浦添城(うらそえじょう)
浦添城の基本情報
通称・別名
- 浦添グスク
所在地
- 沖縄県浦添市仲間2
旧国名
- 琉球国
分類・構造
- 山城
天守構造
- なし
築城主
- 舜天王
築城年
- 13世紀頃
主な改修者
- -
主な城主
- 舜天王、英祖王統、察度王統、尚氏
廃城年
- 慶長14年(1609)
遺構
- 曲輪、石垣
指定文化財
- 国史跡(浦添城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
伊祖城(沖縄県浦添市)[1.6km]
幸地城(沖縄県中頭郡)[2.3km]
首里城(沖縄県那覇市)[3.6km]
天久城(沖縄県那覇市)[5.0km]
長嶺城(沖縄県豊見城市)[7.3km]
島添大里城(沖縄県南城市)[7.3km]
三重城(沖縄県那覇市)[7.6km]
北谷城(沖縄県中頭郡)[7.7km]
中城城(沖縄県中頭郡)[8.0km]
豊見城城(沖縄県豊見城市)[8.3km]
浦添城の解説文
[引用元:Wikipedia「浦添城」の項目]
浦添城(うらそえじょう、浦添城跡)は、沖縄県浦添市にある城(グスク)跡。1989年(平成元年)8月11日、国の史跡に指定されている()。浦添城跡北側崖下中腹には浦添ようどれがある。
概要
土台は隆起珊瑚礁が長さ約400メートル続いている断崖の上に築かれた。舜天王の時代に創建され、12世紀-15世紀初頭にかけて舜天、英祖、察度の3王朝10代にわたって居城した所との伝承をもつが史実かどうかについては確証を欠いている。規模は、東西約380メートル、南北約60ないし80メートルで、北は急崖をなしているが、南は緩斜面となっている。
歴史
城内の建物は再三にわたり改築されているが、最後のものは1609年(慶長14年)、薩摩軍の侵攻に遭い焼失したと考えられる。
その防衛に適した地形から、沖縄戦では首里周辺の重要拠点として重視された。特に南東部にある崖地付近は前田高地あるいはハクソー・リッジ(Hacksaw Ridge、弓鋸尾根)と称され、日本軍は防衛拠点に位置づけ死守に拘ったため、米軍との間で前後11回にわたる激しい争奪戦、攻防戦が約3週間の間繰り広げられた。陣地攻略を指揮していた米軍第24軍団長のジョン・R・ホッジ少将は「(この砦を)一寸刻みに爆破していく以外に、日本軍を追い出す方法は無いと思う」と述べたとされる。なお、この戦闘ではアメリカ軍衛生兵のデズモンド・T・ドスによる懸命な負傷兵救護が行われた事でも知られる。
備考
浦添城跡には、和光地蔵尊のほか、石原正弘少佐外戦没者慰霊碑、後藤助生慰霊碑、故陸軍伍長小林正雄之碑など多くの慰霊塔がある[1]。
出典
参考文献
『観光と旅47 郷土資料事典 沖縄県』人文社
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浦添城の口コミ情報
2024年07月17日 薩摩安房守義弘維新斎
浦添城
浦添城跡は国指定遺跡であり、戦前の沖縄戦における日米両軍の激戦地。城跡までは、ゆいレールの浦添前田駅を下車し、歩くこと約10分もかからずに到着します。近くには、浦添警察署や浦添小学校があり、その背後地の丘陵が城跡です。
石畳道、城壁、浦添ようどれが復元されており、その中でも浦添ようどれは英祖王と尚寧王の墓で、その墓を琉球石灰岩の石造の石垣で取り囲む形を見ると尊厳です。
また、城跡の端にある浦添グスク・ようどれ館は、入館料が大人100円で古写真、出土品、発掘調査から城や浦添ようどれの歴史がよく理解できます。
最後に、城跡を散策するとガマや慰霊碑がそこかしこあるため、ここが戦地であったと感じます。映画「ハクソー・リッジ」の舞台として有名な場所です。
2024年03月03日 ようくん淡路守
浦添城
浦添グスク・ようどれ館に先に行き、御城印2種購入。ようどれ館には英租王陵墓の中が復元されています。マップを貰い、浦添ようどれ→浦添グスクを周りました。
2021年04月02日 播磨守風のこうちゃん播守
浦添城
石垣跡迄、下りの階段から始まります🤨
浦添城跡の駐車場🅿有り🤗ようどれ館には駐車場とトイレに自販機も有ります!!
2021年03月11日 豊嶋武蔵守カッチャン
浦添城
私がまだ沖縄に居た20年前は、浦添ようどれまでの道は整備されておらず、大変危険なルートでした。またようどれも沖縄戦で石垣が破壊され、風雨に晒されておりましたが、3年程前に帰郷した際に訪れた時には、ルートも整備され、浦添ようどれの石垣まで復元されていて大変感動しました😆
浦添城内には、沖縄学の父❗❗伊波普猷先生も眠っておられます😌
浦添城・浦添ようどれ・伊波普猷先生のお墓参りも一緒にできます😌
また資料館も作られており、浦添ようどれの内部のレプリカも展示されており、大変参考になりました😆
大変満足のいく復元や整備をされておりました😆
2020年12月25日 さすらいの征夷大将軍慶誾尼☆寧
浦添城
琉球ツウの城友に『沖縄本土でどっかオススメの城ない?』と聞いたら『浦添はいかが?』と返ってきた…以前、マニアックな糸数をススメられ怖い思いをしてるだけに今回は大丈夫かしら?と不安の中出発…
ゆいレールで片道半時間程で行けるので、那覇空港での離島乗継時間が数時間あれば行けます…ゆいレール浦添前田駅下車、浦添警察署前を通りすぐ着きます。(レンタカーは必要ないです)まずは浦添大公園南エントランス管理事務所に寄って下さい。事務所には、非常に熱心な案内の方がいらっしゃいます。中には資料もたくさんあり展示物もあります。トイレも完備です…糸数は観光用には整備されていません。と案内されてましたが浦添は観光用にキチンと整備されています。
浦添大公園の中には「浦添城跡」「浦添ようどれ」「浦添貝塚」「伊祖の高御墓」アスレチックや広場まであり県民の憩いの場となってるみたいです〜
ご家族連れでも楽しめるとこです。
★お昼ご飯は
ポーたま 那覇空港国内線到着ロビー店でおにぎりを買って浦添の街を眺めながら食べるのはいかがかしら…
2019年01月26日 徳にぃ図書頭銀座のすずめ
浦添城
駐車場はいくつかありますが、38号線の浦添警察署の左側にある「浦添大公園南エントランス管理事務所」がお勧めです。
展示コーナー(無料)があり浦添城ジオラマ!や瓦などの展示があり説明もして頂けます。沢山の方の来所お待ちしてますとおっしゃってました。トイレも綺麗です。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
浦添城
尚巴志が、浦添城から首里城へ遷都したのは、1427年頃です。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
浦添城
楊載が、里主の里を察度と勘違いしたのは里が、琉球語の発音では、さとぅ、となる為だと思います。楊載は、さとぅ、を、さっとぅと聞いたのだと思います。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
浦添城
世子とは、いわゆる皇太子の事です。尚巴志は、年四回の明への進貢を始めた翌年の1416年に、北山王の居城である今帰仁城を攻略します。その後、1421年に父、尚思紹王が崩御します。翌年の1422年に琉球国中山王に即位すると、明の永楽帝が、其れまでの、明の首都だった南平府(南京)から、北平府(北京)に遷都した事に倣って、浦添城から自ら、百浦添城と命名した首里城へ居城を移します。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
浦添城
尚巴志は、豊見城城を攻略した翌年の1415年に、父の尚思紹の使節とは、別に琉球からの明への進貢は、年二回との明の永楽帝の通達を無視して、琉球国中山王世子尚巴志の名で、年二回も進貢しました。此れは、実は汪英紫がクーデターで承察度王を追放して南山の実権を握った後も、承察度王名義の使節と、南山王叔名義の使節を明に派遣して進貢したやり方です。尚巴志は、父の崩御後に琉球国中山王に即位したら、次男の琉球国中山王世子尚忠の名義を借りて、年四回の明への進貢を続けます。尚巴志が生きていた時は、琉球は守礼之邦ではありませんでした。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
浦添城
浦添城を攻略した尚巴志は、1406年に父親の尚思紹を第一尚氏初代尚思紹王として、琉球国中山王に即位させます。そして自らは、南山の牽制の為に佐敷城に戻ります。そして、1414年に達勃のクーデターが切っ掛けの南山の混乱に乗じて、豊見城城を攻略するのです。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
浦添城
察度王は、明に進貢して大琉球大交易時代の礎を築いた事で、大真物(うふまむん)とも称されます。真物とは、立派な人物と言う意味です。1395年に、察度王が崩御すると琉球国中山王に、察度王の息子の武寧が即位します。武寧王は、立派な人物ではあるが、偉大な父親には及ばないとの評判から、中真物(なかまむん)とも称されます。二代目は、初代に劣る事が多いのは、甘やかされて育つ事が多い為だと思います。武寧王も中真物と呼ばれるように結局 、尚巴志に滅ぼされます。武寧王は、島添大里城、豊見城城、南山城の口コミに書き込みした、南山の混乱を利用して琉球統一を目論見ますが、同じく南山の混乱を利用した尚巴志の謀略が、武寧王の謀略よりも上手でした。尚巴志は、密かに中城城の城主だった先中城按司(さちなかぐしくあじ)を味方につけて、1405年に浦添城を攻略します。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
浦添城
浦添按司の謝名もいが、察度王と呼ばれるようになるのは1372年からです。明の洪武帝は、1368年に元を滅ぼして明を建国したら、周辺諸国に朝貢を促す為の使者を 派遣します。琉球には、1372年に楊載が派遣されました。謝名もいはこの時、謝名里主を名乗っていて、楊載の要請に応じて明に進貢します。琉球史の大琉球大交易時代237年間の始まりです。察度の字は、楊載が里主の里の字を勘違いした為です。明に進貢した謝名里主こと、謝名もいはこの時に洪武帝から琉球国中山王の称号を下賜されました。実は1372年は、大琉球大交易時代の始まりの年であると同時に、尚巴志の生まれた年でもあります。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
浦添城
察度王は、宜野湾市大謝名の出身です。浦添按司として、浦添城の城主になる前は謝名もいと呼ばれていました。宜野湾市には、天女の羽衣伝説があります。察度王の母親が、天女だと言う伝説で森川公園がその舞台です。察度王の父親である奥間大親(おくまうふや)がある時、森川の泉で水浴びしていた天女を発見し、一目惚れして天女の羽衣を隠したそうです。羽衣が無いために天に、帰れなくなった天女は仕方なく奥間大親の妻になり、一男一女を産んだと言います。男児が、察度王になる謝名もいで、女児が謝名もいのおなり神のノロだそうです。二人の子を遺して、天女は奥間大親が隠した羽衣を発見して、天に帰ったそうです。成長した謝名もいは、大謝名の里主(今で言うと市町村長)になります。そして1350年に、英祖王統第五代西威王の居城である浦添城を攻略して英祖王統を滅ぼします。浦添按司となった謝名もいが、察度王と呼ばれるようになるのは、1372年からです。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
浦添城
浦添城は、舜天王統三代、英祖王統五代、察度王統二代、第一尚氏初代尚思紹王、第二尚氏第七代尚寧王が浦添王子だった時の居城です。舜天王統三代と英祖王統五代と尚寧王が浦添王子だった時については、私は書き込みしませんので、興味があれば、自分で調べられたら宜しいかと思います。
2018年06月17日 後中城按司 知名朝安
浦添城
浦添城の別称は、中山城(ちゅうざんぐしく)です。1372年に、明の洪武帝に、当時の城主、察度王が進貢した時に、洪武帝から琉球国中山王の称号を、下賜された為です。