岡城(おかじょう)

岡城の基本情報

通称・別名

臥牛城、豊後竹田城

所在地

大分県竹田市大字竹田

旧国名

豊後国

分類・構造

梯郭式山城

天守構造

御三階櫓[階層不明/1596年築/倒壊(地震)]、複合連結式層塔型御三階櫓[3重4階/1774年再/破却(廃城令)]

築城主

緒方惟義

築城年

文治元年(1185)

主な改修者

志賀貞朝、中川秀成

主な城主

志賀氏、中川氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石垣、横堀、門跡

指定文化財

国史跡(岡城跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

津賀牟礼城(大分県竹田市)[4.0km]
山野城(大分県竹田市)[15.7km]
松尾城(大分県豊後大野市)[19.3km]
鷲ケ城(大分県大分市)[24.2km]
大野原城(宮崎県西臼杵郡)[28.4km]
鶴賀城(大分県大分市)[29.4km]
賀来館(大分県大分市)[30.2km]
津守館(大分県大分市)[33.3km]
高崎山城(大分県大分市)[33.3km]
用来城(大分県佐伯市)[33.8km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

95 岡城

設置場所

観覧料徴収所(総役所跡)[地図

岡城の解説文



岡城(おかじょう)は、大分県竹田市大字竹田(豊後国直入郡竹田)にあった日本の城(山城)。臥牛城(がぎゅうじょう)・豊後竹田城(ぶんごたけたじょう)とも呼ばれる。

歴史 

岡城の築かれた天神山は標高325メートル、比高95メートル、城域は、東西2500メートル、南北362メートル、総面積は23万4千平方メートルに及んだ。

伝承では、文治元年(1185年)に緒方惟義が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したことが始まりであるという。その山城は、南北朝時代の建武元年(1334年)に後醍醐天皇の指示を受けた大友氏一族[1]の志賀貞朝によって拡張され、岡城と名付けられたとされている。一方、『豊後国志』[2]によると、志賀氏が直入郡に入ったのは応安2年(1369年)以降のことで、同郡内でも岡城に入る前には木牟礼城(騎牟礼城)を居城としていたという[3]

天正14年(1586年)、先に耳川の戦いで敗れ衰退した大友氏を下すべく、薩摩の島津氏が豊後府内に迫る快進撃を見せていた中、岡城のみは志賀親次の指揮のもと再三にわたり島津軍を撃退し(豊薩合戦)、親次はその功績から豊臣秀吉より天正15年正月3日付けの褒状を受けている[4]

豊臣秀吉の時代の文禄2年(1593年)文禄の役で大友吉統が秀吉から鳳山撤退を責められ所領を没収されると、大友氏重臣の親次も岡城を去ることとなった。翌、文禄3年(1594年)播磨国三木から中川秀成[5]が移封され、入城後に3年がかりで大規模な修築を施した。

この修築では、縄張設計に石田鶴右衛門、三宅六郎兵衛、石垣普請に山岸金右衛門などが携わり、志賀氏時代の城域の西側天神山に本丸・二の丸・三の丸御殿・櫓を造営し、城の西側を拡張、重臣屋敷群を設けた。本丸に御三階櫓を設け、城門は志賀氏時代の大手口であった下原門に加えて近戸門を開き大手門を東向きの下原門から現在見られる西向きの位置に改め[6]、3口とした。また、城下町は志賀氏時代の挟田に加えて西方に竹田町が整備された。

豊後竹田7万石の中川氏は、関ケ原で東軍に属したため所領を安堵。岡藩(竹田藩)2代久盛の代には清水門が整備され、3代久清の時に西側の重臣団屋敷を接収して西の丸を築き御殿を造営している。岩盤の台地の上に築かれたため、台風や地震、火事などの被害を多く受け、特に8代中川久貞の明和8年(1771年)には本丸、西ノ丸、御廟など城の大半を焼く大火が起きている。

明治維新後、廃城令によって廃城とされ、明治4年(1871年)から翌年にかけて城内の建造物は全て破却され、現在残っているのは高く積み上げられた石垣のみである。なお、昭和62年(1987年)には築城800年祭の記念行事として20日間限定で模擬天守と大手門が復元された[7][8]

昭和11年(1936年)12月16日、「岡城址」として国の史跡に指定され、平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(95番)に選定された。平成2年(1990年)には、「岡城公園」として日本さくら名所100選に選定された。

城下の殿町「殿町武家屋敷通り」が、平成元年度手づくり郷土賞(歴史をいかした街並み)受賞(https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/region/tedukuri/list/pref/list_44oita.html)。 平成17年度同賞大賞。

御三階櫓 

本丸南隅にあり、創建当初は再建時のものより一回り大きい規模であった。創建当初の平面規模は、初重から9間×8間・6間×5間・4間×3間であったという[9]。宝暦年間(1751年 - 1763年)に描かれた『宝暦御城真景図』では、初重西面に格子窓を持った千鳥破風のような破風1つ、南面に3つの格子窓、3重目に華頭窓と外廻り縁高欄を付けた層塔型に見える背高な三階櫓が描かれ、北側に2重櫓まで続く多門櫓が描かれ、東側に続櫓と御金倉まで続く多門櫓が描かれている。

再建時のものは、層塔型3重4階で初重から5間四方・4間四方・3間四方・3間四方の平面規模であり、最上階には外廻り縁高欄や四方の壁には華頭窓があった、本丸北西隅にあった3重の角櫓とは渡櫓で連結され、御三階櫓の東には続櫓が伸びた複合連結式であった。「豊後岡城全景」と書かれた明治初期に撮影された古写真では、廻り縁高欄や軒唐破風が確認でき、北側に、切妻屋根を持つ3重の櫓が渡櫓によって連結され、東側の続櫓から御金倉の間には土塀が見られる。

秀成創建の御三階櫓は明和6年(1769年)若しくは明和8年(1771年)に風雨と地震により崩壊し、明治初期に撮影された御三階櫓は安永3年(1774年)に再建された姿である。

遺構 

  • 石垣
  • 大手門跡
  • 中川覚左衛門屋敷跡
  • 太鼓櫓跡

その他 

  • 「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごしており、この岡城にて曲のイメージを得たといわれているため、城址には廉太郎の銅像が、遠方の山並みを眺められるところに建てられている。大野川を挟んで岡城の下を走る国道502号の上り車線にはメロディ舗装がなされた区間があり、車が通過すると荒城の月のメロディが聞こえるようになっており、岡城からでもその音を聞くことが出来る。
  • 周辺は整備され毎年4月に「岡城桜まつり」が開催され、大名行列が再現されている。城址の保存状態に対して評価が高く、多くの見学者が訪れる観光地となっている。晴れた見通しのいい日は城山から祖母山、傾山、阿蘇山、および九重連山を望むことができる。
  • 大分放送のテレビ放送終了時にも岡城址のフィルムが使われていた。(2007年ごろまで)
  • 2019年(令和元年)5月3日、NHKで放送された『あなたも絶対行きたくなる!日本「最強の城」スペシャル「第3弾」』で岡城跡が最強の城に選ばれている。
  • 竹田市はCGで建物を復元しているが実際に建物を木造復元する計画は予算の関係でない。

交通 

  • JR豊肥本線・豊後竹田駅から「緒方・三重方面行」バスに乗り5分、「岡城入口」バス停下車、徒歩15分
  • 中九州横断道路・竹田ICから約7分
    • 駐車場(無料)あり
    • 新しく岡城行きのバス開通

岡城の口コミ情報

2023年09月03日 気分爽快信濃守
小牟礼城[岡城  周辺城郭]



案内板から切り通しを登ると、すぐに神社のある主郭にたどり着きます。その南には広大な2郭がありますが、南半分からは聞きしに勝る薮が広がっていて、進むのは困難でした。

①切り通しの登城路
②主郭
③主郭内部
④2郭と西側の土塁

2023年08月10日 主税頭RedKing
岡城



豊後竹田城の別名で竹田市にあります。かの朝来市の竹田城に勝るとも劣らない山城です。阿蘇の高原から国道57号を下ってきて断崖絶壁で川の合流地点ですから、こちらも年に何回か雲海に浮かぶのでしょうか。本当にどうやって積み上げたのでしょう。本丸跡には天神さんが鎮座し滝廉太郎の像とトイレ併設の記念館が並んでいます。月夜には、本当に「荒城の月」が広大な駐車場から拝めるかも。100名城スタンプが押印できる駐車場受付には、明治迄実存した城郭や関係する滝廉太郎や中川清秀の情報紙満載です。岡城から竹田市中心街への途中には軍神廣瀬中佐を祀る広瀬神社と2代藩主中川久盛公を祀る岡神社が並び、城下を見守っています。尚、藩祖清秀公を祀る中川神社は街の西側国道57号と国道502号(岡城BP)の交差点南西にあるホテル岩城屋(命名がいかにも。)駐車場から上ります。

2023年04月10日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
騎牟礼城[岡城  周辺城郭]



大分県の竹田市にある【騎牟礼城】♪断崖絶壁上に城郭はあります♪

岡城の西側に位置し岡城より以前からあった城郭となっています♪暴れん坊の鎮西八郎為朝(源為朝)が築いたのが始まりと伝わります♪岡城の築城後もその支城として機能しました☆

平安末期から鎌倉と経て古い時代からの城郭は南北朝時代からは大友一門・志賀氏の初期の居城でした♪

志賀氏は大友家一門で北家と南家があり、北家が宗家となっていて騎牟礼城は志賀北家の城郭でした☆
南北朝時代には志賀氏は北朝方の大友氏時と共に南朝方と戦っています。志賀氏は後に岡城へ移りますが以後も重要な支城となっていました☆

島津軍に攻められた際にも、岡城の支城として機能♪志賀一族の大半が島津軍に寝返りましたが、志賀親次は岡城で抵抗しました☆
3万ともされる島津軍を手玉にとり岡城を死守☆戦後、豊臣秀吉から賞され、敵将・島津義弘も『天正の楠木』と称えました☆
その後、主君である大友義統が改易されちゃいます☆その為に領地を失い志賀親次も豊後を去りました☆恐らくこの時に廃城になったものと思われます。。

時は流れて西南戦争の際には薩摩軍が拠点としました☆西郷隆盛率いる薩摩軍は、熊本城を攻めるも落城せず☆その内に新政府軍が到着し田原坂で激戦を繰り広げています☆
一度南下した薩摩軍は新政府軍のいなかった日向を制圧☆物資を補給した薩摩軍は、豊後へ進出して反撃に転じました☆
その中で薩摩軍の野村忍介隊が騎牟礼城を拠点としたと記録が残ります☆

2023年04月09日 笑門来猫
騎牟礼城[岡城  周辺城郭]



源氏最強とも云われる源為朝(源頼朝の叔父)が九州制圧時に拠点とした城の1つと伝わります。

急崖の上に平坦な場所が広がる土地で、周囲に対する眺望もよく、砦として使うには確かに良さそう。島津氏の岡城侵攻や、西南戦争においても重要な拠点として攻防戦が行われたとされます。

東側は程よく整備され歩きやすいです。西側は藪ですが、曲輪や切岸、堀切の雰囲気が残っています。

一応駐車場ありますが、道が狭い+超急坂のため、徒歩のが良いかもです。祖母山(百名山)などの眺望が抜群なので、お弁当食べるにもいい感じ。

2023年03月12日 龍造寺筑後守シュン
岡城



難攻不落と言う言葉がピッタリな城🏯よくぞあの山頂、崖の上まで石垣を運んだと思います…

2023年02月21日 陸奥守新九郎
岡城



阿蘇凝灰岩の加工しやすさを十分に発揮した石垣です。場所による積み方の違いに着目しながら城跡を巡ると、楽しいです♩景色も見事✨

2023年02月07日 久松胆振守西門左衛門❖
岡城



何度目かの訪問なので、搦手から入ってみようと大野川の対岸から車で入るルートを試しました。対岸からは本丸の石垣も見えますが、河原へ降りる道も付いていたようで、石垣が見えます。河原の沈下橋を渡って車1台分の幅の道を進むと、十川地区を過ぎてから急勾配の極狭ヘアピンカーブが現れ、既に引き返せる状態では無かったので押し進みましたが、落葉の堆積もあり、かなり危険な道だったと思います。なんとか登り切ると駐車可能なスペースが現れ、ここから下原門跡へ徒歩で登っていきました。あとで知ったのですが、実はここへは料金所の脇から車で入れるようで、お年寄りの見学者が付き添いの方の運転で東中仕切跡まで行かれていました。河原から登る必要はなかったわけです。本丸まで見学した後、料金所への道を進み、料金を支払ってから下城しました。

2022年09月26日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
岡城下町[岡城  遺構・復元物]



大分県の竹田市にある【岡城下町】♪言わずと知れた岡城の城下町です♪
現在の竹田の城下町は、文禄3年(1594)中川秀成が岡城の大改修をし、挟田・十川の城下町を竹田に移転させたモノになります♪
往時の竹田は単なる農村でしたが、城下町を整備する為に丸山藤右衛門孫六が任命されていて、水盛の名人・布屋吉左衛門と共に縄張りに着手しました☆T字路やL字路を組合せた従来の城下町特有の街路形式をとらずに街路を碁盤状にしていて中央の低地に商人、町人を住まわせています♪
その外側には寺院を配置して岡城に連なる周辺の丘陵には武家屋敷を配置するなど新しい城下町を造成しました♪
因みに武家屋敷は120mに渡り存在しました♪この武家屋敷の町割りは現在も住居として使われています☆

現在は屋敷も大部分破壊され僅かに殿町一帯に昔の面影が残り良く保存されてます♪
岡城に立ち寄る際は是非是非行ってみて下さい♪
城下町の殿町、谷間には切支丹(キリシタン)洞窟礼拝堂が残ります♪岩盤に掘り込んだ内部がドーム状の祭壇状になっています♪戦国時代末期の岡城の城主は志賀親次です♪志賀親次は熱心な切支丹だった為に竹田や朽網に多くの切支丹が住んでいたとされています♪非常に興味深い歴史ですね♪

2022年08月15日 カズ@大高の信長
岡城

岡城の大きさ、石垣の美しさは別格です。天空の竹田城も美しかったですが、竹田にある岡城は規模で勝るかな?

2022年07月08日 美濃守可児の戦熊
大手門跡[岡城  遺構・復元物]

綺麗に整備された門跡があります。案内板もあります

2022年06月01日 千葉相模守早雲【三つ葉葵】
岡城



ただでさえ断崖絶壁なのに、その上に総石垣の城を作る必要があったのかな?よく作ったなぁというのが真っ先に抱いた感想です😁

山の斜面に連なる石垣は圧巻。本丸は勿論、城代屋敷に至るまで石、石、全て石のオンパレード!関東の土の城ばかりに慣れているもので、そこまで石を使うの?と少しばかり勿体無い気さえする程の石の技巧に溢れています。破却されたのが残念でなりません。滝廉太郎の「荒城の月」が頭の中でずっとリピートしていました😆

1.大手坂を上ると大手門石垣が見えてきます。
2.大手門跡。奥に見える石段は西の丸跡へと続く。
3.古大手門跡。大手門と比べると随分と狭い。
4.中川但見屋敷付近から見た本丸跡。巨岩の上に石垣を築いているのがわかる。
5.西中仕切跡。左に三の丸石垣が見える。
6.西中仕切跡を内側から見る。枡形となり横矢を掛ける。上から狙い撃ち。
7.三の丸から見える中川覚左衛門屋敷跡の石垣。西の丸や屋敷跡は本丸とは別の峰に伸びています。
8.本丸石垣。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
神角寺城[岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」によると、建久7年、大友氏が豊後に下ってきた際、在地の大野九郎泰基が立て籠もった城で、現神角寺境内の背後に土塁が伸びるとありました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
西蓮寺遺跡[岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」には、発掘調査により、16世紀代の区画の溝(1.5m)と建物跡が確認されていて、南山城から落ち延びた志賀氏の一統の館跡と推測されていました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
近地城[岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」の遺構の状況には、現在水田化されており、旧状が不明であるが、切岸と考えられる落ちがあり、城郭の遺構の可能性があるとありました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
夏足城[岡城  周辺城郭]

なたせじょうと読むようです。「大分の中世城館」の遺構の状況には、丘陵の先端の岩場に平場ありとありました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
戸次城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」では片ヶ瀬城と呼ばれています。岡城と向かい合った片ヶ瀬の台地は島津軍の主力が集結した所で、ここを基地として岡城攻めを繰り返したとありました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
笹原目城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、西北は断崖、南に玉来川の支流が流れる要害の地だそうです。

天正14(1586)年12月24日、薩摩軍の将白坂石見守が攻撃したとき、城兵はわずか百余人であったので、城代阿南惟秀はひとまず降伏してひそかに岡城主志賀親次へ援軍を求めたようです。

薩将白坂石見守は阿南惟秀に搦手の守備を任せるほどに惟秀を信用してしまったが、これが謀略であったとありました。岡城からは中尾伊豆守らを大将に千七百がひそかに笹原目城からは見えないところに伏せ、わずかの人数で城へ押し寄せたので白坂石見守は小勢の攻撃とみて城外へ打って出たようです。

そこをすかさず伏兵たちが取り囲んで攻撃したのでついに退却したとありました。阿南惟秀は搦手に火を放ち、逃げる石見守を追撃してついにこれを討ち取ったそうです。岡城からの援軍戦死者28人、負傷17人とありました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
相ケ鶴城[岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」では亀城とも呼ばれていることや、遺構の状況として、山頂部の主郭は小さく、斜面は切岸で削平段を形成しているとありました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
南山城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、天正14(1586)年11月に、島津の将、新納武蔵守・梅北宮内左衛門尉の軍勢が南山城を攻撃したようです。

当時、南山城は志賀鑑隆(道運)が弟義親(道雪)・長子鎮隆と共に守っていたそうです。島津軍が稲葉川に沿って進撃するのを察知した鎮隆は、三千余の軍勢でこれを城外で迎え撃ったが、島津の大軍の前に次第に圧迫され屋形木山で鎮隆は自害し、部将五人、兵四百九十八人が戦死したとありました。

島津軍は一挙に南山城攻略にかかったものの、城中の将兵がよく防いだので薩摩軍は久住方面に退いたようです。

志賀道運は臼杵の大友宗麟や府内の大友義統に援軍を要請したが、薩摩軍がすでに臼杵と府内の入口にある鶴賀城に迫っていたため援軍を出せる状況ではなかったそうです。

天正14年12月上旬に薩摩軍は再び南山城を囲み、このとき一部の志賀軍は久住の吉野義綱の邸千把園にあったので、城中との連絡を遮断されたみたいです。そこで西法寺中納言、吉野の兵三百五十騎は、常楽寺に集結中の島津軍七百を攻撃してこれを後退させたが逆襲され敗れ、残兵二百で城中に入ろうとしたが、南山城に火の手が上がったので兵たちは思い思いに離散したとありました。

南山城攻撃の島津の本隊では、むやみに力攻めしても落城しないので、城中の将を懐柔して味方にすることとし、進忠房がまず内応し、荒巻信利・朝倉金隆・進守光らが続々降伏し、城中に火を放ったので、城兵同士が戦う羽目に陥り、悲惨な状況になったようです。

城主志賀道運は志賀重実・渡辺友綱・吉野義友に援護されて南山城の西北にある綱張城に逃れたが、重実・義友の二人は討死したそうです。
弟の義親は落城と共に常楽寺に逃れたようですが、部下の進忠房の軍に囲まれて自殺したとありました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
駄原城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によれば、志賀親次の岡城の支城で、朝倉一玄が城代として守っていたこの城に薩将、逆瀬豊前守率いる軍勢が押し寄せたそうです。

朝倉一玄は、島津軍をこの城に誘い入れて殲滅しようと一策を案じて「留守の火縄」という装置を考案し、導火線を引いて島津軍が城に近づく頃を見計らって火をつけたようです。

火の手の上がるのを見た薩摩軍は、城中に失火があったと思って、この機を逃さず城に攻め上ると、人影ひとつない城となっていたそうです。城兵はあらかじめ菅迫城に引き揚げて様子を窺っていたとありました。

岡城からの援軍千五百と朝倉軍は島津勢を包囲して、これを追い落とし、薩将、逆瀬豊前守を後藤大学・同市助が討果たしたそうです。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
下原城[岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」には、長さ20mほど土塁が残っているようで、本来は土塁と堀を持った大規模な城郭だったみたいです。

近年まで堀、土塁ともかなり残っていたそうですが、圃場整備事業により、宅地部分のみ残る文禄2年の大友氏豊後除国以後の城郭とありました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
城ケ嶽城[岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」には、独立した山の頂上にあるとだけ記載されていました。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
弁当城[岡城  周辺城郭]

べとじろと読むようです。
「大分の中世城館」の遺構の状況には、土塁があるらしいですが、まだ確認出来ていないそうです。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
杉城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によれば、御嶽社の大宮司の加藤長房は衛藤・日小田・布施野しら在地武士たちを集め、島津勢に備えるため男女千人で杉城に籠もったようです。
杉城のある御嶽山には、宝徳元年(1449年)に大友十四代親隆が勧請した御嶽社があって、この社殿をにわかに城塞として待ち受けたそうです。
島津軍が山麓の福野口まで攻め上ってきたとき、突如として御嶽山に深い霧がかかり、敵方は方向を見失ってしまったようです。
この機会を見逃さず加藤・布施野・衛藤・日小田の諸勢は一挙に敵軍を御嶽山から追い落とし、無事にこの城を守ることができたとありました。
杉ケ嶽合戦の軍功に対して、大友義統から加藤四郎左衛門長房に対して知田村十七貫文分が知行されたようです。

2022年04月11日 【永】源九郎豊前守牛若丸
高城[岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」の遺構の状況には、平場があるものの、城部のものかどうかは不明とありました。

2022年04月10日 【永】源九郎豊前守牛若丸
白谷城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」では大白谷城として紹介していました。
俗に城山と呼ばれている所が城域で、室町時代、衛藤蔵人の居城とありました。
大白谷は大城谷からの転字だろうと推測されているようです。

2022年04月10日 【永】源九郎豊前守牛若丸
緩木城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によれば、平家一門の流れをくむという中尾氏は、平通盛の所領管理人としてこのちを治めたそうです。
かつて景行天皇が当地に行宮を建て、皇祖二神を祀ったという霊峰緩木山を中心に神仏混淆の一大霊地を作りあげたとありました。
平家滅亡後、大友氏が豊後を所領すると神領を寄進し、中尾盛秀にその祭祀を掌らせたようです。盛秀は大友氏の幕下となって活躍したそうです。
盛秀の子盛光は蒙古合戦のとき戦勝を緩木大権現に祈願し、みずからも志賀泰朝・貞朝に従って出陣したとありました。
天正12(1584)年、キリシタン大名大友宗麟は領内の寺院を焼き討ちたので、中尾盛行はこの非行を諫めたので、怒った宗麟は仏焼奉行清野美作守・進肥前守に一万五千の大軍をつけて直入郡南部に侵攻させ、途中の神社・仏閣を焼き、緩木城を攻めたようです。
攻撃軍は二手に分かれ、清野の軍は入田・神原方面から緩木城の南に回り、荒戸山・松ケ峯の険を越え、稜線伝いに緩木城に迫り、進肥前守の軍は北方から高源寺を焼いて高城を攻めたそうですが、なかなか攻略することができなかったようです。そこで枯草を束ねて火をつけたので城は猛火の中に落城、守将安部豊前守は戦死したとありました。
高城の東南にそびえる緩木城を南から清野軍、北方から進軍が取り囲み攻撃したそうですが、城兵も機をみて出撃して攻撃軍を押し戻し、山麓の討顔野で激戦するなど勝敗は容易に決しなかったようです。
攻撃軍は大友宗麟に援軍を要請し、宗麟は吉弘内蔵介に出兵を命じたので攻撃軍は勢いを増したようですが、それでも城中は水も豊富で戦意もさかんだったため攻撃軍は長期戦に持ち込み、糧道を断ったので、籠城軍は決戦を挑んで出撃し各所で激戦を展開、劣勢の城兵は戦死するものが多く、城主中尾盛行は城中に取って返し自決して城と共に滅んだようです。

2022年04月10日 【永】源九郎豊前守牛若丸
高城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、島津氏に内応した大友の将志賀道益・入田宗和の案内で竹田市の高源寺に着陣した島津義弘は、豊後攻略の第一戦として高城を攻撃したようです。

高城には岡城主志賀親次の臣佐田常任・阿南勘解由之丞が守っていたそうです。島津の先鋒は小勢の城のこととして、一気に攻略しようと攻め上がったが、かねて吊るしておいた大石・大木などを切って落としたので、島津勢は山麓まで退かざるをえなかったようです。

島津の兵が高源寺の百性家に入り、老婆に「この城には水が多いようだが水源はどこか」と聞くと老婆は「祖母山の谷から埋樋(水道)を引いているので水に不自由はない」というので薩摩兵はこの老婆を殺して、埋樋の場所を探してこれを崩したので高城はついに落城したとありました。

水源の御手洗の滝には取水口があるのが発見されたそうです。

2022年04月10日 【永】源九郎豊前守牛若丸
小松原城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」では小松尾城や神原城として紹介していました。

津賀牟礼城主入田親真の支城で、大友二十代義鑑が殺されるという「大友二階崩れの変」の黒幕とみられた入田丹後守親真は、義鑑の跡を継いだ大友義鎮(宗麟)に攻められ、津賀牟礼城は落城して、祖母山塊の一角にある小松尾城に逃れたようですが、ついにここで自害して果てたとありました。

入田親真の子宗和はこれを怨んで島津軍来襲の天正14(1586)年、みずから薩摩軍を小松尾城に出迎え、高城・烏岳城攻めなどに協力したそうです。

薩摩軍が豊後を退却した天正15年、岡城主志賀親次はこの城を攻め落とし、入田宗和は薩摩に逃れて島津氏の家臣になったようです。

2022年03月13日  稀偉主 愛魔尊
岡城

約20年振り3回目の訪問。工事等で立ち入れない場所もあったが、じっくり時間をかけて楽しんだ。素晴らしい城です。二の丸の休憩所にピアノがあり自由に弾くことが出来るのがユニークである。

2022年03月01日 【永】源九郎豊前守牛若丸
菅迫城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、岡城の支城のようです。
島津軍が焼失した駄原城で休息しているところへ、岡城の援軍1500と菅迫城の軍が合流し鉄砲等で攻撃、焦土の城では防戦できず島津軍は逃走し、この島津軍を指揮していた逆瀬豊前守は戦死したとありました。

2022年01月11日 じょーうん豊前守
鎧ヶ岳城[岡城  周辺城郭]



若き立花道雪が城主だったと言われてる鎧ヶ岳城 林道から歩いて10分で山頂に行けます。行ってみて感じた事は、城郭遺構らしき物がなく、山頂も狭い為に人数を多く駐屯させる事が困難だと言うことです。見晴らしは良いので、ここから他の状況を見ていたのかもしれません。

2021年08月01日 【永】源九郎豊前守牛若丸
鶴ヶ城[岡城  周辺城郭]

「大分の中世城館」によると、天正年間に多田和泉守が島津氏を迎え撃った時の城のようです。
遺構の状況としては、二股に分かれる山頂部の先端2箇所に曲輪があり、東側の曲輪は土塁で尾根と遮断しているそうです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
騎牟礼城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、岡城の支城で、島津軍が朽網から侵攻してくるのに備えたとありました。また西南戦争の際には、薩摩軍がここに籠って官軍に抵抗したそうです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
鬼ヶ城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、岡城の支城で、島津軍が岡城を攻めるため滑瀬の渡し付近に陣取っていたので、岡城主志賀親次はこの城に1000余りを配し、島津軍が川を渡って坂を登りかかるのを待って一斉に攻撃したそうです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
鎧ヶ岳城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、戸次鑑連(立花道雪)が筑前立花城に移るまで居城としていた城です。その後戸次鎮連が譲り受けたようです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
藤北館[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、大友氏三代の館跡と言われ、後に戸次氏の館となったようです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
高城(小城)[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、東西20歩×南北20歩の円形のものを小城と呼んでいるようです。
城の前面は深い谷、後ろは神角寺山に連なり要害堅固として紹介しています。
後鳥羽帝の頃、渋谷重泰の居城だったが、大野泰基と共に大友氏に抗し滅んだそうです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
高城(大城)[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、東西90歩×南北160歩の地を大城と呼んでいるようです。
城の前面は深い谷、後ろは神角寺山に連なり要害堅固として紹介しています。
後鳥羽帝の頃、渋谷重泰の居城だったが、大野泰基と共に大友氏に抗し滅んだそうです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
高尾城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、在地豪族の堀中務・軸丸大膳らが島津軍に備えるために築城したようですが、三千余りの軍で攻められ落城し、柏野城で和議が成立したそうです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
雷山塁[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、雷の塁としてあげられていました。
戸次氏の支城で、戸次道雪が大木の下で昼寝をしていたところへ雷が落ちてきたので千鳥という名刀で雷を切り捨てたが、片足を打たれたという逸話の舞台となったところのようです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
田中城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、鎧ヶ岳城の支城で、天正年間には市原頼房の居城だったそうです。
天正14年の島津侵攻の時に防戦したが及ばず落城し、その後廃城となったとありました。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
志賀城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、大友氏初代能直の八男能郷がここに城を築いて志賀氏を名乗り、元徳3(1331)年に岡城を築いて移るまでの92年間に渡って居城としていたようです。
城跡は東部は断崖、前面には水堀もあったそうで、山上には土塁が残っているとありました。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
小牧城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、三方を川で囲まれ、一方だけに道が通じている小牧城は、その一方向に幾重にも堀があって、柵を結い、堀には矢狭間が蜂の巣のように並んでいる堅固な要塞だったそうです。
緒方庄に入った島津軍は在地武士が籠る小牧城を和談によって取ったようです。岡城主志賀親次は1500余騎で大手口からと搦手から一斉に攻めのぼり、他の一隊は川向こうから鉄砲で攻撃したところ、城中の緒方の武士たちが島津軍を裏切り呼応して討ってかかり、ことごとく討ち取ったとありました。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
腰ヶ城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、城跡は大野川が北を流れ、断崖に囲まれた要害の地として紹介していました。
岡城主志賀親次は、柏野城を落とした島津軍が腰ヶ城を攻めるために出陣した時の備えとして鉄砲隊を伏せたり、1500の軍勢を柏野城の東西の尾根に配置し、後陣の兵は腰ヶ城に控えたようです。その軍備を見た島津軍は降伏したとありました。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
柏野城[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」には、この城は北に大野川の本流が流れ岸壁で囲まれた天然の要害として紹介されていました。
島津軍が攻め寄せてきた時、当初は鉄砲で撃つなどして応戦したようですが、評定の末降伏したとありました。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
緒方三郎惟栄館[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、緒方三郎惟栄は、元暦元年(1184)に、九州における平家方の拠点である宇佐神宮を焼き討ちにするという事件をおこした人としてあげられていました。また(暴風雨のため実現しませんでしたが)源義経の九州入りを助けたようです。

2021年05月28日 【永】源九郎豊前守牛若丸
一万田館[岡城  周辺城郭]

「日本城郭大系」によると、一萬田氏は、大友初代能直の六男時景が始祖で、代々大友氏に仕え、大友氏の奉行人として重きをなした名門だったそうです。
一万田氏館の庭には珍しい黒染めの桜があったので、天正年間初期に一萬田鑑実は大友宗麟を招いて花の木陰に仮屋を設けて二夜三日の酒宴を開いたようです。

2021年05月10日 【永】源九郎豊前守牛若丸
岡城



素晴らしいお城でした。
登城前に本やYouTube等を見てある程度予習したのですが、(個人的に)思ってた以上の広さでした。全体を一通り観て廻るのに(往復)2時間程掛かりました。(なのでリア攻めするなら、城主争いの城攻め2回は出来ると思います。)
全体的に綺麗に整備されていますし、定期的に整備しているようです。

大手門から西ノ丸、家老屋敷跡、三ノ丸、二ノ丸、本丸、下原御門へと辿る道なりは石階段以外の傾斜はあまりありませんが、とにかく歩きます。
なので歩き易い靴を履くことと、飲料水は必須です。(マスクをしての移動は息切れし易いです。)
それで入城料金を支払う所に杖があるので、利用されると良いかもしれません。また料金を支払うと冊子をもらえますが、その中に見所などが記載されているので、目を通しておくとより楽しめます(帰宅後に気がつきました(T^T) )

城内に幾つか御手洗いがありますし、二ノ丸に休憩所(御風呂屋跡)があり、そこに御手洗いと自販機もあるので必要に応じてご利用ください。またfree Wi-Fiもありました。大手門から西ノ丸への説明板にパスワードも載ってましたので(入らない箇所もありましたが)、こちらも必要に応じてご利用ください。

島津軍35000に対して1000で城を守りきるとは、志賀親次はかなりの名将だと思います。事実、島津義弘から「天正の楠木」と評されたそうです。

とても充実した大満足なお城でした。さすが100名城です。急いで観るのはもったいない城です。

2021年04月27日 じょーうん豊前守
鳥屋城[岡城  周辺城郭]



大友家家臣一萬田氏の城として鎌倉時代に築城されました。1362年に菊池武光に攻められて落城した記録があります。豊薩合戦の時に城主の一萬田鎮実は島津軍に内通した為、戦後に切腹となり宗像鎮続が城主となりましたが、朝鮮出兵の不手際で大友家が領地没収となると鎮続も領地を失い、鳥屋城は歴史から消えました。

登山道は鳥屋城跡保存会さんによって整備されていて苦労する事は少ないと思います。
城跡も整備されていて見やすいです。城を囲む土塁が特徴的です。

2020年11月08日 虹雷 大宰大弐 サンダー
岡城



何度訪問しても、良くもこんな高い場所に、こんなにたくさんの石垣をと当時の建築技術を想像するに…圧倒されます。まさしく難攻不落、崖の下の川沿いに武家屋敷が並んでたとあるが、こんな場所に人が住めるのか?とにかく必見の城址です。

2020年10月25日 りんちゃ
岡城



こんな高いところまでたくさんの石垣が積んであり、どれだけの手間がかかったのでしょうね。
渓谷の流れと連なる山々にみとれますね。

2020年10月19日 ひろ右京大夫
岡城



石垣が綺麗に残っています🏯本丸までも結構あるけど、端まで行こうと思うとかなり広いです。よく此処にこれだけのお城を作ったと驚きます‼️

2020年10月15日 戸次豊前守紹運亮幸盛
小牟礼城[岡城  周辺城郭]

豊後南部衆の一族、一萬田氏の居城で、中九州自動車道の朝地インターと大野インターのちょうど中間くらいにあります。県道57号線沿いには案内板はありません。城郭の入口辺りに2台ほど路肩に停められます。登って行くと左右に帯曲輪らしきものがありますが曲輪か定かではありません。更に登ると階段があり、その上が本丸と思われます。二の丸はかなり広いです。土塁もかなりの高さがあり、高い所では2mくらいはありそうです。二の丸の南側はやぶが物凄くて立ち入ることが出来ませんでした。昔行かれた人のブログの縄張りを見ると、南のほうに三の丸があり枡形虎口があるようになってますが、近寄ることすらできなかったです。私有地らしいので、市や県が買い取って整備して欲しいと思います。

2020年09月24日 みそしる筑前守道雪
岡城



あいにくの雨でしたがなんの、いやぁホントに素晴らしい城跡です感激!スマホの方は是非受付でARガイドアプリを入れて廻って下さいオススメ!ただ歩きながらの使用は厳禁(汗)石垣断崖落ちますwww二の丸休憩所や多目的トイレなどもあります。次は桜や紅葉の季節に来たいと思います!ホントに見事!素晴らしい!鳥肌が立ちます(笑)

2020年02月19日 鞍馬佐渡守TENG
岡城

素晴らしい!!受付でくれる城案内の巻物も城の規模も。余計な柵も一切なく自由に探検できるのも最高です!

2019年05月27日 清円院上野介華姫
岡城



七曲り。広大な石垣と緑に包まれ最高な気分でした。山肌から滴る湧き水(?)もここで発見!馬に与えたオアシスは今も絶え間なく溢れ出ていました。
この空間に私ひとり、、何と贅沢な
堪らんかったぁ〜

2019年05月14日 くるっク備後守
岡城



二の丸跡に休憩所があります。中のトイレはとても綺麗です。女性の方には必須事項かと思いまして一筆。

2019年04月29日 書き込み制限王
岡城



ちょっとわかりづらいですが、現地には説明があります。近戸門のところ、たいまつと煙管を禁ずる石碑です

2018年07月20日 織田上総介晃司
岡城

駐車場とトイレが岡城観覧徴収所にあります。

そこから大手門に向かって行くとカマボコ型をした石段があります(岡城の特徴)

見落としがちですが西の丸御殿に続く幅広の石段(幅約20m)これも岡城の特徴

竹田城に勝るとも劣らない石垣。見事です。

岡城から国道502号線で豊後大野市に向かうと日本のナイアガラと呼ばれる原尻の滝があります。
道の駅のすぐそばにありアクセス良いので立ち寄ってみては…

国道502号線を豊後大野市から竹田市に向かうとメロディラインがあり「荒城の月」が流れます(反対方向の車線にはありません)
岡城本丸からも聞くことができます。
私も本丸から聞く事ができましたが爆走車だったので高回転の荒城の月でした。

2017年07月31日 源陸中守ポンコ2…バカンス
岡城

豊肥線豊後竹田駅にある観光案内所で岡城までの行き方を尋ねると、平日で気温35℃もある中なら入城料金所までタクシー(¥700)を勧められ利用しました。運転手曰く、入城料金所で料金を支払後に本丸の東中仕切門までタクシーで行くことも可能ということで、その時は運賃も¥1,300前後になるとのことでした。

入城料は¥300ですが、栞と縄張図が書かれた巻物が貰え、それだけでもお得感がありました。そこから本丸まで徒歩20分ほどで七曲坂など通路は草刈が行き届き歩きやすいですが、夏場は半端ない発汗のため水分持参必須です。

地震の影響か補修工事を行っている箇所があり、また転落防止柵などもないので、ご注意ください。私は1時間半ほど三ノ丸、西ノ丸、二ノ丸、本丸と歩き回りましたが、先人の方の口コミにあるように、山頂に広がる特徴ある石垣や礎石など見所たくさん、かつ広くて、全て見て回るには3時間は必要かと思います。

城下町などは時間の関係上今回はパスし、ある方に教えてもらった竹田〇福のみ訪問、とり天は絶品でした。また駅近くに花水木という日帰温泉施設もあり、登城後の汗を流すこともできます。

2017年05月14日 じょーうん豊前守
岡城

国道502号線を原尻の滝方面から岡城に向かっていると、荒城の月のメロディーの鳴る路面がありますので是非聞いてください。

2017年05月10日 惟新斎北見守かなえ
岡城

遺構は道に迷わない私が迷子になるほどかなりひろーーいので他の方がおっしゃるように短時間で見ようとするのはやめた方が良いです。実際私も数十分で見ようとしてしまい不完全燃焼のまま下山しました(汗)。
途中の城下町や洞窟トンネルが風情があったり城にふんだんに使われてるカマボコ岩が他の城にはない魅力です。是非今度は泊まり掛けでじっくりと見に行きたいですね。

2017年05月08日 五瓜ニ唐花紋太政大臣や~きみ
岡城

駐車場はあります。
縄張りに入るのに入場料必要。
遺構はかなり広いです。
石垣は見事です。
有名な写真スポットは入り口に過ぎず、全部の遺構を見ようと思ったら結構な時間が掛かります。

2016年08月28日 シバヤン左兵衛督忠肝義胆
岡城

(続)この城のもう一つの特徴的なのが本丸を含めて城内にある家臣の屋敷跡があることです。
(要害がいかように堅固であっても人の心が一つでなければものの用をなさない)
竹中半兵衛

この城のハイライトは豊薩合戦の島津義弘軍との篭城戦でしょう。
志賀親次、親父の反対を振り切りキリシタンになり、多くの家臣達から信望を集める人柄。高橋紹運が、岩屋城で玉砕したのを聞いていたはず!向かってくるのが島津義弘軍と知っても退かず、(私の愛するふるさとを踏みにじられてたまるか!)の一念から迎え撃つぞとの決意表明!
(この人ならば)と家臣達も気持ちを合わせて。
大友は張り子の虎やと舐めてかかった島津軍は、ここでも頑強な抵抗に遭い九州平定に失敗!
高橋紹運、志賀親次らの死闘は遂に報われて大友氏は命拾いすることに。
腐っても鯛やったと気付いた時にはもう遅い!島津義弘さんの悔しがる姿が浮かんできます。
九州豊薩合戦を知ってからこの城をもう一度見るとまた格別の情感が沸いてきます!

大友氏はいい家臣に恵まれたもんですね•••

2016年08月28日 シバヤン左兵衛督忠肝義胆
岡城

きれいな田舎町を流れる大野川を眺めて岡城祉入口の交差点から進み岡城駐車場に、(無料)。
大手門跡から続いて三の丸、西の丸跡と至る所からも素晴らしい石垣に溜め息の連発です。大手門にはあの但馬の竹田城で見た縦石もありました。同じ石工衆達が来て作事に携わったものかと•••。
この城は1日かけての散策をお勧めします。西の丸から本丸跡の入口門には、今週の写真に選出を受けた根っこを見つけました。ここで戦い流した汗、血、涙をも我が身の成長の力にしようぞ!との思いが感じました。
高石垣の壮大さもさることながら私が感心したのは、西の丸の下水道施設跡です。
長い篭城戦になると将兵達のし尿は衛生上危険です。城内で疫病が出たら篭城どころじゃありませんからね(;^_^A。
この城が、豊後を守る要衝であるために何年もかけて成長してきたのが肌で感じ感動されます。
時折、荒城の月のメロディーが気持ちの起伏にあたり心に響いて情感が込みあがってともすれば泣きそうな気になりました。
100名城スタンプラリーなどだけで訪城するだけでなく竹田市に宿をとりゆっくり散策することを強くお勧めします!





2016年01月20日 まるき〜出雲守
岡城

まず、時間に余裕がある時に来たい城跡と言えるんじゃないでしょうか…?山城にしてはとにかく広いです。
券売所から歩くと大手門〜本丸まで約15〜20分くらい。登城口から大手門に向かう石垣の上部がカマボコ型になっていたりしているのが珍しい、この形の石垣は他の城には存在しないらしく、この城以外に岡山県の旧閑谷学校と言う所にしか無いそうなので必見かと
遺構の規模はかなり広くて崖っぷちに築かれた石垣はいろんなタイプの石垣が存在している。切り込み、打ち込み接ぎの石垣が多数存在しているのは加工がしやすい石が沢山採れたからだそうです。
とにかく遠くまで見渡す限り石垣が見えるもんだから…楽しくて…^o^
昨年7月より小型の登城バスが運行されており、年配の方や御御足の悪い方優先で城内まで案内してもらえるサービスがあります。東中仕切跡まで約7〜8分で到着できます。
バスの時間は券売所にてご確認下さい。
後、城探索していると麓の道路がメロディーロードとなっているので車が通る度に荒城の月が聞こえてきますよ。(=゚ω゚)ノはるこうろうの〜はなのえん♫


2015年11月03日 五八丸
岡城

素晴らしい石垣!

2015年08月15日 雅昌 周防守感謝
岡城

城址と聞いて行って来ましたが、広すぎて短時間では回れません(・・;)二の丸、三の丸、本丸と回り、城代屋敷跡と…見事な石垣の上、回りの景色とマッチして感動しました(^^)

2015年08月08日 なお安房守
岡城

先日登城してきました。城域は広大で石垣群がしっかり遺されており、城跡からの眺めも素晴らしく、個人的には但馬竹田城よりも感動しました。
・・・猛暑の中の登城後に大手入口のお土産屋さんで冷たいお茶をいただき、非常に助かりました。

2014年10月06日 友弥
岡城

先日、登城しました。
そこで現地の人から入手した情報。

なんと数億円かけてエレベーター設置する計画とかなんとか。。
誰が望んでいるんや???
ちゃんと市場マーケティングしたんかー!

帰ってから調べました。
H25.9 定例議会議事録より
抜粋
『岡城跡を総合的に整備活用を図る上で、岡城跡公開活用検討委員会を設置し、基本的な検討を行ってきております。昨年度は登城の方法としてエレベーター構想について、国との協議を重ねながら検討をしてきましたが、現状では史跡の保護の観点から断念をせざるを得ない状況となっております。今後は、〈中略〉岡城跡の総合的な整備を図るための実施設計に着手し、西の丸跡の休憩所、本丸周辺の便益施設、統一デザインによる城内の案内標識・説明板、登城の方法としてエコカーによるルートの設定、植栽等の環境整備、片ケ瀬方面から岡城を望む展望所、ガイダンス施設等の検討を行い、来年度からの事業着手に向けた取組を行っていきたいというふうに考えております。』

ひとまずよかったです。。

2014年07月25日 日向夏隠岐守
岡城

念願の岡城!
気温32℃でも感動で鳥肌がたってます!そそり立つ石垣が素晴らしい!

2014年06月12日 柳生兵庫助如雲斎
岡城

入園チケットは通行手形のような栞、案内パンフレットは巻物になっていたりと遊び心満載。特に本丸跡周辺の遺構と、そこから見える久住連山の景色が実に素晴らしいです。

2013年03月03日 加藤豊後守清正
岡城

もっとも評価すべきは、礎石。江戸の終わりまで使われ、ほとんどの礎石が当時のまま残っている。これだけ残っているのは、全国でも稀。山城として

2011年12月17日 摂政M三郎
岡城

世に勇名を馳せる豊後岡城。念願叶って、昨年夏に西海道初巡りで訪れました。城内には、中川氏が伴った石工による様々な石垣が見られますが、精緻で美しい黒褐色の高石垣や城門部の亀甲積石垣、登城路手摺部の意匠などに仕事の丁寧さと技術力を感じ驚嘆させられました。規模も大きく、まさに名城です。加えて、本丸の尾根続きに家臣の屋敷地も設けられており、山上部に家臣とともに住まう例は近世城郭では他にあまり無く、この城の特徴となっています。私が最も好きな城のひとつとなりました

2010年06月16日 まったり丹波守
岡城

排水設備が見所。
排水溝が張り巡らしてあり、通路にも石が斜めに埋めて有り雨水が斜面に流れ落ちるように成っています。
山城なので水確保の為かな?考え過ぎかな?

岡城の周辺スポット情報

 大手門跡(遺構・復元物)

 石垣(遺構・復元物)

 下原門跡(遺構・復元物)

 御廟所跡(遺構・復元物)

 普請方跡(遺構・復元物)

 朱印状倉跡(遺構・復元物)

 賄方跡(遺構・復元物)

 本丸跡(遺構・復元物)

 近戸門跡(遺構・復元物)

 中川覚左衛門屋敷跡(遺構・復元物)

 西中仕切跡(貫木門跡)(遺構・復元物)

 東中仕切跡(遺構・復元物)

 村上屋敷跡(遺構・復元物)

 古大手門跡(遺構・復元物)

 太鼓櫓跡(遺構・復元物)

 三の丸跡(遺構・復元物)

 二の丸跡(遺構・復元物)

 新屋敷門跡(遺構・復元物)

 古井戸(遺構・復元物)

 角櫓跡(遺構・復元物)

 中川民部屋敷跡(遺構・復元物)

 清水門跡(遺構・復元物)

 三重櫓跡(御三階櫓跡)(遺構・復元物)

 岡城下町(遺構・復元物)

 旧竹田荘(遺構・復元物)

 滑瀬橋跡・番所跡・滑瀬坂(碑・説明板)

 西ノ丸御殿跡(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 説明板(碑・説明板)

 騎牟礼城(周辺城郭)

 小牟礼城(周辺城郭)

 鳥屋城(周辺城郭)

 腰ヶ城(周辺城郭)

 柏野城(周辺城郭)

 志賀氏館(周辺城郭)

 志賀城(周辺城郭)

 高尾城(周辺城郭)

 緒方三郎惟栄館(周辺城郭)

 鶴ヶ城(周辺城郭)

 一万田館(周辺城郭)

 小牧城(周辺城郭)

 藤北館(周辺城郭)

 戸次氏館(周辺城郭)

 田中城(周辺城郭)

 高城(小城)(周辺城郭)

 高城(大城)(周辺城郭)

 鎧ヶ岳城(周辺城郭)

 雷山塁(周辺城郭)

 鬼ヶ城(周辺城郭)

 南山城(周辺城郭)

 神角寺城(周辺城郭)

 近地城(周辺城郭)

 西蓮寺遺跡(周辺城郭)

 高城(周辺城郭)

 夏足城(周辺城郭)

 天神館(周辺城郭)

 徳丸城(周辺城郭)

 高無礼城(周辺城郭)

 戸次城(周辺城郭)

 相ケ鶴城(周辺城郭)

 上畑城(周辺城郭)

 笹原目城(周辺城郭)

 菅迫城(周辺城郭)

 城ケ嶽城(周辺城郭)

 弁当城(周辺城郭)

 下原城(周辺城郭)

 駄原城(周辺城郭)

 大無礼城(周辺城郭)

 高城(周辺城郭)

 杉城(周辺城郭)

 白谷城(周辺城郭)

 小松原城(周辺城郭)

 高城(周辺城郭)

 緩木城(周辺城郭)

 天満神社(寺社・史跡)

 観覧料徴収所(御城印)

 観覧料徴収所(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 竹田市立歴史資料館(関連施設)

 休憩所(その他)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore