緩木城

緩木城([岡城  周辺城郭])

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緩木城の口コミ情報

2022年04月10日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
「日本城郭大系」によれば、平家一門の流れをくむという中尾氏は、平通盛の所領管理人としてこのちを治めたそうです。
かつて景行天皇が当地に行宮を建て、皇祖二神を祀ったという霊峰緩木山を中心に神仏混淆の一大霊地を作りあげたとありました。
平家滅亡後、大友氏が豊後を所領すると神領を寄進し、中尾盛秀にその祭祀を掌らせたようです。盛秀は大友氏の幕下となって活躍したそうです。
盛秀の子盛光は蒙古合戦のとき戦勝を緩木大権現に祈願し、みずからも志賀泰朝・貞朝に従って出陣したとありました。
天正12(1584)年、キリシタン大名大友宗麟は領内の寺院を焼き討ちたので、中尾盛行はこの非行を諫めたので、怒った宗麟は仏焼奉行清野美作守・進肥前守に一万五千の大軍をつけて直入郡南部に侵攻させ、途中の神社・仏閣を焼き、緩木城を攻めたようです。
攻撃軍は二手に分かれ、清野の軍は入田・神原方面から緩木城の南に回り、荒戸山・松ケ峯の険を越え、稜線伝いに緩木城に迫り、進肥前守の軍は北方から高源寺を焼いて高城を攻めたそうですが、なかなか攻略することができなかったようです。そこで枯草を束ねて火をつけたので城は猛火の中に落城、守将安部豊前守は戦死したとありました。
高城の東南にそびえる緩木城を南から清野軍、北方から進軍が取り囲み攻撃したそうですが、城兵も機をみて出撃して攻撃軍を押し戻し、山麓の討顔野で激戦するなど勝敗は容易に決しなかったようです。
攻撃軍は大友宗麟に援軍を要請し、宗麟は吉弘内蔵介に出兵を命じたので攻撃軍は勢いを増したようですが、それでも城中は水も豊富で戦意もさかんだったため攻撃軍は長期戦に持ち込み、糧道を断ったので、籠城軍は決戦を挑んで出撃し各所で激戦を展開、劣勢の城兵は戦死するものが多く、城主中尾盛行は城中に取って返し自決して城と共に滅んだようです。

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