躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)

躑躅ヶ崎館の基本情報

通称・別名

武田氏館

所在地

山梨県甲府市古府中町2611

旧国名

甲斐国

分類・構造

連郭式平城

天守構造

不明

築城主

武田信虎

築城年

永正16年(1519)

主な改修者

徳川氏、羽柴秀勝、加藤光泰

主な城主

武田氏、川尻氏、徳川氏、豊臣氏、加藤氏、浅野氏

廃城年

文禄3年(1594)

遺構

曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)、横堀(水堀)、虎口

指定文化財

国史跡(武田氏館跡)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

湯村山城(山梨県甲府市)[2.3km]
甲府城(山梨県甲府市)[2.4km]
要害山城(山梨県甲府市)[2.7km]
平瀬烽火台(山梨県甲府市)[4.4km]
八田家御朱印屋敷(山梨県笛吹市)[6.8km]
勝山城(山梨県甲府市)[9.5km]
小山城(山梨県笛吹市)[10.5km]
小田野城(山梨県山梨市)[10.8km]
連方屋敷(山梨県山梨市)[11.5km]
日ノ出城(山梨県韮崎市)[12.4km]

日本100名城・続日本100名城スタンプ情報

番号・名称

24 武田氏館

設置場所

武田神社宝物殿入口[地図
武田神社神府集札授与所[地図

躑躅ヶ崎館の解説文



躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)は、山梨県甲府市古府中(甲斐国山梨郡古府中)にあった戦国期の居館(または日本の城)。甲斐国守護武田氏の居館で、戦国大名武田氏の領国経営における中心地となる。

概要 

甲斐国守護武田氏の本拠である甲府に築かれた館で、守護所が所在した。現在、跡地には武田神社があり、また、「武田氏館跡」として国の史跡に指定されており、県内では甲州市(旧勝沼町)の勝沼氏館と並んで資料価値の高い中世の城館跡である。

戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の60年余りにわたって府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となる。

県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置する。東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっている。

躑躅ヶ崎館の歴史 

甲斐国の守護所・府中の変遷

甲斐国では南北朝時代に安芸守護・武田信武が入府し、在地の石和流武田氏は没落した[1]。信武・信成・信春の時代(15世紀初頭まで)に守護所は八代(笛吹市)・千野(甲州市塩山千野)に置かれ、それまでの政治・経済的中心地であった石和(笛吹市石和町)から離れた場所に移転された。一方で信武・信春は笛吹市石和町市部の観音寺や笛吹市石和町松本の大蔵経寺など寺社の再興を行い、一族を石和近辺に住まわせている[2]

室町時代の甲斐守護・武田信満・信元・信春(穴山氏)・信重・信守の時代(15世紀初頭から15世紀中頃)に守護所は石和に近い小石和(笛吹市石和町小石和)に移転された。この時代に甲斐国は室町幕府と鎌倉府の抗争に影響され、応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱において武田信満が滅亡すると甲斐は守護不在状態となる。これにより有力国人や守護代・跡部氏が台頭し、乱国状態となった。

守護・武田信昌・信縄の時代(1466年頃から1518年)には跡部氏が排斥される。『甲斐国志』によれば、信昌は甲府盆地東部の甲府市川田町の川田館に居館を構え、家臣団を集住させた。これにより守護所は石和に回帰し、笛吹川を挟んだ商業地域と分離した城下町を形成した[3][4]

信昌は嫡男・信縄に家督を譲り落合(山梨市落合)に隠居するが、信昌は次男の信恵(油川氏)を後継者とすることを望み、守護・信縄と信恵の間で内訌が発生した。信縄の子・信虎(初名は信直)は永正5年(1508年)に信恵を敗死させると、信虎による甲斐統一が進捗した。

武田信虎の躑躅ヶ崎館建設と甲府開創

信虎も川田館を本拠としていたが、『高白斎記』によれば永正16年(1519年)に盆地中央に近い相川扇状地への居館移転を行った[5]。移転の理由に関しては、石和館一帯が水害の常襲地であったためとする説もある[6]。『高白斎記』によれば、8月15日には鍬立式が行われ、翌8月16日には信虎による見分が行われている[7]。『高白斎記』によれば、信虎は12月20日に川田館から移住したという。『勝山記』永正16年・永正17年条においても、永正17年3月時点で館は完成していたと記している。『勝山記』には「新府中」や「甲斐府中」と記されており、居館移転は地鎮祭から4か月あまりで、居館も未完成な状態だったという[8]

信虎は新館の建設と同時に有力国人の城下町移住を行っている[9]。有力国人は甲府への集住に対して抵抗し、『勝山記』によれば永正17年5月には栗原氏・大井氏・逸見氏らが甲府を退去する事件が発生している。また、館を守備する支城の築城も行われ、『高白斎記』によれば、永正17年6月には背後の積翠寺丸山に要害山城(甲府市上積翠寺町)が築かれ、大永3年(1523年)には城下西方の湯ノ山に湯村山城(甲府市湯村)が築城されている。

また、武田氏と関係の深い石和からは、笛吹市石和町市部に所在する、武田信光ゆかりの石和八幡神社を勧請し、躑躅ヶ崎館西部に府中八幡神社を創建した[10]。府中八幡神社は武田信玄により甲斐惣社となり、国内の武田領国内の神社統制を担った。また、信光居館の鎮守と伝わる御崎明神も甲府へ移転させた。

信虎は室町幕府の将軍足利義晴と通じ、甲府の都市計画も京都の条坊を基本にしていることが指摘されるが、発掘調査によれば、当初の居館は将軍邸である花の御所(室町第)と同様の方形居館であり、建物配置や名称にも将軍邸の影響が見られる。

信虎時代には甲斐国内の有力国人が武田氏に帰服しているが、躑躅ヶ崎館の建設後は有力国人も同様に本拠の要地移転を実施しており、郡内地方を治める小山田氏は中津森から谷村へ、河内地方の穴山氏は南部から下山へと移転している。

武田信玄・勝頼の時代の躑躅ヶ崎館

晴信(信玄)時代の武田氏は大きく所領を拡大させ、信濃、駿河、上野、遠江、三河などを勢力下に収めるが、本拠地は一貫して要害山城を含む躑躅ヶ崎館であった。

躑躅ヶ崎館は天文2年と天文13年(1543年)に火災に見舞われている[11]。天文2年の火災は『勝山記』に記録されているが、積翠寺郷に屋敷を持つ駒井高白斎『高白斎記』には記されていないことから、規模の小さい火災であったと考えられている。

天文13年の火災は、同年正月に近在の武田道鑑屋敷からの出火し、大風により館に飛び火し、 類焼している[12]。武田道鑑は武田信成の弟・公信の系統で、祖父の満信は在京奉公をしていたという。道鑑は歌人としても知られ、躑躅ヶ崎館に近在する屋敷を持っていたことから、家格の高い人物であったと考えられている。

この火災により武田晴信は駒井高白斎屋敷へ一時移っているが、同年2月24日には館へ戻っているため、全焼は免れたと考えられている。『高白斎記』によれば、この火災を契機に館の大規模な改修が行われている。

甲府は要地であったが、1548年(天文17年)には庶民の屋敷建築が禁止されている等、城下の拡大には限界もあったとされる。また、この頃には全国的な山城への居館移転も傾向としてみられ、勝頼期には1575年(天正3年)の長篠の戦いでの敗戦により領国支配に動揺が生じ、勝頼は領国体制の立て直しのため府中移転を企図し、家臣団の反対もあったが新たに新府城(韮崎市中田町中條)を築き、1582年(天正10年)には躑躅ヶ崎館から移転している。しかし、まもなく実施された織田氏の甲州征伐の結果、武田氏は滅亡する。

近世・近現代の躑躅ヶ崎館

武田氏滅亡後、河内領を除く甲斐一国・信濃諏訪郡を統治した織田家臣の河尻秀隆は躑躅ヶ崎で政務をとったとされるが、異説として岩窪館(甲府市岩窪町)を本拠としたとする説がある。同年6月に本能寺の変が勃発し、秀隆はその後の混乱の中落命する。その後に入府した徳川家康によって改めて甲斐支配の主城とされ、館域は拡張されて天守も築かれた。1590年(天正18年)に徳川家臣の平岩親吉によって甲府城が築城されるや、その機能を廃されるに至った。以降、甲府は甲府城を中心とした広域城下町として発展した。

1705年(宝永2年)に甲府に入封した柳沢吉保は、それまで「古城」と呼ばれていた躑躅ヶ崎館跡を「御館跡」と呼ぶよう甲府市中に発した。吉保は自らを甲斐源氏の後裔と位置付けており、父祖とされるものの権威の正当な顕彰を意味する。

2019年は永正19年(1519年)から500周年にあたるため、甲府市では「こうふ開府500年」として記念事業を執り行った。

館の構造・遺構 

広さは周囲の堀を含めて東西約200メートル・南北約190メートル、面積は約1.4万坪(約4.6万m2)と推定される。

外濠、内濠、空濠に囲まれた三重構造で、中世式の武家館であるが、東曲輪・中曲輪からなる規格的な主郭部、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪(うち、味噌曲輪、御隠居曲輪、梅翁曲輪は武田氏滅亡後の豊臣時代に造成)等から構成されると考えられ[13]、甲斐武田氏の城郭の特徴がよく現れた西曲輪虎口や空堀、馬出しなどの防御施設を配した構造になっている。2006年の発掘調査では大手口前面の下部から三日月堀が確認され、正確な年代は不明であるが丸馬出が築かれていたことが判明した[14]

内郭は石積みで仕切られており、東曲輪で政務が行われ、中曲輪は当主の日常の居住空間、西曲輪は家族の住居があったと考えられている。武田氏から徳川氏、浅野氏の支配の期間を通じて、主郭部に曲輪を増設する形で改修が行われた。『甲陽軍鑑』では晴信の持仏を納めた毘沙門堂に関する記事がみられ、連歌会や歌会が催される会所であったという。『高白斎記』によれば、1543年(天文12年)には館の一部を焼失したが、再建されている。

現在、跡地は1919年(大正8年)に創建された武田神社の境内にあたるが、このときに南面の主殿の規模が縮小されている。また武田神社の本殿を立てる際には南の石垣を崩し、正門を新たに造った。このときに三重構造の原型の大半が崩されてしまったが、その後の1940年(昭和15年)に国の史跡に指定されている。遺構として土塁、堀、石垣、虎口などがあり、陶磁器などの出土遺物も確認されたほか、神社の近くには往時のままの場所にあると伝えられている井戸が2箇所存在する。そのうち「姫の井戸」と呼ばれる井戸は、信玄の子息誕生の際に産湯に使用されたと伝えられている。なお、信玄の時代の通用門は現在の神社東側にあり、内堀によって道と隔てられていた。

城下町(武田城下町) 

城下の街路と主要街道

武田城下町は、相川扇状地の扇頂部に位置する躑躅ヶ崎館を機軸に、条坊制的に二町間隔で5本の南北基幹街路が設定され、東西に市が所在することからも京風町並を意識していたことが指摘されている[15]。考古学的には城下町整備当初から設定されていたかは不明であるが、文献史料では高野山成慶院「甲斐国供養帳」や二次史料において街路の地名が見られる。

南北の主要街路は西から南小路(一条小路)・御崎小路(工小路)・広小路(柳小路・連雀小路)・鍛冶小路(城屋小路)・大泉寺小路(紺屋小路)が通過する[16]。東西の主要街路では城下南部の穴山小路がある。これらの主要街路には折れ曲がったクランクが設けられており、遠見を遮断するための防御上の工夫であると考えられている。城下から甲斐国外へ通じる道としては、城下南東の八日市場からは鎌倉街道や秩父往還・若彦路・青梅街道・甲州街道・中道往還に分岐する道が発し、城下南西からは駿州往還・駿信往還・佐久往還・棒道・穂坂路・逸見路に分岐す平行して城下町建設や新たな寺社創建、市場開設など府中整備が行われる。城下町の北面には家臣団屋敷地が整備され、南面には商職人町が整備された。城下の出入口である東西には市が所在し、城下西部には天文5年(1536年)には開設されている八日市場が、城下東部には大永6年(1526年)には開設されている三日市場が位置している[17]

城下町と外部の境界にあたる上木戸には刑場があり、蓮台場には共同墓地、少し離れた堺町には牢屋もあった。城下町はこれらの空間的に独立した町場も包摂した。

館の信仰空間と城下の有力寺社

躑躅ヶ崎館の建設・城下町の整備に伴い、館の周辺や城下町には寺社も移転される[18]。館周辺では武田氏の氏神である府中八幡神社(甲府市古府中町の峰本古八幡神社)がや諏訪南宮神社(甲府市屋形)が鎮座する。館の鬼門にあたる北側館内には御崎社が勧請され、愛宕神社(甲府市古府中町)には勝軍地蔵が安置され、牛頭天王社は館の裏鬼門守護・疫病退治を司った。牛頭天王社に隣接する祇園寺は甲斐国内における当山派の修験者を支配した。諏訪南宮社に隣接する法城寺(現在は廃寺)は、甲斐国湖水伝承に関わる国母地蔵を本尊とする。

城下中央部の商職人街では天尊躰寺や日蓮宗寺院の信立寺などの寺院が存在する。城下南端の一条小山(甲府市丸の内)には鎌倉時代に創建された時宗寺院・一蓮寺の門前町があり、愛宕山を隔てた北原扇状地にも戦国期に信濃から移転された甲斐善光寺(甲府市善光寺)の門前町が発達した。なお、武田氏滅亡後に一蓮寺は甲府市太田町に移転され、一条小山には甲府城が築城され、近世における甲斐の政治的拠点となった。

詰城と城砦群

外縁には詰城として城砦群が発達し、館の北部には要害山城(積翠寺城)や湯村山城、南の一条小山(のちに甲府城が築かれる)にも山城や砦が築かれ、居館と詰城、支城による府中防衛体制を整えた。

2006年(平成18年)4月6日、「武田氏館」として日本100名城(24番)に選定された。

武田氏居館跡から出土した馬の全身骨格 

武田氏居館跡の第三十一次調査において一体の馬の全身骨格が出土した。

この馬骨は西曲輪南側の枡形虎口に伴う馬出空間の地下2メートル地点から出土し、頭部を北側に向け、一部は破損・変形している。筵に覆われていたと見られることから、埋葬された遺体であると考えられている。推定年齢12歳の雄で、体高は約116センチメートルから126センチメートルの小型馬。肉付きは他の中世馬の出土事例や在来馬と比較した四肢骨の細さから、あまり屈強な体格ではないと考えられている[19]

また、この個体は小型馬であることから駄馬であるとする説もあるが、激しく使役された痕跡も見られず、古病理学的な観点からは、重量物の運搬により生じる中手骨・中足骨の癒合や骨瘤形成が見られないこと、下顎第二臼歯にハミ痕が見られることから、乗用馬であると考えられている。

馬骨の出土した馬出空間は武田氏の滅亡後の形式で、推定年代は近世初頭に下る可能性も考えられているが、山梨県内において中世馬の出土事例は主に平安・鎌倉期のもので、戦国期に遡る可能性のある事例として注目されている。

甲府市教育委員会には復元した全身骨格が所蔵されている。

現地情報 

所在地
  • 山梨県甲府市古府中町2611
交通アクセス
  • JR中央本線「甲府」駅北口より北へ一本道2.2キロメートル。バス約8分「武田神社」下車、徒歩すぐ。
その他
  • 2006年(平成18年)4月6日、「武田氏館」として日本100名城(24番)に選定された。

参考文献 

  • 『甲府市史 通史編1 原始・古代・中世』甲府市史編さん委員会、1991年
  • 『山梨県史 通史編2 中世』山梨県、2007年
    • 数野雅彦「躑躅ヶ崎館と甲府城下町」
    • 萩原三雄「戦国時代の城館」
  • 秋山敬「一蓮寺門前町の成立」『甲斐武田氏と国人の中世』岩田書院、2014年(初出は『武田氏研究 第19号』武田氏研究会、1998年)
  • 飯沼賢司「戦国期の都市“甲府”」『甲府市史研究 第2号』甲府市史編さん委員会、1985年
  • 数野雅彦「甲府城下町と躑躅ヶ崎館」『よみがえる武田信玄の世界』山梨県立博物館、2006年
  • 数野雅彦「中世城下町甲府の立地と都市プラン」『帝京大学山梨文化財研究所研究報告 3集』帝京大学山梨文化財研究所、1990年
  • 数野雅彦「本拠を築く」『定本・武田信玄』高志書院、2002年
  • 数野雅彦「甲府城下町の境界領域-中世から近世に続く「場」の意識-」『中近世甲斐の社会と文化』岩田書院、2005年
  • 数野雅彦「武田信虎の甲府開創」柴辻俊六編『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年
  • 数野雅彦「武田氏の本拠」武田氏研究会編『武田氏年表 信虎・信玄・勝頼』高志書院、2010年
  • 【書籍】「 史跡武田氏館跡の虎口構造-大手三日月堀をめぐって- 」 - 第24回 全国城郭研究者セミナー(2007年8月4日開催、中世城郭研究会・千葉城郭研究会・千葉歴史学会主催)における同タイトルの報告要旨。
  • 平山優「戦国期甲斐国の市・町・宿」『武田氏研究 第7号』武田氏研究会、1991年
  • 平山優『歴史文化ライブラリー221 武田信玄』吉川弘文館、2006年
  • 平山優「武田信玄の経済政策」『新編武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年
  • 【書籍】「 東国における「館」・その虚像と原像 」 - 第25回 全国城郭研究者セミナー(2008年8月2日開催、中世城郭研究会主催)における同氏の報告を論考化。
  • 『辞典にのらない戦国武将の居城と暮らし』(新人物往来社)

躑躅ヶ崎館の口コミ情報

2022年06月13日 尼崎城淡路守一口城主
躑躅ヶ崎館



5月6日、護国神社近くの信玄公のお墓参りをしてから登城。道中、甲府駅方面から武田神社までひたすら続く登り坂の武田通りがジワジワと足にダメージを与えて来ます🤦‍♂️道中、武田家家臣団の屋敷跡の説明板があちこちに見られました。信玄公の有名な<人は城 人は石垣 人は堀>の意味が分かったような気がしました。

武田神社にお参りすると絵馬の虎🐯からパワーを頂いた気がしました。甲斐の虎との異名を持つ信玄公ゆかりの神社に寅年にお参り出来て良かったです。宝物館に入館し家系図を眺めたみると大河に登場の信義公の名前を発見し嬉しくなりました。また上杉家の<毘>の旗があったのでなぜ🤔と思いましたが川中島の戦いの際に上杉軍が置いていった旗を持って帰ったとのことでした。 

下城後、信玄公が生まれた要害山城を目指しましたが登口付近に辿り着いたときに近所にお住まいの方に夕方だから危ないのでと止められて断念。武田神社の堀付近まで戻ってきた時に富士山が見えたので堀と富士山を撮ってみました。

2022年05月01日 弾正少弼マックイーン
躑躅ヶ崎館



バスが30分に一本だったのでタクシー使いましたが、信号に3回しか引っかからず1000円切りました。足利氏館と違い神社以外は自然が残っていてまだ発掘もしているようです。西側の堀はきれいですね…。帰りは円光院経由で歩きましたが、体力のない私はタクシー使ってよかったと思いました。(笑)

2022年04月03日 やしち尾張守
躑躅ヶ崎館



館周辺に武田24将の館跡と信玄公墓地があります。全部回りたい方は、時間に余裕を持って行かれることをお勧めします。駐車場は無料ですが、16時までなので要注意です。

2021年11月29日 中務大輔ピッコ丸
躑躅ヶ崎館

奥に石組みが多数残っていますが、周辺の田畑と比較すると、耕地として整備された跡のように思えます。東側にある溜池の岸に上がると、要害山や甲府盆地が一望出来ました。

甲府駅から歩くと良い運動になります。甲府駅からの路線バスは30分間隔程度です。

2021年10月25日 美濃守与助
躑躅ヶ崎館



JR甲府駅北口へ出て、武田通りを北へ2km余り直進すれば自動的に、躑躅ヶ崎館のあった武田神社に到着します。甲府バス利用なら、北口2番乗り場から積翠寺又は武田神社行きに乗ってください。

2021年10月07日 おやじ
躑躅ヶ崎館



甲府駅からの一直線の参道は見事!ぜひ歩いて行って欲しいです!

2021年07月04日 武蔵守与作兵衛
躑躅ヶ崎館



車でリア攻めしましたが、平日の朝9時だったので(コロナの影響もあるかな?)南側堀沿いの駐車場に余裕で停められました。武田神社の外周にかつての館の遺構が多くあります。

現在大手門東史跡公園になっている場所には、武田時代に築いた丸馬出と三日月堀(全長30m 堀幅4m 深さ2m)があったことが発掘調査により確認されました。

後の領主により破却(埋め戻し)されてしまい、残念ながら今は見ることができません。豊臣氏か徳川氏配下の大名によって総石垣の構造物に造り替えられてしまったようです。現在の姿は石塁の石垣を復元整備したものですが、見どころの一つだと思います。

北側の味噌曲輪は発掘調査中であちこちブルーシートに覆われている状況でした。調査後の復元整備が楽しみです。

2021年05月30日 但馬守新九郎
躑躅ヶ崎館



史跡整備だけでなく、ガイダンス施設もできて充実しました!要害山城なども含めて周辺を散策して頂き、甲府全体での「武田の本城」を体感してもらうの面白いと思います。

2021年03月24日 ほむら「近江守
躑躅ヶ崎館



躑躅ヶ崎館&ミュージアムと合わせて行くと良いですよ

2020年11月26日 陸奥磐城守景衡
躑躅ヶ崎館

以前の訪城時は感染対策で閉鎖していた信玄ミュージアムの有料区画を見学し、限定御城印頂きました。事前予約優先ですが、当日でも空きがあれば入場できるそうです。武田氏館の見取図等の展示は見応えがあります❗

2020年11月20日 フー甲斐守
信玄ミュージアム[躑躅ヶ崎館  関連施設]



武田氏館跡限定御城印です。
11/3〜11/30迄枚数は1521枚。
限定版がなくなり次第通常版配布だそうです。
信玄ミュージアムの有料展示室(300円)入館のみの希望者配布。入館は事前予約必要です。


2020年10月26日 ゆき丸
躑躅ヶ崎館

武田神社。無料駐車場が近くにあります。バス停もすぐ前にあるので公共交通機関でも便利です。

2020年09月22日 vol012右近衛少将
武田氏館跡・城下町の眺望[躑躅ヶ崎館  碑・説明板]



竜華池の堤に説明板があります。柵や手すりの類は設置されていませんので、足元にはお気をつけください。

2020年08月23日 と金武蔵守
躑躅ヶ崎館



目の前の信玄ミュージアムも楽しめました。コロナの影響で御城印の配布(建物への入館料は無料だけど、有料展示室に入ると貰える)がなかったのが残念でした。

2020年08月16日 ec0661xe右兵衛督
躑躅ヶ崎館

甲府駅北口よりバスが出ています。本数も多く便利です。

2019年12月28日 国府左京亮城介
躑躅ヶ崎館



躑躅ヶ崎亭

躑躅ヶ崎館の東にある山(躑躅ヶ崎)で、躑躅ヶ崎館の由来となった場所です。この場所には、武田信玄公が風景を楽しむあずま屋が設けられていました。特に当時の遺構はなく、金比羅神社が祀られています。
風景は素晴らしく、北に要害山、西に躑躅ヶ崎館、更には湯村山城を臨むことができます。

場所は、大手門東史跡公園の側にある竜華池へ向かう階段を半ばまで登り、右手の山道へ向かいます。山道になってすぐ所から、左手に少し登ると到着します。

2019年09月01日 三尺坊左近衛中将影ちゃんII号
躑躅ヶ崎館



【武田神社の御朱印】
武田神社の御朱印は、3種類あります。
1つ目は、伊勢神宮や気比神宮と同じタイプの御朱印で宮司さんや巫女さんが御朱印帳に書いてくれます。
2つ目と3つ目は、書き置きタイプですが、左側に座っている信玄公と立ち姿の信玄公が描かれていて、右側に御朱印が書かれています。こちらも宮司さんか巫女さんが参拝した日付けを記入してくれます。

2019年06月08日 まさある甲斐守
武田神社宝物殿[躑躅ヶ崎館  スタンプ]



受付に100名城スタンプが有ります。

2019年06月02日 まさある甲斐守
駐車場[躑躅ヶ崎館  駐車場]



発券機が有りますが、武田神社で検印を頂けば3時間まで無料です。

2019年06月02日 まさある甲斐守
駐車場[躑躅ヶ崎館  駐車場]



堀に沿って駐車場が有ります。無料です。

2019年05月17日 純風亭兵庫頭枡蔵
躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館前に信玄ミュージアムがありました。ピカピカだったので、係りの人に聞いたら、今年の4月に出来たばかりだそうです。

2019年05月09日 美作守せんとくん
躑躅ヶ崎館



躑躅ヶ崎館跡の鳥居側の入口。武田神社100年と甲府開府500年記念の提灯がたくさんある。赤い橋が印象的。

2019年05月03日 松之助尾張守
駐車場[躑躅ヶ崎館  駐車場]

他の駐車場は満車、行列ができていましたが、こちらはガラガラでした。
バスも停められる幅なので、戻ってきたら隣の車にドアパンチされていた、なんてこともなく安心して見学できます。

2019年04月28日 KAZ中務卿正勝
河尻塚[躑躅ヶ崎館  碑・説明板]



センター敷地内、駐車場を通ってグランドに出ます。右手にゲートボール場があるので、グランドとゲートボール場の境界を突き当たりにありました。

2019年04月25日 まさある甲斐守
三葉の松[躑躅ヶ崎館  その他]

武田神社には三葉の松があり、その紅葉した葉を持っていると金運が良くなるそうです。信玄公を慕って高野山から松の種が飛んで来たとの伝説があるとの事。

2019年04月07日 
躑躅ヶ崎館

2019年は、こうふ開府500年の節目の年です。幸いにも、4/6(城の日)に、訪れることができました。信玄公祭りということもあって、かなりの賑わいでした。
2019/4/5には、武田神社の南側に、
武田氏館跡歴史館もオープンし、見所も増えました。
また、甲府駅北口には、甲府の500年に及ぶ歴史を紹介しているギャラリーもありました。(2020/3/31まで。)
4/12(信玄公の命日)には、武田二十四将騎馬行列もあるようです。
昨年、2019年が500年の節目の年ということを知りましたが、再訪できて良かったです。

2018年05月15日 織田上総介晃司
躑躅ヶ崎館

今回駐車場は相川小学校裏、3時間無料の駐車場に停めました。なお駐車券を武田神社授与所に持って行かないと無料にはなりません。

東曲輪と中曲輪は武田神社となってます。
社務所裏には武田氏以降に作られた天守台跡がありますが立入禁止で見ることはできません。

西曲輪が主に躑躅ヶ崎館の土塁や虎口、堀が残り、遺構を確認することができます。

武田信玄公像は甲府駅にあり、躑躅ヶ崎館にはありません。

西曲輪を右手に見ながら北上すると積翠寺・要害山城にたどり着きます。

2017年12月08日 渡島守きこりん
躑躅ヶ崎館

天守台について
躑躅ヶ崎館主郭の北西隅には武田氏滅亡後に築かれたとみられる天守台が存在します。現在は、大正時代に創建された武田神社の裏手にあたり、立入禁止となっているため通常は見学できず、西曲輪北虎口の土塁上から僅かに覗けるのみです。
天守台は主郭土塁北西隅の1120㎡の方形の広場の内側寄りに、2mほど嵩上げされて築かれています。内側になる南面、東面は主郭地面から8m程の野面積み石垣が、北面、西面は広場地面から2m程の石垣(西曲輪から見えるのはこの部分)が、それぞれ積まれ、北側と西側には石段が設けられ、東西18m南北21mの規模となっています。石垣には隅角部がほとんど残っておらず、破却を受けた可能性があるようです。
築いた人物としては、豊臣期に織豊色の濃い改修を館に施した加藤光泰が有力のようです。
今回、萩原三雄先生による現地講座に参加し神社の許可のもと見学できました。下から南面を見たのみですが、竹藪と草でやや残念な状態となっていました。神社にはもっとしっかり管理してもらいたいものです。

2017年05月21日 
躑躅ヶ崎館

躑躅ヶ崎館(武田神社)にも、何回か行きましたが、今回初めて知ったことがありました。
甲府駅北口に、甲府市藤村記念館がありますが、そこに、躑躅ヶ崎館時代の模型があります。記念館の方が、とても詳しく説明して下さいました。
躑躅ヶ崎館は、1519年、武田信虎によって築かれた方形の館です。
2019年が、ちょうど500年の節目にあたるようで、周辺の整備が行われています。
私は、武田神社しか訪れたことがなかったのですが、今回は周辺も歩いて見ました。
土塁の整備が行われているところがありました。
2019年以降に、どんな風に整備されたか、また訪れてみたいと思いました。


2017年01月08日 権大納言土佐っ子
躑躅ヶ崎館

宝物殿には勘助の刀や、戦国時代の甲冑、信玄の直筆の書など見所満載です。風林火山の旗もあります。

2016年08月01日 まるき〜主殿助
躑躅ヶ崎館

県道31号線を南北に一直線に引かれた登り坂の突き当たり!
車で来る場合、武田神社正面両脇に駐車スペースが設けられておりイベント等がない限り入れ替わりが早そうで容易に停められそう。
人がたくさんいる神社に目がいってしまいどうしても館跡としての見方が難しい…ような気がした。

回ってる間、終始大河ドラマのナレーション
「我が子晴信は…」から始まるフレーズが頭から離れず1人でいろいろと言葉を並べて楽しみました。

「我が子晴信はこの下り坂を一気に駆け下りて敵地に向かったのですが、帰りは登り坂をぜいぜい言いながらヘトヘトになって帰ってくるのです。」とか(笑

お向かいのお土産屋さんの信玄ソフトや巨峰ソフトが美味しそうでしたよ!

2016年02月27日 日本史跡研究会
躑躅ヶ崎館

3月20日、10時から発掘調査現地説明会が実施されます。
駐車場は近くにないので、気をつけて下さいませ。


2016年02月11日 ギャプラス根室守N(エヌ)
躑躅ヶ崎館

武田神社宝物殿、2016年2月11日時点ではパンフレットに写真がある「七星軍扇」の展示は、痛みが激しいため、残念ながら取やめたそうです。

今後、展示を再開することはないそうですが、宝物殿窓口のお姉さんの話では、事前に申し込みをすれば、(その時の状態により)見れるとの事でした。
興味ある方は、事前に連絡してみたらどうでしょうか。

確認は武田神社のサイト、または
電話番号055(252)2609まで。

2015年03月27日 野呂利左衛門督休三
躑躅ヶ崎館

館北東の高い石積みは竜ヶ池の堰堤です。元は農業用の灌漑池でしたが、今は釣堀として活用されています。
池の東には信玄真筆とも信廉がそれを模写したとも伝えられる不動像があったとされる興国寺(明治年間の火事で失われたらしい)。池の南の山は館の名前の由来となった躑躅ヶ崎。堰堤は3ヶ所登り口がありますが北側以外は整備中。登ると大手門東史跡公園を見下ろせます。

整備中と言えば、武田神社の正面入口付近(通行可)、館の二の丸南虎口(通行不可) も。

また、神社南側すぐの穴山信君屋敷比定地が発掘調査中。

(2015年3月21日現在)

2014年09月18日 タコ武蔵守イカ
躑躅ヶ崎館

先達の方のアドバイスを参考にレンタルサイクル で訪問しました。
電動アシスト付きなので坂道も苦にならず、躑躅ヶ崎の館のみならず付近の城もすべて自転車で攻略できました。
有用なアドバイスありがとうございました。
※レンタルサイクル情報
1日レンタルで500円
午前9時ー午後5時まで
身分証明書の提示が必要
貸し出し場所は甲府駅周辺に6ヵ所ほどあり
(私は北口を降りてすぐ左手にあるビジネスホテルで借りました)

2014年07月15日 あきうえ
躑躅ヶ崎館

初めて伺いました。武田信玄の居館でゲームや大河もあったので、すごい観光地化してると思ったら、実際は正面や神社周辺以外は荒れててびっくり。案内板も少なく小さくて、有名なのにもったいない。城周辺の24重臣の各屋敷跡の看板はすごい良かった。探して歩いて楽しかった。駅前の新甲府城はすごい整備されてて、なんか残念。

2013年10月14日 空灯
躑躅ヶ崎館

神社入口からは少しはなれていますが、3時間無料の駐車場があります。
神社には人がたくさんいましたが、遺構の方はあまり人がいません。
神社の道路向かいにお土産屋さんがあって、信玄餅や武田家グッズが売っていました。軍配なんかもありました。


2013年09月13日 首藤大宰大弐督刀斎
躑躅ヶ崎館

JR甲府駅前のレンタサイクル(電動アシスト付なので大学前の緩く長い登り坂も楽でした)が便利です。
列車にて甲府まで行かれる方にはお薦めです。

2013年08月11日 中務卿一之介
躑躅ヶ崎館

主郭跡に建つ武田神社は参拝客が絶えませんが、遺構は神社の本殿に向かって左右に多くあります。訪れる人も少なく、ゆっくり見られます。

宝物殿の入口に、なぜかキティちゃんの石像が…(*_*;

2013年02月10日 尾張守ひろっちぃ
躑躅ヶ崎館

甲府から北に約歩いて30分のところに躑躅ケ崎館跡は存在します
通称武田神社の名前で親しまれています

緑山に囲まれた場所で自然を満喫しながら散策できます。

信玄を祭った神社であり周辺には武田二十四将を始めとする諸将の屋敷跡があります。

一部の郭跡は現在修復工事中で立ち入ることは出来ません。

武田神社宝物殿には武田氏ゆかりの遺宝を展示してあります(入館料¥300)注目はやはり風林火山の名で有名な孫子の旗です。
此処は名城100選スタンプ置き場です



2013年01月13日 まるさん上総介小町時間割
躑躅ヶ崎館

100名城スタンプは宝物殿に設置となっていますが…

1月9日に訪れた際には御守りとかを扱っていた場所(パンフレットを見ると『神符授与所』になっています)に置かれていました(;^_^A

宝物殿をゆっくり見るつもりがなかった私としては手間が少なくなって助かりましたけど(笑)


2012年07月09日 
躑躅ヶ崎館

武田神社周辺には武田二十四将の屋敷跡を示した看板があります
散歩がてらに見てまわるのも楽しいですよ

2012年05月24日 加賀美 摂津守遠光
躑躅ヶ崎館

山梨県内の信玄公銅像はJR甲府駅前、塩山駅北口、信玄公墓所の恵林寺前の信玄館に有ります

2012年02月14日 影艶弾正少弼
躑躅ヶ崎館

百名城スタンプのある宝物殿は16:30に閉まるので注意

2010年09月11日 兵庫頭もっこの助
躑躅ヶ崎館

8月、歴女な友達と二人で行きました。石垣跡やら空堀やら見て大感激です

2010年07月21日 徳川内大臣源朝臣康武
躑躅ヶ崎館

[武将像]武田信玄像
甲府駅前に鎮座。

2010年06月20日 半日皇帝下野守
躑躅ヶ崎館

桜の名所です。桜の花が咲く時期に行くことをおすすめします(by元梨大生)

2010年06月12日 徳川内大臣源朝臣康武
躑躅ヶ崎館

隅部を崩すという、破城の痕跡が顕著な天守台写真をアップしました(通常立入禁止区域)。
・・・無断で立ち入りしたのではありませんよ。研究者の公的な集まりで、特別に見学させていただいた時のものです(調査報告書等で公開されています)。

躑躅ヶ崎館の周辺スポット情報

 西曲輪枡形虎口(遺構・復元物)

 西曲輪枡形虎口(遺構・復元物)

 大手門(遺構・復元物)

 (遺構・復元物)

 味噌曲輪(遺構・復元物)

 御隠居曲輪(遺構・復元物)

 飯富虎昌邸 説明看板(碑・説明板)

 秋山信友邸 説明看板(碑・説明板)

 武田典厩信繁邸 説明看板(碑・説明板)

 馬場信春邸 説明看板(碑・説明板)

 内藤昌豊邸 説明看板(碑・説明板)

 板垣信方邸 説明看板(碑・説明板)

 多田満頼邸 説明看板(碑・説明板)

 三枝守友邸 説明看板(碑・説明板)

 広小路・クランク街路(碑・説明板)

 原昌胤邸 説明看板(碑・説明板)

 真田信綱邸 説明看板(碑・説明板)

 山本勘助邸 説明看板(碑・説明板)

 土屋昌続邸 説明看板(碑・説明板)

 武田信廉邸 説明看板(碑・説明板)

 小山田信茂邸 説明看板(碑・説明板)

 横田高松邸 説明看板(碑・説明板)

 真田幸隆邸 説明看板(碑・説明板)

 高坂昌信邸 説明看板(碑・説明板)

 穴山信君邸 説明看板(碑・説明板)

 甘利虎泰邸 説明看板(碑・説明板)

 山県昌景邸 説明看板(碑・説明板)

 小畠昌盛邸 説明看板(碑・説明板)

 河尻塚(碑・説明板)

 梅翁曲輪説明板(碑・説明板)

 武田氏館跡・城下町の眺望(碑・説明板)

 躑躅ヶ崎遊亭跡(碑・説明板)

 円光院(寺社・史跡)

 信玄公墓所(火葬場)(寺社・史跡)

 大泉寺(寺社・史跡)

 法泉寺(寺社・史跡)

 東光寺(寺社・史跡)

 甲斐善光寺(寺社・史跡)

 躑躅ヶ崎館(寺社・史跡)

 武田神社神府集札授与所(スタンプ)

 武田神社宝物殿(スタンプ)

 トイレ(トイレ)

 善光寺トイレ(トイレ)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 駐車場(駐車場)

 東光寺駐車場(駐車場)

 善光寺駐車場(駐車場)

 信玄ミュージアム(関連施設)

 三葉の松(その他)

 武田信玄公之像(その他)

 おみくじ(夜でも可)(その他)

 古甲州道(その他)

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