島添大里城(しましいおおざとじょう)

島添大里城の基本情報

通称・別名

島添大里グスク、大里グスク、ウフザトグスク

所在地

沖縄県南城市大里大里

旧国名

琉球国

分類・構造

山城

天守構造

なし

築城主

汪英紫(おうえいじ)?

築城年

14世紀

主な改修者

主な城主

島添大里按司、尚巴志

廃城年

遺構

曲輪、石垣、井戸、拝所

指定文化財

国史跡(島添大里城跡)

再建造物

説明板

周辺の城

佐敷城(沖縄県南城市)[3.6km]
糸数城(沖縄県南城市)[3.9km]
玉城城(沖縄県南城市)[5.1km]
幸地城(沖縄県中頭郡)[5.2km]
首里城(沖縄県那覇市)[5.3km]
垣花城(沖縄県南城市)[5.4km]
長嶺城(沖縄県豊見城市)[5.6km]
知念城(沖縄県南城市)[6.0km]
八重瀬城(沖縄県島尻郡)[7.2km]
浦添城(沖縄県浦添市)[7.3km]

島添大里城の解説文



島添大里城(しましーうふざとぐすく)、史跡名:島添大里城跡(しましーおおざとじょうせき)は、現在の沖縄県南部にあった城(グスク)である。別名を大里城。

2005年まで存した自治体の大里村(現南城市)の村名は、このグスクの名に因む。現在は廃墟となっているが、2012年1月に国の史跡に指定されている[1][2]

歴史 

島尻地域の東半分を支配下においた島添大里按司[3]の居城であったが、佐敷グスクにあった尚巴志によって1402年[4]に落城し、以後は第一尚氏の勢力圏に入った。尚氏時代は離宮として少なくとも15世紀中ごろまで使用されていた。首里城と並ぶ壮麗な宮殿であったという。1683年には清の冊封使が廃城した大里城を訪れている。南山王国国王の居城[5]とされるグスクの一つ。他に南山城(島尻大里城)説があり[6]、見解が分かれている。[7]

沖縄戦では城内に陣地が置かれて建築資材に城壁が転用され、米軍の攻撃も相まって、大きな被害を受けた。戦後も復興資材に使われた結果、大半の遺跡は消失した。1961年に米軍の資材供与を受け公園事業として展望台やコンクリート道が整備され、その後私設のグスク公園(のち営業終了して大里村の公園になる)が建設され、島尻地域唯一のレクリエーション施設として賑わったが、城跡は一部改変された。平成2年度から発掘調査が始まり、戦後の公園事業の構造物を撤去しながら整備が進んだ。2012年1月には国の指定史跡となった。

島添大里城の口コミ情報

2024年10月19日 RED副将軍
ミーグスク[島添大里城  周辺城郭]



島添大里城の出城とされるグスク🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。島添大里城の出城とされ、物見として機能したと考えられています。

見所
島添大里城の東に位置する中城湾を一望できる標高160mの丘陵端に築かれており、東に勝連城、中城城、佐敷上城、北に首里城などの南山王と争っていた主要なグスクを望める立地です。現在は展望台となり、展望台の脇には拝所があります。

2024年10月18日 RED副将軍
ギリムイグスク[島添大里城  周辺城郭]



島添大里城の前身の古城🏯

オススメ度 ★★★⭐︎⭐︎

築城年代は不詳。島添大里城の前身であり、当地の政治的支配者であった玉村按司の居城であったと云われています。
玉村按司は南山王の叔父となる汪英紫に滅ぼされたと云われ、ギリムイグスクは島添大里城が築かれると出城や物見として利用されたと考えられています。

見所
島添大里城の入口から道を挟んで反対側の小高い丘の上に築かれています。
古いグスクであり、複数の墓所や拝所などが確認できます。

2024年10月17日 RED副将軍
島添大里城



南山王国国王の居城とされるグスク🏯

オススメ度 ★★★★⭐︎

島添大里城(しましーおおざとぐすく)と読みます。

築城年代は不詳。築城主には諸説あり、ギリムイグスクの按司であった玉村按司であるとか、島添大里按司であると云われていますが定かではありません。
三山時代には大里・佐敷・知念・玉城地域を支配下に置き、明王朝とも貿易を行うほどに勢力を拡大した島添大里按司の居城となっていました。
当時の沖縄本島は北山国、中山国、山南国に分かれており、その勢力の規模から島添大里按司は山南王であり、島添大里城はその王城であったとも考えられています。
しかし、1402年に佐敷小按司であった尚巴志は島添大里城を攻め落とします。尚巴志は居城も島添大里城に移し三山統一の足掛かりとしました。
三山統一を成し遂げた尚巴志は首里城を築いて移りましたが、島添大里城は離宮として整備され、首里城に次ぐ正殿が築かれたとされます。

見所
標高155mの丘陵上に築かれており、現在は国史跡に指定され公園整備されています。
公園入口から直ぐの広場が外郭であり、石塁やチチンガと呼ばれる井戸があります。
その奥の小高い部分が内郭であり、正殿が築かれていたとされます。内郭にも石塁があり西端部に島添大里按司の墓があります。

2024年04月21日 気分爽快豊後守
島添大里城



現地案内板からは、幾重にも石垣に囲まれた城の様子が伺えるが、残念ながら石垣は破壊されて石が散乱している状態となっていた。
入口近くのチチンガーの石積みは綺麗だった。
①チチンガー底から見上げた
②カニマン御嶽に向かう石段
③カニマン御嶽下の遙拝所
④ティンチジ
⑤一の郭内部
⑥スクナシカーの石積み
⑦二の郭から一の郭への石段
⑧二の郭周りの石

2021年04月04日 琉球守風のこうちゃん播守
島添大里城



「大里城跡公園」をナビで設定して行った方が良さそうです☝️どの方角から行くにしても右左が多いですね😑グスクの規模は大きいと思います🤗ここでお弁当食べても有りみたいな感じです🥰
現地、駐車場有りでトイレは駐車場の所に有る博物館の🚻が使用出来るとおもいますが、当方訪問時は閉館でした😑

2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
島添大里城

失礼しました。島添大里按→島添大里按司です。

2018年06月19日 後中城按司 知名朝安
島添大里城

汪英紫は、甥の承察度王をクーデターによって、追放して後に南山王叔として、南山の実権を握ります。南山王の叔父だから王叔です。そして三男のやふすを、自分の後継者に指名します。その為に、汪英紫の死後にやふすが島添大里按として、島添大里城の城主になります。

2018年06月19日 後中城按司 知名朝安
島添大里城

島添大里城は、南山王だった承察度の居城でした。1394年頃、承察度王は、叔父である汪英紫のクーデターによって、島添大里城から追放されてしまいました。そして、山南王温沙道として朝鮮王国に亡命しました。承察度王は、帰国出来ずに1398年に朝鮮王国で病死しました。前年の1397年に汪英紫が病死していた為に、南山の王位を廻って汪英紫の遺児である、長男の八重瀬按司達勃(たぶち)、次男の豊見城按司汪応祖、三男の島添大里按司やふす(漢字忘れました)の三兄弟が争いました。その為に南山は、内戦状態になります。南山の混乱に乗じて、尚巴志は1402年に島添大里城を攻略します。この時に日本で最初に戦で鉄砲(明製、石火矢)が使用されました。この時にやふすは、戦死しました。1402年の島添大里城攻略戦は、「尚巴志、琉球統一への最初の戦い」です。

2018年06月17日 後中城按司 知名朝安
島添大里城

島添大里城が、南山の本拠地だったのは、1402年に、尚巴志が攻略するまでです。尚巴志が攻略してからは、中山の勢力圏に入ります。1403年から1414年迄は、豊見城城が南山王の居城です。1415年からは、糸満市に在る南山城が南山王の居城です。

2013年08月17日 たうべ
島添大里城

頂上からの眺めがきれい
全体的に整備されてて歩きやすいしおすすめの城
ただでっかいクモとかいるので注意

近くに出城があるっぽいのでまた行く機会があれば行ってみたいかな

島添大里城の周辺スポット情報

 チチンガー(遺構・復元物)

 大里城跡説明板(碑・説明板)

 島添大里グスク説明板(碑・説明板)

 ミーグスク(周辺城郭)

 ギリムイグスク(周辺城郭)

 大里城趾公園体験交流センター(関連施設)

 休憩所(関連施設)

「ニッポン城めぐり」を始めるには?

「ニッポン城めぐり」は、iPhone・androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「ニッポン城めぐり」 ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore