鎌田城(かまだじょう)

鎌田城の基本情報

通称・別名

所在地

静岡県伊東市鎌田

旧国名

伊豆国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

不明

築城年

明応2年(1493)頃

主な改修者

主な城主

伊東氏、鎌田氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀

指定文化財

市史跡(鎌田城跡)

再建造物

碑、説明板

周辺の城

網代城(静岡県熱海市)[11.8km]
狩野城(静岡県伊豆市)[13.7km]
韮山代官所(静岡県伊豆の国市)[16.7km]
韮山城(静岡県伊豆の国市)[16.9km]
長浜城(静岡県沼津市)[19.4km]
戸倉城(静岡県駿東郡)[23.8km]
土肥城(神奈川県足柄下郡)[24.1km]
泉頭城(静岡県駿東郡)[24.5km]
山中城(静岡県三島市)[25.3km]
沼津城(静岡県沼津市)[26.6km]

鎌田城の口コミ情報

2025年09月29日 マグロ常陸介祐平
伊東館[鎌田城  周辺城郭]



市長問題で話題の伊東市役所の敷地内の物見塚公園と、市役所北側の佛現寺が伊東氏館の伝承地となります。物見塚公園の石碑には、平安時代末期に藤原南家工藤氏が住みつき、鎌倉時代をへて戦国時代末期まで伊東氏はこの地と関わりがあり、伊東家館跡の伝承地は幾つかあるとしています。

鎌倉時代には、日向に所領を得ますが、伊東の地を本領として居住し続け、室町時代に入り観応の擾乱で直義方に付き、伊東の本領を失ったようです。その後、九州に移らず留まった一族からは南朝方から北朝方に移り、駿河や甲斐に所領を持つなどし、北条早雲に仕えたことから、駿河や甲斐の所領は失いますが、先祖の地伊東に復帰しています。氏政の偏諱を受けた伊東政世は、所領役帳によると小田原や厚木の所領を含め230貫、伊東での所領は市役所付近ではなく、競輪場付近をメインに70貫でした。御馬廻衆の為、小田原に在住していたかもしれません。政世の系統は、江戸時代になると300石の旗本として存続しています。

物見塚公園には石碑の他、伊東祐親の騎馬像などがあり(写真1~4枚目)、それらしさを感じますが、今は見られない塚自体は古墳のようです。公園も佛現寺も同一の台地の縁部にあり(写真5,6枚目)、要害性を感じられる場所ではあります。館から南西に300m程に伊東祐親の墓(写真7枚目)、さらに150m程にある東林寺には祐親の子の河津祐泰とその子曽我兄弟の首塚(写真8枚目)があります。また、音無神社に隣接する最誓寺には、東林寺から移された一族の墓があります。最誓寺から南東に150m程の住宅地も、伊東氏館の候補地となっています。

2025年09月28日 マグロ常陸介祐平
玖須美館[鎌田城  周辺城郭]



伊東八郎左衛門尉朝高の館と伝わります。館跡には朝高は、鎌倉幕府の命により伊東に流されていた日蓮の監視役を務めていたが、奇病にかかってしまい、家老の織部正清が川奈の岩屋から日蓮を館に移し、祈祷すると治癒したとされます。朝高の死後、館の一部に堂宇を建てたのが現在も続く佛光寺です。墓域には朝高の墓と家老織部正清の墓(後世のもの)が並んでいます。八郎左衛門尉朝高の名は伊東氏の系図で確認出来ませんが、日蓮の書簡に「伊東の八郎ざえもん、今はしなののかみげんにしにたりしを」とあることから、伊東祐時の6男で当主となった信濃守祐光(日向伊東氏の先祖でもある)と朝高は同一人物の可能性が高いものと思われます(論創社のサイト参照)。祐光が居住していた館ということであれば、平安末期から鎌倉時代にかけての伊東氏の館だったのかもしれません。

館は台地の麓に位置しており、現状遺構らしきは見当たりませんが、雰囲気としては、谷戸式に近い古いタイプの居館のように感じられます。源頼朝が預けられて伊東氏の娘の八重姫と恋に落ちたのは、この館かもしれません。

2025年09月27日 マグロ常陸介祐平
宇佐美館[鎌田城  周辺城郭]



工藤祐継の子の祐茂が宇佐美荘を引き継ぎ、宇佐美を名乗ることに始まります。兄は曽我兄弟に仇討ちされた工藤祐経です。源頼朝が挙兵すると、祐茂は従いますが、同時期に平姓の宇佐美氏(和田合戦以降資料に現れない)も従っており、この地には2つの系統の宇佐美氏が存在したようです。鎌倉時代は御家人として祐政・祐泰が検非違使に任じられ、室町時代になると鎌倉公方に従っていたようです。戦国時代に入り15世紀の後半頃に今残る宇佐美城の縄張りが整えられますが、明応2年(1493年)北条早雲が茶々丸を討った際に宇佐美城も落城し、宇佐美定興は討死、宇佐美氏の主力は滅亡しています。お城の存在した期間は僅かだったようです(案内板年表より)。また、上杉謙信の軍師宇佐美定満は、こちらの宇佐美氏の一族とされています。

海岸に面した小高い岡が城址となります。近年まで解放されていたようですが、現在はキャンプ場となり、利用者以外はたち入れません。キャンプ場の入口には、石碑や年表付きの説明板が設置されています(写真1~3枚目)。縄張りは、山頂部を本丸として二の丸、三の丸と三段の構造のようです(写真4枚目は遠景)。また、江戸時代に名主として山裾に屋敷を構えていた杉山氏は、宇佐美氏の子孫との伝承を持ち、屋敷が宇佐美氏の居館で、お城は詰めの城だったようです。

伊豆は石切場が多い場所で、宇佐美の地も石切が行われていました。宇佐美の海岸からは江戸城に使用される石を載せた石船が、行き来したようです(写真5,6枚目)。

2025年02月16日 烏山s#s正成
鎌田城



道に迷う可能性が高いので、事前に良く調べて行くことをお勧めします。

2025年01月03日 気分爽快権中納言
鎌田城



攻略マップを見ると下田城までかなり距離がありましたが、途中良さげな山城があり立ち寄りました。
奥野ダム駐車場に車を停め南側から登城です。最初はゴロゴロ石がある沢伝いの道ですが、途中からハイキングコースになり案内板もありますのでリア攻めマップと合わせれば迷うことはないと思います(私は登山地図アプリを併用してます)。
沢伝いなので雨上がり後の登城は危ないと思います。

①城跡の入口
②見所の三重堀切
③主郭北の郭。この先から伊東の市街を望む
④主郭の土塁
⑤城跡東にある土橋のような地形
⑥⑤横の堀
⑦⑥近くにある竪堀
⑧城跡北東の横堀

2024年11月26日 左衛門佐マサ
鎌田城

なかなかハードなリア攻めとなりました。先人の方の投稿を参考に登りましたが、遺構らしきものも見当たらず、不安になる様な感じでした。これまでのリア攻めで1.2を争うくらいの大変でした。ぜひ皆さんも挑戦なさってくださいー

2024年11月25日 はっちゃん
鎌田城

ものすごいわかりにくい入口でした。民家の脇を入ったところでほとんど補整されていない山道でぬかるみもありとかなり苦労しました💦これぞリア攻めの城です笑

2023年10月14日 巨福呂伊豆守充瑠
鎌田城



伊勢新九郎盛時の伊豆攻めの際に落とされた城らしい。
誰の居城だったかもあやふや…

土塁だったと思われる物や、堀切のような気がするものだったり…
曲輪だった平地が所々にある。
 
道はハイキングコースとして開かれているが、舗装や柵などはまったく無い。
沢沿いに登る場所もあり、雨後などは特に注意を、ぬかるみ多数。

2023年02月10日 ᴿᴱᴰ 副将軍
鎌田城



連続堀切に横堀が見所の後北条氏による改修と考えられる城跡🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

1189年に鎌田俊長により築かれたと云われます。
鎌田氏は、源義朝の家臣であり平治の乱で敗れたあと、平家討伐に備える為に鎌田城を築いたとされ、古くからの鎌倉御家人でした。
1493年には伊勢新九郎(北条早雲)が堀越御所を攻め寄せて足利茶々丸を滅ぼすと、この地を支配していた伊東氏が伊勢新九郎の伊豆侵攻に備えて整備したと云われます。
1590年の豊臣秀吉の小田原攻めの際には、下田城と小田原城の中間地点にあたる海路と陸路の要衝であり、後北条氏により改修されたと考えられ、それが現在の遺構と思われます。

見所
標高318mの山頂に築かれており、四方に伸びた尾根筋をそれぞれ堀切で遮断されています。
北西の尾根は土橋がかかる三重堀切が配され、主郭東側は横堀が巡ります。
小規模ですがなかなか楽しめる城跡です。

源頼朝と八重姫との間に生まれた千鶴丸が沈められたと伝わる稚児ヶ淵も近くにありますので鎌倉殿の13人が好きな方は立ち寄ってください。

善児と一緒に川遊びをいたしましょう

2022年01月27日 笑門来猫
伊東館[鎌田城  周辺城郭]



伊東氏の本拠地の1つで、現在は市役所に隣接した物見塚公園となっています。伊豆に配流された源頼朝を預かった伊東祐親の像があります。

2021年12月29日 涼丸
鎌田城



6時15分、まだ薄暗く登山道に石がごろごろしてるのでリア攻め断念。猪も出没するし、怖いから撤退!笑。代わりに今はお寺になってる網代城に変更。ちょっとお邪魔して車に乗ったままリア攻め。だって時間ないんだもん。とりあえず鎌田のハイキングコースの説明板は発見。次は昼間にしよう。でも入り口からすでに荒れてるからちゃんと登れるか心配ではある。

2019年06月24日 龍馬太閤【懸り乱れ龍】
鎌田城



霧煙る鎌田城☆主郭・北西側の(奥)郭と郭間を遮断する堀切&土橋☆堀切土橋を渡ると食違い虎口☆縦斜面に沿う土塁は坂虎口となり敵の勢いを削ぐ☆

2019年06月24日 龍馬太閤【懸り乱れ龍】
鎌田城



五郭下・空堀☆深さは8m☆この城の見所☆元々は豪族鎌田氏の城だったが後に城主・朝倉氏へ☆織田信長により朝倉氏が滅亡した後関東に放浪して北条氏に仕える☆伊豆衆の一員として鎌田を領する☆

2018年08月05日 こうひろ☽
鎌田城

車の場合、奥野ダム駐車場からうなぎ屋横を沢伝いに登って行きます。雨の翌日だったので水量がかなり多く、歩くのが大変でした。途中に名も無い滝がありますが帰りの楽しみにしましょう。炭焼釜跡を過ぎると普通のハイキングコースです。
尾根伝い鉄塔を過ぎたら城域で重ね馬出と横堀竪堀が組み合う大手口は技巧的でとても面白いです。城外・城内両方や堀側から様々な角度で楽しんで下さい。
城内は帯曲輪脇の大堀切と本曲輪奥の土塁・虎口もよく残っています。西段曲輪からは松川湖と大室山頂上の景色付き。
ただ龍爪神社は怖さも感じるので簡易的でもいいから直してあげて欲しい。
伊勢新九郎盛時が攻めたとされる伊豆国衆の城は山城好きでなくても楽しめます。韮山の伝堀越御所跡や若き日の運慶作国宝仏像と茶々丸の墓がある願成就院、韮山城とゆかりの史跡と一緒に訪れるのがオススメです。

2016年12月31日 カーネル
鎌田城

車なら南西の松川湖からがいいようですが、歩きの人は北東からが便利です

伊豆急行線の南伊東駅から線路沿いを、道なりに南下し、川沿いの大通りにでたら右折

すぐに大通りと別れて道は細くなりますが、その先で大通りと再び交差します。大通りを横断して、そのまま川沿いを進む
川が大きく左に湾曲してるところに鎌田城ハイキングコースの案内が民家の塀にかかってます
登山口まで20分

登山道は広くキレイに整備されていて、直登を強いることもない、快適な道でした
松川湖からの道と合流した後は尾根を進むと、遠くからもわかる規模の尾根を断ち切る2つの堀
その先の本丸直下にも堀と土塁があります。これは本丸の西側の堀になり、南東や東にも堀が巡らされてます
駅から本丸まで.1時間、見学時間と下山で1時間。計2時間楽しめました


2016年06月15日 オリオリ
鎌田城

松川湖側から登るなら、松川湖の駐車場を利用すると良いでしょう。
約40分の登山です。
前半は沢に沿って登るため、雨後の増水時は登れません。

鎌田城の周辺スポット情報

 北端部?の堀切(遺構・復元物)

 三重の堀切(遺構・復元物)

 展望台(郭6跡)(遺構・復元物)

 (遺構・復元物)

 炭焼釜跡(遺構・復元物)

 虎口(遺構・復元物)

 曲輪(遺構・復元物)

 登城ルート説明看板(碑・説明板)

 宇佐美館跡石碑(碑・説明板)

 金鉱跡(碑・説明板)

 伊東館(周辺城郭)

 宇佐美館(周辺城郭)

 玖須美館(周辺城郭)

 富戸崎台場(周辺城郭)

 川奈崎台場(周辺城郭)

 伊東祐親の墓(寺社・史跡)

 富戸石丁場群(寺社・史跡)

 伊東家墓所(寺社・史跡)

 河津祐泰墓所(寺社・史跡)

 曽我祐成•時致兄弟墓所(寺社・史跡)

 元禄地震津波供養塔•仏現寺(寺社・史跡)

 元禄地震津波供養塔•行蓮寺(寺社・史跡)

 元禄地震津波供養塔•恵鏡院(寺社・史跡)

 伊東朝高及び綾部正清墓所(寺社・史跡)

 東海館(寺社・史跡)

 奥野ダム駐車場(駐車場)

 伊東東郷記念館(関連施設)

 伊東市文化財管理センター(関連施設)

 ハイキングコース入口(その他)

 標識(その他)

 湧水(その他)

 分岐点(その他)

 案内標識(その他)

 登城口(その他)

 分岐点(その他)

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