中城城(なかぐすくじょう)
中城城の基本情報
通称・別名
- 中城グスク、中グスク
所在地
- 沖縄県中頭郡中城村泊/北中城村
旧国名
- 琉球国
分類・構造
- 連郭式山城
天守構造
- なし
築城主
- 先中城按司
築城年
- 14世紀後期?
主な改修者
- 護佐丸盛春
主な城主
- 護佐丸盛春
廃城年
- 長禄2年(1458)
遺構
- 曲輪、石垣、石門
指定文化財
- 世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)、国史跡(中城城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
北谷城(沖縄県中頭郡)[4.5km]
幸地城(沖縄県中頭郡)[8.0km]
浦添城(沖縄県浦添市)[8.0km]
伊祖城(沖縄県浦添市)[8.3km]
知花城(沖縄県沖縄市)[8.9km]
勝連城(沖縄県うるま市)[9.3km]
屋良城(沖縄県中頭郡)[10.1km]
首里城(沖縄県那覇市)[11.0km]
島添大里城(沖縄県南城市)[11.6km]
安慶名城(沖縄県うるま市)[11.9km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- 99 中城城
設置場所
- 管理事務所の窓口[地図]
中城城の解説文
[引用元:Wikipedia「中城城」の項目]
中城城(なかぐすくじょう)は、沖縄県中頭郡北中城村・中城村に存在した日本の城。15世紀の琉球王国・尚泰久王代、護佐丸のグスク(城)として知られる。築城された時期は不明。ユネスコ世界遺産。
概要
中城城は当時貿易港であった屋宜港から2キロメートルほど離れた標高約160メートルの丘陵上にあり、中城村の北西から南側に伸びていく丘陵の東崖縁を天然の要害とし、グスクの中で最も遺構がよく残っていることで知られている。
石垣の上に立つと西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)、さらには洋上の島々まで見渡せる。
歴史・沿革
創始は明らかではないが、14世紀後半頃迄に先中城按司(さちなかぐずくあじ)が数世代にわたり南の郭、西の郭、一の郭、二の郭の主要部分を築き上げ、1440年に読谷の座喜味城から移ってきた護佐丸盛春によって、三の郭、北の郭が増築され現在の形が完成したようだ。
増築されたその部分の城壁は「相方積み」という高度な技法で積み上げられている。また、裏門以外に一の郭の2つの城門がアーチ式門となっていることから、その時同時に殿舎のある一の郭の城門をアーチ式に改築したと考えられる。
そして、1458年に護佐丸は王府軍としてやって来た阿麻和利の策略(首里王府の策略という見方もある)に攻められ自害して滅びる。その後、「中城王子の居城」→琉球侵攻(1609年)後は「番所」→廃藩置県(1879年)後は「中城村役場」として戦前まで利用されてきた。
また、1609年以後の薩摩藩支配時代は、中国からの冊封使節団が来琉した際、薩摩の役人は自らの存在を中国に知られないためにここに隠れていたという伝承もある。
日本に開国を迫ったアメリカのマシュー・ペリー提督が1853年5月に沖縄本島を訪れ、ここも訪ねた彼の一行は城を見て、城壁、アーチの門の建築土木技術水準の高さに驚嘆し、この城に関する詳細な報告文を書いている。
1945年(昭和20年)沖縄本島では太平洋戦争の沖縄戦により多くの文化財が消滅したが、中城城は戦争の被害が少なかったため、グスクの石積みが良好に残った城だと言われている(戦後に補修が行われた)。
1955年(昭和30年)には琉球政府文化財保護委員会により重要文化財の史跡・名勝の指定が行われた。その後、当城の本丸にホテルを建設する計画が立てられ問題となった(中城高原ホテルを参照)。
1972年(昭和47年)5月15日(沖縄県の日本復帰の日)に国の史跡に指定された。指定面積は110,473平方メートル(約33,400坪)でそのうち14,473平方メートル(約4,300坪)が城郭の面積。現在は補修・復元工事がすすめられている。
2000年(平成12年)11月、首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は中城城跡)。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(99番)に選定された。
2013年(平成24年)「美ら島おきなわ・花と緑の名所100選」(沖縄県)にツワブキの名所として選ばれる。
構造
中城城は連郭式の山城である。六つの郭で構成されている。
城壁は、主に琉球石灰岩の切石で積まれており、石垣には野面積み(南の郭)、布積み(豆腐積み、一の郭、二の郭)、あいかた積み(亀甲乱れ積み、北の郭、三の郭、物見台)が見られ、1853年に来島したペリー提督も『要塞の資材は、石灰石であり、その石造建築は、賞賛すべきものであった。石は…非常に注意深く刻まれてつなぎ合わされているので、漆喰もセメントも何も用いていないが、その工事の耐久性を損なうようにも思わなかった』(日本遠征記)と記し、その石垣のすばらしさを讃えている。
- 一の郭
- 城内で最も広い郭。正殿(せいでん)や護佐丸が宴を催した観月台がある。後に間切番所が置かれ、廃藩置県後は中城村役場に使用されていたが、沖縄戦で消失した。
- 西の郭
- 兵馬の訓練をしたといわれる。長さが東西に120メートルある。
- 南の郭
- 複数の拝所が集中する古い城郭の一つ。
- 二の郭
- 布積みの城壁。
- 三の郭
- 新城(みーぐすく)とも呼ばれ、石積技術の最も進んだ積み方(あいかた積み)によって積まれている。
- 北の郭
- 護佐丸が井戸を取り込み増築したと見られる。
- カンジャーガマ
- 鍛冶屋跡。目的は城のためか集落のためなのか不明。
- 井戸
- 城郭内に水を確保していることがこの城の特徴でもある。
- 護佐丸の墓
- 城郭の200メートルほど東には護佐丸の墓がある。
遺物
14世紀後半から15世紀前半にかけての中国製青磁器が発見されている。
中国明代に開発された銃器の弾丸と推測される金属弾や石弾が発見されている。
その他
1980年には太陽にほえろ!、399話の最終盤から400話冒頭にかけてのシーンの撮影が行われるなど、ロケ地として使用されることがある。
現地情報
交通アクセス
那覇バスターミナルから、以下の路線が運行されている。路線詳細は沖縄本島のバス路線を参照。
- 30番・泡瀬東線(東陽バス)
- 「中城小学校」バス停下車。片道約2km(強健で徒歩30分の登り道)。タクシーで5分。久場崎から行くよりも見晴らしがよく、勾配は緩やか。
- 「久場」バス停下車。バス停付近の久場公民館の左横の急勾配の車道を、中城城へ向けて登る。片道約2km。
- 52番・与勝線(沖縄バス)にて「安谷屋」バス停で下車。バス停からは徒歩(10分以上)もしくはタクシー。
サンエーパルコシティ前から以下の路線に乗車しても行くことができる。
那覇空港や那覇市内の主要地点から北中城村内にあるイオンモール沖縄ライカムまでバスで行けば、正面入口で村内を巡るコミュニティバスグスクめぐりんに乗り換えて城跡入口直前までアクセス可能。
- 61番・前原線(沖縄バス)にて「安谷屋」バス停下車。下車後は同上。
中城公園観覧時間
- 8:30 - 17:30(6月から9月までは8:30 - 18:30)
- 入場締切は閉園の30分前まで。
中城公園観覧料
団体扱いは20名以上。
- 大人:400円(団体300円)
- 中高校生:300円(団体200円)
- 小学生:200円(団体100円)
- 保護者同伴の小学校就学前のものは無料
周辺
周辺は中城公園として整備中(2004年11月)。区域内は禁煙。カンジャーガマ付近から南東に100メートルほどの場所に中城高原ホテルの廃墟がある。また、重要文化財である中村家住宅も近くにある。
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中城城の口コミ情報
2023年01月28日 副将軍じあん
中城城
世界遺産に登録されている風光明媚な城跡。入場料大人1人400円。入口から少し歩くと電動カート乗り場があり登城口まで送ってくれます。
2023年01月18日 笑門来猫
新垣グスク[中城城 周辺城郭]
首里城と中城を結ぶハンタ道。街道沿いには色々な史跡が点在していますが、そのうちの1つが新垣グスク。中城が勢力拡大する前にこの地域を支配したとされる古いグスクで、国史跡にも指定されています。
解説板には発掘調査時の見通しの良い写真が載っていますが、現在は段曲輪(ウチバラノ殿)以外は藪の中。とは言えよーく見れば、葉っぱや蔦に覆われた石積みを確認できます。足下が見えにくく奥は崖地なので注意。
2022年12月02日 モリモン右衛門督
中城城
遺跡としての見応えは抜群でした。築城当時の遺構が7割も残っているそうです。修復途中の首里城よりも存在感ありました。無料カートで入口まで登頂し、帰りは徒歩で、中城城跡を横断、下城します。オススメですよ。
2022年11月22日 笑門来猫
護佐丸歴史資料館[中城城 関連施設]
中城の英雄 護佐丸と中城城に関する歴史展示が充実しています。ワンフロアなので規模は小さめですが、展示内容は新しく、情報も多く楽しめます。入館無料。駐車場完備。レンタサイクルあり。
2022年10月22日 虹雷 大宰大弐 サンダー
中城城
駐車場から入場券を買うと、正門までの急坂をゴルフ場にあるようなカートに乗せて連れて行ってくださいます。だいぶ助かります。また城跡は見事な石垣の曲線美に魅了されるのはもちろんですが、高い石垣の内側を散策できるように整備されているところが多く、まるで見張りで見回りをしているかのような、他の城ではなかなか味わえない醍醐味があります。ぜひ実際に味わって見ていただきたいです。
2022年08月31日 ボン越前守ノジュール
中城城
広い敷地にある歴史を感じる石垣と芝生とのコントラストがものすごくキレイでした
2022年03月01日 笑門来猫
中城城
先週、新聞発表された中城城最古の城壁。護佐丸が入城する以前の城壁で、黒船のペリー随行画家ハイネが描いた絵と一致するとのことです。押さえ石の内側にあったため日焼けしておらず、少し明るい白茶色が目を引きました。護佐丸時代に主流になった あいかた積みではなく、布積みという点も珍しい。
石垣の根元付近(ハイネの絵の中で、城壁に近付き調査している人の足元部分)の発掘調査を行い、当時の築城技術を把握したいとのことです。3月には埋め戻す予定。ハイネの絵は、中城城のパンフレットにも載っています。
2022年01月09日 としchan
中城城
城は入場料かかりますが駐車場料金は無料です。スケールは大きく見事なグスクでした。
工事中のためか順路がわからず逆回りしていたのか一時的に変わっていたのかわかりませんでした。
2021年10月15日 みこ丹後守⛄️
中城城
無料駐車場があります。コロナの影響で、通常されているカート乗車での移動はなく、ゆっくり徒歩で登りました。お天気が良く、柔らかい風が吹き景色も見晴らしも雰囲気も最高な場所でした。
2021年03月04日 豊嶋武蔵守カッチャン
中城城
私的に中城城跡としての見どころは、中城城跡正門側にある銃眼です😊
15世紀の琉球では、戦にて、中国が発明し火縄銃の原型ともなった石火矢も使用されていました。
豊臣秀吉が引き起こした文禄・慶長の役の際、援軍として駆け付けた明軍は、石火矢を装備して日本軍に挑んでいます。
発掘調査により、中城城正門付近より大量の石火矢用の石弾・金属弾が出土しております。
少し歴史の話になりますが、護佐丸は第一尚氏への反乱を企てているとの勝連城主、阿麻和利からの讒言により琉球王朝に攻め滅ぼされますが、実際の反乱計画の有無は今となっては分かりません。
中城城の正門、現本丸は元々存在した中城城に護佐丸が増築した部分です。
護佐丸がわざわざ銃眼を設けた正門を増築し、そこに大量の石火矢の弾を備蓄していたことから、反乱の意志の有無は別として、琉球王朝と事を構えても十分やり合える力は有していたと同時に王朝内に強い影響力を有していたことは容易に推測できます。
その銃眼を眺め、当時を静かに偲ぶのもいかがでしょうか😌
2018年07月21日 後中城按司 知名朝安
中城城
中城城の、本来の正式名称は、中城です。城城とは、重ねないのですが、所在地の自治体が、中城村と、北中城村なので、中城村と、紛らわしいとの理由で、区別する為に、今では城城と重ねて、【ぐすくじょう】或いは、【ぐすくぐすく】と呼ばれるのが、慣例となっています。中城村民は、中城に行くと言うと、中城の城に行く事を示しますが、他の地域の人々に、中城に行くと言うと、中城村なのか、中城の城なのか、分からずに、村か、城、どちらに行くのか、質問されます。沖縄県には、他にも〇〇城城と呼ばれる城が幾つか、有りますが、理由は、中城と同じく、所在地の自治体と区別する為です。城巡ラーとしては、本来の正式名称である、中城と呼ぶのが相応しいと思われます。
2018年07月16日 後中城按司 知名朝安
中城城
中城城の正門は、管理事務所や世界遺産碑の在る方では無く、反対側の中城高原ホテルの廃墟が在る方です。基本的に、沖縄本島に在る城の正門は、首里城に一番近い位置に在る門です。かつて、中城城には、動物園と、遊園地と、博物館が在りました。これ等の施設は、復帰前は利用者が多かったそうですが、復帰してからは、利用者が減って、廃止されました。中城城に停まる路線バスもかつては有りましたが、皮肉にも、世界遺産に登録されてから、利用者が激減して、廃止されています。おそらく、世界遺産登録後に路線バスが廃止された例は、中城城だけだと思われます。
2018年06月22日 後中城按司 知名朝安
中城城
系統番号97番琉大線のバスで、幸地城も攻略出来るのを忘れていました。徳佐田入口バス停で、幸地城が攻略出来ます。世界遺産の城を二つ含めて、合計六つの城を攻略出来る、お得な路線バスです。沖縄観光の際に、利用してみるのも良いかと思います。
2018年06月22日 後中城按司 知名朝安
中城城
系統番号97番琉大線のバスは、那覇バスターミナルから乗車して、中城南小学校前バス停で下車すると、中城城を含めて五つの城を攻略出来ます。那覇バスターミナルでは、三重城城が攻略出来ます。牧志バス停では、天久城が攻略出来ます。沖縄都ホテル前バス停では、首里城が攻略出来ます。厚生園入口バス停では、浦添城が攻略出来ます。そして、中城南小学校前バス停では、中城城が攻略出来ます。
2018年06月21日 後中城按司 知名朝安
中城城
首里城から中城城迄の道は、中頭方東海道、別名ハンタ道、と呼ばれていました。現在、中城村内のルートは遊歩道として整備されています。出発点は、東太陽橋になります。東太陽橋から中城城迄は、5㎞程有ります。体力に自信が有る方は、チャレンジしてはいかがでしょう。中城湾を一望する絶景を見ながら、琉球王国時代の道を歩くのは、楽しいですよ。東太陽橋の場所は、サンエーなかぐすく店の側です。系統番号97番の琉大線のバスに乗って、中城南小学校前バス停で下車します。バス停から琉大東口方面に少し戻ると、丁字路の信号が有ります。信号を左に曲がり、少し歩けば着きます。バス停から東太陽橋迄は、徒歩2〜3分です。
2018年06月21日 後中城按司 知名朝安
中城城
中城城は、毎年秋に行われているプロジェクションマッピングが有名です。世界遺産の石垣をスクリーンにする壮大な物です。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
中城城
1440年に護佐丸が、座喜味城から中城城に転封された時に、どうやら先中城按司は糸満市に在る真栄里城に転封された様です。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
中城城
勝連按司阿麻和利を讃えるおもろが、おもろさうしに集録されているのと同じく、中城按司護佐丸を讃えるおもろも、おもろさうしに集録されています。護佐丸も奄美大島、徳之島、沖永良部島、九州と交易していました。護佐丸は、恩納按司として山田城の城主だった頃から、これらの地域と交易していました。座喜味城、山田城の口コミに書き込みした、座喜味城を築城する時に、山田城の石垣を奄美大島、徳之島、沖永良部島から召集した人夫に運ばせる事が出来たのは、この為です。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
中城城
1458年の護佐丸、阿麻和利の乱の時に、護佐丸が謀叛を起こそうとしていると言う、阿麻和利の讒言に依って、尚泰久王が中城城を阿麻和利と共に、挟み撃ちにしたのは、どうやら尚泰久王の腹心の重臣であり、1469年にクーデターを起こして、琉球国中山王の王位を簒奪する内間金丸(1470年に第二尚氏初代尚円王として即位)の謀略の為の様です。尚泰久王の亡き後に、自分が下剋上で天下を盗る為に、邪魔になりそうな護佐丸を、尚巴志の生前から秘かに、天下を盗る野望を抱き続けた阿麻和利と共に、亡き者にしようとしたみたいです。結果は、内間金丸の思惑どうりになります。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
中城城
1458年の護佐丸、阿麻和利の乱の時、中城城が阿麻和利軍と、尚泰久王の首里王府軍の挟み撃ちにあったのは、中秋の名月の宴の時だそうです。阿麻和利は、勝連城攻略の時と同じ事をしています。宴に夢中で警戒心が和らいだ隙をついて奇襲しています。護佐丸は結局、娘婿の尚泰久王と孫娘婿の阿麻和利とは、雌雄を決する事が出来ずに自害しました。
2018年06月20日 後中城按司 知名朝安
中城城
中城城は一時期、尚巴志の居城でした。豊見城城を攻略した後の二、三年間、先中城按司を佐敷城に転封して、今帰仁城攻略に備えて中城城の城主となります。今帰仁城攻略後、先中城按司と交代して、佐敷城に戻ります。
2018年06月14日 後中城按司 知名朝安
中城城
中城村在住です。地元住民として、正しい中城城跡の知識を紹介します。廃城年は、1458年ではありません。1500年代前半(1500年〜1526年)には、中城王子(なかぐしくあんじ)尚清の居城です。尚清は、1527年に、第二尚氏第四代琉球国王として即位しています。1853年に、ペリーが開国の為に、浦賀に行く前に、琉球王国に立ち寄って、中城城の測量した時は、薩摩藩の役人が大砲を持ち込んで、黒船砲撃の準備をしています。少なくとも、1879年の琉球処分によって、琉球王国が廃されて沖縄県が設置される迄は、実在の城でした。これは、私個人の考えですが、中城城が廃城になったのは、1945年の沖縄戦以後だと思います。日本軍は、沖縄戦の直前に中城城に駐屯していました。これは、日本軍が実在の城として認識していたから、駐屯したと思います。その為、中城城跡周辺は、沖縄戦の最激戦地となっています。この事からも、1458年に廃城などあり得ません。中城城跡の廃城年は、1879年以後(1945年の沖縄戦以後)です。主な城主は、護佐丸と、中城王子尚清(後の第二尚氏第四代尚清王)です。
2018年05月25日 源筑前守ポンコ2…
中城城
豊見城名嘉地ICから北中城ICまで高速で走り、県道81号線安谷屋交差点を右折、県道146号線を道なりに進むと、右手に駐車場が見えます。所要時間45分でした。
駐車場から中城城石垣の遠景が眺められ、丘陵にあるのがわかります。管理事務所で入場料400円払い、指示通り傍のとこから正門前行のカートに乗りました。途中「ハブ注意」の看板を数ヶ所見ましたが、幸い遭遇しませんでした。
カートを降り階段を上がると、正門左に拝所がありました。正門は石のアーチ門でないですが、布積の石灰岩石垣が南国の雰囲気を感じました。正門から南の郭を通り正殿があった一の郭に着くと、二の郭へのアーチ門を正面に左右の石垣に目を奪われました。立入可の石垣上に上がると、海含む周囲の眺望が素晴らしかったです。
アーチ門を潜り二の郭に入ると曲線を描く石垣に惹かれました。三の郭側の石垣がなぜ凹型になってるか気になりました。二の郭から井戸がある北の郭を通り石段を登ると三の郭に。ここは亀甲積石垣と、調べると一番新しいようです。
北の郭に戻りアーチの裏門を潜るまで、滞在時間1時間。裏門、一番立派な門でした。
2016年11月30日 カーネル
中城城
HP等で、東陽バス30系統の泡瀬行きのバスで、中城小学校前バス停から。の案内を見ますが、こちらからだと、道は分かりやすいですが遠いです
その先の久場バス停で下車し、進行方向に進み、久原公民館の信号を左折して坂を登り詰めると中城城の駐車場手前にでます
とはいえ、こちらからでも、まあまあ歩きます
私は、バスを降りてから反対方向に歩き、スマホの地図を見ながら登ったら、中城城前の大通りにつながる最後の登りが完全に藪にとざされており、ハブも怖いので来た道を戻り、遠回りでお城に行きました
お城ですが、数年前に来たときは、発掘調査のためにブルーシートで覆われた箇所がありましたが、それもなくなりキレイに整備されていました
雨の日に行ったときは、石で滑って、お尻とスマホにダメージを受けました
今日は晴れてて見張らしも最高でした
2014年12月02日 柳生兵庫助如雲斎
中城城
最寄りのバス停から歩こうとすると二キロ近く坂道を登らなければなりませんのでご注意を。