秋田城(あきたのき/あきたじょう)

秋田城の基本情報

通称・別名

所在地

秋田県秋田市寺内大畑

旧国名

羽後国

分類・構造

古代城柵

天守構造

なし

築城主

大和朝廷

築城年

天平5年(733)

主な改修者

主な城主

秋田城介(鎮秋田城国司)

廃城年

遺構

築地、土塁、建物跡、住居跡

指定文化財

国史跡(秋田城跡)

再建造物

外郭東門、築地塀、水洗厠舎、碑、説明板

周辺の城

湊城(秋田県秋田市)[2.0km]
久保田城(秋田県秋田市)[4.2km]
小友館(秋田県秋田市)[10.1km]
太平城(秋田県秋田市)[10.3km]
白華城(秋田県秋田市)[10.6km]

秋田城の解説文

秋田城(あきたじょう/あきたのき)は、出羽国秋田(現在の秋田県秋田市)にあった日本の古代城柵。国の史跡に指定されており、かつての城域の一部は現在高清水公園となっている。また、秋田県護国神社も秋田城の城址に遷座したものである。

秋田城の創建は、733年(天平5年)に出羽柵が庄内地方から秋田村高清水岡に移転したことにさかのぼり、その後天平宝字年間に秋田城に改称されたものと考えられている。秋田城は奈良時代の創建から10世紀中頃までの平安時代にかけて城柵としての機能を維持したと考えられており、その間幾度か改廃が取り沙汰されたことがあったものの、出羽国北部の軍事・行政の中心地としての役割を担った。また、秋田城の発掘調査結果からは渤海との交流を伺わせる複数の事実が指摘されており、文献史料による確たる証拠はないものの、奈良時代を通じてたびたび出羽国に来着した渤海使の受け入れが秋田城においてなされた可能性が高いと考えられている。秋田城は朝廷によって設置された城柵の中でも最北に位置するものであり、律令国家による統治の拠点として、また津軽・渡島の蝦夷との交流や渤海との外交の拠点として、重要な位置にあった。

2017年(平成29年)、続日本100名城(107番)に選定された。

歴史・沿革
秋田城の史料上の初出は、『続日本紀』において733年(天平5年)に出羽柵(いではのき)を秋田村高清水岡に遷置したと記述されたことにさかのぼる。7世紀の中葉から9世紀の初頭にかけて、当時の朝廷は東北地方の蝦夷を軍事的に制圧し服属させ、柵戸移民を扶植して積極的な支配域の拡大を図っており、日本海側では708年(和銅元年)に現在の山形県庄内地方を越後国出羽郡として建郡、712年(和銅5年)には越後国から分離して出羽国に昇格させ、陸奥国から移管された置賜郡・最上郡とあわせて初期の出羽国を形成した。前後して出羽郡内に出羽柵を設置したものと考えられている。秋田城は朝廷の支配域の北上にともない出羽柵を移転したものと捉えられるのであるが、8世紀当時の秋田地方では大規模な集落の跡が確認されておらず、後城遺跡のような城柵の進出にともなって形成された集落が城柵の近傍に存在する程度であった。すなわち当時の秋田地方は人口が希薄で、移転当初の出羽柵は朝廷の支配域の北辺に突出しており、出羽柵(秋田城)の設置にともなって城柵周辺に蝦夷や柵戸移民が混在する集落が形成されたものと推測されている。

秋田に移った出羽柵は、760年(天平宝字4年)3月19日付の『丸部足人解』において「阿支太城」と表記されており、この頃秋田城に改称したものと考えられている。『続日本紀』、780年(宝亀11年)8月23日の条では、秋田城へ派遣された鎮狄将軍安倍家麻呂の具申に対して朝廷から「秋田城は、前将軍や宰相が建てたものであり、長い年月を経てきた」と回答したことが見え、760年頃に秋田城へ機構改編したことを裏付ける。このときの安倍家麻呂と朝廷の応答において秋田城の停廃が検討されたが、朝廷は秋田城の放棄を認めず、かえって軍兵を遣わして鎮守とし、鎮狄使または国司1名を専当として秋田城の防護にあたらせるものとした。これにより、国司次官である出羽介が秋田城介(あきたじょうのすけ)として城に常置され、出羽国北部の統治にあたることとなった。

8世紀に秋田城に出羽国の国府が置かれていたかどうかは、学説上の争点となっている。これは『日本後紀』『日本三代実録』において延暦年間に出羽国国府を移転した旨が記されていることに端を発し、前者では804年(延暦23年)11月癸巳の条において、秋田城を停廃し郡制を布いて機能を河辺府に移転したことが、後者では887年(仁和3年)5月20日の条に、出羽郡井口にある国府は延暦年間に造営されたことが、それぞれ記されている。秋田城国府説を取る平川南の学説では、733年の出羽柵秋田移転から804年の秋田城停廃までの期間秋田城に国府があったと推定し、737年(天平9年)に陸奥国の多賀柵から出羽柵までの直通道路が計画されたことを、陸奥按察使が陸奥・出羽の両国府間で連絡を密にするためであったとして、秋田城国府説の根拠に挙げている。その上で平川説では河辺府を城輪柵跡(山形県酒田市)と同定しているが、河辺府を払田柵跡と推定し、払田柵を経た再移転によって出羽郡井口に移ったとみる説もある。一方、秋田城非国府説を取る今泉隆雄の学説では、出羽国国府は一貫して出羽郡内にあったものと推測し、多賀柵から出羽柵までの直通道路についても、「陸奥国より出羽柵に達するに」との記述に着目して、両者の字句の違いは出羽柵が国府でなかったことを指し示すものとする。その上で国府の移転に関する記事と秋田城の停廃に関する記事との峻別の必要性を指摘し、河辺府とは後の河辺郡付近に置かれた郡衙であるとした。秋田城の発掘資料からは、出羽国の守と介の署名がある天平宝字年間の漆紙文書が出土し、国府で最終的に保管される文書が出土していることから、秋田城国府説に有利に傾くともみられるのであるが、秋田城以外の場所で書かれた上申文書が移送された可能性もあり、秋田城国府説を裏付ける決定的な文字資料の出土には未だ至っていない。

8世紀には、沿海州付近にあった渤海国からの使節がたびたび出羽国へ来着した。そもそも出羽柵の秋田移転には、なぜ庄内地方から一挙100kmも北進して人口希薄な秋田地方へ突出したのかという疑問が生じるのであるが、そこで秋田城の海上交流の拠点としての性格が着目され、秋田城が渤海使や北方民族との外交施設としての役割を担ったとする説が示されている。8世紀の渤海使は、日本の使節船に同乗している場合を除いてほとんどが出羽に来着しており、新野直吉、古畑徹らの研究は、渤海使が沿海州・サハリン・北海道の沿岸部伝いに航行して本州日本海側に達する北回り航路を取っていたことを唱え、さらに新野は出羽柵移転の背景に、渤海使の来航があった出羽国北部に中央政府と直結した出先機関を置いて、外国使節への対応を担わせたとする見方を示した。発掘調査結果からは、城外南東側の鵜ノ木地区において規則的に配置された大規模な掘立柱建物群の遺構と、水洗トイレの遺構などが検出されており、これらは国営調査では城に附属した寺院の四天王寺跡とする見解が示されているが、8世紀から9世紀初までの遺構については、建物が礎石式を取らず瓦葺きでないなど、寺院建築とするには疑問も示されており、これら施設群は外交使節を饗応する迎賓館だったのではないかとの推測も示されている。なお、9世紀以降渤海使の出羽来航は途絶えており、鵜ノ木地区の遺構も、9世紀以降のものは木柵に囲われた寺院風の構成となっていく。

804年(延暦23年)、秋田城が停廃されて秋田郡が設置され、秋田城が担っていた機能は河辺府へ移されたとされる。先の802年(延暦21年)に朝廷はアテルイとの軍事的抗争に勝利し、これを受けて陸奥に胆沢城・紫波城を造営、出羽でも同時期に払田柵が造営されたとみられるなど、9世紀初は朝廷と蝦夷との関係が大転換した時期にあたる。停廃という文言と裏腹にこの時期秋田城は大改修を受けており、秋田城の停廃とは陸奥方面での朝廷の軍事的勝利を受けて、秋田城を取り巻く環境が孤立した状態から解消されたことにともなう、支配体制再編の一環として行われたものと考えられる。733年の出羽柵移転以降、秋田郡が設置されるまでの約70年間、秋田地方では郡を置かず城が領域支配をも担う特殊な体制が取られていたが、秋田城の改修は郡制への移行と軌を一にするものであり、むしろ支配体制を強化する形で秋田城は出羽北部の軍事・行政拠点として存続することとなった。

830年(天長7年)には出羽大地震により城廓および官舎のことごとくが損傷する被害を受けた事が記されている。この時の被害報告から城に附属して四天王寺・四王堂といった宗教施設が存在した事実が示されている。

878年(元慶2年)に勃発した俘囚の大規模反乱(元慶の乱)では、俘囚側が秋田城を一時占拠するに至り、発掘調査からも乱によって城が焼かれたことを裏付ける焼土炭化物層が検出されている。この乱の背景に、長く軍事的緊張から遠ざかっていた秋田城では制度上常備すべきとされていた軍が実際には配備されておらず、少数の健児が守るのみで警備が手薄になっていたことが挙げられる。また、出羽国統治が安定していた反面、それに乗じて国司による苛烈な収奪が横行しており、元慶の乱の時期を記した『日本三代実録』元慶三年三月二日壬辰の条では、国内の公民の3分の1が「奥地」に逃亡するという異常事態に陥っていたことが記されている。元慶の乱は、出羽権守として派遣された右中弁藤原保則が、主に上野国・下野国の兵で編成された軍を率いて乱の鎮圧にあたり、また鎮守将軍として派遣された小野春風による懐柔策も受けて、硬軟織り交ぜた対応により終結に向かい、秋田城は回復されて復興整備に向かっている。その後939年(天慶2年)の天慶の乱の際にも、秋田城は攻撃を受けている。10世紀後半には秋田城の基本構造と機能が失われたと考えられており、鵜ノ木地区においては11世紀前半までの遺構が確認されているものの、城内では11世紀以降に該当する主要な遺構が確認されていないことから、この頃には衰退していたと考えられている。平安時代後期から中世にかけて、史料上はなおも秋田城の文字が継続して確認されており、鎌倉時代には秋田城介の官職は武門にとって名誉あるものであったとされるが、中世の秋田城として比定される有力な遺構は確認されておらず、古代の秋田城跡周辺が有力な擬定地として推測されるにとどまっている。...

秋田城の口コミ情報

永眠武蔵守釋 葱進様[2016年09月09日]
路線バス利用の場合「秋田城跡歴史資料館前」バス停が最寄りとなります(秋田駅からなら将軍野線か寺内経由土崎線を利用)が、本数の多い新国道経由のバスに乗った場合(フェリーターミナルや土崎駅からのバスはほぼこちら経由)は「護国神社裏参道」バス停下車しなだらかな坂道を10分ほど歩くと史跡公園へ行けます。
史跡公園は年中入園可、公園管理棟にパンフレット常備されています。4月から11月までの9時~16時ならボランティアガイドによる説明が受けられるとのことです。
現在は外郭東門・政庁(東門と築地塀)及びそれをむすぶ城内東大路の一部等が復元されており、大路の一部は発掘調査中です。

tomm加賀守様[2011年03月20日]
今回の地震で、復元整備した築地塀の一部が剥離したそうです。

秋田城の周辺観光情報

あきた文化産業施設「松下」

千秋公園内にある「旧割烹松下」。あきた文化産業施設「松下」は、この建物をリノベーションして2016年にオープンした。オリジナルの飲み物、甘味を楽しめる松下茶寮、秋田県内全蔵の銘酒を取り揃える松下酒房など、秋田の文化を嗜む複合施設となっている。

お問い合わせ:あきた文化産業施設「松下」(018-827-3241)

ポートタワーセリオン 道の駅「あきた港」

高さ143メートルと日本海沿岸屈指の高さを誇るポートタワー。展望室は高さ100メートルとなっており、男鹿半島から鳥海山、太平山までを一望できる360度のパノラマが楽しめる。1階のセリオンガーデンでは、秋田のおみやげ、地元の農産品、名産品のショッピングも楽しむことができる。

お問い合わせ:ポートタワーセリオン 道の駅「あきた港」(018-857-3381)

赤れんが郷土館

明治45年に旧秋田銀行本店として建設された、国の重要文化財にも指定されている赤れんが館を利用した施設。秋田の歴史・民俗・美術工芸に関する企画展などを随時開催している。年末年始、不定期の展示替え期間のみ休館。

お問い合わせ:赤れんが郷土館(018-864-6851)

秋田県立博物館

考古・歴史・民俗・工芸・生物・地質の6部門を中心とした総合博物館。周囲は小泉潟公園となっており、日本庭園やフィールドアスレチックなども楽しめる。毎週月曜日、年末年始と全館燻蒸消毒期間(9月はじめ)は休館。

お問い合わせ:秋田県立博物館(018-873-4121)

情報提供:秋田県観光連盟
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