八重瀬城(やえせじょう)
八重瀬城の基本情報
通称・別名
- 八重瀬グスク、富盛城(ともいじょう)、富盛グスク
所在地
- 沖縄県島尻郡八重瀬町字富盛
旧国名
- 琉球国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- なし
築城主
- 汪英紫(おうえいじ)
築城年
- 14世紀
主な改修者
- -
主な城主
- 八重瀬按司
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、拝所
指定文化財
- 町史跡
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
南山城(沖縄県糸満市)[3.1km]
具志頭城(沖縄県島尻郡)[3.2km]
糸数城(沖縄県南城市)[4.6km]
玉城城(沖縄県南城市)[6.1km]
長嶺城(沖縄県豊見城市)[6.3km]
豊見城城(沖縄県豊見城市)[7.2km]
島添大里城(沖縄県南城市)[7.2km]
垣花城(沖縄県南城市)[7.3km]
佐敷城(沖縄県南城市)[7.6km]
具志川城(沖縄県糸満市)[8.0km]
八重瀬城の口コミ情報
2024年04月22日 RED副将軍
八重瀬城
のちの南山王である汪英紫の居城とされるグスク跡
オススメ度 ★★⭐︎⭐︎⭐︎
築城年代は不詳。三山時代である14世紀に八重瀬按司により築かれたその居城とされます。
この八重瀬按司は南山王である承察度の叔父で二代南山王となった汪英紫であったと考えられています。
汪英紫が島添大里城へ移ると長男の達勃期が城主になったとも伝わりますがいずれも定かではありません。
南山王朝が滅亡した後は尚巴志の四男が八重瀬按司に配されている事から、第一尚氏王統の時代までは用いられていたと思われます。
見所
八重瀬岳の中腹の標高105mから125mに築かれています。
蔵当と本殿の二つの郭と最高所には物見跡が連なる連郭式のグスクです。
沖縄戦において日本軍が潜んでいた際に爆撃を受けており、石積み遺構が僅かに残ります。物見の石積み上がコンクリートで固められて歩道となっているのが残念。
グスク内には「城火の神」「ナカジク火の神」「グスク井泉」と呼ばれる三ヶ所の拝所・井泉があり信仰の対象となっています。
現在は八重瀬公園として整備され、広い駐車場もあります。
2024年04月21日 気分爽快陸奥守
八重瀬城
駐車場から階段を登ると本殿跡があります。
階段横には野戦病院跡の壕がありました。
①本殿南の石積み
②本殿跡
③物見台への石段
④物見台
⑤物見台石段から見た本殿跡
⑥白梅学徒病院壕跡
⑦⑥入口付近の石積み
2022年03月28日 笑門来猫
当銘蔵城[八重瀬城 周辺城郭]
南山王配下の当銘蔵(テミグラ)按司の居城で、周囲を見渡せる小高い丘の上にあります。現在はテミグラの杜として整備され、万里の長城?のような通路が長く伸びています。
グスク周辺の八重瀬町はシーサーのルーツ「石獅子」が初めて造られた地で、現在も古いものが多く残り、集落を見守っています。
2021年04月07日 播磨守風のこうちゃん播守
八重瀬城
八重瀬公園を目指して行きましょう💨
ここは八重瀬城跡の下にあるガマを利用した戦時中の「第24師団第一野戦病院」跡でも有ります😖
墓標の横にロープ張ってる所は重傷者の手術室跡です。
現地、駐車場🅿有り。トイレも有り、自販機も有ります。
2019年04月29日 鵲
城壁[八重瀬城 遺構・復元物]
2019年4月28日現在、崩れているためか、ロープがあり、中に入れませんでした。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
八重瀬城
八重瀬城の城主は、汪英紫と彼の長男の達勃が有名です。島添大里城と、豊見城城の口コミに書き込みしたように、汪英紫は、承察度王の叔父ですが、1394年頃にクーデターを起こして、甥の承察度王を島添大里城から追放しました。その後、南山王叔として南山の実権を握ります。汪英紫が、島添大里城の城主となってからは、達勃が八重瀬按司を世襲して、八重瀬城の城主になります。そして、1414年に、クーデターを起こして、弟である豊見城城の南山王、汪応祖を殺害しました。しかし、汪応祖の長男の他魯毎の逆襲にあい、久米島に逃亡して、真達勃按司と名乗り(久米島)具志川城を築城しました。達勃との戦いに勝利した他魯毎が、尚巴志に破れた後に、八重瀬城では無くて南山城に逃亡したのは、父を殺害した達勃の居城には、住みたくなかったからです。
2016年10月14日 立花左近将監統虎
八重瀬城
県道52号線に目印の看板があり、坂を登ると公園の駐車場があります。
八重瀬岳の中腹にある公園内が八重瀬城跡です。
公園入口の右側の階段を登ると、左手に本殿跡、物見台跡が見えてきます。
この八重瀬城には「カニカマルー」という鋼鉄の身体と怪力を持つ英雄伝説があり
彼が残した拳跡、足跡がグスクのどこかに残っているとか??