二俣城(ふたまたじょう)

二俣城の基本情報

通称・別名

蜷原城

所在地

静岡県浜松市天竜区二俣町二俣

旧国名

遠江国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

築城主

松井氏?

築城年

16世紀前期

主な改修者

大久保忠世

主な城主

松井氏、中根氏、依田氏、大久保氏、堀尾氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

市史跡(二俣城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

鳥羽山城(静岡県浜松市)[0.5km]
大平城(静岡県浜松市)[5.7km]
社山城(静岡県磐田市)[6.5km]
三岳城(静岡県浜松市)[10.8km]
匂坂城(静岡県磐田市)[11.0km]

二俣城の解説文

二俣城(ふたまたじょう)は、遠江国豊田郡二俣(現在の静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)にあった日本の城。山城。天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた中世城郭として名高く、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。また、家康の嫡男信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られる。浜松市指定史跡。

歴史
立地
二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地であった。加えて、北にある信濃側から見れば山間部から遠州平野への入り口といえる場所に位置し、南の道を気賀まで抜ければ、東海道の脇街道である本坂通(姫街道)が東西に走り、そこからさらに下れば浜名湖の東側(現在の浜松市中心部)に出るなど、街道上の要衝といえる位置にあった。

今川氏の拠点として
この二俣への築城は、戦国時代初頭、遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際に、今川氏が拠点とするために城館を築いたのがその初めといわれる。ただし、それは後のように山城ではなく、北東の平坦地にあったと考えられている(現在の浜松市天竜支所周辺。笹岡古城の名が残る)。その後今川氏は当主義元の勢力下で大きく勢力を伸張、その被官松井氏(当主は松井宗信か)が城の位置を変更、天竜川を見下ろす小山に築城したといわれるが確実な史料はない。宗信は永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで当主義元とともに討死するが、その子松井宗恒も跡を継いだ今川氏真に重用され、3千貫を与えられた。ところが永禄12年(1569年)、今川氏は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の挟撃にあって滅亡した。松井氏は武田信玄への従属の道を選ぶが、信玄と敵対した徳川家康に攻撃され、降伏した。家康は二俣城に鵜殿氏長を城代として置き、武田勢の攻撃の危険が高まると譜代の家臣である中根正照に城代を交代させた。

武田・徳川の攻防戦
元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃した。徳川方からすれば落城すると本拠・浜松を守る拠点がなくなるため、城代中根正照以下必死に抵抗し、城の堅固さも手伝ってよく守っていた。そこで攻めあぐねた勝頼は、籠城軍が天竜川河畔に水の手櫓を築いて水を確保しているのを発見、天竜川に大量のいかだを流して水の手櫓にぶつけて破壊させることに成功し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したという(『三河物語』)。二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が浜松城から出撃し、12月23日に三方ヶ原の戦いで両軍は激突した。武田軍は大勝し、12月28日には信玄は越前の戦国大名・朝倉義景に戦勝を報告するとともに織田信長を討つよう出陣の催促の手紙を送っている(『伊能文書』)。この中に二俣城が修築中であることも記載されている。しかし、上洛そのものはまもなく信玄が発病したために中止となり、信玄は帰国中に死亡した。

その後二俣城には、信濃先方衆の依田信蕃が城主として入った。家康は信玄死後から直ちに遠江・三河にある武田の諸城を攻撃した。二俣城にも元亀4年(1573年)6月に攻勢をかけたがこのときは撤退している。一方で逆に遠江東部の高天神城が武田の新当主・勝頼によって落城させられるなど、徳川氏にとっては厳しい状況が続いていた。ところが天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗した。家康は直ちに反攻を開始、6月には二俣城にも軍を出し、付城(前線基地)を二俣城の隣の小峰である鳥羽山ほか5箇所に作って包囲した。同年8月14日、家康は遠江の東端にある諏訪原城を落城させたが、二俣城の城兵はよく戦い、なかなか落城しなかった。しかし同年12月24日、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退した。家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせた。武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しなかった。

家康の長男・信康の切腹
二俣城といえば、家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られる。天正7年(1579年)7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、さらに9月15日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残る。(以上が旧来、広く流布されてきた説話だったが、近年では信康が切腹に追い込まれた背景には家康や家臣団との対立があったためではないかという説も強くなっている。)信康は時に享年21。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られた。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、その後家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせた。この寺・信康の墓ともに現存する。

その後
そのまま大久保忠世が城主を務めたが、本能寺の変後の家康の勢力伸張に伴い忠世自身が信州惣奉行として小諸城に在番することが多く、二俣城にはあまり在城していなかった。天正18年(1590年)、家康の関東転出に伴い堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城はその支城となったが、慶長5年(1600年)に堀尾氏が出雲に転封すると廃城となった。その後も城としての役割を果たすことはなかったが、明治29年(1896年)、日清戦争で戦死した地元有志を弔うことを目的で北曲輪跡に旭ヶ丘神社が建立され、日露戦争の戦死者なども合祀された。太平洋戦争後には城一帯は地元の公園として整備され、現在に至っている。

城の構造...

二俣城の口コミ情報

眞田十兵衛様[2017年05月11日]
本社近くまで車で行けますが、案内板や石碑に5台位しか駐車場がありません
野面積みの天守石垣には感慨深いものがあります
石垣の上まで上がれますよ!

二俣城跡近くに『大判や』という極厚の大判焼や超大盛りの焼きそば、焼うどん、かき氷が有名で美味です!
初めての方はご注意を!!

まー蔵人頭様[2016年12月29日]
『二俣城址』石碑前に5台ほど停められる駐車場を利用。先人も書かれていますが天守台の石垣のほか二の丸、門跡の石垣も観て下さい。堀切や土塁は案内板があります。なお復元された井戸櫓は先人も書かれていますが清瀧寺にあります。場所は『本田宗一郎ものづくり伝承館』の前で長時間でなければその建物の前に駐車出来ます(5台ほど)。駐車場には徳川家康・信康親子の木像があり本堂裏に信康廟があります。

青コアラ丹波守様[2016年04月08日]
天守台ばかりが注目されますが、二の丸以南の曲輪間には堀切もあります。

南から鳥羽山城、二俣城、井戸櫓(復元)と信康廟のある清龍寺、と並んでいるので、セットで見学するのがいいでしょう。

毘沙門天讃岐守様[2013年10月19日]
ファミリーマート天竜二俣店の交差点を山へ

参議一之介様[2013年10月14日]
天竜浜名湖鉄道の二俣本町駅から徒歩7,8分ほどです。近くの鳥羽山城へは徒歩15分ほどです。
こじんまりとした天守台、門跡や土塁がいい状態で残ります。天守台に登ると、天竜川がすぐ下に流れていることがわかります。

二俣本町駅は無人駅ですが、駅舎に隣接した蕎麦屋があります。値段は高めで、「蕎麦」と聞いて思い浮かべる普通のメニューは、なぜかありません。他に、城に向かう道の交差点にコンビニがあるので、飲食に困ることはないと思います。

桑名式部大輔はまぐり〜様[2012年02月12日]
自動アナウンスが流れます。

tomm加賀守様[2011年12月02日]
今日12月2日の公式ブログにて写真問題にて登場してます!
知ってる人はすぐ判りますよ〜、中の方〜(笑)

三河守コーキしゃん様[2010年09月12日]
天守台以外の遺構も結構残っています 石垣の虎口もあります

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