勝連城(かつれんじょう)

勝連城の基本情報

通称・別名

勝連グスク

所在地

沖縄県うるま市勝連南風原1710

旧国名

琉球国

分類・構造

平山城

天守構造

なし

築城主

茂知附按司?

築城年

13〜14世紀

主な改修者

主な城主

茂知附按司、阿麻和利

廃城年

長禄2年(1458)

遺構

曲輪、石垣、井戸、拝所

指定文化財

国史跡(勝連城跡)、世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)

再建造物

石碑、説明板

周辺の城

安慶名城(沖縄県うるま市)[6.3km]
平安座西城(沖縄県うるま市)[7.6km]
知花城(沖縄県沖縄市)[7.6km]
中城城(沖縄県中頭郡)[9.3km]
北谷城(沖縄県中頭郡)[11.6km]

勝連城の解説文

勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にあったグスク(御城)の城趾である。阿麻和利の城として知られている。

概要
城は勝連半島の南の付け根部にある丘陵に位置する。南城(ヘーグシク)、中間の内、北城(ニシグシク)で構成されている。北城は石垣で仕切られた一から三の郭が階段状に連なり、一の郭が最も高く標高約100mの丘陵上にある。

13世紀-14世紀に茂知附按司により築城されたという。この城の最後の城主が阿麻和利である。阿麻和利はクーデターを起こしてこの地方の按司となり、琉球の統一を目論んだが1458年に琉球王府によって滅ぼされた。

城内からは中国、元代の陶磁器(染付)が出土しており、『おもろさうし』からも当時の繁栄をみることができる。民俗学者の柳田国男は、勝連が当時の文化の中心であったことは大和(やまと)の鎌倉のごとしと『おもろそうし』にあるように、浦添・首里・那覇を中心とした浦添文化に対して、系統上異なる勝連文化と言うべきものがあったのではないか、と推測した。

城壁の石は道路工事の石材などとして持ち去られてきたが、現在は復元工事により往時の姿を取り戻しつつある。

1972年(昭和47年)5月15日、沖縄の本土復帰にともない即日、日本国の史跡に指定された。2000年(平成12年)11月首里城跡などとともに、琉球王国のグスク及び関連遺産群としてユネスコの世界遺産(文化遺産)にも登録されている(登録名称は勝連城跡)。登録されたグスク(城)の中では最も築城年代が古いグスクとされている。

2010年(平成22年)、沖縄本島近海地震で城壁の一部が崩落する被害を受けた。

2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(200番)に選定された。

観光
この城跡は山を利用して造られている天険の要害であり、城跡入口から急勾配がつづくため、軽装でも良いが足回りには注意が必要。

観覧料...

勝連城の口コミ情報

後中城按司 知名朝安様[2018年06月21日]
一般的に1458年の、護佐丸、阿麻和利の乱の後に廃城になったと思われていますが、どうやら、その後も現役の城だった様です。最近の発掘調査の結果、ローマ帝国時代の貨幣と、オスマントルコ帝国の貨幣が、出土しています。ローマ帝国時代の貨幣は、浜川按司から阿麻和利の時代に、東南アジア方面との交易で、持ち込まれた様ですが、オスマントルコ帝国の貨幣は、第二尚氏時代の17世紀から18世紀にかけて、オスマントルコ帝国で、流通していた物だと言う事です。17世紀は、1600年代ですし、18世紀は、1700年代ですから、1458年に廃城になっていた城から、発掘されたと言う事は、少なくとも1700年代迄、現役の城だった可能性が有ります。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
尚泰久王が、百十踏登を阿麻和利に降嫁させたのは、政略結婚によって阿麻和利の謀叛を防ごうとした為です。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
失礼しました。護佐はの代わりに→護佐丸の代わりに、です。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
結局、尚巴志の不安は的中しました。尚巴志の死後、19年経った1458年に阿麻和利は、護佐丸、阿麻和利の乱で天下を盗ろうしました。それだけ警戒していた阿麻和利を、自ら滅ぼさなかったのは、阿麻和利が表向きは、尚巴志への忠誠を誓って、今帰仁城攻略と南山城攻略に従軍したからです。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月20日]
勝連城を築城したのは、茂知附按司では無く、英祖王統系の勝連按司です。英祖王統系勝連按司数代の後に、茂知附按司の先祖である浜川按司が勝連城を攻略しました。茂知附按司は、中秋の名月の宴を開いていた時に、阿麻和利の謀略で殺害されたそうです。その後、阿麻和利が勝連按司として勝連城の城主になります。阿麻和利は、沖縄では1458年に、護佐丸、阿麻和利の乱を起こして天下を盗ろうとしたために、逆臣のイメージが強いですが、地元のうるま市では、明君、肝高の阿麻和利として人気があります。奄美大島、徳之島、喜界島、九州と交易している様子が、おもろさうしに詠われています。阿麻和利を讃えるおもろも、おもろさうしに集録されています。尚巴志は、阿麻和利を警戒していたようです。その為に、北山監守に任じて今帰仁城の城主にした護佐丸を、1422年に琉球国中山王に即位したら、読谷山按司に転封して座喜味城を築城させます。そして、護佐はの代わりに北山監守に任じた次男の尚忠への遺言として、自分の死後に護佐丸を中城按司に再転封させます。

後中城按司 知名朝安様[2018年06月15日]
勝連城跡も、護佐丸が関係しています。1458年の護佐丸、阿麻和利の乱で、敵対したライバル、勝連按司阿麻和利の居城ですし、第一尚氏第六代尚泰久王の娘、百十踏登(ももとふみあがり)の嫁ぎ先でもあります。百十踏登の母親は、護佐丸の娘です。つまり、勝連城は、護佐丸にとって、孫娘の嫁ぎ先です。それで、護佐丸が関係しています。護佐丸は、尚巴志と共に、沖縄本島に有る世界遺産の城、五つ全てに関係する凄い人物です。

摂津守@ひと休み様[2018年05月24日]
県道16号線を南東に車を走らせると、小高い山のてっぺんに石垣が見え、これ登るのと思うも、城跡前無料駐車場まで車で行け、山城より楽だと思います。

駐車場が四の郭下にあり、四の郭へ舗装されたスロープか階段で上がると、なだらかに傾く平面が広がり、井戸跡などがあります。また、ここからは海側や駐車場側に上の三の郭に続く城壁の曲線、見上げた三の郭石垣が印象的でした。
三の郭に曲線の後付け階段で上がると広々した空間があり、二の郭へは6~7段の石段で上がれます。ここは正殿があったらしく礎石が整列して、ここが中心だった様子が伺えました。二の段の奥に御嶽(うたき)という石で囲った横堀の穴があり、守護神が祭られた場所だそうです。
てっぺんの一の段へは、元々の石畳の坂で途中から石段を上がりますが、石灰岩で滑りやすくビーサンの方が下りてくる際に滑ってはりました。見上げると一の郭城壁がそびえ立ち、丸みを帯びた石積みが特徴的です。一の郭は遮るものがない景色が眼下に広がり、城壁の端は断崖絶壁ですが頂点に立った達成感のようなものを感じました。
下りる際に革靴で滑りかけ、やはり運動靴での登城がお勧めです。

綱島右京大夫八雲様[2017年10月22日]
勝連城にレンタカーで向かう途中、遠くから城郭の稜線が見えました。まさかあれ?と思ったらそれでした。勝連城に勝る高さの陰影は周囲にはありません。
駐車場は平安座島に向かって左側に有ります。城郭は道路を挟んで駐車場の反対側に有ります。駐車場に資料館のトイレがあります。駐車場は午後6:00で閉鎖されます。

副将軍あぶり餅@残り65城様[2012年07月04日]
城跡入口の駐車場に休憩所あり。城パンフレットも置いてあります。駐車場から一の曲輪までは10分くらいで登れます。ここのお城は東から西へと登っていくので青い空と石垣の撮影には午前中がおすすめ。一の曲輪から見渡せる360度の大パノラマは素晴らしい。

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