首里城(しゅりじょう)

首里城の基本情報

通称・別名

首里グスク、御城(うぐしく)

所在地

沖縄県那覇市首里

旧国名

琉球国

分類・構造

山城

天守構造

なし

築城主

尚巴志

築城年

室町時代

主な改修者

尚巴志

主な城主

第一尚氏、第二尚氏

廃城年

明治4年(1871)

遺構

曲輪、石門、石垣

指定文化財

国史跡(首里城跡)、世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)

再建造物

正殿、門、御嶽、城壁、石碑、説明板

周辺の城

幸地城(沖縄県中頭郡)[3.1km]
浦添城(沖縄県浦添市)[3.6km]
長嶺城(沖縄県豊見城市)[3.7km]
天久城(沖縄県那覇市)[4.0km]
伊祖城(沖縄県浦添市)[4.6km]

首里城の解説文

首里城(しゅりじょう、スイグスク)は、沖縄県那覇市首里にあり、かつて海外貿易の拠点であった那覇港を見下ろす丘陵地にあった城。

概要
琉球王朝の王城で、沖縄県内最大規模の城(グスク)であった。戦前は正殿などが国宝であったが、1945年(昭和20年)の沖縄戦と戦後の琉球大学建設により完全に破壊され、わずかに城壁や建物の基礎などの一部が残っている。1980年代前半の琉球大学の西原町への移転にともない、本格的な復元は1980年代末から行われ、1992年(平成4年)に、正殿などが旧来の遺構を埋め戻す形で復元された。1993年(平成5年)に放送されたNHK大河ドラマ「琉球の風」の舞台になった。1999年(平成11年)には都市景観100選を受賞。その後2000年(平成12年)12月、「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたが、登録は「首里城跡(しゅりじょうあと)」であり、復元された建物や城壁は世界遺産ではない。

周辺には同じく世界遺産に登録された玉陵、園比屋武御嶽石門のほか、第二尚氏の菩提寺である円覚寺(えんかくじ)跡、国学孔子廟跡、舟遊びの行われた池である龍潭、弁財天堂(べざいてんどう)などの文化財がある。

歴史・沿革
首里城の創建年代は明らかではない。近年の発掘調査から最古の遺構は14世紀末のものと推定され、三山時代には中山の城として用いられていたことが確認されている。おそらく、13世紀末から14世紀のグスク造営期に他の沖縄の多くの城同様に成立したものと考えられる。
尚巴志が三山を統一し琉球王朝を立てると、首里城を王家の居城として用いるようになった。同時に首里は首府として栄え、第二尚氏においても変えられることはなかった。

史書で記録されている限りでも、首里城は数度にわたり焼失しており、そのたびに再建されてきた。その度に木材の調達が問題となり、薩摩藩からの木材提供で再建を行ったり、将来の木材需要を見越して本島北部での植林事業を行ったりしている。一度目の焼失は1453年に第一尚氏の尚金福王の死去後に発生した王位争い(志魯・布里の乱)であり、城内は完全に破壊された。二度目の消失は1660年のことであり再建に11年の年月を要した。しかし1709年に三度目の火災が起き正殿・北殿・南殿などが焼失した。この時は財政が逼迫しており、1712年に薩摩藩から2万本近い原木を提供された。現在見る首里城の建築は、三度目の火災の後再建された1715年から1945年(昭和20年)までの姿を基にしている。

1879年(明治12年)の沖縄県設置に至る琉球処分以後は、正殿など首里城の建物は政府の所在地としての役割を喪失し、日本陸軍の第6師団(熊本)の軍営として、その後は首里区(後の首里市)に払い下げられ、学校などとして利用された。

王宮でなくなった首里城は急速に荒廃が進み、老朽化が激しく崩壊寸前の状態になった。既に門のいくつかは取り壊されており、正殿の取り壊しも検討された。しかし、伊東忠太、鎌倉芳太郎ら関係者の奔走により保存が決定され、昭和初期(1928年(昭和3年) - 1933年(昭和8年))に正殿の改修工事が行われて国宝に指定され、県社沖縄神社の社殿となり源為朝と歴代国王が祀られた(源為朝が琉球へ逃れ、その子が初代琉球王舜天になったという説がある)。

太平洋戦争中の沖縄戦において日本軍が首里城の下に地下壕を掘り総司令部を置いたこともあり、1945年5月25日から3日間に渡りアメリカ軍艦ミシシッピなどから砲撃を受け、27日に焼失したとされる。(今も、龍潭池には、地下壕の入り口や弾痕などが確認できる)さらに日米両軍の激しい戦闘で、首里城やその城下の町並み、琉球王国の宝物・文書を含む多くの文化財が破壊された。宝物庫は奇跡的に戦災を免れたが、中の財宝は全て米軍に略奪された。戦後しばらくして一部が返還され、また所在が明らかになり返還に向け交渉中のものもある。また近年尚家が保有していた琉球王国関連の資財が寄贈され、沖縄県立博物館・美術館などで保管・展示されている。

戦後、首里城跡に琉球大学が置かれたことで、多くの遺構が撤去あるいは埋められたが、首里城の再建は戦後間もなくから多くの人々の悲願だった。
...

首里城の口コミ情報

我流尾張守クール様[2018年07月30日]
【駐車場】首里城前から県営①満車、②満車➡タイムズ60分500円(首里社館至近) 歩けば時間無制限で安い駐車場有ります。

【正殿漆塗り】2018年11月まで続く模様。

【番外編】琉球石灰石と革底の靴の相性は最悪です。普通にスニーカーがオススメです。

後中城按司 知名朝安様[2018年07月09日]
一筆啓上に投稿した様に、守礼門が、二千円札と、海洋博開催記念百円硬貨に、描かれています。首里城の正殿が、描かれていないのは、海洋博開催記念百円硬貨が発行された昭和50年は、首里城の敷地内に琉球大学が在った為に、守礼門以外の建物が再建されていませんでした。二千円札が発行された西暦2000年には、正殿は再建されていましたが、1992年の再建の為に未だ新しかったのと、二千円札が発行された時は、未だ世界遺産の登録が決定していなかった為です。因みに、琉球大学が現在地に移転したのは、昭和53年(1978年)です。其れから、1992年の沖縄復帰二十周年に間に合う様に、日本中から宮大工が招集されて、急ピッチで工事が進められました。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月21日]
王位継承を廻る王族の争いから、当時は国殿と呼ばれていた正殿を焼失した、志魯、布里の乱が起こった1453年は、オスマントルコ帝国のメフメット二世が、コンスタンチノープルを攻略して、東ローマ帝国が滅亡した年でもあります。琉球史と、日本史、世界史を年表で比較すると、意外にも歴史的な出来事が同じ年に起こっている事に気付きました。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月21日]
尚巴志が、琉球を統一した1429年はジャンヌダルクが、オルレアンを開放した年でもあります。ユーラシア大陸の東西で、歴史的な出来事が同じ年に起こっているのを知ると、感慨深いものがあります。もしかしたら、尚巴志はジャンヌダルクを知っていたかも知れないです。理由は、二つあります。理由の一つに、当時は大琉球大交易時代で、中でも尚巴志の時代は、琉球と東南アジアの交易が、大琉球大交易時代237年間で最も盛んな時期でした。もう一つの理由が、当時の明が、鄭和に命じて大艦隊で七度も、遠征させた事にあります。鄭和の大艦隊は、この時期にはアラビア半島と、アフリカ大陸に到達しています。其の事から、尚巴志がジャンヌダルクの事を、知っていた可能性は、十分あります。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
度々失礼しました。追放しまいます→追放されてしまいます、です。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
失礼しました。金丸が追放されたのは、伊平屋島では無く、伊是名島です。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
第二尚氏初代尚円王が、かつては内間金丸を名乗り、尚泰久、尚徳の二代に使えていながら、1469年にクーデターに依って、王位を簒奪した事は書き込みましたが、尚泰久と出会う前の金丸だった時代について書き込みます。金丸は、伊是名島出身です。伊是名島の近くに在る、伊平屋島は、尚巴志の祖父、鮫川大主の出身地です。金丸は、伊是名島で百姓でした。ある年、伊是名島が干ばつの為に、水不足になっていたにもかかわらず、坂田と呼ばれていた山の斜面に在った金丸の田んぼだけは、水が一杯だったそうです。その為に、真相は金丸が毎日、自分の田んぼから遠く離れた場所に在る水溜まりから汲んでいたにもかかわらず、他の田んぼから水を、盗んだと疑われて、伊平屋島から追放しまいます。追放された金丸は、沖縄本島北部の国頭村にたどり着きます。しかし、其処でも水泥棒と疑われて追放されてしまいます。国頭村から追放された金丸が放浪中に、越来城付近で越来王子尚泰久と出会う事になります。それからの金丸の人生については、既に書き込みしている為、此処では多くは書き込みません。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
1469年、内間金丸はクーデターに依って、尚徳王から王位を簒奪します。そして、懐柔工作に決して屈しなかった、鬼大城、知花按司大城賢勇を滅ぼします。第一尚氏は、1406年の初代尚思紹王の即位から63年、七代で滅亡します。七代と言っても、四世代です。第二尚氏が十九代、四百年も続いて、現在も直系の子孫が家系を残しているのと、比べると短いです。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
尚徳王が喜界島に遠征した1467年は、歴史好きならば応仁の乱が起こって、戦国時代が始まった年だと気付かれると思います。内間金丸は、御物城鎖側であった為に、応仁の乱が起こった事に気付いていました。そして、下剋上に因る天下盗りと言う自らの野望を実現する為に、尚徳王不在の首里城で重臣達の懐柔工作を、実行していきます。尚徳王が喜界島遠征から帰国した時には、既に重臣達の殆どは、内間金丸の手の内にありました。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
尚泰久王が1459年に崩御した後、1460年に即位したのは、尚泰久の三男で八幡王子と称されていた尚徳です。尚徳は、百十踏登の腹違いの弟です。長男と次男が存命していたにもかかわらず、尚徳が即位出来たのは、長男と次男の母親が百十踏登と一緒だったからです。つまり、逆臣である護佐丸の血を引く王子が排除された為です。若く血気盛んな尚徳王は、父の時代からの重臣達に成果を見せようと、この頃に入貢しなくなっていた喜界島を、成敗するために1467年に遠征します。この時に、喜界島を成敗した後に無事帰国出来る様に、八幡神に祈願して成就した記念として尚氏の家紋は、八幡神の神紋である左三つ巴を採用したとされていますが、実は尚巴志の時代から既に左三つ巴は採用されていました。舜天王統初代の舜天王が、源為朝の息子であると言う伝説に因んで、源氏が好んで信仰していた八幡神の加護を、得ようして採用しています。尚徳王が領地に因む〇〇王子では無く、八幡王子だったのはその為です。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
尚泰久が越来王子であった若い頃、伊是名島出身の金丸と、越来城付近で出会います。そして、金丸を自分の側近である、家来赤頭(げらいあくがみ)として雇用します。金丸は、尚泰久が即位した後は、西原町内間の領地を与えられて、内間金丸と名乗ります。1458年の護佐丸、阿麻和利の乱の頃には、御物城鎖側(うむぬぐしくさすぬすば)と言う、琉球王国の交易における最高責任者に任命されます。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
首里城は、第一尚氏時代の1453年に、尚巴志の五男で、第一尚氏第五代琉球国中山王である尚金福王の崩御後、尚金福王の長男の尚志魯と、尚巴志の六男で、尚金福王の弟の尚布里による、王位継承を廻る争い、志魯、布里の乱に依って当時、国殿と称されていた尚巴志が築城した頃の正殿を焼失してしまいました。志魯、布里の乱で、尚志魯は戦死し、生き残った尚布里も重症を負った為に、尚布里の弟で尚巴志の七男の、越来王子尚泰久が、第一尚氏第六代琉球国中山王として即位しました。尚巴志が築城した頃の正殿は、高麗系の瓦葺きですが尚泰久が再建した時の正殿は、板葺きでした。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
尚巴志が、浦添城から首里城に遷都したのは1427年頃です。首里城の築城の様子が刻まれている、安国山樹木碑が1427年に制作されている為、この頃に首里城が完成したようです。尚巴志は、首里城を築城する時に堀の代わりに、首里城の畔にある龍潭を造成しました。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月17日]
首里城の別称に、中山城(ちゅうざんぐしく)も有ります。尚巴志が、浦添城から本拠地を移転した時に、琉球国中山王の居城なので、浦添城の別称を継いでいます。大正時代迄、守礼門と同形の中山門が、伝統工芸館・首里琉染の店先に有りました。守礼門が、上の綾門(うぃーぬあやじょう)、中山門が下の綾門(しちゃぬあやじょう)とも呼ばれていた為に、守礼門と首里琉染の間の道は、綾門大道(あやじょううふみち)となっています。首里城の呼称は、第一尚氏王統時代(1422年から1469年)は、百浦添城(むんだすいぐしく)か、中山城で、第二尚氏王統時代は、首里城(すいぐしく)か、中山城です。御城(うぐしく)は、庶民が国王の居城に対して、尊敬を込めて呼んでいた呼称です。江戸城を、皇居と呼ぶのと一緒です。歴史を踏まえると、首里城は、百浦添城(ももうらそえぐすく、むんだすいぐしく)か中山城(ちゅうざんぐすく、ちゅうざんぐしく)と呼ぶべきです。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月15日]
首里城の本来の名称は、百浦添城(ももうらそえぐすく)です。尚巴志が、父、尚思紹の崩御後に、琉球国中山王に即位してから、本拠地を浦添城から現在の、首里城に移した時は、浦添城よりも、繁栄するようにとの願いを込めて、百浦添城と命名しています。百浦添城から首里城に、変わったのは、琉球語の発音が関係しています。琉球語では、百浦添は、むんだすい、と発音します。首里は、すい、と発音します。そして、現在の日本語でもよく使う単語は、省略されるので、すい、は、むんだすい、の省略形になります。本来ならば、漢字で書くと、百浦添の省略形だから、添城のはずですが、首都の意味を持つ首里城の表記になっています。尚巴志が首里城に、本拠地を移転する時に、護佐丸が、中心となって、工事しています。護佐丸は、尚巴志と共に、沖縄本島に有る世界遺産の五つの城、全てに関係する凄い人物です。因みに、第一尚氏時代は、正殿は、国殿と呼ばれていました。

陸前守、夏も戦国浪漫を..様[2018年05月22日]
正殿は完成していました。有料でしたが、中に入りました。展示物が綺麗で素晴らしかったです。ついでに、記念コインもゲットしました(^^)人(^^)

播州の穴様[2017年11月16日]
最近は中華、韓国系の人が多いので首里城に来ていても異国語が賑やかで沖縄にいる気がしませんね。゚(゚´Д`゚)゚。

ぁさ様[2017年11月15日]
正殿まだ塗り直し期間中でした

内匠頭☆あんず様[2017年10月31日]
プチ情報です。
最近は火曜日、木曜日は台湾から船に乗って観光客が来るのでメチャ混みだそうです。
いま正殿真正面で塗り替え作業を行なっており足場が組まれてます。年内かかるそうです。

首里城スタンプラリーというものをやっています。『100名城スタンプ』とは違う首里城独自のものです。全部で25ヶ所、スタンプの数でもらえる景品が違います。

スタンプ10個 → 30分位かかるかな。
スタンプ全部 → 90分はかかるかな。
☆スタンプ10個集めると記念シール、
☆スタンプ10個・正殿スタンプ・クイズ挑 戦をして記念シールと首里城グッズ、
☆スタンプ全部・クイズ挑戦をして記念シール・首里城グッズ・キッズガイド・国王印

ちなみに私は、ツアー参加者なので30分しか時間がなく、スタンプ15個と正殿スタンプで記念シールとミニクリアファイルをゲット。景品は変わるみたいです。交換場所はバス駐車場の総合案内所でした。

KAZ右衛門督正勝様[2017年10月28日]
レンタカーのナビがポンコツなのか…
僕がポンコツなのか(//∇//)
坂道を途中で右に折れてしまい
裏口?に誘導されて、ぐるっと廻って
龍潭通りから攻城させて頂きました(//∇//)

円覚寺の前を通って、久慶門の下→
守礼門→歓会門と上がって奉神門から
各建物の中を一巡して西のアザナ→木曳門
→玉陵→弁財天堂を巡って2時間弱でした。

いやー…琉球王国の石垣を侮っておりました(//∇//)
ごめんなさいm(_ _)m
なかでも、久慶門とその左手奥の石垣には!o(≧▽≦)o
今後訪問予定の今帰仁城にワクワクです!

玉陵は『たまうどぅん』って読むんすねー
300円と別料金でしたがあまり人が
居なかったので、逆に神聖な雰囲気を
存分に堪能させて頂きました。

いやー!沖縄に来て正解でした!(^O^)/
台風には、ちとイジメられてますが…
σ(^_^;)

棚原宮内卿護佐丸様[2013年01月26日]
園比屋武御嶽石門(世界遺産)脇の坂道を龍潭に向かい降りると、両脇に沖縄戦時の「第32軍司令部壕」地表部が残っています。一応、解説板があります。
また、首里城有料エリアを回って「右掖門」から出ると、左手城壁に戦前からの遺構と復元城壁の境が分かるようになっています。
戦跡としての一面を見る時の参考になれば幸いです。

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