久良砲台(ひさよしほうだい)
久良砲台の基本情報
通称・別名
- 高野長英築造の台場、御荘砲台
所在地
- 愛媛県南宇和郡愛南町久良4477
旧国名
- 伊予国
分類・構造
- 台場
天守構造
- なし
築城主
- 高野長英
築城年
- 嘉永3年(1850)
主な改修者
- -
主な城主
- 宇和島藩
廃城年
- -
遺構
- 土塁、石塁
指定文化財
- 県史跡(高野長英築造の台場跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
宿毛城(高知県宿毛市)[15.4km]
天ヶ森城(愛媛県宇和島市)[20.6km]
宇和島城(愛媛県宇和島市)[31.7km]
栗本城(高知県四万十市)[33.2km]
中村城(高知県四万十市)[34.7km]
河後森城(愛媛県北宇和郡)[35.0km]
城ケ森城(愛媛県宇和島市)[36.6km]
加久見城(高知県土佐清水市)[38.8km]
石城(愛媛県宇和島市)[39.2km]
法華津本城(愛媛県宇和島市)[42.8km]
久良砲台の解説文
久良砲台の口コミ情報
2020年12月21日 スイトピー❁伊予守
久良砲台
「10発中9発が標的近くに命中したと言われる優秀な砲台であった…」という高野長英築造砲台(台場)跡の案内板。是非とも必見♪
・深浦湾の南西端に突き出た天嶬鼻に築かれ、高さ1〜1.5mの石塁を築き、大砲二門を構えていたそう。
現在は石垣のみが残る跡地で、そこからは久良湾全体が見渡せ、その昔〜この湾の海中から太平洋戦争で使用され、見つかった「紫電改」の事を思い出しました♪防衛上の重要拠点であったと認識させられました。
また、南の海岸に降りると沿岸沿いに立派な石垣が残っています。砲台の番人や砲術師などが住んでいたという屋敷跡。
(全長100m高さ2.5m、二段構築で前段は犬走り)
圧巻!今なおも、海からの侵入を阻むかのような雰囲気漂う迫力がありました。
近くの道の駅「みしょうMIC」に立ち寄り、愛媛県産ブランドみかんの紅マドンナを購入。新鮮魚介類もお安く売られており、お土産などに是非どうぞ。
*ルート…久良から天嶬鼻の先端まで県道297号線が通ってます。
・現在は災害復旧工事中(令和3年3/19迄)車両全面通行止め。
非常に道が狭く、ガードレールもない海側の崖。下を見ると脚がすくむほど…離合スペースもほとんどなく、大きな車だと危険かと思われるので軽自動車がおすすめです。更にオススメは徒歩。心地よいウォーキングコースになります。
・台場跡地を堪能した後はそこから少し先の天嶬鼻まで。
案内板と左隅には白い灯台が有り、その灯台裏には遊歩道が設けらていて、手すりや二箇所の休憩所が設けられ、とても整備されています。
久良湾から豊後水道に視界が開け、美しい絶景が見られます。また下の海岸に下りると砂浜が続きゴツゴツした岩盤も。
こちらもオススメです。
2020年11月21日 おかっぴき
久良砲台
現在、久良砲台まで道が崩れて通行止めになっています。復旧までかなりかかるみたいなので調べてから行くと良いでしょう。2021年の3月まで工事期間と書いてありました。
2020年09月27日 高瀬隼人佑ぎょらまる
大森城[久良砲台 周辺城郭]
南レク城辺公園の駐車場に車を停めて、桜園を通り、大森山を上へ上へと登る。(舗装された道は頂上まで1㎞ないぐらい、ショートカットの道もありそうだけど、初秋、季節的に整備されてなかったので詳細不明。)
頂上、主郭跡付近は公園になっていて手前トイレ前に「大森城跡」と書かれた少し消えかけの看板がある。
石垣、土塁、堀、井戸の遺構ありらしい。
2020年04月01日 GOGO兵部卿
久良砲台
進みまくりましたが、対向車がな、なんと4台連続で。。。途中までバックし、切り返しがギリギリ出来る箇所で切り返し集落に戻る羽目に。萎えて行く気がなくなりました。雨も降っていたし。。。あの細い道を2トントラックは気にせず、そこそこのスピードで走っていたのには流石地元民と感心しました。次回行くことがあれば山道入り口に車を止め歩いて行きますわ。
2020年01月03日 高瀬隼人佑ぎょらまる
久良砲台
久良集落の道もなかなか狭いことながら、集落越えた後の山路は乗用車一台分の道幅でガードレールはなく、道も舗装はされてはいるけど所々崩れて鉄板を打ち込んでる場所もあるので、悪天候時の車での攻城は特に気を付けて。
2014年01月03日 ブイシカ摂政
久良砲台
南レク近くの入り組んだ町道を天儀鼻方面に進むと、大型車では厳しいガードレール無しの山道に出くわす。そこを徒歩で一キロ歩くと砲台跡に到着できます。説明がしっかりしているので、高野長英を匿ってまでして海防にかけた宇和島藩の意気込みが理解できますが、落石と烏の大群、行き違いの軽トラにくれぐれもご注意下さい!
深浦湾の南西端に突き出た天嶬鼻の断崖上に、高野長英の設計にかかる砲台(台場)跡がある。海面から約20mの小台地にあって、広さ33aの平坦地に、高さ1.0mから1.5mの石塁を築き、大砲2門を構えていたようである。
幕末、各藩は海岸防備のため、要害の地に砲台を築造した。藩軍備の近代化に取り組んでいた宇和島藩第8代藩主伊達宗城は、蘭学書の翻訳と軍事研究のため高野長英を宇和島に招いた。長英は、名を伊藤瑞渓と変え、オランダ兵学研究や著作に携わり、『砲家必読』・『三兵答久知機』・『知彼一助』等の翻訳を行うと共に、藩の求めに応じてこの砲台の設計を行った。
長英は、嘉永2年(1849)に僅か一年余りで宇和島を去るが、砲台は嘉永3年5月頃完成しており、当初は2門のシャクリウチ砲(火縄使用)であったが、後の鵞管(雷管)打ち砲に改良された。
平成元年(1989)11月、宇和島伊達事務所において、長英直筆の「砲場土図」や「久良砲台絵図」などの多数の砲台場関係資料が発見された。これらの資料によると、試射の結果、10発中9発が標的近くに命中しており、優秀な砲台であったことをうかがい知ることが出来る。
尚、この砲台右下の海岸には『愛南町指定史跡 天嶬(てんぎ)の砲台場石塁』が所在するが、これは『高野長英築造の台場』に関わる施設の一部であって、砲術師らの屋敷を防護するために築いたものである。
通行上の注意:久良の集落を抜けてから先の道は極めて狭いため、軽自動車ないしは二輪車で訪れるのが良い。