土屋惣蔵片手切り

土屋惣蔵片手切り([勝沼氏館  寺社・史跡])

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土屋惣蔵片手切りの口コミ情報

2024年05月23日 内記かずりヾ(・ε・。)


さて、おいらは大の武田贔屓、理由なんか特に無い。歴史に興味の無かった小さな頃からそうだったんだと思う。好きな武将は秋山虎繁、真田昌幸、馬場信春、依田信蕃…全てが武田繋がりだったりもする。そんなおいらが最後の武田家臣と後世名高い土屋昌恒最期の地を訪ねてみた。

土屋惣蔵片手切は勝沼氏館の東方約7.3km、日川東岸(左岸)、標高1042mの山稜山頂から北東へ伸びる尾根末端部、標高約843mの崖地上古道で行われた戦いの跡です。甲州征伐のクライマックス、武田勝頼一行自害の時間を稼ぐために家臣の土屋昌恒が孤軍奮闘した場所として特に有名だ。崖地に設けられた狭い山道に立ちはだかり、転落しないように藤蔓を掴んで向かって来る敵方を片手で斬りまくった事からそう呼ばれる。

行き方はGoogleマップに位置登録されているのでダイレクト設定して下さい。車の捨て場所は周辺の日川渓谷レジャーセンターの駐車場がよいだろう。このセンター内には別に武田勝頼に纏わる伝承地があったりもする。又、該地は山梨県道218号、大菩薩初鹿野線沿いに位置する。土日祝日は結構車が通るので路駐だけは遠慮しとこう。

主人公の土屋正恒は弘治二年(西暦1556年)の生まれ、軍中使番、金丸筑前守の子、幼名が惣蔵である。永禄十一年(西暦1568年)の宇津房合戦を十三歳で初陣し、今川方の岡部貞綱の家臣を討ち取ったとされる。形式上の儀式で終わらなかったところを考えると結構なやんちゃだったみたいだ。ちなみに後に武田氏の海賊衆に名を連ねる貞綱は昌恒を養嗣子に迎え、永禄十三年(西暦1570年)頃には信玄から土屋姓を与えられている。昌恒が土屋を姓とするのはそれが理由である。

天正三年(西暦1575年)三月二十一日の「長篠の戦い」において、実兄の土屋昌続、養父の貞綱が討死した事から、養父の家督と昌続の家督を合わせて継いだ。伝えるところによれば、武田勢によるアプリの登録城、上州の膳城攻めに際して、武具を身に付けずに先陣を切り、同城の大手門に攻め懸かったのはこの昌恒である。謂わゆる有名な「素肌攻め」だが、後先顧みず勢いに任せて猪突猛進するところを考えると結構血の気も多い人物だったみたいだ。

該地は日川に流れ込む大蔵沢に落ち込む崖地だったとされるが、現在は県道が整備された事によりその面影は無い。又、往時の道筋も失われており、正確に何処が片手切の場所なのかは現地に赴いてもやっばし判然としない。おいらは現在の舗装道路よりやや上段が該地だったと思うのだが…

県道沿いには石碑が建ち、隣りには説明板が立っている。この説明板には大正三年(西暦1914年)時の秀逸な写真が添付されており、往時に近いと思われる崖地の道筋がよく理解出来る。例えるならば狭い穴の中で二匹の鼠が喧嘩するようなもの、勇気に優る方が勝つ。死を覚悟した昌恒には近寄る事さえ難しかったろう。

該地付近を流れる日川は三日血川の別名を持つ。昌恒が千人を斬ってその血が日川に流れ込み、川の水が朱色に染まって三日の間、その色を変えなかった伝承に由来する。が、人間の血液量は体重に比して概ねで十三分の一の量、現在よりも遥かに水量が多かったであろう日川の流れを三日間に亘って朱色に染めるには一体何立方メートルの血液が必要になってくるのであろうか…体重60kgの人間を千人斬ったとしても、その血液量は4.6t、僅かに4.6㎥…おっと、これ以上は語るまい。武田二十四将の後裔を中心に結成された闇の実行部隊、「風林火山a.k.a.御旗楯無」に狙われてしまう…ついでに皆さんにも忠告しておこう、おいらと同じような疑問を抱いた方は、駅のホームの端っこなんかを今後不用意に歩かない事だ。

※没落した子孫が多い武田氏家臣団の中にあって昌恒の子孫は十分に成功したと言える。昌恒の子、忠直は徳川秀忠の近習を経て上総久留里藩初代藩主となり、忠直の次男、数直は分知されて常陸土浦藩を立藩した。土浦藩の方は明治維新まで存続、先祖の功徳だろうか。

※写真③は大蔵沢から見上げた該地付近、雰囲気て事で…

※大蔵沢の流れが涼しかった。付近には取水口が設けられている。

2021年03月01日 甲斐守ヨッシー❖津久井衆❖


天正10年(1582年)3月3日入城まもない新府城に日を放ち岩殿城を目指した武田勝頼公一族は武田家譜代家老衆岩殿城主の小山田信茂の謀叛により笹子峠でその進路を阻まれた3月10日それまで逗留していた笹子峠の麓の駒郷を後にした勝頼公は少なくなってしまった家臣を従え狭谷沿いに田野の郷に入った、そして3月11日天目山栖雲寺にむかうが織田・徳川連合軍に行く手を阻まれ大蔵沢の地にて勝頼公は路傍の石に腰掛けて思慮し田野の郷に引き返す事とするが敵兵が迫って来たので、♪八田の里に花とえば香煙かおる、刀塚武田の忠臣ここにありともども語るいさしおは、土屋惣蔵片手斬り武田三代六十三年愁風遂到天目山、主君よ姫よ若殿よご案じあるな諏訪法性念じてかざす太刀風土屋惣蔵片手斬り返り血あびて岩に立つ土屋惣蔵片手斬り♪(春日八郎さんの歌より抜粋)土屋惣蔵昌恒はもっとも狭い崖の道筋にて、左手に藤の蔓、右手に刀を持って迫り来る敵兵を切っては谷川に蹴落としたと伝えられ惣蔵に切られた武士たちの血で3日間も朱に染まり、三日血川と呼ばれ自然の楯のようなこの場所で寄せ来る敵兵を防ぎ沢山の人を片手斬った事からこの場所が土屋惣蔵片手千人切りと言われていて、土屋惣蔵昌恒の活躍奮闘により武田勝頼公主従は田野の郷まで戻り景徳院の境内にて従容として自刃したと伝わっているようです、最後まで勝頼公に従い、主君を守り抜いた武田家最後の忠臣土屋惣蔵昌恒の勇姿を思い浮かべながら、下に流れる日川の流れを眺めました!
駐車場は有りません、石碑の前の道路はカーブなので路駐は危険です⚠️日川渓谷レジャーセンターの入り口付近に車を寄せて停めさせて頂き、徒歩にて石碑まで行きました!
(案内板より)

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