津賀牟礼城(つがむれじょう)

津賀牟礼城の基本情報

通称・別名

所在地

大分県竹田市入田字矢原

旧国名

豊後国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

入田親真

築城年

戦国時代

主な改修者

主な城主

入田氏

廃城年

文禄2年(1593)

遺構

曲輪、堀切、畝状竪堀群

指定文化財

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

岡城(大分県竹田市)[4.0km]
山野城(大分県竹田市)[18.7km]
松尾城(大分県豊後大野市)[20.8km]
大野原城(宮崎県西臼杵郡)[24.3km]
高森城(熊本県阿蘇郡)[27.5km]
鷲ケ城(大分県大分市)[28.1km]
鶴賀城(大分県大分市)[32.6km]
内牧城(熊本県阿蘇市)[33.6km]
用来城(大分県佐伯市)[33.8km]
賀来館(大分県大分市)[34.1km]

津賀牟礼城の解説文

※この城郭は2021年4月6日に名称と位置が変更となりました。

立地
祖母傾山系に属す烏岳山頂にある。祖母傾山系によく見られる細く長くのびた尾根に立地するが、非常に急峻な地形で岩が方々で露出している。

現状
一部植林がなされているが、ほとんどが低木の雑木林で覆われている。

構造
本城のなかでの最高所に曲輪があるが、狭小な曲輪であり、中心部は、その下段にある比較的大きな面積を有す曲輪であると考えられる。

曲輪の西側、北側には、削り残しと見られる巨大な土塁をもち、武者溜まり的な曲輪として機能していたのではないかと考えられる。

南北に長く延びた尾根の両端は堀切によって仕切られ、そこには数段の曲輪がつく。南郡地域でよく見られる典型的な縄張り構造で、非常にコンパクトにまとまり実戦的である。強固な土塁の設置が西側に見られることから、緒方の集落側(西側)から攻めのぼる敵を意識して築城されたものと考えられる。

歴史
天正14年、薩軍の豊後侵攻の際、梓峠を越え三重の松尾城に拠点を築いた島津家久と、肥後口より侵入した義弘隊が緒方に侵攻する。

堀相模守が守っていたとされるこの烏岳城には島津義弘麾下の北郷忠虎、三久兄弟が攻撃したとされ、籠城していた堀は後に討ってでて、敗れたとされる(『北郷忠虎譜』)。

情報提供:豊後大野市歴史民俗資料館

津賀牟礼城の口コミ情報

2021年04月04日 龍馬備中守【】
津賀牟礼城



大分県の竹田市にある津賀牟礼城☆岡城の南西側に位置する戦国の山城です☆

緒方川と十角川が合流する地点の西に聳える標高346mの山に築かれてます♪低山ではありますが周囲は切り立った岩壁で囲まれているので登るルートは限定的です☆南側からのルートになるのですがこちら側が大手道と思われます☆
築城年は不明ですが大友氏の有力家臣・入田氏が築いた城郭となっています☆加判衆として活躍もしました☆
入田氏は大友氏4代目・大友親時の子大友泰親が直入郡入田荘を与えられて入田氏を称した事に始まります☆

大友義鑑の時に嫡男・大友義鎮(後の宗麟)ではなく妾腹の大友塩市丸に家督を継がせそうと画策します☆
大友義鎮は粗暴な性格で、父や入田親真とは不仲でした☆大友義鑑は義鎮を廃嫡し大友塩市丸を後継者にしようと考えるようになります☆所謂、お家騒動です☆

この時に津賀牟礼城主・入田親誠は大友義鑑派として廃嫡のお膳立てをしようと画策するも【二階崩れの変】によって大友義鑑が没しちゃいます☆家督を継いだ大友義鎮(後の宗麟)は自分を廃嫡しようとした入田氏を攻め立てました☆
追い込まれた親誠の父・入田親廉は小松尾城で自刃しちゃいます☆入田親誠は肥後の阿蘇氏を頼って落ちて行きますが、阿蘇氏は親誠を成敗して首を大友義鎮(後の宗麟)の元に届けました☆

入田親誠の子・入田義実は後に赦されて豊後に所領を得ますが、島津氏に内通して緩木城に立て籠もり結果、大友方に攻められました☆攻めらながらも豊後に島津軍を引き入れました、が…豊臣秀吉による九州征伐が始まると島津軍は撤退☆入田義実もまた薩摩へ逃れました☆

2021年04月01日 一寸榎肥後守
津賀牟礼城



津賀牟礼城は岡城の南約4㎞、緒方川と十角川の合流地点西側の標高346㍍の山にあります。比高は100㍍ほど。
東西の尾根上に細長い曲輪があり西側の広い曲輪が主郭で津賀牟礼城跡の看板があります。南側の尾根上にも曲輪があり比較的広い曲輪の先にでかい堀切、畝竪、土塁付きの曲輪があります。大分県下最大級の城域だそうです。

津賀牟礼城を本拠とした入田氏は大友氏の有力家臣でしたが義鎮の廃嫡運動に関わり大友二階崩れのあと戸次氏に追われ本城に籠るも入田親廉は切腹、子の親誠は舅の阿蘇惟豊を頼り肥後に逃れるも阿蘇によって討たれました。
薩摩軍の北進が本格化した頃親誠の子義実が大友義統に許されて旧領に復帰するも津賀牟礼城に入れなかったため義実は不満を抱き島津方への内応を申し入れる。
天正14年には島津義弘の本隊が肥後口から侵入、入田氏の内応により難なく周辺を制圧した島津軍は津賀牟礼城を包囲する。城方は戦わずして降伏開城。入田はついに念願の本領を奪還するも秀吉の九州平定が開始され薩摩軍が撤退を始めると志賀親次に攻められ島津とともに薩摩に逃亡しました。

城は広く執拗なまでに堀切で尾根線を切断してあり急な断崖上の城は難攻不落の印象でした。北側の曲輪はほぼ平坦で見学しやすいのですが南側の曲輪は荒れた竹藪ですのでそれなりの覚悟を。

2020年12月03日 一寸榎肥後守
烏岳城[津賀牟礼城  周辺城郭]



烏岳トンネル手前に案内板があります。ここから山へ。車は少し先に2~3台ほど駐車できるスペースがあります。登城路は先人様の口コミどうりほぼ登山道として整備されておりません。赤やピンクのテープを頼りに登ることになります。

落葉の積もった尾根道を直登します。登りはともかく降りはテープを見失うと違う尾根に降りてしまうので注意が必要です。常にGPSで自分の位置を確認しましょう。

2017年12月20日 カーネル
烏岳城[津賀牟礼城  周辺城郭]

webで調べても情報がないので、山頂から東北東方向へ700mほどに位置する道路から登る。ここのは、伐採作業用に森林が大きく切り開かれているので、すぐにわかると思います。

作業用の道を登りすぐにY字の分岐は直進し谷筋を登ると、トンネル上のピークと烏嶽からの尾根との鞍部に出る。鞍部に[烏嶽→]のオレンジの看板があるので右へ進み、この先で烏嶽から延びる尾根に取りつく。

ここから道はありませんが、尾根を登るだけです。またテープがたくさん巻かれていてありがたいです。ピークを2回超えるので、帰りは違う尾根に行かないように注意です。

尾根を直登することもあり、落ち葉が積もった傾斜はきつめです。ピークとピークの間は土橋と言うと言い過ぎかもしれないけど、狭い場所があり、北側が鋭角に落ちていて、人工的に作ったものだとしたら驚異です。頂上手前は広い曲輪があり、北側に大きな土塁があります。藪漕ぎもなく快適に歩いて往復1時間15分。

頂上には大分100名山の看板があり、帰ってから大分100名山で検索したら、丁寧な登山ルートを解説してるHPを見つけました。併せて参考にしてみてください 。

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