鳥居畑古戦場の碑
鳥居畑古戦場の碑([勝沼氏館 碑・説明板])
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鳥居畑古戦場の碑の口コミ情報
2021年03月01日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖
天正10年3月10日孤影消然僅かな家臣を従えて敗走つづける勝頼公の一行がようやく笹子峠の麓駒飼についた時、岩殿城に連絡に行った土屋昌恒が急ぎ帰り城主小山田信成が謀判を計っている事を言上し、勝頼公は止むなく天目山に籠り防戦をする事に決め付き従う者は、秋山紀伊守光継、阿部加賀守、土屋昌恒43人等、初鹿野から日川の渓谷づたいに田野の里に入った、其時かねて侫人の讒言により主君勝頼公の勘気にふれて幽閉されていた小宮山内膳友信は今こそ最後の御供をと田野の本陣に馳せ勝頼の許しを乞ふた、勝頼はあっぱれな武士の鑑よな余の不徳の致す処であったと直ちにこれを許した、その夜天目山の頂きは残雪を残して寒気きびしかったが主従はこの地で朝を迎えた、3月11日田野の夜がすっかり明けやらぬ払暁、忽然山麓より一隊の人馬が土煙を山霧にかくして押しよせて来た、 織田、徳川軍の先鋒滝川一益、河尻鎮吉らの軍勢約4千である、勝頼公は己の命運のつきたことを知ると、16才の嫡子信勝を招き 新羅三郎以来武田家に相伝された小桜韋威鎧楯無の鎧を着せてカン甲の式を挙げた、駒場口より攻め寄せる織田、徳川軍の先鋒隊滝川一益、河尻鎮吉の軍勢4000に対し武田勢の秋山紀伊守光継、阿部加賀守、小宮山内膳友信、土屋昌恒等(説明板の文章だと土屋昌恒の名前が出てきますが、この日土屋昌恒は大蔵原で小山田信茂の軍勢と戦って討ち死にしたはずなので解釈に困りました)100人に満たさる小勢を以てこれを迎え撃ち、撃退する事数度この間に田野の勝頼公一行は従容死を決するを得せしむ現在の景徳院の境内に有る、生害石、甲将殿直前に3枚の扁平なる石有り、勝頼公、北条夫人、世子信勝公の生害せし処、山雲月を掩ふて夜色自ら惨たりと史書はこの時の様子を伝える此処が武田家滅亡最後の激戦地、多勢に無勢と武田方に利なく全員討ち死にとなった場所で、地名の鳥居畑は近く鎮座する田野の産士神として祀られる氷川神社への参道入り口で一の鳥居のあったところから名付けられたとの事でした、この場所も駐車場が有りません、近くに有る橋の袂に車一台が路駐出来るスペースは有りますがあまりお勧め出来ません、四郎作古戦場の石碑の前から鳥居畑古戦場まで約150m位でしたので景色を楽しみまながら歩いて来ましたが、川風が心地良くこの激戦地に春が近くまで来ているなと思いました(鳥居畑古戦場説明板大和村文化財抜粋)