中村城(なかむらじょう)
中村城の基本情報
通称・別名
- 為松城、土佐中村城
所在地
- 高知県四万十市中村字古城山為松山
旧国名
- 土佐国
分類・構造
- 連郭式平山城
天守構造
- 複合式望楼型[4重5階/1973年築/RC造模擬]
築城主
- 為松氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 為松氏、一条氏、山内氏
廃城年
- 元和元年(1615)
遺構
- 曲輪、石垣、土塁
指定文化財
- -
再建造物
- 模擬天守、石碑
周辺の城
-
栗本城(高知県四万十市)[2.0km]
佐賀城(高知県幡多郡)[19.2km]
宿毛城(高知県宿毛市)[19.7km]
加久見城(高知県土佐清水市)[23.0km]
四手城(高知県高岡郡)[25.4km]
窪川城(高知県高岡郡)[29.9km]
河後森城(愛媛県北宇和郡)[32.7km]
久良砲台(愛媛県南宇和郡)[34.7km]
天ヶ森城(愛媛県宇和島市)[39.4km]
宇和島城(愛媛県宇和島市)[42.0km]
中村城の解説文
[引用元:Wikipedia「中村城」の項目]
中村城(なかむらじょう)は、高知県四万十市(旧中村市)丸の内に中世から近世にかけてあった日本の城(平山城跡)。別名為松城。四万十市指定史跡[1]。土佐一条氏の居城だった。
歴史
応仁の乱を避けた一条教房が、応永2年に荘園(幡多荘)であった中村に下向しそのまま土着し[2]、元々この地にいた豪族の為松氏が家老として取り立てられ、その為松氏により築城されたのが始まりと考えられている。
代替わりして一条兼定の時、兼定は豊後へ追放され、その後一条家は長宗我部元親に攻められて滅亡した。 天正2年(1574年)、吉良親貞が城主になるが2年後に死去。 関ヶ原の戦い後、戦功により山内一豊に土佐一国が与えられ、山内一豊の弟康豊が入城して修築されるが[3]、元和の一国一城令に伴い廃城となった。
城は西に四万十川、東に後川が流れ、中村平野を一望できる標高約70mの丘陵に築城され、面積はおよそ10,586m2あり、東城、為末城、中ノ森、御城、今城の5群の曲輪群で構成されていたが、遺構は為末城の土塁や石垣のみが残っている。石垣は1965年(昭和40年)に発見された高石垣で[4]、中村藩2万石2代藩主山内政豊時代の慶長18年(1613年)に修復されたものであると考えられている。現在は「為松公園」になっており、二の丸跡に模擬天守の四万十市立郷土資料館がある。ただし、この四万十市立郷土資料館の建物の外観は犬山城をモデルに設計されている[5]。
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中村城の口コミ情報
2025年06月14日 龍馬備中守【】
中村御所[中村城 周辺城郭]
高知県四万十市の中村字古城山為松山にある【中村御所】♪別名を一条氏館、愛宕山城、一条御所などと呼ばれています♪一条神社のある森山を中心に、西に御殿、東に政所と寺社を配し、南北方向に長い、長方形の居館だったと推定されています♪
この御所は、土佐一条氏の居館です♪土佐一条氏は公家であり、一条家の庶流であります♪
応仁元年(1467年)勃発した応仁の乱を避けて、元関白である一条教房が、自領のある土佐国幡多荘に下向した事に始まります。土佐の国人は、これを迎え入れました。
一条教房はココ中村に居館(中村御所)を築き、一条家は公家でありながら、次第に戦国大名化していく訳であります。
戦国時代の末期、土佐一条家の4代目当主は、一条兼定です。天文12年(1543年)一条房基の嫡男として、土佐国幡多郡中村で生まれています。一条兼定は公家であり大名で、キリシタンでもありました。
天文18年(1549年)父である一条房基が自殺した為、7歳で家督を継ぎます。このため、土佐一条氏出身で、関白となっていた大叔父(兼定の祖父・一条房冬の弟です。)の一条房通の猶子となって、京へ上洛しています。
一条房通が亡くなった弘治2年(1556年)以後に元服し、房通の跡を継いだ義兄の一条兼冬より、偏諱(「兼」の字)を受け、兼定と名乗っています。
そして、弘治2年(1556年)から弘治3年(1557年)の間に、土佐国に下向して来ています。里帰りですね。
永禄元年(1558年)伊予国の宇都宮豊綱の娘を妻とするも、永禄7年(1564年)離別します。その後は豊後国の大友義鎮の長女を娶り、大友氏と結んでいます。
また、伊予国の覇権を巡り、永禄11年(1568年)には宇都宮豊綱を支援し、伊予に進出するも、安芸国の毛利氏の援兵を受けた伊予国・河野氏と戦い、敗退。戦国大名化する中で、また京都の一条家本家とも、次第に疎遠になっています。
この頃から土佐国では、長宗我部元親が台頭し、一条兼定は妹婿の安芸国虎と呼応し、討とうとするも、永禄12年(1569年)に安芸国虎が逆に長宗我部元親に討たれます。その後は、長宗我部氏により領土を侵食され、また御一門の血縁者である土居一族を無実の罪で殺害した為に、信望を失い、三家老である羽生監物、為松若狭守、安並和泉守などの合議によって、天正元年(1573年)隠居を強制されます。これにより、一条兼定の嫡男単体・一条内政に家督を継がせています。
天正2年(1574年)一条兼定は中村御所を出て、九州へ渡ります。長宗我部元親の伸張、土居一族殺害など、一条兼定にとって、不利な戦況となっていく西土佐であります。九州は豊後臼杵へ逃れ、大友氏を頼っています。
重臣達により追放されたとされてきましたが、実際は、長宗我部元親と京都から下向した一条内基との協議、あるいは一条内基の了承により、長宗我部元親が一条兼定を追放したとされています。
しかし、一条兼定はまた直ぐに、伊予高森城の城主で宇都宮氏旧臣でもある、梶谷景則の元に向かい、土佐国攻略の為の兵を募っています。
一方、一条兼定の追放を知り憤慨した、加久見城主の加久見左衛門は、平素から土佐一条氏老臣に反感を抱いていた大岐左京進、大塚八木右衛門、江口玄蕃、橋本和泉らと謀り、挙兵して中村を襲い、重臣らを討伐。しかし、この混乱に乗り、長宗我部氏は中村を占領します。因みに、大友氏に助けを求めた事もあり、キリシタンとなったのでしょう。
土佐侵略が失敗に終わった一条兼定ですが、再興を図り、再度、大友氏の助けを借り土佐国へ進撃するも【四万十川の戦い】で大敗し、敗走しています。以降、勢力を回復する事は叶わず。土佐一条氏は事実上、滅亡しました。
その後は宇和海の戸島に隠棲するも、旧臣であり、一条氏の縁者の入江左近に暗殺されかけ、重傷を負った事件が発生。生活の苦心が、アレッサンドロ・ヴァリニャーノの書簡などに残されます。天正9年(1581年)ヴァリニャーノは京都から長崎への帰路の途上に、一条兼定を見舞っていて、その際、一条兼定は熱心で信心深い信仰生活を送っており、ヴァリニャーノは感嘆したと伝わります。天正13年(1585年)一条兼定は熱病により、戸島で死去しました。
天正17年(1589年)検地帳には、森山の西の御土居が散田として記載されています。遅くともこの時までには、居館としての中村御所は、廃されていたものと推測されています。
2025年05月04日 龍maha6o土佐守
中村城
犬山城を参考にした模擬天守とのことですが、天守閣からの眺めも良く立派でした😊館内(城内)の郷土博物館も楽しめました🏯
2023年11月26日 上田弾正少弼雪娘
中村城
旅の途中で立ち寄りました。資料館の前に土塁があり、その下の駐車場には石垣が残っていました。公園です。規模感は把握できます。
2023年09月18日 飛騨守マックイーン
中村城
中村駅からタクシーで1000円弱です。歩けない距離ではありませんが、結構な上りなのです。資料館が二の丸にありますが、中は史料はほぼないので事実上展望台です。本丸は公園で特に表示などもなく、資料館で地図もらわなければよくわからない感じでした。
帰りは歩いて駅に向かいましたが、途中の一條神社が旧中村御所なので寄ってみてはいかがでしょうか。切り絵の御朱印もありました。
2023年07月09日 熊本の和田一浩
中村城
中村駅からだいぶ歩きます、旧な坂です。建物はコンクリート造りです。
2023年02月23日 尼崎城近江守一口城主
中村城
1月7日、栗本城下城後に自転車🚲で市街地に戻り中村城を目指しました。道中、郷土資料館方向を示す道標(写真①)が数多くあったので矢印に従い迷わず進軍出来ました。郷土資料館は山の上にあるので麓の一條鶴井公園で息を整えて向かいました。坂道を進み郷土資料館まで約0.1kmのところにあった中村城三の丸(写真②)の駐車場に駐輪して郷土資料館(模擬天守写真③)に向かいました。一旦、資料館入館前を通り過ぎて周囲を散策したところ、為松城跡(写真④)というところがあり中村城は複数のお城の総称だったとの説明がありました😲さらに、散策すると幅広の堀切もありました。(写真⑤⑥)石垣(写真⑦)や石段(写真⑧)などを見て郷土資料館に入館しました。
私事ですがこのお城アプリを一年程前に教えてもらったのが当資料館でした。当時はスマホに切り替えたばかりでアプリのダウンロード方法が分からず去年は限定御城印を目の前にしながら下城し😢今回約一年をかけて攻略&御城印をゲット出来ました✌️資料館の方にこのアプリを教えて頂いたお礼を伝えたくて入館したので諸々達成出来て良かったです。入館時、資料館の方に四万十の解説もしてもらい<水害を織り込んだ暮らしの沈下橋>については増水した時に大事なものは流されないように高い所に神社や家を建てると教えてもらいました。沈下橋は橋が流されないように手すりをつけないようにしているとの認識でしたが、田畑、道路🛣、家🏡、神社⛩などの配置を高低差で考慮されていたのは知らず勉強になりました。また、私山口出身なので山口の大内家と中村の一条家、親戚関係だったと何かの小説📚で読んだことがあった気がしたので、その件も資料館の方に尋ねた所、説明プリントを見せてもらって当たっていたので良かったです。
2023年02月15日 高森内蔵頭権平
中村城
2年余ぶりに訪れた中村城。風が強く寒かったけど、青空に映える擬似天守(郷土資料館)が輝いていた。高台の城跡一帯は公園で、桜の名所。堀切や土塁がしっかり残っていて、3月の下旬には、花の下を散策しながら、戦国の時代を感じられる。
2023年01月23日 気分爽快治部少輔
中村城
為松山に郷土博物館の模擬天守があるので、場所は遠くからでもすぐにわかりますが、山頂の駐車場への道幅は狭いです。御城印が目的だったので、ありきたりの写真ですが、ご参考になれば。
2022年12月26日 お気楽旅人上野介
中村城
城跡に四万十市郷土博物館がありこの地の歴史に触れることができます。かつての一条家の繁栄を感じることのできる場所ですよ。お車で博物館前まで行けますが、道幅も広くないので注意が必要です。
2022年02月28日 ホームズ民部丞
中村城
山の上にあり、たどり着くのにナビがないと行けない場所ですが、昔の方々が城を守った知恵を垣間見えるように感じました。
2022年02月11日 数珠丸恒次大納言ヒロティー
中村城
天守風の資料館がありますが、お城には全く関係のない資料館なのが残念です、
2022年02月06日 ばうのすけ土佐守
中村城
資料館は特に見どころがなく、440円の入館料に見合った展示内容とは言い難い。天守からの眺望は四万十市が一望出来て気持ち良い。
2022年01月26日 もも主殿允
中村城
女性職員さんの対応がとても気持ち良く、勧められた6階からの眺めは良かったです!
2022年01月23日 土佐香美真乃佐
石垣[中村城 遺構・復元物]
山城と思える遺構は確認出来たしそれぞれの各所に遺構があって全体的に見てみると状態が想像できて見所があった。
2021年11月24日 つか征夷大将軍ぽ
史跡マップ[中村城 碑・説明板]
街中に史跡跡がたくさん点在していますが一部のみマップになっています。全体のが何処かに有るのかはわかりません。一緒に載ってないのも含めて一部写真を貼っておきます。恐らくまだまだたくさん有るかと。
2021年11月24日 つか征夷大将軍ぽ
一条教房の墓[中村城 碑・説明板]
土佐一条氏の祖である一条教房公のお墓です。11月前半に行きましたが樹木の落下で壊れてしまっていて立入禁止になってました。
2021年11月23日 つか征夷大将軍ぽ
中村御所跡[中村城 碑・説明板]
現在は一条神社になっていますが元関白で土佐一条氏の祖になる一条教房が建てた館が中村御所です。ここを中心に京都さながらの街並みが作られたそうです。流石元関白。土佐一条氏からも関白が出てるので政治力はあったのでしょうね。
2021年11月23日 つか征夷大将軍ぽ
石垣[中村城 遺構・復元物]
山内時代の物とされています。道路沿いにあり公園の案内図にも無く意外と気が付かないかも。説明板は有るのだから案内図に入れれば良いのにと思います。
2021年11月23日 つか征夷大将軍ぽ
詰城 復元石垣[中村城 遺構・復元物]
住宅地化で消失してしまっている詰城(本丸)の復元石垣です。何故か中村城跡の為松公園にも案内がなく気が付かない方が多いかと。たまたま車で通って気が付きました。
2021年04月04日 土佐香美真乃佐
中村城
今日は雨だったので、人は少なかったから、ゆっくり見れた❗️模擬天守は近くでみたらかっこよかった天守からの景色が素晴らしく、晴れた日にまた来たい‼️
2021年01月23日 南洲大納言
中村城
山の上に有ります。中は四万十川の展示や一條家、山内家の展示も有ります🎵
2020年11月09日 尾﨑主税頭傅兵衛
中村城
模擬天守がありますが、もとは山城です。土塁や石垣を見ることができます。以前は郷土資料館だったのが、郷土博物館になってます。歴史的なものは、二階フロアのみです。以前、僕が子どもの頃はたくさんの展示物があったのですが…。
2019年12月29日 ザキ佐渡守
中村城
今日訪れました。¥440になっておりました。
2019年09月06日 ダース兵衛太兵部卿
中村城
本日、休館日…でした。9月5日と6日…。
調べてから来た方が良いですね…
2019年08月22日 Kedama☪︎B
中村城
四万十市郷土博物館に問い合わせたところ、今の展示物が9/24までで、25~27日の3日間は臨時休館で展示物入れ替えをし、28日から新しい展示になるそうなので行かれる予定の方は臨時休館にご注意ください。
2019年08月14日 ぶぅ@ぐれ
中村城
本日休館だそうです。(QRコード、見当たらず)
2017年09月22日 なおちん
中村城
為末公園の資料館、工事中でした…(。-_-。)
模擬でも何でもいいから見たかったなぁ
2017年06月17日 織田上総介晃司
中村城
為松公園の公衆トイレ前に駐車スペースがありますが、台数は多く停めれそうにないかな…
四万十市の命名の元になった最後の清流・四万十川
その清らかな流れに架かる沈下橋は見てみたい。
中村からはかなり上流にさかのぼらないといけませんが…
2016年08月13日 まるき〜出羽守
中村城
現存しているのは石垣と土塁、模擬天守は資料館、310円特に戦国関係のものは見当たらない!
この近辺の動物の剥製、出土品、瓦、土器等がメイン?…
以前、鉄砲や刀剣を展示していたがこの設備、人員では展示してもよい規定に達しないため(安全上の理由で)外されているようです…
ここの石垣は大河ドラマ、功名が辻で撮影された場所という事でした。
2013年11月14日 清水若狭守龍親
中村城
長宗我部一族。長宗我部国親の二男。長宗我部元親の弟。左京進・播磨守。永禄3年(1560)5月の長浜表の合戦には兄・元親と共に従軍し、この合戦で奪取した浦戸城の城代となった。永禄6年(1563)1月、長宗我部勢に攻められた本山茂辰が朝倉城から退去したことに伴って(朝倉城の戦い)、それまで本山氏の属城だった吾川郡弘岡の吉良城を守っていた兵も退去したためこの城を乗っ取り、吉良氏の名跡を継承した。永禄12年(1569)7月の安芸城の戦いには弟・香宗我部親泰と共に先陣を勤め、同年11月には土佐国一条氏に属していた高岡郡蓮池城を謀略を用いて攻略。ついで戸波城を陥落させ、高岡郡久礼城の城主・佐竹信濃守を内応させるなど、幡多郡方面への侵攻を担った。天正2年(1574)に一条氏に内紛が起こり、一条兼定が豊後国へと逐電し、その継嗣・一条内政が大津城に移って長宗我部氏の庇護を受けることになると、中村城代となって幡多郡一円の統治を管掌した。天正4年(1576)7月15日に死去した。