、北東の森町大鳥居に旧城があることが判明し、本城・新城として区別されるようになった [2] 。武田信玄と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。

天方本城

森町大鳥居に所在し、 応永年間(1394年 - 1427年)に山内対馬守道美が築城したという。

天方氏が飯田荘の地頭であった首藤山内氏から分かれたものであり、14世紀後半(南北朝後期 - 室町初期)に山内豊後守通秀が天方城に住し、天方氏を称したとする。天方氏は、天方九カ村を支配し南周南一帯に勢力を伸ばしていた。

数代を経た明応三年(1494年)、当主通季のとき、今川氏親は中遠の原氏討伐のために後の北条早雲(伊勢新九郎盛時)を大将とする大軍を進攻させてきた。今川軍は中遠三郡である佐野郡、山名郡、周智郡(現在の掛川市、袋井市、森町周辺)を席捲し城主の通季は、今川氏に降った。文亀元年(1501年)、遠江守護の斯波氏は信濃の小笠原氏と連合して今川氏に対する反撃の行動に出た。この時の戦場となったのが座王(久野)城と天方本城であった。通季は斯波の大軍襲来の前に城を捨てて今川方に身を寄せた。その後、今川方の武将、本間宗季らとともに城を奪還している。 戦後、堅固な城の必要性を痛感した通季は城の南側に新たな城(白山城)を築いた。

その後、遠江は今川氏の支配するところとなり、平穏な時期が続いた。通季は道芬と号し、上京して和歌、連歌に興味を寄せたことでも知られている。

天方新城 

天方山城守通興(別号天方四郎三郎)の代になり世は戦国乱世を迎えた。その通興がより堅固な城塞を求めて築いたのが、現在の静岡県周智郡森町向天方に残る天方城である。

それまで遠江、駿河を支配していた今川氏が今川義元の死後斜陽化、これを見た三河の徳川家康の遠州進攻の口火が切られたのは永禄11年(1568年)、家康は遠江に入ると諸城を次々と攻略し、一方甲斐の武田信玄も駿河を手に入れて、着々と西進してきた。通興は今川方の勇将と知られ、家康が浜松に入城してからも徳川に従う気もなく、家康に敵対していたため、永禄12年(1569年)6月19日、家康は「遠州に居ながら徳川に帰伏せざれば」と、榊原康政、天野康景、大久保忠隣を先陣にして、まず飯田城へ殺到してたちまちの内に攻め落してしまった。飯田城主山内対馬守通泰とその一党が悉くが討死したが、通泰の庶子伊織が、家臣の梅村彦兵衛に伴われて三河(今の愛知県)へ落ちのびた。それから天方城攻略のため進撃。郭門を打破り、二の丸に押し入り激しい攻防戦がくりひろげられた。通興もよく防戦したがついに力尽きて降伏。

翌、元亀元年(1570年)10月位には武田による北、中遠方面に対する誘降工作が活発となり、天方城にもその手が伸びた。「天方山城守、兵備を整え不穏なり」と命令に従わずに軍兵を集めてたてこもったとして再び大須賀康高、榊原康政ら徳川の軍勢に攻められた。通興は徳川勢が外曲輪に迫ると、二心のないことを誓って、開城し、再び徳川家康に降った。

武田・徳川の攻防戦

元亀3年(1572年)9月下旬、武田信玄は4万余の大軍を率いて犬居城主天野氏の案内で天方城にせまった。天方山城守通興は風林火山の軍旗をなびかせて進撃してくる武田勢に通興は一戦も交えることなく城を出て徳川方に身をよせた。そこで信玄は久野弾正忠宗を城将として守らせた。翌元亀4年(1573年)3月、家康は、武田の手に落ちた諸城の奪回戦を開始した。久野弾正は城兵を指揮して大手の門を切って出て戦い、寄せ手の大久保忠隣、渡辺半蔵らは烈しく攻め、ついに外堀を攻め破り本丸を攻め囲むこと3日、兵糧を断たれた久野弾正は夜陰に紛れて逃走、城は徳川の手に帰した。遠江国風土記には、のちにまた甲州の城となったが、天正2年(1574年)3月に家康は遠州の軍兵を率いて天方城を攻め3日のうちに攻略、この城に軍兵を置くとある。天正2年4月には、犬居城主天野景貫を討つために出陣し、このとき通興は、大久保忠世に属して道案内をしている。しかし途中、大雨で大水が出て兵糧もなくなったため、退却することになった。すると犬居城主天野景貫は追撃を開始し、さらに光明城、樽山城の城兵、郷民らの待ち伏せにあったため、家康は天方城へ逃げ込んだ。

その後

天正7年(1579年)7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山殿と長男・松平信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、さらに9月15日、かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯人を務め、天方通興の子、通綱が検分役であった。信康が切腹した際、服部正成が涙のあまり刀が振り下せず介錯できなかった為、通綱が代わりに介錯人をつとめた。このため主君である家康の長男の首を落としたという自責の念にかりたてられ高野山に登り仏門に入った。そしてその後に、越前松平秀康(結城秀康・家康二男)に仕え、越前天方氏の宗家となり、その子孫は明治まで松平氏に仕えた。

通興は、通綱が高野山に登った為、天方家の存続をはかるため、外孫の青山忠成の五男、通直を養子にした。

その後通興没後まもなく城は、廃城となった。また、通興の養子となった通直は幼稚のときより家康に奉仕して慶長19年(1614年)の大坂の陣に供奉している。慶長20年(1615年)の大坂の陣の際には、徳川秀忠に従い天王寺・岡山の戦いに戦功をあげている。後に御書院番に列し、元和6年(1620年)正月には御小姓組頭となり、さらに元和9年正月に、御書院の組頭に栄転し同年9月より江戸城西城に勤仕した。寛永2年(1625年)11月23日には、上総国武射、下総国葛飾、香取相模国高座四郡のうちにおいて2,250石の朱印状を給わる。そして、寛永3年従五位下備前守に就任さる。通直より4代後の通展のとき(享保17年(1732年)閏5月15日)に請て家号を青山に改めている。

城跡 

新城跡は城ヶ平公園として整備され、駐車場があり自動車で登ることが出来る。城跡には全長150メートルの土塁と内堀をもつ本曲輪と、その外側に18メートルの距離をおいて外堀に囲われた二の曲輪が作られ、外堀から90メートルにわたって竪堀が構築された強固な城であった。

本曲輪・内堀

現在、公園化されており旧状は判明していないが、広さは約100メートル×60メートルはある。一部自然地形なのか傾斜部分がある。

本曲輪の周囲、南側の急斜面を除いた三方を二重の土塁による内堀で囲んでおり、良い状態で残っている。土橋状の虎口が北、東側の3ヶ所にあるが、 この内の1つは遺構なのか公園化に伴うものなのか不明である(おそらく後世のものと考えられている [3]) 。

二の曲輪 ・外堀

現在は、駐車場などによって破壊されているが、東側に外堀がありわずかに痕跡を残している。初現的な「馬出」である可能性も指摘されている 。

参考画像 

参考文献 

  • 戸塚和美 2009「天方城」『静岡の山城ベスト50を歩く』(加藤理文・中井均 編)サンライズ出版 pp.78-81

天方城の口コミ情報

2024年01月24日 RED副将軍
天方城



二重土塁による内堀と外堀が美しく残る天方氏の拠点🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

1568年頃に天方通興により築かれたとされます。
天方氏は今川氏の家臣であり、1560年に今川義元が桶狭間の戦いで没すると今川氏は弱体化。甲斐の武田信玄が駿河に侵攻し、三河の徳川家康も遠江に侵攻し、今川氏に属していた国人衆が離反し徳川家康に服属するなか、天方通興は徳川家康に降ることなく敵対し、より堅固な城塞を求めて築いたのが天方新城です。
しかし、1569年に徳川家康の家臣である榊原康政・天野康景・大久保忠隣らが天方城に攻め寄せ、天方通興は激しい攻防戦の末に降伏し徳川家康に降りました。
1572年、武田信玄は犬居城の天野景貫を案内役として攻め寄せると天方通興は戦わずに開城。天方城には武田氏家臣の久野忠宗が守将として入城。
翌1573年には徳川家康は天方城奪還のため平岩親吉に攻めさせます。天方城の久野忠宗は甲斐へ落ち延び、天方通興は再び家康に降りました。
1579年、徳川家康の嫡男である松平信康が武田氏に通じていたとして織田信長から切腹を二俣城で命じられた際、天方通綱は服部半蔵正成に代わって介錯を務めたとされます。しかし自責の念から高野山で出家しましたが、後に越前の結城秀康に仕えたとされます。
天方城は、武田勝頼の遠江侵攻に対する徳川家康の拠点として重要視されましたが、武田氏が衰亡すると重要性が無くなり、1597年に天方通興が没すると間もなく廃城となった様です。

見所
太田川北岸にある標高248mの城ヶ平の山頂に築かれています。
山頂の主郭は円形で南を除く三方に二重の土塁による内堀が巡り、北側と東側に虎口が開口。
主郭北側に二の丸を配し、北側に外堀が巡るも駐車場により一部が破壊されています。

城ヶ平公園として整備されており、県道58号から林道に入り城域まで車で登ることができます。駐車場も完備されています。
前身の天方本城も併せてご訪城くださいませ。

2023年02月26日 装鉄城大膳大夫乱怒
天方城



非常に狭い道で対抗車両来たらかなりの難易度があります。非常に綺麗な保存整備で見事な空堀、土塁が見られます。麓から10分ほどです。

2023年01月25日 RED副将軍
天方本城[天方城  周辺城郭]



天方氏初期の居城🏯
二郭東には削平された尾根と帯郭が続きます。

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

応永年間 (1394年~1428年)に山内道美により築城され天方氏を称した云われます。
山内道美は、飯田荘の地頭である首藤山内氏の分流。
1494年、今川氏親は中遠に侵攻し、当主の天方通季は今川氏に従います。
1501年、遠江国守護の斯波氏が信濃の小笠原氏と今川氏に対して侵攻し天方本城が戦いの舞台となり落城。しかし、天方通季は今川氏の援軍を得て城を奪還しました。
戦後、堅固な城の必要性を痛感し南側に新たに白山城を築きました。

見所
最高所に主郭を置き、北東に一段低い削平地を挟んで二郭、更に北西尾根に三郭が配されています。切岸も甘く、南北朝時代に築かれた天方氏初期の居城でありプリミティブな山城です。
一番の見所は二郭から東の尾根筋。尾根は延々とキレイに削平され下には帯郭も続いています。
派手な城郭遺構はありません。マニア向け。

行き方は、町立天方幼稚園を目指してください。西側にある八幡神社から登城路が付いています。

2023年01月17日 なりぶ
天方城

綺麗に整備されてる城跡公園 駐車場有りトイレ有り ありがたいです ただし山道厳しめです。

2022年08月01日 パジェロ歴31年目
天方城



標識は公園となっていますが、公園に行く道路ではありません❗とにかく酷い、狭い。でも、登ってしまえば、駐車場はちゃんとしていて、遺構も掘りに土塁に残っています。

2022年03月15日 こうひろ☽
蔵雲院[天方城  御城印]

天方氏三代の墓があります。お参りしてから登城するのがいいでしょう。道路も南側ルートよりも直線的で見通しがいいです。

2020年08月15日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
天方城

城の規模は決して大きくはありませんが、空堀と土塁は明確に残っています。手入れもしっかりされており、真夏だというのに藪っていませんでした。おすすめです。ただし、車で行かれる方は険しい道のり、ご覚悟を。

2018年01月27日 わんばんこ
天方城

車で行ったのですが、対向車が来たらアウトだなと言う道なので、お茶農家の繁盛期は避けた方が良いでしょう。アクティー森方面に降りる道も有りましたが道幅は同じ位の様なので来た道を降りました。展望台も有り景色は最高です。下の道路からは電波塔と斜め右下の天方城の看板が確認出来ます。

2016年02月23日 井伊直虎
天方城

僕も天方城行ってきました。
坂が長くて、もう少し、看板をわかりやすく立てて欲しいです。
でも、頂上からの景色は、絶景で、浜松の方まで、うすく見えて、きれいでした。
坂は、長いけど、それに、似合う景色なので、ぜひ、行ってみてください。

2015年11月25日 カーネル
天方城

天竜浜名湖鉄道の遠州森駅から北東方向へ。市街地を抜けて太田川を渡ると田舎の風景になります
まだまだ天方城は遠くに見えますが、ここから標識がたくさん在るので迷わず辿り着けます
山城ではありますが、道は舗装路でかつ傾斜も緩く、茶畑が目を楽しませてくれるので楽しく歩けますよ

お城は公園になっており、キレイに整備されていて、堀も見やすくなっています
帰りは遠州森駅ではなく、戸綿駅に戻りましたが、トータル2時間ちょいです

歩き計画されている方の時間目安になれば幸いです


2011年05月28日 くろちゃん右大臣
天方城

森の石松 ゆかりの森町です。

天方城の周辺スポット情報

 内堀(遺構・復元物)

 白山城(周辺城郭)

 天方本城(周辺城郭)

 蔵雲院(御城印)

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