豊見城城(とみぐすくじょう)
豊見城城の基本情報
通称・別名
- 豊見城グスク、豊見グスク
所在地
- 沖縄県豊見城市豊見城863(豊見城城址公園〔閉園中〕)
旧国名
- 琉球国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- なし
築城主
- 汪応祖(おうおうそ)
築城年
- 14世紀後期〜15世紀前期
主な改修者
- -
主な城主
- 汪応祖
廃城年
- -
遺構
- 石垣
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
長嶺城(沖縄県豊見城市)[2.1km]
三重城(沖縄県那覇市)[3.5km]
首里城(沖縄県那覇市)[4.9km]
天久城(沖縄県那覇市)[5.1km]
南山城(沖縄県糸満市)[6.7km]
八重瀬城(沖縄県島尻郡)[7.2km]
島添大里城(沖縄県南城市)[7.7km]
幸地城(沖縄県中頭郡)[8.0km]
浦添城(沖縄県浦添市)[8.3km]
糸数城(沖縄県南城市)[8.8km]
豊見城城の解説文
豊見城城の口コミ情報
2024年02月11日 た〜くん下総守
豊見城城
2024/02/07現在立ち入り禁止でした。
2022年02月20日 特にありません
豊見城城
雨中登城なので深入りせず。そして多分二の丸と思われる場所で濃厚接触者用のPCR検査会場になっていた。
2019年04月29日 鵲
豊見瀬御嶽[豊見城城 寺社・史跡]
城内にあった水や雨を司る龍神が祀られているとされる祠
2019年04月29日 鵲
駐車場[豊見城城 駐車場]
空手会館の駐車場が最寄りです。
奥まで車で行けますが、駐車場はありません。
2019年4月28日現在。
2018年07月23日 後中城按司 知名朝安
豊見城城
豊見城城の本来の正式名称は、豊見城です。城城とは重ねないのですが、今では、城城と重ねて呼ばれています。理由は、中城城の口コミに投稿しました様な、所在地の自治体と区別する為です。豊見城だけだと、豊見城市なのか、豊見城の城なのか、紛らわしいとの理由で、豊見城城と呼ばれるのが、慣例になっています。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
豊見城城
南山王の居城がクーデターによって、豊見城城から南山城に移ったと書き込みましたが、切っ掛けは島添大里城の口コミに書き込みしたように、南山の王位を廻る兄弟の争いです。1403年から当時の中山王だった、浦添城の城主である武寧の支援を受けて、汪応祖が南山王に即位します。此れを認めない達勃は、密かにクーデターを起こして王位を簒奪する機会を伺います。そして1414年、汪応祖を殺害します。しかし汪応祖の長男である他魯毎との戦い敗れ、久米島に逃亡します。達勃は、久米島で真達勃按司と名乗り、(久米島)具志川城の城主になります。達勃と他魯毎が争っている隙に、豊見城城は尚巴志に攻略されます。他魯毎は、達勃との戦いに勝ったにもかかわらず、尚巴志に破れた為に南山城に逃亡します。その為に南山王の居城は、豊見城城から南山城に移りました。南山王の居城は、尚巴志の攻略に因って、島添大里城→豊見城城→南山城と南に後退していきます。
2018年06月17日 後中城按司 知名朝安
豊見城城
豊見城城は、1403年から1414年迄は、南山王の居城です。城主の汪応祖が、この期間、南山王だったからです。クーデターが起きた為に、南山王の本拠地は、1415年からは、糸満市の南山城になりました。この時に、尚巴志に攻略されて、中山の勢力圏に入ります。尚巴志は、豊見城城攻略した翌1416年に、南山城ではなく、北山王の居城であった今帰仁城を、攻略します。
概要
字豊見城集落の東北側にある丘陵上に形成されたグスクであり、現在は民間企業によって公園としてとして管理されている。東側に饒波川、北側には漫湖を望む位置にグスクがあり、東側と北側は崖となり、西側は急斜面となっている。南側は穏やかな平地となっている。
村史によれば、このグスクの城主は後に山南王となった汪応祖といわれ、最終的には中山によって、火攻めで落城したことが記載されている。さらにグスクの規模や特徴などを記している。これによると面積は11,079坪(訳36,624㎡)で、南北に長く、南には南風原門、北には西原門があり、城壁は小さい野面積みとなっていたということを示している。本グスクは、三の郭からなる連郭式のグスクと考えられている。