勝山城(かつやまじょう)

勝山城の基本情報

通称・別名

所在地

山梨県甲府市上曽根町

旧国名

甲斐国

分類・構造

平山城

天守構造

築城主

油川氏

築城年

不明

主な改修者

服部正成

主な城主

油川氏

廃城年

遺構

曲輪、土塁

指定文化財

再建造物

石碑

周辺の城

小山城(山梨県笛吹市)[5.7km]
八田家御朱印屋敷(山梨県笛吹市)[7.1km]
甲府城(山梨県甲府市)[7.3km]
躑躅ヶ崎館(山梨県甲府市)[9.5km]
湯村山城(山梨県甲府市)[9.9km]

勝山城の解説文

勝山城(かつやまじょう)は、山梨県甲府市上曾根に存在した日本の城。

解説
旧中道町域北西の上曽根地区に位置。笛吹川左岸の「勝山」と呼ばれる小丘上に立地する。現在、周辺は果樹園となっている。勝山城の存在は文献に記されているが、その位置は長らく特定されず、1983年(昭和53年)の農道整備に際して遺構が発掘され、主郭部や土塁、空堀の跡が確認された。

勝山城は甲斐・駿河間を結ぶ中道往還沿いに位置する。

江戸時代後期に成立した『甲斐国志』によれば、戦国時代には山梨郡油川(山梨県甲府市・笛吹市石和町)に拠った武田氏支流の油川氏が拠点とした。城主であった油川信恵(彦八郎)は甲斐国守護・武田信昌の子で、戦国期には信昌の子である武田信縄の信恵の間で抗争が発生した。信縄の没後も信縄の子・信虎(初名は「信直」)と信恵の間で抗争が持続し、『勝山記』、『一蓮寺過去帳』によれば、永正5年(1508年)には坊ヶ峰(笛吹市境川町坊ヶ峰)において信恵方は大敗し、信恵も戦死する。

『高白斎記』によれば、永正12年(1515年)に甲府盆地西部の国人・大井信達に駿河国の今川氏親が加担し、『宇津日記』によれば翌永正13年には今川勢が中道往還から甲斐へ出兵し、今川勢は勝山城や郡内の吉田山城(山梨県富士吉田市)を拠点として大井氏を支援した。『甲斐国志』によれば、永正14年3月に武田・今川間で和睦が結ばれ、今川勢は撤兵したという。『高白斎記』によれば、大永元年(1521年)には今川方の福島正成が駿州往還(河内路)を甲斐へ侵攻した福島乱入事件が起こる。甲府へ侵攻した福島勢は10月16日に甲府市飯田町一帯で起こった飯田河原の戦いで敗退すると勝山城に撤退し、11月23日には再び甲府へ侵攻すると甲斐市島上条一帯で起こった上条河原の戦いで敗退し、甲斐を退いた。

武田氏の滅亡後、天正10年(1582年)6月の本能寺の変により武田遺領を巡る天正壬午の乱が発生する。同年8月6日には相模国の北条氏直が甲斐へ進行し、若神子に本陣をおいた。北条勢が七里岩の台上・現在の北杜市域の城砦に布陣したのに対し、徳川勢も甲府盆地の要所の城砦に布陣してこれに対抗した。『甲斐国志』によれば、中道往還の要衝である勝山城や近接する甲府市右左口町の右左口砦・金刀羅山砦には徳川家臣の服部正成(半蔵)と伊賀衆が配置され、城の修築を命じられている。『家忠日記』によれば、同年11月には徳川氏による再普請が行われたという。

また、徳川氏の甲斐領有後にも再普請が行われている(『家忠日記』)。

勝山城の口コミ情報

みのみの大宰少弐@武田菱様[2017年11月25日]
約2年4ヶ月振りにリアル攻城しました。運良くお城の入り口脇で農作業をされていた地元の方がおられ、一声掛けてから登城しました。

曲輪と思われる場所は5箇所ありましたが、各々の場所で桃やスモモの果樹が植えられている感じです。

土塁に関しては、熊笹や背の高い雑草が生い茂り、「多分…土塁?」の印象しか持てない感じです。

新たに、堀なのか堀切なのか、はたまた通路なのか判別が難しい箇所がありましたが、後々のために調べてみたいと思います。

みのみの大宰少弐@武田菱様[2015年07月16日]
夏の間は藪と果樹作業のため現地に赴くのは避けた方がよい。

現地までの道は、生活道のため駐車場もない。

現地に赴くには秋から早春ごろで、バスなどの公共交通機関を使用し、地元の方に一言伝えてからがベストと思います。

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