南山城
南山城([岡城 周辺城郭])
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南山城の口コミ情報
2022年04月11日 【猛】源九郎豊前守牛若丸
「日本城郭大系」によると、天正14(1586)年11月に、島津の将、新納武蔵守・梅北宮内左衛門尉の軍勢が南山城を攻撃したようです。
当時、南山城は志賀鑑隆(道運)が弟義親(道雪)・長子鎮隆と共に守っていたそうです。島津軍が稲葉川に沿って進撃するのを察知した鎮隆は、三千余の軍勢でこれを城外で迎え撃ったが、島津の大軍の前に次第に圧迫され屋形木山で鎮隆は自害し、部将五人、兵四百九十八人が戦死したとありました。
島津軍は一挙に南山城攻略にかかったものの、城中の将兵がよく防いだので薩摩軍は久住方面に退いたようです。
志賀道運は臼杵の大友宗麟や府内の大友義統に援軍を要請したが、薩摩軍がすでに臼杵と府内の入口にある鶴賀城に迫っていたため援軍を出せる状況ではなかったそうです。
天正14年12月上旬に薩摩軍は再び南山城を囲み、このとき一部の志賀軍は久住の吉野義綱の邸千把園にあったので、城中との連絡を遮断されたみたいです。そこで西法寺中納言、吉野の兵三百五十騎は、常楽寺に集結中の島津軍七百を攻撃してこれを後退させたが逆襲され敗れ、残兵二百で城中に入ろうとしたが、南山城に火の手が上がったので兵たちは思い思いに離散したとありました。
南山城攻撃の島津の本隊では、むやみに力攻めしても落城しないので、城中の将を懐柔して味方にすることとし、進忠房がまず内応し、荒巻信利・朝倉金隆・進守光らが続々降伏し、城中に火を放ったので、城兵同士が戦う羽目に陥り、悲惨な状況になったようです。
城主志賀道運は志賀重実・渡辺友綱・吉野義友に援護されて南山城の西北にある綱張城に逃れたが、重実・義友の二人は討死したそうです。
弟の義親は落城と共に常楽寺に逃れたようですが、部下の進忠房の軍に囲まれて自殺したとありました。