三重城(みーじょう)

三重城の基本情報

通称・別名

三重グスク、王ヌ大比屋(おひや)城

所在地

沖縄県那覇市西3

旧国名

琉球国

分類・構造

山城

天守構造

なし

築城主

王農大親(おーぬうふや)

築城年

16世紀後期

主な改修者

主な城主

王農大親

廃城年

明治12年(1879)

遺構

曲輪、石垣

指定文化財

再建造物

碑、石垣

周辺の城

天久城(沖縄県那覇市)[2.8km]
豊見城城(沖縄県豊見城市)[3.5km]
長嶺城(沖縄県豊見城市)[4.9km]
首里城(沖縄県那覇市)[5.4km]
伊祖城(沖縄県浦添市)[7.6km]
浦添城(沖縄県浦添市)[7.6km]
幸地城(沖縄県中頭郡)[8.3km]
南山城(沖縄県糸満市)[9.9km]
島添大里城(沖縄県南城市)[10.0km]
八重瀬城(沖縄県島尻郡)[10.7km]

三重城の解説文



三重城(みえぐすく、沖縄語:みーぐしく)は、沖縄県那覇市にある琉球のグスクである。那覇港の国場川北側の河口に位置している。

歴史 

三重城は、1546年に尚清王が那覇港の北口に築いた[1]。姉妹城である屋良座森城と並んで、那覇港と市街地を守るために建てられた。この2つの城の間には、鉄の鎖でできたブームネットを張って、船が港に入れないようにできた[2]。三重城は2つの城のうち小さい方だが、7~9cmの大砲で武装していた。防御側は槍や国産のハンドキャノンで武装していた。これらの防御は海賊に対するものであったが、1609年の薩摩の琉球侵攻の際には、薩摩の艦隊を追い払うことに成功した。その後も海賊対策のために利用されたが、一般的には市民が船の出入を見るために利用されるようになった。

もともと、城は海上に建てられ、本土につながる長い土手道があった。しかし、時が経つにつれて、土手道と北側の陸地の間に土砂が堆積し、土手道が海岸の役割を果たすようになった。1879年に琉球王国が日本に併合された後、城には望楼が建てられた。現在は海上保安庁の監視塔が建っているが、敷地自体は一般公開されている。

三重城の口コミ情報

2018年06月17日 後中城按司 知名朝安
三重城

三重城の対岸に有る屋良座森城(やらざむいぐしく)は、現在は米軍施設、那覇軍港となっていますので、立ち入り禁止です。琉球王国時代は、対海賊用の砲台として、三重城と共に、那覇港を、守備していました。1609年の島津家久軍の琉球制服の時には、三重城と屋良座森城の間を、鎖で繋いで島津の軍船が、那覇港に入港するのを阻止したそうです。琉球王国軍が、首里城を守りきれなかったのは、今帰仁城と、浦添城を攻略した、陸路からの別動隊に、背後から強襲されたからだそうです。琉球王国軍は、島津家久軍が首里城に攻めて来るのは、海路からで陸路からは、攻めてこないと考えていたそうです。話は変わりますが、三重城から写真を撮る時は、那覇港が右側に写るようにすると、那覇空港から離陸する旅客機と、那覇港に停泊するクルーズ船のツーショットが撮れます。

2018年06月16日 後中城按司 知名朝安
三重城

三重城(みーぐしく)は、琉球王国時代に、対岸の屋良座森城(やらざむいぐしく)と共に、対海賊用の砲台として建設されました。三重城は、本来は新城と表記します。琉球語の、みーぐしく、とは新しい城と言う意味です。新城が三重城に変わったのは、1609年の島津家久軍の琉球制服後、薩摩藩の役人が、みー、を、みえ、と聞いて、三重の字で表記したためです。その為、今では地元の住民でも、みーぐしく、と発音せずに、みえぐすく、と発音します。城好きならば、みーぐしく、と正しく発音するべきです。

三重城の周辺スポット情報

 御物城(周辺城郭)

 屋良座杜城(周辺城郭)

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