二俣城(ふたまたじょう)

二俣城の基本情報

通称・別名

蜷原城

所在地

静岡県浜松市天竜区二俣町二俣

旧国名

遠江国

分類・構造

連郭式山城

天守構造

不明(天守台あり)

築城主

松井氏?

築城年

16世紀前期

主な改修者

大久保忠世

主な城主

松井氏、中根氏、依田氏、大久保氏、堀尾氏

廃城年

慶長5年(1600)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(二俣城跡及び鳥羽山城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

鳥羽山城(静岡県浜松市)[0.5km]
大平城(静岡県浜松市)[5.7km]
社山城(静岡県磐田市)[6.5km]
三岳城(静岡県浜松市)[10.8km]
匂坂城(静岡県磐田市)[11.0km]
飯田城(静岡県周智郡)[12.1km]
中日向城(静岡県浜松市)[12.6km]
井伊谷城(静岡県浜松市)[12.9km]
天方城(静岡県周智郡)[13.0km]
犬居城(静岡県浜松市)[13.4km]

二俣城の解説文



二俣城(ふたまたじょう)は、遠江国豊田郡二俣(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)にあった日本の城(山城)。天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた中世城郭として名高く、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。また、家康の嫡男信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られる。城跡は国の史跡に指定されている(指定名称は「二俣城跡及び鳥羽山城跡」)[1][2]

本項では二俣城攻略の際に付城として築かれた鳥羽山城についても記述する。

歴史 

立地

二俣の地は、天竜川と二俣川との合流点にあり、水運に恵まれた地であった。加えて、北にある信濃側から見れば山間部から遠州平野への入り口といえる場所に位置し、南の道を気賀まで抜ければ、東海道の脇街道である本坂通(姫街道)が東西に走り、そこからさらに下れば浜名湖の東側(現在の浜松市中心部)に出るなど、街道上の要衝といえる位置にあった。

今川氏の拠点として

この二俣への築城は、戦国時代初頭、遠江を巡って今川氏と斯波氏が争った際に、今川氏が拠点とするために城館を築いたのがその初めといわれる。ただし、それは後のように山城ではなく、北東の平坦地にあったと考えられている(現在の浜松市天竜支所周辺。笹岡古城の名が残る)。その後今川氏は当主義元の勢力下で大きく勢力を伸張、その被官松井氏(当主は松井宗信か)が城の位置を変更、天竜川を見下ろす小山に築城したといわれるが確実な史料はない。宗信は永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで当主義元とともに討死するが、その子松井宗恒も跡を継いだ今川氏真に重用され、3千貫を与えられた。ところが永禄12年(1569年)、今川氏は甲斐の武田信玄と三河の徳川家康の挟撃にあって滅亡した。松井氏は武田信玄への従属の道を選ぶが、信玄と敵対した徳川家康に攻撃され、降伏した。家康は二俣城に鵜殿氏長を城代として置き、武田勢の攻撃の危険が高まると譜代の家臣である中根正照に城代を交代させた。

武田・徳川の攻防戦

元亀3年(1572年)10月、武田信玄が大軍を率いて信濃から遠江に侵攻、武田勝頼を大将とする軍が二俣城を攻撃した。徳川方からすれば落城すると本拠・浜松を守る拠点がなくなるため、城代中根正照以下必死に抵抗し、城の堅固さも手伝ってよく守っていた。そこで攻めあぐねた勝頼は、籠城軍が天竜川河畔に井戸櫓(いどやぐら)を築いて水を確保しているのを発見、天竜川に大量のいかだを流して井戸櫓にぶつけて破壊し、水の手を失った籠城側は戦意を失って落城したという(『三河物語』)。

二俣城の落城により武田軍は遠州平野内に入り、浜松を無視するが如くそのまま西進、これに業を煮やした家康が浜松城から出撃し、12月23日に三方ヶ原の戦いで両軍は激突した。武田軍は大勝し、12月28日には信玄は越前の戦国大名・朝倉義景に戦勝を報告するとともに織田信長を討つよう出陣の催促の手紙を送っている(『伊能文書』)。この中に二俣城が修築中であることも記載されている。しかし、上洛そのものはまもなく信玄が発病したために中止となり、信玄は帰国中に死亡した。

その後二俣城には、信濃先方衆の依田信蕃が城主として入った。家康は信玄死後から直ちに遠江・三河にある武田の諸城を攻撃した。二俣城にも元亀4年(1573年)6月に攻勢をかけたがこのときは撤退している。一方で逆に遠江東部の高天神城が武田の新当主・勝頼によって落城させられるなど、徳川氏にとっては厳しい状況が続いていた。ところが天正3年(1575年)5月21日、長篠の戦いで武田軍は織田・徳川連合軍に大敗した。家康は直ちに反攻を開始、6月には二俣城にも軍を出し、付城(前線基地)を二俣城の隣の小峰である鳥羽山ほか5箇所に作って包囲した。同年8月14日、家康は遠江の東端にある諏訪原城を落城させたが、二俣城の城兵はよく戦い、なかなか落城しなかった。しかし同年12月24日、城兵の安全な退去を条件についに開城、城代依田信蕃も駿河田中城に撤退した。家康は城主として重臣の中でも特に武勇名高い大久保忠世を置き、合わせて万全な城の修築工事を行わせた。武田軍はその後たびたび攻撃をかけるが、ついに落城しなかった。

家康の長男・信康の切腹

二俣城といえば、家康の長男・松平信康が若くして父に切腹させられた悲劇の地としても知られる。天正7年(1579年)7月、家康の同盟者・織田信長に家康の正妻・築山御前と長男・信康が武田方に内通したとの報がもたらされた。この信憑性は非常に薄いものであったが、信長は家康にこの二人を処断するよう求めた。家康は悩んだ末まず築山殿を殺害、さらに9月15日かねてから二俣城に幽閉させていた信康を切腹させた。このとき服部半蔵が介錯を務めたが、涙のあまり刀が振り下ろせなかったとの話が残る[3]。信康は時に享年21。信康の遺体は二俣城から峰続きにある小松原長安院に葬られた。翌年には家康によって同院に廟と位牌堂が建立され、その後家康が詣でた際に寺に清涼な滝があるのを見て寺の名を清瀧寺と改めさせた。この寺・信康の墓ともに現存する。

その後

そのまま大久保忠世が城主を務めたが、本能寺の変後の家康の勢力伸張に伴い忠世自身が信州惣奉行として小諸城に在番することが多く、二俣城にはあまり在城していなかった。天正18年(1590年)、家康の関東転出に伴い堀尾吉晴が浜松城に入り、二俣城はその支城となったが、慶長5年(1600年)に堀尾氏が出雲に転封すると廃城となった。その後も城としての役割を果たすことはなかったが、明治29年(1896年)、日清戦争で戦死した地元有志を弔うことを目的で北曲輪跡に旭ヶ丘神社が建立され、日露戦争の戦死者なども合祀された。太平洋戦争後には城一帯は地元の公園として整備され、現在に至っている。

城の構造 

天竜川と二俣川が合流する手前で形成している蜷原台地の先端部、現在城山と呼ばれている小山に築城されている。台地自体の標高は40メートル、本丸の標高は80メートル、比高は40メートルほどとなる。山を階段状に削り取り、北側から南側に外曲輪・北曲輪・本丸・二の丸・蔵屋敷・南曲輪を配置している(いわゆる連郭式山城)。城の東側は険しく、西側も天竜川で隔てられており、しかも切り立った岩盤上に城は立地している。ただし、ゆえに水の確保が難しく、川からの取水が必要となった。虎口は遺構が明らかになっていないが、城の南西部に開いていたと想定されている。

天守台に石垣が使われており、他の土塁部分にも上部などに石垣が使われていた形跡が残っている。天守台の築造時期については、大久保忠世が武田勢と対峙していた天正3年から10年ころまでと想定され、家康による浜松城の改修と時期を同じにすることもあり共通した部分が多く見られる。石垣は野面積み、天守の隅石には当時の先端の積み方である算木積みが用いられている。石には当地で掘り出される石灰岩が使用されており、石の加工が容易なこともあり浜松城の石垣より丁寧に加工されている。

遺構

天守台・石垣・土塁などが残っている。ただし東側を中心に車道や神社の建設の際に一部の遺構が破壊されている。また、井戸櫓が清瀧寺に復元されている。昭和36年(1961年)に市(当時は天竜市)の指定史跡に指定され、合併後の浜松市に引き継がれた。その後2018年(平成30年)2月13日官報告示により国の史跡となった。

笹岡古城

二俣築城以前の二俣周辺の支配の中心と考えられる城館跡の現在の呼び名である。遺構のほとんどは昭和42年(1967年)の天竜市役所(当時)建設の際に破壊され、現在は背後の本城山に土塁が残っている。市役所建設の事前発掘調査の際に山茶碗・青磁・白磁・井戸枠・柱根などの出土品が発掘され、当地が城館として機能していた可能性が高いことうかがわせた。築城時期については『遠江国風土記伝』には二俣昌長が文亀年間(1501年-1503年)に築城し、地元の民衆はこれを「古城」と呼んでいるとあるが、裏付ける史料がなく不明である。

鳥羽山城

徳川家康が二俣城を攻める際に付城とした鳥羽山城も庭園など多くの遺構が残っている。この城については史料に天正3年6月に築城したという記録しか残っておらず、発掘調査もなされていなかった。しかし地元の郷土史研究家である鈴木喜代治が一定規模の城郭があったものと考え、昭和26年(1951年)から20数年にわたって単独で発掘を行った結果、大規模な遺構の存在が明らかになり、昭和49年(1974年)から翌年にかけて、天竜市教育委員会による大規模な発掘調査が行われた。これにより、二俣城と同規模、またはそれ以上の城郭があったことが判明し、各曲輪・枡形門跡・庭園・石垣・井戸・排水溝などの遺構が発掘された。特に庭園については、立石などから安土桃山時代の形式で枯山水の庭園であると考えられる。また、染付・天目茶碗・鉄釉仏飯器なども発見されている。これらのことから、家康の二俣城攻略の後には、鳥羽山城は二俣城の一部として機能したと考えられているが、一方で石垣を含んだ大規模な築城は堀尾氏入封後のものであるとの説もある。

なお、鳥羽山城跡は現在は公園として整備され、市民の憩いの場となっている。

アクセス 

  • 天竜浜名湖鉄道二俣本町駅から北に徒歩10分、鳥羽山城跡については同15分

参考資料 

  • 天竜市編『遠州鳥羽山城:発掘調査報告』天竜市刊、昭和51年(1976年)

二俣城の口コミ情報

2023年11月01日 真田蟷螂守主税允龍二
二俣城



石垣がキレイに残っててサイコー!ただし、マムシが出るらしいので注意!鳥羽山城も近くにあるので一気に2城攻略できます

2023年07月14日 コナン遠江守
展望台[二俣城  関連施設]



奥の院より少し高い場所にある展望台です。浜松市街を一望できます。多少天気が悪くても浜松駅付近のビルを遠望することができます。

2023年07月14日 コナン遠江守
光明寺[二俣城  寺社・史跡]



奈良時代(717年)に行基により開創された古刹です。徳川家康公との関係を物語る伝承が残っています。犬居城攻めに失敗して敗走中の徳川軍を住職が無事目的地まで先導しました。また、寺に家康公を迎え入れ、空腹の家康公に栗を献上したところ、「光明(=功名)勝栗」と喜んだそうです。その後も幕府や久能山東照宮に献上されました。大黒殿には木像では国内最大級の大黒天像が安置されていて、商売繁盛のご利益があるとされ、多くの参拝客が訪れます。

2023年07月14日 コナン遠江守
光明寺 奥の院[二俣城  寺社・史跡]

本堂からかなり急な山道を8分ほど登ります。徳川家康公が出陣の際、兜に入れたと伝わる「御神君兜入り摩利支天」が安置されています。浜松市街全体を見渡すことができ、家康公が浜松を守って行く決意が感じられます。

2023年07月13日 コナン遠江守
光明山古墳[二俣城  その他]



浜松市内には数少ない前方後円墳です。当時かなり力を持った地元の豪族が存在した証拠です。

2023年05月19日 主税頭RedKing
二俣城



鳥羽山から天龍川左岸を北上400mで整備された遊歩道からすぐです。石垣始め一帯の管理状態が素晴らしいのは、国指定史跡であることや一級河川の浜松河川国道事務所パトロールと言うよりもご地元の皆さんが今尚、武田徳川の狭間にあって信康公を大事にされているのでしょう。十月にはお祭りが盛大に行われるそうです。左岸を更に北上して、諏訪神社と習合しているお寺に祀られています。その名も信康山清瀧寺。大久保忠世の墓や有名な井戸櫓もあります。この台地は蛯原砦だったとのことですが遺構等は不明です。隣接して本田宗一郎記念館や彼の逸話が遺る二俣小学校がありますが車はこれらには置かず、城下公園すぐ北の二俣城駐車場へ。

2023年05月05日 もいち
二俣城



天竜川沿いにあり信玄・勝頼親子と家康が争った交通の要衝。堀切や野面積の石垣が残る

2023年04月09日 まっすー
二俣城



鳥羽山城跡の看板を辿っていくと天竜川近くに出ました。また、城跡の新緑が綺麗でした。

2023年03月22日 なべさん
二俣城

石垣が残っていて、当時を思い出す事ができる場所です。

2023年02月26日 大宰帥 カルシファー
二俣城



天竜二俣駅で電車待ち中に登城。歩いて15分位。少し登ると本丸跡です。予想よりも立派な天守台がありました。

2022年11月28日 伊豆遠江守文兵衛
二俣城

秋の二俣城の美しさは筆舌に尽くし難いものがあります。天守台の石垣と紅葉は必見です!

2022年09月11日 しいたけ
二俣城



夕方に訪れたのでゆっくり廻る事ができませんでしたが、天竜川の流れる音を聞きながら石垣を見られたのは良い時間でした。

『危険石垣にのぼらない』の紙が石垣に貼ってありました。

数台停められる無料駐車場から程よい距離を歩くと本丸に着きました。

いい石垣でした。またゆっくり訪れます。

2022年04月30日 マークⅡ弾正大弼政宗
二俣城



天竜浜名湖鉄道二俣本町駅より10分程で、城郭入口に到着。しばらく歩くと、しっかり石垣が残っていた桝形門に出会い、そして本丸には、立派な石垣の天守台が構えていた。

2022年01月29日 小豆のおこわ右兵衛尉
二俣城



北曲輪が神社となっていることもあり、非常に整備されていて歩き易い山城です。蔵屋敷と二の丸を隔てる堀切が一番華麗です。南曲輪方面は少し荒れていて、整備が必要かと思われます。西曲輪群の石垣を見る為には、少し冒険が必要です。縄張図を初見では分かりません。

2022年01月09日 ペスカトーレ
二俣城



天守台、堀切、土塁、二の丸、本丸等、綺麗に残っています。

すぐ近くに無料の駐車場も有り、道も整備されていて見易いです。

2021年09月13日 駿河守かわ
二俣城



駐車場は最大7、8台停められそうな感じでした。雨の日でしたので神社側からの登り口が滑りましたので雨の日は気をつけたほうが良いです

2021年03月28日 本多左近将監忠政公
二俣城

二俣城を含む北遠五城で御城印の販売が開始されました。ちなみに専用御城印帳も販売された様です。二俣駅では乗り鉄専用の御朱印もあるみたいですが乗車する事が条件です

2021年03月14日 しげしげ主税頭信繁
二俣城



城址近くに数台駐車出来ます。3月8日から限定500枚無料配布の御状印が配られてますが、某転売サイトなどに多数流通してる為直ぐ無くなりそうです。

2021年01月21日 【魁男闘呼組】修理亮あぜり
笹岡古城[二俣城  周辺城郭]

天竜区役所(旧天竜市役所)の裏山といいましょうか。元々天竜市時代に市役所を建てるにあたり、梺に当たる地域が選ばれ建設前に発掘調査が行われたとされます。天竜体育館の脇に石碑、説明板があります。脇の砂利道を数10メートル進むと右手に道が見え階段がありますので登ります。いつしか獣道となり心臓破りの鬼坂を進む事となりますが、距離は知れてます。本曲輪、さらに上には物見曲輪がありますが、どちらも巨大な鉄塔があるだけで物見曲輪も何を見るのか?眺望はかなり悪いです。登り下りは相当な労力が必要な上スリッピーなのでスニーカーでも滑落の危険まで考えて登った方が良いでしょう。遺構もほぼないに等しいので、訪問した達成感が欲しい以外は登る必要はないと考えます。ちなみに西側に古い団地があり曲輪群だったとされますがこちらはさらに見るべきものもないです。住まれている方も若干居ますのでもしお寄りの際はご配慮を。車は天竜区役所に停めて歩くのがベター。天竜体育館の方が近いですが使用されていない場合が多そうなので時間次第かなと。

2020年12月12日 泉地近江守ばっかんまん
二俣城



徳川家康の長男、徳川信康が切腹した城で知られています。
車ですぐ近くまで行けるので、手軽に登れます。
天竜二俣駅にある天竜区観光案内所で、御城印の販売が始まってます。
天竜区にちなんだ龍のデザインの御城印帳は、100部限定だそうです。
すぐ近くにある、ラーメン屋さんと定食屋もお勧めです。

2020年11月24日 武蔵守ほえほえ97
二俣城



二俣城、侵入路が道狭くて傾斜もキツいので注意が必要です。
駐車スペースも4-5台おけるくらいです。

城址はしっかりと残っていて、上にも上がれます。

2020年09月26日 信濃守たかちゃ
二俣城

信康が自刃した、この二俣城、何か寂しさを感じるが、天守台の石垣 実に天晴れでした。野面積み 萌えです。

2020年09月20日 ポール駿河守マッカートニー
二俣城

旧春野町から向かうと全く案内なく、駐車場探しに一苦労。
二俣小学校前に公営?無料駐車場あり。
彼岸花が咲き始めた城址で、信康に思いを馳せました。

2020年07月26日 織田上総介晃司
二俣城

本丸近くまで車で行けて駐車場もありますが5台位しか停めることはできません。

国道沿いにある「二俣城址入口」の案内板からは徒歩のみで車では行けません。
少し進んでファミリーマートのある交差点を右折、山側に進みます。

二俣城から歩いて鳥羽山城に行くことが出来ます。

麓に「本田宗一郎ものづくり伝承館」があります。
Hondaファンや本田宗一郎さんの考え方・生き方に感心ある方は訪れてみては。

本田宗一郎さんは「車を作る会社が渋滞を起こしてはいけない」と言っておられて、そのためレース中事故死したアイルトン・セナの弔問に車で訪れる方の為、本田技研本社の社員駐車場を特別に開放したといいます。

2020年05月19日 恭任非参議侍従
清滝寺[二俣城  寺社・史跡]



浄土宗。信康山清瀧寺(しんこうざんせいりゅうじ)。
岡崎信康が二俣城で切腹した後、その菩提の為、二俣村に浄土宗寺院を探したところ、一軒も無かった。そこで、長安院という草庵に信康の廟所と観音堂を建立した。
信康の法名は初め、騰雲院、であったが、家康がこの地を訪れ、寺の入口に滝があるのを見て、法名を清瀧寺殿と改めたのと同時に、寺号も清瀧寺、とした。
服部正成は、信康切腹の折、介錯を命ぜられたが、不憫に思い介錯を果たせず、後に江戸に信康の供養塔を建立したのが、現在の新宿区若葉、浄土宗西念寺である。(御朱印あり)
二俣城廃城のさい、井戸櫓を当寺に移築したが、現在のものは復元である。
また、本田技研創業者の本田宗一郎は、この寺の鐘を勝手に鳴らして、時間を誤魔化して早弁した、という逸話があり、参道入口には、かつて二俣町役場だった建物を改装して、「本田宗一郎ものづくり伝承館」がある。(無料)
御朱印は頂けるみたいですが、参拝時は御住職不在で、頂けず。(書き置きもなし)


2020年02月07日 京急渡島守ドレミファ♫
二俣城

【アクセス】
天竜浜名湖鉄道・二俣本町駅から北へ徒歩5分程で「二俣城址入口」という石柱があり、そこから真っ直ぐ進んで急な階段を上り、右へ行くと登城口があります(石柱から徒歩5分程)。

【見所】
天守台とそこから眼下に見える天竜川の迫力!
虎口や堀切もクッキリと残っています。

【その他】
徳川家康の嫡男・信康切腹の城として有名ですが、その廟が徒歩数分の清瀧寺にあり、合わせてめぐることをお勧めします。
御朱印には「岡崎次郎三郎信康様御菩提所」の文字が。
また、徳川家康が二俣城を攻める際に付城とした鳥羽山城も目と鼻の先なので、ここも合わせてめぐりたい所。
鳥羽山城→二俣城→清瀧寺(若しくはその逆)の順で効率よく回れば、2時間程で行けると思われます。

2017年05月11日 眞田左衛門佐十兵衛
二俣城

本社近くまで車で行けますが、案内板や石碑に5台位しか駐車場がありません
野面積みの天守石垣には感慨深いものがあります
石垣の上まで上がれますよ!

二俣城跡近くに『大判や』という極厚の大判焼や超大盛りの焼きそば、焼うどん、かき氷が有名で美味です!
初めての方はご注意を!!

2016年12月29日 まー刑部卿
二俣城

『二俣城址』石碑前に5台ほど停められる駐車場を利用。先人も書かれていますが天守台の石垣のほか二の丸、門跡の石垣も観て下さい。堀切や土塁は案内板があります。なお復元された井戸櫓は先人も書かれていますが清瀧寺にあります。場所は『本田宗一郎ものづくり伝承館』の前で長時間でなければその建物の前に駐車出来ます(5台ほど)。駐車場には徳川家康・信康親子の木像があり本堂裏に信康廟があります。

2016年04月08日 青コアラ美濃守
二俣城

天守台ばかりが注目されますが、二の丸以南の曲輪間には堀切もあります。

南から鳥羽山城、二俣城、井戸櫓(復元)と信康廟のある清龍寺、と並んでいるので、セットで見学するのがいいでしょう。

2013年10月19日 毘沙門天美濃守
二俣城

ファミリーマート天竜二俣店の交差点を山へ

2013年10月14日 中務卿一之介
二俣城

天竜浜名湖鉄道の二俣本町駅から徒歩7,8分ほどです。近くの鳥羽山城へは徒歩15分ほどです。
こじんまりとした天守台、門跡や土塁がいい状態で残ります。天守台に登ると、天竜川がすぐ下に流れていることがわかります。

二俣本町駅は無人駅ですが、駅舎に隣接した蕎麦屋があります。値段は高めで、「蕎麦」と聞いて思い浮かべる普通のメニューは、なぜかありません。他に、城に向かう道の交差点にコンビニがあるので、飲食に困ることはないと思います。

2012年02月12日 桑名中務大輔はまぐり〜
二俣城

自動アナウンスが流れます。

2011年12月02日 tomm加賀守
二俣城

今日12月2日の公式ブログにて写真問題にて登場してます!
知ってる人はすぐ判りますよ〜、中の方〜(笑)

2010年09月12日 三河守コーキしゃん
二俣城

天守台以外の遺構も結構残っています 石垣の虎口もあります

二俣城の周辺スポット情報

 天守台(遺構・復元物)

 西の丸(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 蔵屋敷跡の石垣(遺構・復元物)

 大手門跡(遺構・復元物)

 中仕切門跡(遺構・復元物)

 搦手門跡(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 堀切(遺構・復元物)

 天守台(遺構・復元物)

 馬出し(遺構・復元物)

 二の丸(碑・説明板)

 案内板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 金の生る木の伝(碑・説明板)

 笹岡古城趾碑・説明板(碑・説明板)

 城趾碑(碑・説明板)

 案内碑(碑・説明板)

 笹岡古城(周辺城郭)

 只来城(周辺城郭)

 蜷原砦(周辺城郭)

 清滝寺(寺社・史跡)

 信康廟(寺社・史跡)

 旭ヶ丘神社(寺社・史跡)

 城山稲荷神社(寺社・史跡)

 光明寺 奥の院(寺社・史跡)

 光明寺(寺社・史跡)

 天竜区観光協会 天竜支部(御城印)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 二俣小学校前無料駐車場(駐車場)

 二俣城井戸櫓(関連施設)

 展望台(関連施設)

 光明山古墳(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore