勝沼氏館(かつぬましやかた)

勝沼氏館の基本情報

通称・別名

所在地

山梨県甲州市勝沼町勝沼

旧国名

甲斐国

分類・構造

連郭式平城

天守構造

不明

築城主

勝沼信友

築城年

永正17年(1520)頃

主な改修者

勝沼氏

主な城主

勝沼氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁、横堀(空堀)

指定文化財

国史跡(勝沼氏館跡)

再建造物

模擬橋、模擬門、石碑、説明板

周辺の城

連方屋敷(山梨県山梨市)[4.5km]
於曾屋敷(山梨県甲州市)[4.8km]
八田家御朱印屋敷(山梨県笛吹市)[8.3km]
小山城(山梨県笛吹市)[8.3km]
浄古寺城(山梨県山梨市)[9.8km]
小田野城(山梨県山梨市)[10.6km]
御坂城(山梨県南都留郡)[11.7km]
要害山城(山梨県甲府市)[13.0km]
勝山城(山梨県甲府市)[13.9km]
躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)[14.3km]

勝沼氏館の解説文

勝沼氏館(かつぬましやかた)は、山梨県甲州市(旧東山梨郡勝沼町字御所)にあった戦国時代の館(日本の城)跡である。1981年(昭和56年)5月28日、国の史跡に指定されている。

立地と歴史的景観 

旧勝沼町域を東西に貫流する日川右岸の急崖である河岸段丘上に立地する。標高は418メートル。

勝沼氏は甲斐武田氏家臣で親族衆。甲斐守護武田信虎の弟である信友にはじまる家系。勝沼氏館は甲府盆地東端に位置し、小山田氏の領する郡内領の目付として、また峡東地方の支配を任されていた。館跡も甲州道中に面し郡内へも近く、峡東を一望できる位置にある。

発掘調査と検出遺構・出土遺物 

1973年(昭和48年)に県立ワインセンターの建設候補地として調査が行われ、館跡の発見により内郭部が全面保存となり、1977年にかけて行われた7次の発掘調査によりほぼ全容が解明された。

館は主郭部と外郭部から構成され、主郭部は東西90m、南北60mで、北側と東側に内堀が見られる。生活遺構が多く、礎石のある建物址が23棟ある。縁石を用いて構築された水路址は幅30cmと45cmのものがあり、井戸と推定される水溜址と連結している。門址は土塁を利用したコの字形で、新旧の2時期があり、礎石があることから上屋が存在していたとも考えられている。また、無遺構部分から広場址、庭石から庭園状遺構、ピットに焼土が充満した小鍛冶施設を伴う工房遺構なども見つかっている。

出土遺物では、煤の付着から灯明用と考えられている土師質土器や、瀬戸美濃産灰釉皿、天目茶碗、中国産の青磁や白磁、染付などの陶磁器類をはじめ、鉄砲玉や刀装具などの武具類、金箸や金槌、毛抜き、茶臼、金属製農具や硯などの日用品、六器台皿などの宗教用具まで幅広く出土している。

また、館跡周辺には加賀屋敷や奥屋敷などの地名も残っていたが、館跡の発掘調査により周辺の街路や町割など旧跡の実態も明らかとなった。

金熔融物付着土器の発見 

勝沼氏館跡では外郭部に鍛冶遺構が検出されていたが、内郭部にも小鍛冶施設を伴う土間建築遺構が検出されており、周溝と水溜も伴っている。外郭部と別の鍛冶施設の用途は不明であったが、2009年には小鍛冶遺構出土土器の調査において金粒や重元素が付着した土器(熔融物付着土器)が検出され、勝沼氏館内部において金の精錬・加工が行われていた可能性が想定された。

黒川金山や湯之奥金山では鉛を用いた灰吹法による精錬が行われているが、山梨県立博物館では蛍光X線透析撮影による勝沼氏館跡出土の熔融物付着土器と黒川金山や中山金山出土の熔融物付着土器との比較を行い、勝沼氏館跡出土の熔融物付着土器には金粒以外で鉛が少なくビスマスが特に多い傾向が認められ、これは黒川金山出土の熔融物付着土器と共通することが判明した。

この結果から、勝沼氏館跡では近接する黒川金山から金鉱石が搬出され、精錬・加工が行われていた可能性が指摘されている。

また、勝沼氏館と日川を挟んで対岸に位置する勝沼町上岩崎の福寺遺跡からは戦国期の蛭藻金・碁石金20点と大量の埋蔵銭貨が出土している。

情報提供:甲州市教育委員会文化財課


勝沼氏館の口コミ情報

2024年06月12日 千葉相模守早雲
勝沼氏館



武田信虎の弟の勝沼信友がこの地を拠点に勝沼衆を束ねていたようです。
発掘調査の結果、館の中枢部分の内郭には、礎石建物群、石積水路、水溜、門、広場跡があり、東郭には掘立柱建物群、水路、廃棄土坑を備えた工房群があったと考えられているそうです。

信虎の躑躅ヶ崎館といい、信友の勝沼氏館といい、城を持たずに館とするあたり、守るのではなく、外に向かって攻めていく心持ちの表れの様な気がします。

1.東郭土塁。
2.東郭の水路跡。
3.東郭の掘立柱建物群。
4.内郭土塁と空堀①
5.内郭土塁と空堀②
6.当時は木橋がかかっていた模様。内郭からの出口。
7.内郭。礎石建物群や石積水路跡。
8.内郭の堀。

2024年05月23日 内記かずりヾ(・ε・。)
土屋惣蔵片手切り[勝沼氏館  寺社・史跡]



さて、おいらは大の武田贔屓、理由なんか特に無い。歴史に興味の無かった小さな頃からそうだったんだと思う。好きな武将は秋山虎繁、真田昌幸、馬場信春、依田信蕃…全てが武田繋がりだったりもする。そんなおいらが最後の武田家臣と後世名高い土屋昌恒最期の地を訪ねてみた。

土屋惣蔵片手切は勝沼氏館の東方約7.3km、日川東岸(左岸)、標高1042mの山稜山頂から北東へ伸びる尾根末端部、標高約843mの崖地上古道で行われた戦いの跡です。甲州征伐のクライマックス、武田勝頼一行自害の時間を稼ぐために家臣の土屋昌恒が孤軍奮闘した場所として特に有名だ。崖地に設けられた狭い山道に立ちはだかり、転落しないように藤蔓を掴んで向かって来る敵方を片手で斬りまくった事からそう呼ばれる。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は周辺の日川渓谷レジャーセンターの駐車場がよいだろう。このセンター内には別に武田勝頼に纏わる伝承地があったりもする。又、該地は山梨県道218号、大菩薩初鹿野線沿いに位置する。土日祝日は結構車が通るので路駐だけは遠慮しとこう。

主人公の土屋正恒は弘治二年(西暦1556年)の生まれ、軍中使番、金丸筑前守の子、幼名が惣蔵である。永禄十一年(西暦1568年)の宇津房合戦を十三歳で初陣し、今川方の岡部貞綱の家臣を討ち取ったとされる。形式上の儀式で終わらなかったところを考えると結構なやんちゃだったみたいだ。ちなみに後に武田氏の海賊衆に名を連ねる貞綱は昌恒を養嗣子に迎え、永禄十三年(西暦1570年)頃には信玄から土屋姓を与えられている。昌恒が土屋を姓とするのはそれが理由である。

天正三年(西暦1575年)三月二十一日の「長篠の戦い」において、実兄の土屋昌続、養父の貞綱が討死した事から、養父の家督と昌続の家督を合わせて継いだ。伝えるところによれば、武田勢によるアプリの登録城、上州の膳城攻めに際して、武具を身に付けずに先陣を切り、同城の大手門に攻め懸かったのはこの昌恒である。謂わゆる有名な「素肌攻め」だが、後先顧みず勢いに任せて猪突猛進するところを考えると結構血の気も多い人物だったみたいだ。

該地は日川に流れ込む大蔵沢に落ち込む崖地だったとされるが、現在は県道が整備された事によりその面影は無い。又、往時の道筋も失われており、正確に何処が片手切の場所なのかは現地に赴いてもやっばし判然としない。おいらは現在の舗装道路よりやや上段が該地だったと思うのだが…

県道沿いには石碑が建ち、隣りには説明板が立っている。この説明板には大正三年(西暦1914年)時の秀逸な写真が添付されており、往時に近いと思われる崖地の道筋がよく理解出来る。例えるならば狭い穴の中で二匹の鼠が喧嘩するようなもの、勇気に優る方が勝つ。死を覚悟した昌恒には近寄る事さえ難しかったろう。

該地付近を流れる日川は三日血川の別名を持つ。昌恒が千人を斬ってその血が日川に流れ込み、川の水が朱色に染まって三日の間、その色を変えなかった伝承に由来する。が、人間の血液量は体重に比して概ねで十三分の一の量、現在よりも遥かに水量が多かったであろう日川の流れを三日間に亘って朱色に染めるには一体何立方メートルの血液が必要になってくるのであろうか…体重60kgの人間を千人斬ったとしても、その血液量は4.6t、僅かに4.6㎥…おっと、これ以上は語るまい。武田二十四将の後裔を中心に結成された闇の実行部隊、「風林火山a.k.a.御旗楯無」に狙われてしまう…ついでに皆さんにも忠告しておこう、おいらと同じような疑問を抱いた方は、駅のホームの端っこなんかを今後不用意に歩かない事だ。

※没落した子孫が多い武田氏家臣団の中にあって昌恒の子孫は十分に成功したと言える。昌恒の子、忠直は徳川秀忠の近習を経て上総久留里藩初代藩主となり、忠直の次男、数直は分知されて常陸土浦藩を立藩した。土浦藩の方は明治維新まで存続、先祖の功徳だろうか。

※写真③は大蔵沢から見上げた該地付近、雰囲気て事で…

※大蔵沢の流れが涼しかった。付近には取水口が設けられている。

2024年05月21日 内記かずりヾ(・ε・。)
有馬晴信謫居の跡[勝沼氏館  寺社・史跡]



ドン・プロタジオ!敬虔なクリスチャンならキリシタン大名、有馬晴信の事は当然、御存知でしょ〜おいらも当たり前のように知ってたけど実家は真言宗…ちなみに最近、菩提寺の若い住職が、「もしかしたらこの寺は臨済宗かもしれない…」てまさかな事を言い出した。廃仏毀釈の煽りを受けて各方面から色んな宗派の御本尊が集まってごちゃまぜになってしまっている事が原因らしいんだけど、今度檀家料を徴収に来たらぽかすか叩いてやろうかなと思っている。

有馬晴信謫居の跡は勝沼氏館の東南東約5.8km、日川北岸(右岸)、標高約669mの河岸台地上平場に立地した謫居の跡です。該地は甲州征伐のクライマックスで天目山を目指した武田勝頼の一行が進んだ日川の谷筋に位置する。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は己れの持つ器量で何とかしよう。

今回の放浪のメインは武田勝頼に纏わる物件を訪ねる事だったんだけど、現地でGMSGしてたらヒットしたんでついでにリア攻めしてみた。暑くなるこりからの季節、肩の力を抜きまくった史跡廻りは最高だぜ〜気候も丁度良いしね。あ、GMSG…「Googleマップで史跡してGO♪」の事っすわ。

まず、「謫居」て何ぞや?て思いません?「たっきょ」て読むんすけど、聞いた事無い言葉だったんでググッてみる事に…それによると、「流罪になって、その地に住むこと。」なんだそう。謹慎を命ぜられる「蟄居」とは別物て訳だ。使用頻度は無いに等しいのでワンタイムオンリーの知識として脳内処理しよう。ちなみにこの物件、過去には城めぐのクイズの題材にも選ばれた事がある。

有馬晴信は、天正十二年(西暦1584年)三月二十四日に発生した、あの「沖田畷の戦い」の当事者の一人、合戦は島津四兄弟のチート級武将、家久と組んで肥前の熊、龍造寺隆信を討ち取った戦いとして特に有名だ。この頃には馬にも乗れないぐらいに肥満していたらしいけど、ルイス・フロイスに、「細心の注意と配慮、決断はカエサルの迅速さと知恵でも企てられないように思えた。」て評価された隆信の討死によって九州の勢力図は一気に塗り替えられる。

説明すんのが面倒なんであらゆるもんをすっ飛ばすけど、日野江藩主の晴信は慶長十七年(西暦1612年)三月二十二日、「岡本大八事件」に連座して甲斐国内に家臣三十五名と共に流罪となった。同年五月六日、幕府の検使役、板倉周防守重宗は人数百五十人を揃えて自刃を迫るが、切支丹である事を理由にこれを拒否、晴信は家臣の梶左ェ門に命じて自らを斬首させその生涯に幕を下ろす。

僅かな期間とはいえ幕府から謫居を命ぜられた「甲斐国内」が甲斐国都留郡初鹿野村の該地に当たる。肥前の港町から遠い山国の甲斐へ流罪となってその死を迎えた訳だ。おいらは数年前に晴信の居城、日野江城を訪ねた事があるんだけど、その時は晴信の流罪先が甲斐国内だったとは知る由もなかった。

謫居跡には小祠が鎮座するが、江戸時代後期には晴信の命日に合わせて丸岡藩有馬家から家臣が正装して謫居跡を守ってきた有賀家に進物を携えて訪れていたりもしたんだそう。四百周年に当たる平成二十四年(西暦2012年)以降は、毎年ミサ形式の法要が執り行われているらしい。粋な計らいにリスペクト、泉下の晴信もさぞかし喜んでいるだろう。ドン・ジョアン!

※当初はキリスト教を嫌悪していたらしい。後には敬虔な信者となり、熱心に布教活動を援助したりもするが、それ故に小さな大友宗麟の側面も持つ。浦上をイエズス会に寄進したのも彼である。

※説明すんのが面倒〜「岡本大八事件」はそれこそ一冊の本に纏める事が出来るぐらいに情報量が多い。興味があったらググッてね。

※ 謫居時に初鹿野村を知行したのは徳川大納言忠長の家老、鳥居土佐守成次であり、晴信の身柄はこの成次に預けられていた形になる。

※謫居跡は現在の甲州街道沿いに位置するが往時の街道(古甲州街道)とは道筋が異なる。

2023年11月27日 ペスカトーレ
勝沼氏館



武田氏の配下武将がおさめていた屋敷跡です。建物は残っていませんが、内郭は館跡が整備されています。ダイナミックな土塁や掘りは見応えが有ります。少し離れた所に、見学者用駐車場が有ります。

2023年01月05日 左近衛少将軍曹
旭山城[勝沼氏館  周辺城郭]



室町時代の寄進状に城山と記される山城。城域は広範囲に亘り、一部に石積みあり。ももの里温泉の南に登山道入口あり。道は明瞭で1時間程度で山頂へ。

2022年10月12日 今川党山県右兵衛尉ニャン八
勝沼氏館



周囲を深く広い堀に囲まれた巨大な館です。周囲の観光もよく、時間潰しには良いと思います。ほとんどのところが整備されて、保存状態も良いので良い館だと思います

2022年09月20日 気分爽快豊後守
勝沼氏館



勝手に選んだ山梨で訪れたい10の城の1城。深い堀には圧倒されました。

2022年08月06日 陸奥守新九郎
勝沼氏館



早くに整備が行われた館跡です。
経年による変化がわかるので、今後の城館整備のよいお手本です。

2022年05月16日 ️
武田勝頼公腰掛石[勝沼氏館  碑・説明板]



甲州崩れに関連するスポットです🤔近隣に点在する鞍懸🏇や血洗沢🩸は紛うことなき😅マユツ◯👅スポットですが、この石🪨には不思議なことに武田菱◇のような模様が浮かび上がっており、「勝頼はこの地で何を思っていたのか🤔」と想いを馳せてしまいます😌

新府城を落ち延びた勝頼一行は3月4日に笹子峠の手前の駒飼宿まで歩を進め🚶‍♂️、この地で小山田信茂からの使者を待ちます💢…が、5日経った3月9日にやってきた信茂の従兄弟・小山田行村は「翌朝(10日)、信茂自身が勝頼公をお迎えに伺います」と口上を述べるも、翌朝にはその行村本人と信茂の母👵が姿を消していました

駒飼で立ち往生⛔️していた空白の6日間の間に織田軍に府中(甲府)を占領⚔されており、結果的にこの「待ち」の判断により勝頼自身の進退が窮まっていくことになります🥺せめて2、3日の滞在で転進↩️していれば、天目山栖雲寺卍まで辿り着いて、御先祖・信満公の墓前で従容として自刃することもできたかもしれませんね🥺

〜以下、現地標柱より〜

武田勝頼公腰掛石

武田勝頼公一行が鶴瀬・駒飼郷に滞陣のおり、この石🪨に腰掛け🧎‍♂️敵や周囲の動静を伺っていた🙄所と云われています

2022年05月16日 ️
鞍懸[勝沼氏館  碑・説明板]



甲州崩れに関連するいわゆるマ◯ツバ👅スポットです🥳長坂釣閑は「甲陽軍艦」では甲府で処刑😱と、「信長公記」では天目山で勝頼に殉じた🥺と記載されています

さて、「武田三代軍記」では、長坂釣閑はどうなったか❓🤔と言うと…見事に追撃を振り払って逃げ切っています🏇💨2008年4月に撮影した画像だと、木製の白い標柱が擁壁に立て掛けられて瀕死の状態でしたが、久しぶりに訪問してみると作り替えられた標柱も藪🌿に飲み込まれそうで、マユ◯バ👅スポットとは言え残念な状態でした😩

〜以下、現地標柱(2008年4月の画像から判読)より〜

鞍懸

この地は、逃亡🏇💨する長坂釣閑が土屋惣蔵に追われ、落ちた鞍が路傍の桜の木🌸にかかっていた所と言われています

2022年05月16日 ️
血洗沢[勝沼氏館  碑・説明板]



甲州崩れに関連するいわゆるマユ◯バ👅スポットです🥳跡部大炊助は「甲陽軍艦」では諏訪で死亡😔と、「信長公記」では天目山で勝頼に殉じた🥺と記載されています

では、何故こんなスポットがあるのか❓🤔というと、「武田三代軍記」では逃亡🏃‍♂️💨説を採っているからです😅信じるか信じないかはあなた次第です👆ちなみに、現状では沢はありません🤣

〜以下、現地標柱より〜

血洗沢

この地は土屋惣蔵が逃亡🏃‍♂️💨した跡部大炊助を追尾して斬り、この沢で血痕🩸を洗い流したと云われています😱

2021年03月16日 銀猫甲斐守美和♬
笹子峠(旧甲州街道)[勝沼氏館  その他]



歴史の道の笹子峠は、笹子隧道の真上に位置し、現在でも古くからの形を留めています。

麓から、かなりの高低差があり、甲州街道随一の難所とされ、かつての物流の担い手であった、歩荷・牛方さんは、大変苦労されたと思います。その先人達が踏み締めた道は、大きくV字にウトウが刻まれています。
(pic1_中央甲府向き)
(pic2_郡内側)

また、ここは甲州征伐の折、勝頼公が新府城から退去して、岩殿城へ移動しようとした際に、小山田信茂によって封鎖・拒絶され、戻らざるを得なくなった悲痛な場所でもあります。
(pic3_郡内向き勝頼公視点)

武田氏末期においては、木曽氏、穴山氏、小山田氏が代表格として離反していますが、三氏の決定的な違いは、調略による内通か、単純に裏切りかによります。
勝頼公を拒絶することによって、郡内地域に織田軍を侵攻させない目論見があったのかもしれないですが、理由がどうであれ、最終局面において、勝頼公に弓を引いた小山田氏の印象が、良いはずはありません。事実、木曽氏・穴山氏は所領を安堵され、小山田氏は処刑されています。

徒歩で旧甲州街道の大月市黒野田宿から、矢立の杉・笹子峠を通り、甲州市駒飼宿まで抜けようとすると、約4時間程の行程になります。もし歩かれる場合は、旧街道アプリかマップを用意されると便利です。
*なるべく、未舗装の旧道を歩かれることを推奨。先人達が感じた雰囲気に浸るのも一興ですよ。水分も忘れずに。
(pic4_杉・pic5_道標・pic7・8_道中)

笹子駅側のスタート地点・駐車場は、県道212号入口にある、天野記念公園が便利です。トイレもあります。

また、矢立の杉・笹子峠&笹子隧道に車で直接行かれる場合は、それぞれに駐車スペースがあります。(pic6_隧道)
*笹子隧道のある県道212号線は、冬季は4月末まで通行止めですので、ご注意ください。

最後に、甲斐大和地域は、勝頼公に所縁のある史跡が数々ありますので、合わせて歴史探訪されるのもよいかもしれません。
*現代では、景徳院からお坊山を経由して、笹子峠へ直接抜けることもできますよ。

以上、史跡巡りに際し、参考になれば幸いです。

2021年03月01日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
大蔵原思案石[勝沼氏館  寺社・史跡]



大蔵原思案石(勝頼公思案石)は武田勝頼公が進退窮まった際に腰かけていた石といわれていて、武田勝頼公は、織田・徳川両軍の進撃により、天正10年(1582年)3月10日天目山方面を目指して大蔵原まで来たところ、謀叛を起した小山田信茂の軍勢は、早くも郡内の真木から小金沢を経て、この付近の峰に構えているとの情報を得た、また、武田の浪人辻弥兵衛の一隊が、勝沼の深沢口より山越しに迂回し、天目山栖雲寺を経て、この先の枕坂山上に陣を敷き要撃する構えがあるのを知り、進路を全く塞がれた、この時武田勝頼公は、路傍の石に腰を掛けしばらく思慮していたが、この付近で戦うには地の利がないことを悟り、意を決して再び田野に引き返したと言われていて、武田勝頼公が腰を掛けた石には、武田菱に似た条紋が浮いているとの事でしたが、信用していた、譜代家老衆の小山田信茂の裏切りはどんなに悔しかったかと勝頼公心中を思い暫し石を見ていましたが武田菱状の条紋確認出来ませんでした、場所は日川渓谷レジャーセンター内のバンガローが建ち並ぶ所にある、テニスコートの横にひっそりと思案石が有ります、見学用の駐車場は無いようでしたので、日川渓谷レジャーセンターに入る坂道に車を寄せて停めさせて頂き徒歩にて散策しました!
(案内板より)

2021年03月01日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
土屋惣蔵片手切り[勝沼氏館  寺社・史跡]



天正10年(1582年)3月3日入城まもない新府城に日を放ち岩殿城を目指した武田勝頼公一族は武田家譜代家老衆岩殿城主の小山田信茂の謀叛により笹子峠でその進路を阻まれた3月10日それまで逗留していた笹子峠の麓の駒郷を後にした勝頼公は少なくなってしまった家臣を従え狭谷沿いに田野の郷に入った、そして3月11日天目山栖雲寺にむかうが織田・徳川連合軍に行く手を阻まれ大蔵沢の地にて勝頼公は路傍の石に腰掛けて思慮し田野の郷に引き返す事とするが敵兵が迫って来たので、♪八田の里に花とえば香煙かおる、刀塚武田の忠臣ここにありともども語るいさしおは、土屋惣蔵片手斬り武田三代六十三年愁風遂到天目山、主君よ姫よ若殿よご案じあるな諏訪法性念じてかざす太刀風土屋惣蔵片手斬り返り血あびて岩に立つ土屋惣蔵片手斬り♪(春日八郎さんの歌より抜粋)土屋惣蔵昌恒はもっとも狭い崖の道筋にて、左手に藤の蔓、右手に刀を持って迫り来る敵兵を切っては谷川に蹴落としたと伝えられ惣蔵に切られた武士たちの血で3日間も朱に染まり、三日血川と呼ばれ自然の楯のようなこの場所で寄せ来る敵兵を防ぎ沢山の人を片手斬った事からこの場所が土屋惣蔵片手千人切りと言われていて、土屋惣蔵昌恒の活躍奮闘により武田勝頼公主従は田野の郷まで戻り景徳院の境内にて従容として自刃したと伝わっているようです、最後まで勝頼公に従い、主君を守り抜いた武田家最後の忠臣土屋惣蔵昌恒の勇姿を思い浮かべながら、下に流れる日川の流れを眺めました!
駐車場は有りません、石碑の前の道路はカーブなので路駐は危険です⚠️日川渓谷レジャーセンターの入り口付近に車を寄せて停めさせて頂き、徒歩にて石碑まで行きました!
(案内板より)

2021年03月01日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
姫ケ淵[勝沼氏館  寺社・史跡]



天正10年(1582年)3月11日武田勝頼公の一族は、織田、徳川の連合軍の攻撃を受け激戦の末家臣と共に悲惨な最期をとげ、新羅三郎義光公以来甲斐の守護として連綿と続いた武田源氏はその歴史を閉じた、その時勝頼公夫人北条氏の侍女16人は若い生命を日川の淵に身を投じて殉死したと伝承され、後世の者はこの淵を姫ヶ淵と言い伝えているとの事ですが現在の日川は上流で発電用水として取水しているみたいで水量が少なく此処がかって淵だったとは思えません、石碑と案内板は市営景徳院駐車場の片隅に有ります、この石碑は北条夫人を含めた17名を表現したもので、侍女らを顕彰し慰霊するものとの事でした、日川の流れは澄んでいて、この場所で悲劇が起きた事を教えてくれるのは石碑と案内板が有ればこそでした!
(案内板より)


2021年03月01日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
景徳院[勝沼氏館  寺社・史跡]



景徳院は武田家終焉の地です、徳川家康の命により建立された寺で、境内には武田信勝公が世継ぎの儀式を行った場所とされる旗竪松(言い伝えによると織田軍に追われていた勝頼公は、世子の信勝公が元服(鎧着の式)を済ませていなかったことから、急いで陣中にあった楯無の鎧を着せ、擐甲の礼(世継ぎの儀式)を行いました、その際重宝旗を大松の根元に立てたといわれる)、武田勝頼公親子が自刃した生害石、お墓、勝頼公親子の遺骸を埋葬した場所、首洗い池(勝頼公、信勝公父子の首を洗ったとされる場所)、武田慕情歌碑があり、景徳院の諸堂は焼失してしまったが、山門のみが火災を免れ当時のままの姿を残しているとの事で、現存する山門は歴史を見続けて来たのかなと思いながら静かな境内を歩いているいると境内に有る、武田慕情歌碑の詩が心をつかみ♪夕日に染まる甲斐の山こだます鐘に春おぼろ、戦いくれたつわものの、大和ごころを知るように舞い散る花は山桜(苔むす森に蝉しぐれ、夢うたかたのまぼろしか、しずかに眠る勝頼の無念の涙を惜しむよに、天目山の夜半の雨、山狭深くせせらぎは紅葉をうつす流れ帯、人馬のひびき歴史は過ぎ、田野の河原に月の影、武田の里は 今しずか)色々と感慨無量の想いでした!
(案内板、富士の国やまなし観光ネットHP武田慕情歌詞等より)

2021年03月01日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
鳥居畑古戦場の碑[勝沼氏館  碑・説明板]



天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走つづける勝頼公の一行がようやく笹子峠の麓駒飼についた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り城主小山田信成が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦をする事に決め付き従う者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒43人等、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の里に入った、其時かねて侫人の讒言により主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞ふた、勝頼はあっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であったと直ちにこれを許した、その夜天目山の頂きは残雪を残して寒気きびしかったが主従はこの地で朝を迎えた、3月11日田野の夜がすっかり明けやらぬ払暁、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押しよせて来た、 織田、徳川軍の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約4千である、勝頼公は己の命運のつきたことを知ると、16才の嫡子信勝を招き 新羅三郎以来武田家に相伝された小桜韋威鎧楯無の鎧を着せてカン甲の式を挙げた、駒場口より攻め寄せる織田、徳川軍の先鋒隊滝川一益、河尻鎮吉の軍勢4000に対し武田勢の秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳友信、土屋昌恒等(説明板の文章だと土屋昌恒の名前が出てきますが、この日土屋昌恒は大蔵原で小山田信茂の軍勢と戦って討ち死にしたはずなので解釈に困りました)100人に満たさる小勢を以てこれを迎え撃ち、撃退する事数度この間に田野の勝頼公一行は従容死を決するを得せしむ現在の景徳院の境内に有る、生害石、甲将殿直前に3枚の扁平なる石有り、勝頼公、北条夫人、世子信勝公の生害せし処、山雲月を掩ふて夜色自ら惨たりと史書はこの時の様子を伝える此処が武田家滅亡最後の激戦地、多勢に無勢と武田方に利なく全員討ち死にとなった場所で、地名の鳥居畑は近く鎮座する田野の産士神として祀られる氷川神社への参道入り口で一の鳥居のあったところから名付けられたとの事でした、この場所も駐車場が有りません、近くに有る橋の袂に車一台が路駐出来るスペースは有りますがあまりお勧め出来ません、四郎作古戦場の石碑の前から鳥居畑古戦場まで約150m位でしたので景色を楽しみまながら歩いて来ましたが、川風が心地良くこの激戦地に春が近くまで来ているなと思いました(鳥居畑古戦場説明板大和村文化財抜粋)

2021年03月01日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
四郎作古戦場の碑[勝沼氏館  碑・説明板]



四郎作古戦場は天目山の戦いの甲州道駒飼口からの最前線で武田勝頼公に最後まで忠義を貫いた、小宮山内膳友信が奮戦した場所です、小宮山内膳友信は武田の重臣小宮山丹後守昌友の長男として武田氏に仕え諸国への使い番12人衆の1人に数えられ 武田軍政に重きをなしていたが天正3年の長篠合戦以後小宮山内膳友信はその折々、軍のため率直に意見を述べたので、重臣たちはこれを快しとせず理非をわきまえずにこれを否定し遂にざん言により主君の勘気を被り蟄居を命ぜられ幽閉の身となったが、天正10年3月11日(1582年)に武田勝頼は多くの重臣たちに離反され、残った一族 と共にこの付近に於て最後の決戦をする運命に陥ったので、小宮山内膳友信は主君の危急を知り決戦の前夜一行に追い付き友信が譜代の臣でありながら、武田家最後の戦いに臨めなかったなら小宮山家末代までの恥辱であり武士道にも背くゆえ蟄居の許しを請い最期の戦いに御盾となり高思の万分の一にも報いたいと言上した、勝頼は、あっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であったと直ちにこれを許し、小宮山内膳友信は勇躍戦いの最前線であるこの地に陣を敷き寄せ来る敵と奮戦数刻の末 従容として主君に殉じた(この文章から小宮山内膳友信はこの地で討ち死にしたように解釈しますが、鳥居畑古戦場の説明板に小宮山内膳友信の名前が出てきますので、小宮山内膳友信は鳥居畑の地まで退いて討ち死にしたと考えました)戦いの直後奇しくも小宮山内膳友信の弟僧の拈橋がこの地を訪れ殉死した一族の霊を弔い小宮山内膳友信には忠叟道節居士の法名を贈った後に水戸藩の儒者藤田東湖は文天祥の正気の歌に和して或殉天目山 幽囚不忘君と詠み崇高な 至誠を貫いた内膳の忠節義烈を称したとの事でした、説明文を読みながら、武田家譜代の家臣の多くが勝頼公を裏切たのに勝頼公に最後の最後まで忠義を貫いた小宮山内膳友信の勇姿を思い浮かべたこの場所は静かでした!
(注意‼駐車場は有りません、自己責任で石碑の前に駐車させて頂きました!)
(説明板等より)

2021年03月01日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
武田勝頼公銅像[勝沼氏館  その他]



甲斐の山々と甲府の街並みを懐かしんで古府中を見据える、勝頼公の銅像と案内板が有るだけですが、東屋の中にベンチが有りますので小休憩には良いかと思います、銅像の有る場所は、JR中央本線甲斐大和駅前ロータリーに有ります、駐車場は有りません、そしてロータリー内はバスが通りますので駐車禁止になっていましたので線路脇の道が少し広いので付近の住民の方に迷惑をかけないように、自己責任で路駐する事にしました、武田家終焉の地の散策の途中で時間が有りましたら立ち寄ってみてください!

2021年02月22日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
柏尾古戦場碑・説明板[勝沼氏館  碑・説明板]



柏尾古戦場は、武田家滅亡から286年後の明治元年(1868年)3月6日近藤勇が率いるかっての新撰組、會津藩兵からなる幕府軍の甲陽鎮撫隊と板垣退助が率いる因幡、土佐、高遠藩兵の官軍がこの地にて戦った、幕府軍は官軍を迎え撃ったがあえなく官軍に敗れ敗退したと伝わる古戦場で、現在は近藤勇の銅像と説明板が有ります、また、真向かいに近藤勇が大砲二門を据え本陣とした、大善寺東神願鳥居跡、そして旧甲州道中にあたる柏尾坂が有り坂道を下りながら、柏尾戦争、柏尾橋の説明板を読み周りの風景を楽しみました!
駐車場は有りません、銅像と説明板が有る所は交差点なので路駐は危険です、某は交差点より少し登った所に自己責任で路駐しました
😅
先達殿の投稿写真にクチコミと写真を投稿させて頂きました
m(_ _)m
(案内板等より)

2021年02月22日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
尾崎神社[勝沼氏館  寺社・史跡]



甲州街道の柏尾信号を勝沼氏館跡方向に進むと左側にワイン民宿鈴木園が有ります尾崎神社には駐車場が無いので某は鈴木園の前に路駐しました(駐車は自己責任で)、右手の坂道をちょっと登ると石の階段が右手に見えますのでそこを登った所に尾崎神社が有ります、尾崎神社は勝沼氏館の鬼門の北東に位置し、勝沼氏館の鬼門鎮守だったといわれていて、国指定勝沼氏館跡の一部の飛び地になっています、ちょっとわかりにくい所に有りました、説明板は無く小さな神社の社殿が有るだけですが勝沼氏館の見学の前に時間が有りましたら立ち寄ってみてください!
先達の方のスポットに投稿写真とクチコミを入れましたm(_ _)m
(史跡勝沼氏館跡案内板 外郭部発掘調査報告書より)


2021年02月21日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
トイレ[勝沼氏館  トイレ]

先達様の投稿写真にクチコミを入れさて頂きました北門に有るトイレは綺麗で便座が暖かかった☺

2020年11月08日 さあさ上総介甲相駿三国同盟
勝沼氏館

館跡となっておりますが、壮大な規模、深い空堀はまさに城です。
武田氏の重臣であった勝沼氏の往時の権勢を垣間見ることができます。
また、東郭には家臣の屋敷も復元されています。
本丸からは付近の様子が一望できます。

2020年06月27日 北条中務大輔氏光
勝沼氏館



ぶどう畑に囲まれている隠れ名城といっても良い城郭でした!
内郭と外郭が今でも保存されており、内郭は深い掘と、高い土塁、また石垣?も残っています。保存状態も良く、整備もされているため見やすく、建物跡の場所には分かりやすいように看板や赤やオレンジの砂利がひいてあるなどの工夫があります。 
外郭も水路跡や土塁、堀などが残されています。
100名城に匹敵する城郭でした!

駐車場も完備されており、リーフレットもありました。山梨にいく機会があれば是非お立ち寄りください!

2019年09月15日 まさある甲斐守
史跡勝沼氏館跡駐車場[勝沼氏館  駐車場]

上行寺の交差点、向い側にあります。駐車場案内板が道から見て、少し奥に有り分かり辛いです。無料。7台くらい駐車出来ると思います。

2019年05月31日 愛甲太閤【相模の狂人】
勝沼氏館



周囲の土塁や堀は小さな館跡にしては大きめで、中世末期の武士団同士の叩き合いの激しさを物語る。季節によっては整備された館跡も草深くなる。

2019年05月26日 愛甲太閤【相模の狂人】
東門木橋[勝沼氏館  遺構・復元物]



館跡の東側に伸びる空堀の南端、日川に落ちる崖の近くに木橋が架かっていた。現在は石積みの橋台が復元されている。ここから空堀を渡る事は出来ない。

2019年02月06日 こうひろ☽
勝沼氏館

国道20号から行く際に駐車場標示が小さく分かりにくいです。
仕事で何回も通ってたのに知りませんでした。

勝沼氏は親族衆で信虎の弟である信友にはじまる家系。信玄、勝頼からすると分家であるのに滅ぼされてしまった悲運の歴史も。新府城の帰りに何も考えず、ふらっと寄ったのですが理慶尼はじめ、勝沼氏が導いてくれたんですかね。

縄張は空堀深さや土塁高さ、立地場所・石積・橋脚石垣等、城への過渡期であることを感じさせてくれます。規模だけなら完全に城ですね。

内郭の東門土塁や北門石垣規模から相当立派な門構えが想像出来ます。
建物配置や変遷が説明板で示され、雪隠跡や台所跡・工房・水路や復元家臣屋敷もあり、かなり楽しめました。

少し過剰に整え過ぎの感は有りますが説明板も多く、中世武士の暮らしを垣間見る事ができます。武士や使用人が歩いていそうです。

余談ですが以前に寄ったぶどうの丘近く農園の葡萄、安くて粒が大きくめちゃくちゃ美味かったなぁ。

2015年10月31日 まー刑部卿
勝沼氏館

専用駐車場は見当たらなかったため県立ワインセンターの看板のところを左折すると行き止まりのため路駐しました。内郭は土塁と堀跡あり。東門側です。またワインセンター向かいには外郭跡ですが草が生い茂ってよくわかりません。ワインセンター建設のために掘ったら遺構が見つかったところです。北門側には駐車場ありませんでした。

2015年08月30日 駿河守武蔵守
勝沼氏館

中央道の勝沼インター近くの、甲州街道から少し入った場所に有ります。場所的には車のほうがアクセスしやすいですが、周辺にはワイナリーのシャトー勝沼やワインセンターなどがあるので、お酒でぶどう郷ならではを満喫したい人は運転手同伴がベストです。

2012年03月23日 加賀美 摂津守遠光
勝沼氏館

専用駐車場有り、ゆっくり館跡を見学出来ます。

勝沼氏館の周辺スポット情報

 東門木橋(遺構・復元物)

 土塁、空堀跡(遺構・復元物)

 勝沼氏家臣屋敷跡(遺構・復元物)

 勝沼氏館外郭域(東郭)(遺構・復元物)

 説明板(碑・説明板)

 説明文(碑・説明板)

 柏尾古戦場碑・説明板(碑・説明板)

 岩崎館説明板(碑・説明板)

 四郎作古戦場の碑(碑・説明板)

 鳥居畑古戦場の碑(碑・説明板)

 血洗沢(碑・説明板)

 鞍懸(碑・説明板)

 武田勝頼公腰掛石(碑・説明板)

 蜂城(周辺城郭)

 旭山城(周辺城郭)

 茶臼山烽火台(周辺城郭)

 岩崎氏館(周辺城郭)

 尾崎神社(寺社・史跡)

 景徳院(寺社・史跡)

 姫ケ淵(寺社・史跡)

 土屋惣蔵片手切り(寺社・史跡)

 大蔵原思案石(寺社・史跡)

 有馬晴信謫居の跡(寺社・史跡)

 トイレ(トイレ)

 公衆トイレ(トイレ)

 史跡勝沼氏館跡駐車場(駐車場)

 市営景徳院駐車場(駐車場)

 武田勝頼公銅像(その他)

 笹子峠(旧甲州街道)(その他)

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