勝山城(かつやまじょう)

勝山城の基本情報

通称・別名

所在地

山梨県甲府市上曽根町

旧国名

甲斐国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

油川氏

築城年

不明

主な改修者

服部正成

主な城主

油川氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

小山城(山梨県笛吹市)[5.7km]
八田家御朱印屋敷(山梨県笛吹市)[7.1km]
甲府城(山梨県甲府市)[7.3km]
躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)[9.5km]
湯村山城(山梨県甲府市)[9.9km]
要害山城(山梨県甲府市)[11.2km]
平瀬烽火台(山梨県甲府市)[13.8km]
勝沼氏館(山梨県甲州市)[13.9km]
連方屋敷(山梨県山梨市)[14.1km]
本栖城(山梨県南都留郡)[14.5km]

勝山城の解説文



勝山城(かつやまじょう)は、山梨県甲府市上曾根にあった日本の城。

解説 

旧中道町域北西の上曽根地区に位置。笛吹川左岸の「勝山」と呼ばれる小丘上に立地する[1]。現在、周辺は果樹園となっている。勝山城の存在は文献に記されているが、その位置は長らく特定されず、1983年(昭和53年)の農道整備に際して遺構が発掘され、主郭部や土塁、空堀の跡が確認された。

勝山城は甲斐・駿河間を結ぶ中道往還沿いに位置する。

油川氏の時代 

江戸時代後期に成立した『甲斐国志』によれば、戦国時代には山梨郡油川(山梨県甲府市・笛吹市石和町)に拠った武田氏支流の油川氏が拠点とした。城主であった油川信恵(彦八郎)は甲斐国守護・武田信昌の子で、戦国期には信昌の子である武田信縄の信恵の間で抗争が発生した。信縄の没後も信縄の子・信虎(初名は「信直」)と信恵の間で抗争が持続し、『勝山記』、『一蓮寺過去帳』によれば、永正5年(1508年)には坊ヶ峰(笛吹市境川町坊ヶ峰)において信恵方は大敗し、油川信恵も戦死する。(勝山合戦)

『高白斎記』によれば、永正12年(1515年)に甲府盆地西部の国人・大井信達に駿河国の今川氏親が加担し、『宇津日記』によれば翌永正13年には今川勢が中道往還から甲斐へ出兵し、今川勢は勝山城や郡内の吉田山城(山梨県富士吉田市)を拠点として大井氏を支援した。『甲斐国志』によれば、永正14年3月に武田・今川間で和睦が結ばれ、今川勢は撤兵したという。『高白斎記』によれば、大永元年(1521年)には今川方の福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻した福島乱入事件が起こる。甲府へ侵攻した福島勢は10月16日に甲府市飯田町一帯で起こった飯田河原の戦いで敗退すると勝山城に撤退し、11月23日には再び甲府へ侵攻すると甲斐市島上条一帯で起こった上条河原の戦いで敗退し、甲斐を退いた。今川氏親死後も跡を継いだ今川氏輝の軍勢が侵入し、これらと武田氏が戦っている。

天正壬午の乱 

武田氏の滅亡後、天正10年(1582年)6月の本能寺の変により武田遺領を巡る徳川氏と後北条氏が武田遺領を争う天正壬午の乱が発生する。同年8月6日には相模国の北条氏直が甲斐へ進行し、若神子に本陣をおいた。北条勢が七里岩の台上・現在の北杜市域の城砦に布陣したのに対し、徳川勢も甲府盆地の要所の城砦に布陣してこれに対抗した。『甲斐国志』によれば、中道往還の要衝である勝山城や近接する甲府市右左口町の右左口砦・金刀羅山砦には徳川家臣の服部正成(半蔵)と伊賀衆が配置され、城の修築を命じられた。

『家忠日記』によれば、天正10年(1582年)11月に、徳川氏による再普請が行われた。

天正壬午の乱の後 

天正18年(1590年)に後北条氏の支配していた地域への徳川家康の国替えに伴い、甲斐国には、対徳川家康前線として羽柴・加藤・浅野など豊臣系大名が配置された。 勝山城の動向は不明。

江戸時代 

甲府藩が成立し、甲斐国は徳川一族や譜代大名が統治する事となった。

勝山城の口コミ情報

2025年03月30日 信濃守あお
勝山城



近くのごみステーションに車1台分なら止められるスペースありますがそれ以外は難しい。桃畑なので収穫期は避けてのリア攻めを推奨します。

2025年03月25日 ʀᴇᴅ副将軍
勝山城



武田宗家の内紛である勝山合戦の舞台⚔

オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。油川氏により築かれたと云われます。
油川氏は武田氏の庶流であり、武田氏第16代当主である武田信昌の次男の武田信恵が山梨郡油川を領して油川氏を称したことが始まりとされます。
1492年に武田信昌は嫡男の武田信縄に家督を譲り隠居するも、後に武田信昌は武田信縄と対立。次男の油川信恵に家督を譲る意向を示したことから、武田宗家と国人勢力が二分する内紛に発展。しかし明応の大地震が発生したことから信昌・信恵方と信縄方は和睦します。
1507年に武田信縄が没すると武田宗家の家督は嫡男の武田信直(武田信虎)が継承。
翌1508年に武田信虎はまだ14歳と若年であったため油川信恵は和約を破棄して挙兵し勝山合戦が勃発します。しかし武田信虎が勝利し油川氏は滅亡。武田宗家における内紛は終結しました。
その後も勝山城は度々、侵攻の拠点と利用されており、1515年に武田氏一族の大井信達が反乱を起こすと、拠点の富田城は包囲されるも、駿河の今川氏の救援により勝利。このときに今川氏が入ったのが勝山城とされます。
1521年、今川氏家臣の福島正成が甲斐へ侵攻した際には勝山城に布陣しましたが、武田信虎により撃退されたと云われます。
1582年の天正壬午の乱の際には、徳川家康が右左口より侵攻して勝山城を占拠。服部正成と伊賀衆が配置され、勝山城を修築したとされます。
1590年に徳川家康が関東に移封されると、甲斐国には徳川家康に対する前線として豊臣系大名が配置されましたが、勝山城の動勢は定かではありません。

見所
笛吹川左岸の勝山と呼ばれる独立丘陵上に築かれています。
大半が果樹園となりかなり改変されている様です。
農道を進むと城跡碑が立っており、切り通し状の虎口が認められます。

2017年11月25日 みのみの美濃守@流浪人
勝山城

約2年4ヶ月振りにリアル攻城しました。運良くお城の入り口脇で農作業をされていた地元の方がおられ、一声掛けてから登城しました。

曲輪と思われる場所は5箇所ありましたが、各々の場所で桃やスモモの果樹が植えられている感じです。

土塁に関しては、熊笹や背の高い雑草が生い茂り、「多分…土塁?」の印象しか持てない感じです。

新たに、堀なのか堀切なのか、はたまた通路なのか判別が難しい箇所がありましたが、後々のために調べてみたいと思います。

2015年07月16日 みのみの美濃守@流浪人
勝山城

夏の間は藪と果樹作業のため現地に赴くのは避けた方がよい。

現地までの道は、生活道のため駐車場もない。

現地に赴くには秋から早春ごろで、バスなどの公共交通機関を使用し、地元の方に一言伝えてからがベストと思います。

勝山城の周辺スポット情報

 棒ヶ峰古戦場(碑・説明板)

 一条氏館(周辺城郭)

 下曾根氏屋敷(周辺城郭)

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