篠島城(しのじまじょう)

篠島城の基本情報

通称・別名

所在地

愛知県知多郡南知多町篠島字東山

旧国名

尾張国

分類・構造

丘城

天守構造

築城主

室賀秋季

築城年

南北朝時代前期

主な改修者

義良親王(後村上天皇)

主な城主

室賀氏

廃城年

遺構

曲輪

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

東条城(愛知県西尾市)[19.0km]
富貴城(愛知県知多郡)[19.0km]
形原城(愛知県蒲郡市)[20.5km]
西尾城(愛知県西尾市)[21.3km]
羽城(愛知県碧南市)[22.3km]
深溝城(愛知県額田郡)[23.7km]
田原城(愛知県田原市)[23.9km]
本證寺(愛知県安城市)[25.7km]
鳥羽城(三重県鳥羽市)[26.6km]
上ノ郷城(愛知県蒲郡市)[26.9km]

篠島城の解説文

篠島城は室賀秋季が築いたとされる城郭である。

その後、南北朝時代に南朝の義良親王がこの地に漂着し宿舎とした。親王がこの地を出た後、廃城となった。

現在、石碑はあるものの、明確な遺構を確認することはできない。

篠島城の口コミ情報

2026年09月09日 尾張守たまきち
尾張藩大井烽火台[篠島城  周辺城郭]



尾張藩大井烽火台は、幕末の1854年に尾張藩が知多半島に設置した、名古屋城へ緊急連絡を送るための狼煙台(のろしだい)の跡。

標高52mの丘陵上に、1853年の米艦浦賀来航がきっかけで設置され、師崎で異国船を発見した際、師崎からこの大井を経て布土→長尾山→亀崎→緒川→大高→熱田→名古屋城へ狼煙をリレー中継する手筈だった。実際に狼煙が使われた記録はなく、実戦で使用されることは一度もなかったとされている。

現地を訪問したところ、貴重な竈壁(かまどかべ)の基部(幅約3.5m、高さ約95cm、厚さ約50cm)の遺構が正方形に残っており、遺構保護用の囲いが設置されていました。炉跡の中心に烽火台の立面図が彫られた石碑と烽火台跡の石碑が立っています。愛知県で烽火台の遺構はここだけなので、一見の価値がありました。

2026年09月06日 尾張守たまきち
高木屋敷[篠島城  周辺城郭]



1600年頃、知多半島の大井に築かれた高木一吉の屋敷。
高木氏の始祖は高木判官信光と云われ、清秀に至って尾張国緒川城主:水野信元に仕えた。一吉は清秀の次男で、1561年緒川村で生まれ、清洲城主:松平忠吉に付属。1600年「関ヶ原の戦い」の後、1500石を得て知多郡大井村に在所屋敷を構え、その後代々尾張徳川家に仕えた。

現地を訪問したところ、利生院の南東辺りにあったとされる場所は住宅地に変わり、遺構はありませんでした。碑や解説板もありません。

2026年09月05日 尾張守たまきち
豊浜大城[篠島城  周辺城郭]



築城時期は不明。豊浜大城(とよはまでいしろ)は、伝承地であり、確証はない。城があったとされる字名は今でも[大城][汐見台]となっており、かつて城館などがあったと思わせる。

現地を訪問したところ、山上は台地状になっており、果樹園が広がっていました。須佐城の南東約1.5キロに位置し、海岸線沿いに師崎と内海を結ぶ道が通り、伊勢湾を一望できる事から、支城として砦や物見台などが築かれるには絶好の位置になっていました。遺構は無く、城跡碑や解説板もありません。

2026年08月30日 尾張守たまきち
須佐城[篠島城  周辺城郭]



築城年は不明。
平安時代後期における須佐為基の居城。治承・寿永の乱(源平合戦)の頃、源氏方に付いた須佐為基は、篠島城主の室賀秋季と共に源頼朝へと情報を流していた。のちに頼朝が平氏を倒して鎌倉幕府を開くと、この功績により須佐の地を所領として与えられたという。
永正年間(1504~20年)には、志摩国千賀浦から千賀氏が海を渡り知多半島に移ってきて、須佐城を手中に収めた。
その後、1542(天文11)年頃、千賀重親が大野城主・佐治氏の陣代として幡豆崎城へと移った際に須佐城は廃城となった。
千賀氏家老・川合氏の記録では須佐城は正衆寺の東方裏山あたりが城跡と言われているが、明確な位置は不明。なお、正衆寺は千賀氏の菩提寺である。

現地を訪問し、正衆寺から推定地である裏山を撮影。山の斜面に沿って墓地が広がっており、険しい山端となっていました。墓地の最上段まで登ってみましたが、それ以上の登り口は無く、遺構は判りませんでした。城跡碑や解説板もありません。

2026年08月23日 尾張守たまきち
山海城山城[篠島城  周辺城郭]



築城時期不明。
山海城山城(やまみしろやまじょう)は、『愛知県中世城館跡調査報告Ⅳ知多地区』によれば、岩屋寺の南にある標高102m,比高50mの城山山頂辺りにあったとのことですが、年代,城主ともに定かでは無く、詳細は不明。

現地を訪問したところ、登り道はありました。山頂付近には、曲輪の様な削平地や、堀跡の様な窪地がありましたが、明治以降、果実園に利用されていた時期があるとのことであり、城の遺構かどうかは判別できませんでした。

2026年08月22日 尾張守たまきち
岩屋寺[篠島城  寺社・史跡]



岩屋寺の「奥の院」の様子です。城洲城跡は、この裏手の崖上にあります。

2026年08月22日 尾張守たまきち
城洲城[篠島城  周辺城郭]



築城時期不明。
城洲城(じょうずじょう)は、標高68m、比高60mの丘陵上に在る城跡地。岩屋寺の東方に位置し、城洲という地名から城館の可能性を持つが、詳細は不明。現在は山林となり、平坦地と土塁、掘切が残る。

現地の岩屋寺を訪問しました。本殿から中の院へ進み、奥の院まで行くと、背後の崖上が城洲城跡となりますが、切り立った崖になっており、登城経路が分かりませんでした。土塁や堀切が確認されているとのことであり、反対側から回り込んでいく必要があるのかも知れません。奥の院には溜め池があり、水の確保は可能な城であったと思います。

2026年08月21日 尾張守たまきち
道城山城[篠島城  周辺城郭]



築城時期不明。
道城山城(どうじょうやまじょう)は、知多半島にある城館の伝承地。
天龍寺の北側が道城山であり、標高100m比高85mの丘陵上に位置しており、詳細は不明。

現地を訪問したところ、曲輪の様な削平された地形をいくつか確認することが出来ました。県道470号線から登って行く道があります。

2026年08月20日 尾張守たまきち
師崎砲台・師崎烽火台[篠島城  周辺城郭]



【師崎砲台】
1854(嘉永7)年、尾張藩が内海砲台と共に知多半島に設置した台場。知多半島先端部の標高40mの師崎林崎に築かれた。1850(嘉永3)年から舟奉行・千賀與八郎らが中心となり設置場所の検討が始まり、1854年1月に着工、約半年後に完成。備砲は西洋砲術に長けた尾張藩本丸詰物頭・上田仲敏が担当し、大砲は尾張藩御用鍛治の水野太郎左衛門が鋳造した。
【師崎烽火台】
1855(安政2)年、標高40mの丘陵端に置いた尾張藩の烽火台で、師崎砲台と同地に設置された。知多半島最南端の烽火台で、師崎で異国船を発見した場合、
師崎→大井→布土→長尾山→亀崎→緒川→大高と烽火を揚げ、最終的に熱田→名古屋城二之丸・評定所へ注進することになっていた。同時に早飛脚を走らせる為、大井→矢梨→河和→布土→大足→成岩→乙川→藤江→緒川→大府→大高→熱田に早飛脚継場も置かれた。

現地を訪問したところ、現在は林崎公園となっており、遺構はありませんでした。碑や解説板もありません。師崎港北隣りの師崎新港の西にあり、港に比べて10m程高く、三角に突き出た丘端となっています。この丘端が、幡豆崎と同じように東へ突き出たもう1つの岬であったようです。

2026年08月18日 尾張守たまきち
蜂屋城[篠島城  周辺城郭]



南北朝時代の1360年、南朝の勢力増強をはかるため大納言:四条隆資が、家臣:蜂屋修理亮光経をこの地に派遣。蜂屋光経は幡豆崎城に入り、その支城として蜂屋城を築いた。
標高64~77mの荒神山丘陵地にあり、蜂ヶ城とも呼ばれる。1392年、南北朝合一後に廃城。城主には佐治八郎為安の名もある。

現地を訪問し、城山の北東側の新町公園奥からアプローチしました。途中、コンクリートブロックの階段もありましたが、藪化は酷く、数十年以上利用されていない登山道の様子でした。縄張りもはっきりとせず、遺構も良く分かりませんでした。

2026年08月16日 尾張守たまきち
千賀屋敷[篠島城  周辺城郭]



慶長7年(1602年)千賀氏によって、廃城となっていた幡豆崎城の古材を利用して築かれた、別称∶千賀城とも呼ばれる城館跡。

千賀氏は伊予国河野氏の支流であり、南北朝時代以降、紀伊南岸沿いを東進し、志摩国千賀村に土着した水軍。越智氏を名乗っていたが、地名から千賀氏と改め、伊勢国司の北畠氏に従属した。千賀氏が知多へ来住した時期は定かではないが、1562年、千賀重親が家康より三河湾の固め及び御船奉行を命ぜられて幡豆崎城へ入った。1590年、小田原征伐の後、家康の関東移封に伴い、重親も相州三崎へ移住。1600年、関ヶ原の戦いの際、九鬼の軍船を知多より追い払うなどの働きにより、師崎・篠島・日間賀島・須佐村・片名村・乙方村内で1500石を得て、師崎に帰還。1602年、幡豆崎城を破却し、その古材を用いて字的場に千賀屋敷を築いた。1605年、知多郡は松平忠吉領になり、信親は忠吉に仕えて船奉行として清須へ勤め、重親は駿府へ勤めた。1614年、大坂冬の陣で大功をたて、三代貞信は尾張藩の船奉行として、納屋橋近くの堀川東岸に屋敷を構え、一族は明治まで続いた。

現地を訪問したところ、現在は宅地に変わり、遺構はありませんでした。住宅横に千賀家之碑が立っています。

2026年08月15日 尾張守たまきち
宗真寺[篠島城  寺社・史跡]



幡豆崎天神山城の登り口。裏手にある墓地の奥から、城跡である山頂に登って行けます。

2026年08月15日 尾張守たまきち
幡豆崎天神山城[篠島城  周辺城郭]



幡豆崎天神山城(はずさきてんじんやまじょう)は、標高約25メートルの丘陵に築かれた城跡。
室町時代から戦国時代にかけて河和城主の戸田宗光が守備した場所で、南側の明神山に幡豆崎城(羽豆城)を構えた大野城主の佐治氏と対峙・共有した「幡豆ヶ崎両陣」の歴史で知られ、北西の尾根にあたる天神山に戸田氏が本陣を置いた。

文明8年(1476年)、知多半島先端の要衝である幡豆ヶ崎を巡り、河和・富貴の戸田氏と大野城の佐治氏が争った末に、緒川城の水野信元の知多半島制圧時に、両氏とも水野氏と婚姻関係を結び、羽根豆崎の地は両者ともが陣代を置き、共同統治する事で決着を見た。

現地を訪問したところ、現在は山腹に宗真寺が建ち、山頂には天神社が祀られていました。宗真寺の墓地の奥から山頂へ登る道があり、削平された曲輪の地殻などが確認できました。

2026年08月13日 尾張守たまきち
羽豆神社[篠島城  寺社・史跡]



羽豆崎城址に鎮座する神社。境内には城跡碑と、加藤清正公が奉納した名古屋城の石垣材があります。

2026年08月13日 尾張守たまきち
羽豆崎城[篠島城  周辺城郭]



南北朝時代の1331年~1355年頃に熱田大宮司の千秋昌能によって築城。
地形を見ても解るように、陸地の繋がりよりも水運の要となる城で、熱田神宮の門前町にある熱田湊を掌握していた千秋氏にとって、知多半島の先端というのは非常に大事な場所だった。また、東西の連絡拠点という機能も持っていた。
南北朝末期には、一色氏が知多郡代として半島を掌握したが、応仁の乱で細川氏に敗れ没落。一色氏の一族にあたる大野城の佐治宗貞が幡豆崎城を支配下に収める事になった。
文明8年(1476年)田原城主の戸田宗光が河和城を手中にして羽豆崎に郡代を置き佐治氏と争うが、緒川城の水野信元の知多制圧の前に両氏とも水野氏との婚姻関係を結び、両氏の陣代を置く形で争いは決着した。
しかし、関ヶ原の合戦を経て、再び千賀重親が羽豆崎の地を得て千賀城を築いた際、羽豆崎城は廃城となり、古木は千賀屋敷に再利用され、尾張藩の御船奉行として代々徳川家に仕えた。

現地を訪問したところ、現在城址は羽豆神社となり、境内に城址碑が建てられていましたが、遺構は見当たりませんでした。城址からは、渥美半島と伊勢志摩まで一望できます。水軍の城であっただけに、居住と遠望が城の主な役割で、複雑な防御設備や大規模な土木工事は無かったと思われます。

2026年08月11日 尾張守たまきち
城ノ山砦[篠島城  周辺城郭]



築城時期不明。
江戸時代の地誌『張州雑志』の日間賀島「島国景」の図中に「城ノ山」として記載がある城趾。

現地を訪問しましたが、遺構はありませんでした。城跡碑や解説板もありません。
日間賀島の西港近くにあり、海を見渡せる立地なので、物見台の様な砦を設置するのに適した場所でした。

2026年07月14日 杉玉右京大夫
篠島城

港より徒歩10分。小高い山の上です。近くの民宿でランチ。牡蠣は注文してから海に取りに行ってもらいました。鯛、大アサリも最高!

2026年05月17日 美濃守はなてつ
篠島城



師崎港からフェリーに乗ってリア攻め。フェリー乗り場から15分くらいでした。

2026年02月14日 くろちび上野介
篠島城



篠島に名古屋城築城時の採石場を見に行きました。先人の方の写真を参考にさせて頂きました。
篠島へは知多半島道路で師先港まで行き、そこから高速フェリーで島まで10分。往復料金730円。高速フェリーは30分に1本の間隔で運航していましたが、天候によって変更があるとのことで、最終師先港帰着便の時間も含め出発前に確認したほうがいいと思います。
冬はオフシーズンなのか、島内の飲食店はどこも閉店でした。鯛、シラス料理が名物だそうですが、リサーチ不足でその機会に恵まれませんでした。島での足ですが、山坂の狭い道が多いので、徒歩一択が無難だと思います。採石場は篠島小中学校のグラウンド脇の篠島小学校という表札がついた石門を通って森に入り、浜に降りた所です。土手に手書きの案内があります。
篠島の採石場は加藤清正が採石したところです。1609年1月家康が9男義直のために名古屋城築城を決め、西国、九州の諸大名に助役を命じ、2月を工事開始としました。築城には秀吉恩顧の大名の勢力を削ぐ目的があったそうです。20名の大名の仕事は石採集、土居建造、石垣築造。6月に根石置き工事を開始し、昼夜徹して延べ20万人動員で、同じ年の12月には工事が完了したそうです。
加藤清正は自ら天守台の石垣担当を希望し、篠島の石をそうそうに確保しました。12才で秀吉に仕えるまで尾張津島の叔母の家で育ったので、篠島の石の存在を知っていたのかもしれません。
石を切りだしたのはちょうど今頃の2月。篠島は室町時代から伊勢国の神域であったために採石は禁じられていましたが、その事情をどのようにクリアしたのかわかりません。
因みに、他の大名の採石地は蜂須賀氏の岐阜県海津(河戸石-砂岩)、愛知県西尾の幡豆石(花こう閃緑石)、細川氏の唐津(天山石)、浅野氏の兵庫県高砂市生石(おいしこ-竜山石凝灰岩)、前田氏の小牧市岩崎山(花こう岩)。小豆島(花こう岩)では加賀前田氏、細川氏、清正も採石したそうです。
(石垣には花こう岩が多く使われますが、その花こう岩は日本列島を九州から関東までを二分する大断層=中央構造線の中の領家変成帯で採集できるそうなので、採石場はその範囲内にあることが多いです。中央構造線上に神社が多い話はよくききますが、採石場域に神社があることも多いです。篠島はその領家変成帯にあるので閃緑花こう岩。面白いのは目と鼻の先にある日間賀島は地質の異なる三波川変成帯にあるので砂岩、泥岩、頁岩=シェール。篠島の名物は鯛(岩礁生活)、日間賀島はタコ(底生生活)なので、地質の違いで漁場の性格が違ってくるのでしょうか。)
ところで清正は朝鮮攻めで朝鮮の石塁築城法を習得した石垣専門集団穴太衆の牧田覚兵衛を抱えていました。牧田氏は一番重要な角石を置くときに技術を盗まれないように幕をひいて周囲にみられないようにしたといいます。
清正が、熱田の浜で陸揚げした石を運んだときの石曳きはかなり派手だったそうで、前を歩く小姓たちは前髪に銀糸を巻いた茶筅を左右にたらし、色染め刺繍の振り袖、紫色の皮足袋、裾狭の袴姿。清正は鯰の尾の兜に陣羽織を着て、首には大きな数珠、身長190センチなのでその姿はかなり怪異だったように感じます。石は青色の毛せんで包み、大縄小縄をかけ、数百人が木遣り唄を歌いながら曳いたそうです。今のパレードですね。
(名古屋物語-朝日新聞社、特別史跡名古屋城-名古屋市振興協会、南知多誌資料編2-南知多誌編纂委員会編、加藤清正のすべて-新人物往来社、名古屋城物語-名古屋市)

2025年10月19日 松平長七郎宮内大輔長頼
延命寺[篠島城  寺社・史跡]

1558年(永禄元年)に開山された曹洞宗寺院で、千賀水軍・千賀家の菩提寺でもある。また、大坂の陣の際に千賀水軍が豊臣方の御座船を奪取し洛中洛外図屏風と、ある姫を持ち帰ったとされ、姫は寺で世話をする事にしたが自害し果てたと伝わる。持ち帰ったとされる屏風(作者不明)は現在でも所有しており、レプリカが常時展示されている。尚、お寺の方にお声がけすれば本物を見せてくれるという。

2025年10月17日 松平長七郎宮内大輔長頼
法華寺[篠島城  寺社・史跡]

1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い前哨戦の際に、九鬼水軍が来襲し焼失したと伝わる。(尾張国知多郡誌より)

2025年07月29日 征夷大将軍たろす
大石さま〈名古屋城築城の残念石〉[篠島城  寺社・史跡]



【大石さま〈名古屋城築城の残念石〉】

【所在地】
◆愛知県知多郡南知多町豊浜

【由来】※現地説明板より
◆人も寝しずまった真夜中、この石にぽっかり灯がともることがありました。 浜の漁師たちは「神様が石の上でお休みになっている。」といって、手を合わせてうやうやしく拝んだということでした。神様は、前方の山腹に祀られています。土御前の神様で、村中の安全を守るため真夜中にぐるっと村を一回リされ、途中この石で一休みなさるのです。お休み中は自然に灯がともり、村人はこの石を「大石さま」と呼んで、汚さないようにとっても大切に守ってきました。
 この話は、私が子供のころ文久(1861~3)生まれの孫じいさんから聞いた話です。  飯田六一さんの話より
◆この石は、ここの真下(刈藻浦)の海中にありましたが、埋め立ての時地上に仮安置され、平成13年9月ここに遷されました。

【加藤清正・名古屋城築城の石】※現地説明板より
◆1610年(慶長15)名古屋城の石垣を築くために、普請大名である加藤清正やほとんどの大名が、篠島や幡豆地方に石を求めました。
 名古屋・熱田の富の浜まで運ぶ途中のことです。須佐の港(現豊浜港)に大風を避けて避難した際と考えられますが、図らずも石を落としてしまいました。落とした石は落城に通じると嫌われ、再び船に積むことはありませんでした。
 この大石さまには正面からの穴が6個、左側から2個、後方から3個あけられています。石を切り取るためにあけた穴を矢穴といいますが、よく見ると穴の大きさは築城時のものです。石質を見ると篠島か幡豆の石に違いありません。

【補足】
◆この石自体、いつ頃引き揚げられたのかは不明です🤔
先日、豊浜の鯛まつり(画像④)に参加した際に偶然見つけたのですが、隣村のおいらは当然記憶はなかったのですが、地元の他の同級生に聞いても「こんなのあったっけ?」てな感じでした…😅
ただ、案内板からも年代を感じますので、以前別の場所にあったものが移設されたのかもしれませんね🙂
いずれにせよ、篠島や蒲郡・幡豆の海岸には今も矢穴石が残っていますが、こんなところにもお城に縁ある遺物があったことに驚きと感動を覚えた次第です🥰

【アクセス】
◆車の場合
短時間であればリア攻めマップに登録されている「大石さま〈名古屋城築城の残念石〉」の直近に路駐しても大丈夫です。(地元民いわく…😅)
また、「豊浜魚ひろば」の駐車場に停めさせていただくのも良いかと。その代わり、新鮮採れたての海鮮丼や刺身などのお食事や魚貝類、干物、せんべいなどをお土産にお買い上げ下さいませ🤗
◆公共交通機関
名鉄名古屋駅から河和駅または内海駅まで特急電車で約50分。河和駅から海っ子バスで約30分、または、内海駅から海っ子バスで約20分、豊浜魚ひろば下車🙂

◆グーグルマップにも登録されてませんでしたので、後ほど登録しとこかな🤭

2025年05月24日 彦千代渡島守
篠島城

篠島には車の駐車場・便数の絡みから師崎からが多いですが、今回は名鉄河和線河和駅から歩いて約7分河和港から高速船使用約35分でした、篠島フェリー乗り場前に7つの矢穴が有る築城石が展示されていますが必見です、島内移動手段にレンタサイクルも有りますが島内は起伏も有り細かい場所に行くなら徒歩も有りです、島内を右回り中手島・北山公園経由にて篠島城址(水神天宮)に小高い丘城です余り遺構は無く福郭らしきものは?暗い樹林帯の中の主郭で展望は有りませんが、水神宮に三神の御朱印が有ります、サンサンビーチは気持ち良い海岸ですし キラキラ展望台からの眺望は良いです、清正の枕石に向かいましたが海岸線ルートは波の影響も有り足場も悪く、小学校の運動場はじを通っての山越えルートにて、良くぞこんな所から先人の苦労が偲ばれます、最後は帝井に今も昔も島の井戸は貴重ですよね 今は金魚が泳いでいました、一周3時間の行程でした。

2024年12月27日 佐渡守天天丸
篠島城



篠島渡船ターミナルからレンタサイクルで出発。海岸線は気持ち良いですが、途中から結構な坂道!! 自転車引いて上がったので、腕も足もキツかった。 篠小東山グランドに止めて、そこから48段の階段。しばらく歩くと到着です☆この高さから海を見守っていたと思うと、感慨深いですね。

2024年08月10日 気分爽快土佐守
篠島城



篠島に渡ったついでに立ち寄りました。三河湾入口の監視所ぐらいにはなりそうですが、南北朝時代に廃城とのことで、城らしき遺構はないようです。

①海から城のある小山を眺める
②削平地への登り道
③削平地手前
④⑤⑥⑦削平地を色々な方向から

2024年04月01日 征夷大将軍たろす
名古屋城築城時の石切場[篠島城  寺社・史跡]



【名古屋城築城時の石切場】
◆愛知県知多郡南知多町篠島

◆概要
・名古屋城は、慶長15年(1610)に石垣の工事が始まりました。 加藤清正は、自ら申し出て天守閣と小天守の石垣を築城しました。清正は、幕府より依頼され、名古屋城の築城普請をしました。 また、20名の惣大将をつとめました。
・篠島で太陽暦の4月~6月に採石され、7月には天守閣の石垣の基礎となる隅石が置かれています。篠島の海岸線のいたるところや、まわりの島まで採石跡地が見つかりました。石は船により海上輸送され、熱田神宮の南側から西側の海岸、熱田の宮の浜へ陸揚げされたと考え られています。
・採石されたが、何かの理由で運ばれず残された石が、現在全島の中に32箇所、197個の矢穴(慶長時代)のついた石が確認されています。
・矢穴とは、石を切り出すために開ける長細い穴で、石を割った跡に残る、鬼の歯形のように思える穴のことです。慶長の矢穴は10~12㎝の長さです。
・赤色に表示された海岸線から、慶長期時代の採石地跡が確認されています。(8枚目の写真の地図参照)
〈篠島港に展示されている石材説明板より引用(篠島まちづくり会)〉

◆感想
写真の石は全て「清正の枕石」のある島の南西の出っ張り部分周辺の石です。
ガッツリ矢穴残る石もあれば、波に洗われて僅かに矢穴の面影が残る石もあれば、矢穴に貝がビッシリの石まで、様々な石が残ります。
それらの石をワクワクしながら探し回るのも楽しみの一つですね♪

※ただし、海岸沿いの岩場ですので、潮の干満によっては水没する場所もあります。矢穴探しに没頭して戻れなくなるかもしれませんので、潮位表で干潮時間を確認しておくと良いと思います。
何よりも足元は非常に滑りやすいので、決して無理はしない事!お仲間がいれば良いですが、単独で滑ったり落水してケガしてもこんな所に助けてくれる人はいませんよ〜

2024年03月31日 征夷大将軍たろす
清正の枕石[篠島城  寺社・史跡]



【清正の枕石】
◆愛知県知多郡南知多町篠島
◆「徳川家康が名古屋城を築く際、加藤清正が篠島の西南端に石垣にちょうどよい石を発見し、枕を入れて運び出そうとしたが、あまりの大きさにどうしても船に積み出すことが出来ずこれを断念したと伝えられています。この篠島花崗岩の大割石は今でも篠島に現存しており、今では「清正の枕石」と呼ばれています。石のサイズは5.2m×2m、厚さは1.8mにもおよび歴史ファンの撮影スポットとしても親しまれています。」
〈「篠島観光ガイドぐるっと篠島」篠島まちづくり会制作サイトより〉
http://shinojima-matsuri.jp/sp/detail/spot06.html
◆感想
スマホ片手にGoogleMAPに登録された地点を目指し海岸沿いの岩場に歩を進め※、途中矢穴を見つけてはニヤニヤしながらさらに登録地点を目指す…
が、事前勉強が足りなくて「どれが清正の枕石やねん?」と探し回る。
このアプリで「清正の枕石」と紹介された矢穴残る大岩?でも地点違うし?
で、現場で色々ググって「これか〜」と答え合わせ。
感想もそのまま「これか〜」って感じです^⁠_⁠^;⁠)
でも周りに残る矢穴達を探す楽しみも含め散策してはいかがでしょうか?

※GoogleMAPを頼りに5枚目写真の左側の道で早々に海岸に出てしまったので足場の悪い岩場を歩きましたが(満潮時は多分海中?)、5枚目写真の右側を進み小学校の敷地内?をしばらく進み6枚目写真のバックネット横くらいから山中に伸びる遊歩道を行くと潮の干満に関係なく安全に辿り着くことができます

※ポイントは先人が設定したものですが、ここよりもほんの少し北になるかな?

2024年02月18日 松平長七郎宮内大輔長頼
正衆寺[篠島城  寺社・史跡]

曹洞宗のお寺で、源氏の御家人・須細為基公の保護を受け、1191年(建久2年)には源頼朝公から寺領を寄進され、隆盛をきわめた。
また、尾張藩船奉行の千賀重親公が自家の菩提寺とする。
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い前哨戦の際、九鬼水軍来襲し焼失したと伝わる。(尾張国知多郡誌より)

2024年02月18日 松平長七郎宮内大輔長頼
岩屋寺[篠島城  寺社・史跡]

尾張高野山宗の総本山のお寺で、1804年~1818年(文化年間)に尾張藩10代藩主・徳川斉朝公の依頼により、天台宗の密教僧である豪潮律師によって再興されたとの事。(Wikipedia参照)
また、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い前哨戦の際に九鬼水軍が来襲し焼失したと伝わる。(尾張国知多郡誌より)

2024年02月18日 松平長七郎宮内大輔長頼
性慶院[篠島城  寺社・史跡]

真言宗豊山派のお寺で、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いの後、高木清秀公の次男一吉公がこの地の地頭となり、以降高木家の庇護を受けることになった。境内には高木家11代の墓がある。(Wikipedia参照)

2024年02月18日 松平長七郎宮内大輔長頼
正法寺[篠島城  寺社・史跡]

天台宗のお寺で、1233年(天福元年)に比叡山の徹円阿闍梨が、源義朝公の家臣で野間で義朝公とともに舅である長田忠致公に殺害された鎌田政清公を供養するため建立したとの事。また、寺がある場所は鎌田政清の居城跡であり、本尊の毘沙門天像は政清の念持物と伝わる。(Wikipedia参照)

2024年02月18日 松平長七郎宮内大輔長頼
医徳院[篠島城  寺社・史跡]

真言宗豊山派のお寺で、1582年(天正10年)、本能寺の変により徳川家康公が岡崎へ戻る途中、ここで一泊して武運長久を祈願しているという。(Wikipedia参照)

2024年02月18日 松平長七郎宮内大輔長頼
正法禅寺[篠島城  寺社・史跡]

曹洞宗のお寺で、中興の仙鱗等膳が駿河国の駿府で修行していた際、今川義元公の人質だった徳川家康公を闇に紛れて連れ出し、篠島で70日間世話したという伝承が残っているとの事。(Wikipedia参照)

2022年11月06日 松平長七郎宮内大輔長頼
蜂屋城[篠島城  周辺城郭]

構造・丘城
築城主・蜂屋光経
築城年・1360年 (正平5年)
廃城年・不明
主な城主・蜂屋光経
遺構・無し
住所・愛知県知多郡南知多町師崎西新町32

2022年03月21日 くろちゃん弾正忠
羽豆崎城[篠島城  周辺城郭]



SKE48 3rdシングルカップリング曲羽豆岬のpvロケ地として訪れました。同地は、島へ渡る港もありぜひ訪れてくださいね。

2021年06月06日 みの山城神虎大権現
篠島城



知多半島の先端にある師崎から高速船🛥️で約10分程で ここ篠島に到着します。
降りてから南へ10分も歩けば 旧篠島小学校の東の小山に 城址 があります。
墓地の横手から登り 山上の削平地が城跡とされ いろいろな神様が祭られており 篠島城の石碑もあります。
遺構は僅かに残る土塁跡?位しか確認出来ませんでした。

今度は 清正の枕石を目指します。
義良親王(後の後村上天皇)が漂着された伊勢ヶ浜 を左手に見ながら20分程歩きます。
現在の中学校と小学校の左手の丘を越えると 加藤清正公が 名古屋城築城時に採石地として選んだとされる岩場に着きます。
満潮時や波が荒れているときは 危険なので 干潮時の波が穏やかな時に しっかりとした靴や運動靴で来られたほうが 良いかと思います。
清正の枕石は 見ての通り 楔の跡がしっかりと残っていて 近くの岩にも ちらほら 楔の跡が見られます。
直ぐ近くの森の中にも石切り場があり そこにも楔跡が残る大きな岩があるので 時間が許される方は そちらも見てください。
が くれぐれも 波が高く 潮位が高い時には海岸線沿いでの移動は止めてくださいね。

私はついでに 知多四国88箇所(弘法さん)参り🙏も兼ねて訪れていたので(篠島には3ヶ所あります)残りの離島 日間賀島(1ヶ所)に移動してから師崎に戻ります。

篠島 日間賀島 では 🐙タコ 🐡フグ が有名で 食べて行きたい所ですが 時間がある時にゆっくりとまた来てみたい所でした。


2019年04月30日 内蔵助ポチコ
篠島城



主曲輪だったと思われる山頂は地元のパワースポットになっていました。島の周囲に全88体置かれている地蔵の第1番がここにあります。

2019年01月09日 あ〜夏休みの征夷大将軍クララ姫
篠島城

【犬連れ宿泊情報】
城下の篠島なら『南風』さん、日間賀島なら『たかせ』さんなど。師崎港のパーキングに車を駐車しジェット船に乗って行けば旅行気分も↑↑です。島ならではの時間の流れ方を是非!

篠島城の周辺スポット情報

 羽豆崎城(周辺城郭)

 和名城(周辺城郭)

 日出台場(周辺城郭)

 幡豆崎天神山城(周辺城郭)

 蜂屋城(周辺城郭)

 天神山城(周辺城郭)

 尾張藩大井烽火台(周辺城郭)

 千賀屋敷(周辺城郭)

 山海城山城(周辺城郭)

 豊浜大城(周辺城郭)

 道城山城(周辺城郭)

 須佐城(周辺城郭)

 城ノ山砦(周辺城郭)

 鎌田屋敷(周辺城郭)

 豊丘大城(周辺城郭)

 城洲城(周辺城郭)

 高木屋敷(周辺城郭)

 師崎砲台・師崎烽火台(周辺城郭)

 清正の枕石(寺社・史跡)

 加藤清正 名古屋城築城の石(寺社・史跡)

 天神山遺跡(寺社・史跡)

 佐久島古代製塩遺跡(寺社・史跡)

 羽豆神社(寺社・史跡)

 塩屋遺跡(寺社・史跡)

 正法禅寺(寺社・史跡)

 医徳院(寺社・史跡)

 正法寺(寺社・史跡)

 性慶院(寺社・史跡)

 岩屋寺(寺社・史跡)

 正衆寺(寺社・史跡)

 延命寺(寺社・史跡)

 宗真寺(寺社・史跡)

 西方寺(寺社・史跡)

 名古屋城築城時の石切場(寺社・史跡)

 大石さま〈名古屋城築城の残念石〉(寺社・史跡)

 法華寺(寺社・史跡)

 師崎港駐車場 (平面駐車場)(駐車場)

 師崎港立体駐車場(駐車場)

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