中村城(なかむらじょう)

中村城の基本情報

通称・別名

為松城、土佐中村城

所在地

高知県四万十市中村字古城山為松山

旧国名

土佐国

分類・構造

連郭式平山城

天守構造

複合式望楼型[4重5階/1973年築/RC造模擬]

築城主

為松氏

築城年

不明

主な改修者

主な城主

為松氏、一条氏、山内氏

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、土塁、石垣

指定文化財

再建造物

模擬天守、石碑

周辺の城

栗本城(高知県四万十市)[2.0km]
佐賀城(高知県幡多郡)[19.2km]
宿毛城(高知県宿毛市)[19.8km]
加久見城(高知県土佐清水市)[22.9km]
四手城(高知県高岡郡)[25.4km]

中村城の解説文

中村城(なかむらじょう)は、高知県四万十市(旧中村市)丸の内にある中世から近世にかけての平山城跡。為松城の別名を持つ。

概要
応仁の乱を避けた一条教房が、荘園であった中村に下向しそのまま戦国大名として土着し、元々この地にいた豪族の為松氏が家老として取り立てられ、その為松氏により築城されたのが始まりと考えられている。

代替わりして一条兼定の時、兼定は素行が悪く家臣により豊後へ追放され、その後一条家は長宗我部元親に攻められ滅亡する。

関ヶ原の戦い後、戦功により山内一豊に土佐一国が与えられ、山内一豊の弟康豊が入るが元和の一国一城令に伴い廃城となった。

城は西に四万十川、東に後川が流れ、中村平野を一望出来る丘陵に築城され、面積はおよそ10,586平方メートルあり、遺構は石垣が残っている。石垣は昭和40年(1965年)年に発見されたもので、中村藩2万石2代藩主山内政豊時代の慶長18年(1613年)年に修復されたものであると考えられている。現在は「為松公園」になっており、二の丸跡に模擬天守の四万十市立郷土資料館がある。

中村城の口コミ情報

織田修理大夫晃司0923可児様[2017年06月17日]
為松公園の公衆トイレ前に駐車スペースがありますが、台数は多く停めれそうにないかな…

四万十市の命名の元になった最後の清流・四万十川
その清らかな流れに架かる沈下橋は見てみたい。
中村からはかなり上流にさかのぼらないといけませんが…

まるき〜淡路守様[2016年08月13日]
現存しているのは石垣と土塁、模擬天守は資料館、310円特に戦国関係のものは見当たらない!
この近辺の動物の剥製、出土品、瓦、土器等がメイン?…
以前、鉄砲や刀剣を展示していたがこの設備、人員では展示してもよい規定に達しないため(安全上の理由で)外されているようです…
ここの石垣は大河ドラマ、功名が辻で撮影された場所という事でした。

清水若狭守龍親様[2013年11月14日]
長宗我部一族。長宗我部国親の二男。長宗我部元親の弟。左京進・播磨守。永禄3年(1560)5月の長浜表の合戦には兄・元親と共に従軍し、この合戦で奪取した浦戸城の城代となった。永禄6年(1563)1月、長宗我部勢に攻められた本山茂辰が朝倉城から退去したことに伴って(朝倉城の戦い)、それまで本山氏の属城だった吾川郡弘岡の吉良城を守っていた兵も退去したためこの城を乗っ取り、吉良氏の名跡を継承した。永禄12年(1569)7月の安芸城の戦いには弟・香宗我部親泰と共に先陣を勤め、同年11月には土佐国一条氏に属していた高岡郡蓮池城を謀略を用いて攻略。ついで戸波城を陥落させ、高岡郡久礼城の城主・佐竹信濃守を内応させるなど、幡多郡方面への侵攻を担った。天正2年(1574)に一条氏に内紛が起こり、一条兼定が豊後国へと逐電し、その継嗣・一条内政が大津城に移って長宗我部氏の庇護を受けることになると、中村城代となって幡多郡一円の統治を管掌した。天正4年(1576)7月15日に死去した。

「発見!ニッポン城めぐり」を始めるには?

「発見!ニッポン城めぐり」は、iPhone・Androidの両アプリに対応。
利用料金は無料、アプリ内の課金も一切ナシ!いますぐ城めぐりを始めてみよう!

スマートフォンからのアクセス方法

app store app store  ■iPhone
 AppStore で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

google play ■Android
 Google play で「発見!ニッポン城めぐり」を検索。

スマホを持って城をめぐろう!スマホでお城スタンプラリーゲーム「発見!ニッポン城めぐり」 発見!ニッポン城めぐりとは? GooglePlay Appstore