栗本城(くりもとじょう)
栗本城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 高知県四万十市赤松町
旧国名
- 土佐国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 栗本氏
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 栗本氏、一条氏
廃城年
- -
遺構
- (発掘調査:段状遺構・柱穴)
指定文化財
- 市史跡
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
中村城(高知県四万十市)[2.0km]
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栗本城の解説文
栗本城の口コミ情報
2024年03月16日 ショウちゃん
栗本城
四万十市にある標高約60mほど小山にある山城です。土佐一条氏の4代目当主である一条兼定いちじょうかねさだが土佐統一を目前にした長宗我部元親率いる大軍と渡川で戦った際に陣を張った居城として知られています。現在の城跡は案内板が立つのみで城の城郭などは残されていません。
2023年02月23日 尼崎城駿河守一口城主
栗本城
1月7日、土佐くろしお鉄道中村駅近くで宿泊した民宿から自転車を借りて進軍。道中の四万十川橋(赤鉄橋)から栗本城の遠景が見えたので撮影(写真①ほぼ中央の小高い山)続いて四万十川に反射する朝日も撮影(写真②)四万十川橋を左岸(東)から右岸(西)に渡り信号を北側に渡るとすぐに土佐一条氏と長宗我部氏が戦った渡川(四万十川)合戦の石碑と説明板があったので撮影(写真③④)説明板を読むと先程綺麗だなと思って朝日を撮った四万十川が説明板記載の戦場だったことが分かりました。説明文の上から9行目(下から4行目)に栗本城の名前が出ています。※当日訪れた中村城跡の四万十市郷土博物館内にも渡川の合戦のパネルが展示されていました。その後Gマップを確認しながら進軍すると栗本城山麓に辿り着き、登り坂がきつかったので途中から自転車を下りて上を目指しました。山頂付近には四万十市水道課管轄の設備があり立ち入り禁止のフェンス前に栗本城の説明板があり両面に記載がありました(写真⑤⑥⑦)。説明板後方の本丸かな?と思われる周囲よりも一段高くなっている場所があったので草木を掻き分け登ってみましたが上部も草が生い茂っていました🌱草がなければ何となく広いスペースがある曲輪のようには見受けられました。本丸?から下りて周辺を散策してみると縄張りの痕跡のような箇所が随所に見受けられました。(写真⑧)説明板の所から奥に進むと左右に小径があったので両方とも歩いてみましたがどちらとも墓地だったので静かに散策。墓地(城跡)は小高い場所にあるため周囲をよく見渡すことが出来るポイントもありました。下城後、市街地に戻り中村城を目指しました。
歴史
天正3年(1575)、幡多を逐われて国外にいた一條兼定は、土佐一條家を回復するため、南予・幡多の将兵を率いて、中村に進攻し、ここ栗本に要害の城をかまえて、長宗我部の大軍と一戦を交えた(世にいう、渡川合戦である)が、空しく敗れて、西方伊予方面に逃れたと伝えられている。尚、一條兼定の墓は宇和島市戸島、竜集寺境内にある。遺構
栗本城は、具同地区を中心とした市西部の人口増加により、将来の水供給に対する施設設置の計画がおこったため、工事に先だって昭和58年に発掘調査が実施された。調査の結果、詰の北部では土壙、中央部と南部では溝状遺構・追手と思われる段状遺構が検出された。柱穴・ピットは詰のほぼ全面で検出されており、南北両端部に櫓が建てられていたことが想定される。西部郭にも多くの柱穴がみられ、ここにも建物が存在していたと思われる。更に中央部では搦手と考えられる段状遺構が検出された。
土師質土器・古備前・中国青磁・古銭・鉄釘など室町時代後期の出土品は四万十市郷土博物館で所蔵してある。