松山城(まつやまじょう)
松山城の基本情報
通称・別名
- 金亀城、勝山城
所在地
- 愛媛県松山市丸の内
旧国名
- 伊予国
分類・構造
- 連郭式平山城
天守構造
- 型式不明[5重?/1602年頃築・1642年改/焼失(落雷)]、連立式層塔型[3重3階地下1階/1854年再/現存]
築城主
- 加藤嘉明
築城年
- 慶長7年(1602)
主な改修者
- 松平勝善
主な城主
- 加藤氏、松平(久松)氏
廃城年
- 明治6年(1873)
遺構
- 曲輪、天守、櫓、門、塀、井戸、石垣、土塁、横堀
指定文化財
- 国重要文化財(大天守、野原櫓・乾櫓・隠門続櫓等櫓6棟、戸無門・隠門・紫竹門・一ノ門等門7棟、筋鉄門東塀等塀7棟)、国史跡(松山城跡)
再建造物
- 小天守、北隅櫓、十間廊下、南隅櫓、太鼓櫓、筒井門、太鼓門、乾門、艮門東続櫓等、石碑、説明板
周辺の城
-
湯築城(愛媛県松山市)[2.0km]
港山城(愛媛県松山市)[5.6km]
松前城(愛媛県伊予郡)[8.3km]
横山城(愛媛県松山市)[9.2km]
荏原城(愛媛県松山市)[9.8km]
岩伽羅城(愛媛県東温市)[10.9km]
鹿島城(愛媛県松山市)[14.3km]
恵良城(愛媛県松山市)[16.6km]
千里城(愛媛県伊予郡)[16.8km]
本山城(愛媛県松山市)[17.4km]
日本100名城・続日本100名城スタンプ情報
番号・名称
- 81 松山城
設置場所
- 松山城天守入口(天守地下一階)[地図]
松山城の解説文
[引用元:Wikipedia「松山城」の項目]
松山城(まつやまじょう)は、愛媛県(旧伊予国)松山市に築かれた日本の城。別名金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)。松山城と呼ばれる城は、同じ現存12天守の一つである備中松山城(岡山県高梁市)など各地に存在する。本城も「伊予松山城」と呼び分けられることもあるが、松山市にあることもあり、単に「松山城」とした場合は一般的に本城を指す。
江戸時代に同地などを治めた伊予松山藩の藩主居城および政庁として築かれた。松山城が建つ勝山は「城山」とも呼ばれ、城跡の主要部分が城山公園として整備されている[1]。四国最大の城郭であるほか、建物がよく保存されている。前述のように、現存12天守の一つである大天守を含む21棟が国の重要文化財に、城郭遺構が国の史跡に指定されている。そのほか、連立式天守群の小天守以下5棟をはじめとする22棟(塀を含む)が木造で復元されている。二の丸御殿、三の丸御殿、櫓、門、土塀といったこれ以上の木造復元をする計画は予算の関係でない。
天守は江戸時代後期に再建されたもので、現存12天守の中で最も新しい。
概要
松山市の中心部に位置する勝山(城山)山頂に本丸、西南麓に二之丸と三之丸を構える平山城である。日本三大平山城にも数えられる。山頂の本壇にある天守(大天守)は、日本の12箇所に現存する天守の一つである。この中では、姫路城(兵庫県姫路市)と同じく、連立式で、日本三大連立式平山城の一つにも数えられる。1933年(昭和8年)ごろまでは、本丸部分には40棟の建造物が現存していたが、1949年(昭和24年)までに19棟が火災により失われ、現存建築は21棟にまで減少した。建造物の現存数は、二条城(京都市)の28棟に次ぐものである。
幕末に再建された大天守ほか、日本で現存数の少ない望楼型二重櫓である野原櫓(騎馬櫓)や、深さ44メートルにおよぶ本丸の井戸などが保存されている。
構造
山頂に本丸、南西麓に二之丸、続いて三之丸。北麓には北曲輪、南東麓に東曲輪がある。三之丸は比高6メートルほどの土塁で囲み、北と東に石垣造の虎口を開く。本丸から二之丸にかけて登り石垣を築いて囲み、丘陵斜面からの大手城道への侵入を防ぐ構造としている。山頂の本丸北部には本壇という天守曲輪を持ち、大天守と小天守・南隅櫓・北隅櫓を3棟の渡櫓(廊下)で連結し連立式天守をなしている。松山城の中枢は二の丸で、藩主の生活の場である御殿や庭園、茶室などがあった。三の丸には身分の高い家来の屋敷が建ち並んでいた。本丸は主に倉庫として使われていた。
歴史・沿革
江戸時代
- 1602年(慶長7年):伊予国正木城(松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が、関ヶ原の戦いでの戦功により20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任じ、麓に二之丸(二之丸史跡庭園)と三之丸(堀之内)を有する平山城の築城に着手した。
- 1603年(慶長8年)10月:嘉明が、この地を「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕生した。
- 1627年(寛永4年):嘉明は、松山城の完成前に会津藩へ転封となり、蒲生忠知(蒲生氏郷の孫)が、24万石の松山藩主になる。
- 1634年(寛永11年)8月:忠知が参勤交代の途中に死去し、伊予蒲生家が無嗣断絶となる。同じ伊予国にある大洲藩の藩主加藤泰興が松山城を預かる(松山城在番)。城在番中に替地の申し出が江戸幕府になされた。
- 1635年(寛永12年)7月:松平定行が15万石の藩主となり、松山城に居城。
- 1642年(寛永19年):創建当初5重であったという天守を、定行が3重に改築する。
- 1784年(天明4年):天守を含む本壇の主な建物が、落雷により焼失。
- 1854年(安政元年)2月8日:第12代藩主勝善が大天守などの本丸本壇を再建。
明治・大正時代
- 1868年(明治元年):戊辰戦争で新政府軍の一角をなした土佐藩が松山城を受領・保護。松山藩主の松平定昭は常信寺にて謹慎したが、翌年には赦免された。
- 1870年(明治3年):失火により三之丸が焼失。
- 1871年(明治4年)
- 廃藩置県により松山藩から松山県となる。
- 失火により二之丸焼失。
- 1873年(明治6年):廃城令による処分により大蔵省と内務省の所管となり、主に麓の城門・櫓・御殿など城外に払い下げられる。建物の解体は行われたが、入札はなかった。同年、愛媛県が成立。
- 1874年(明治7年):本丸一帯を聚楽園という公園とする。
- 1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて、二之丸と三之丸は陸軍省の管轄となり、松山歩兵第22連隊の駐屯地が三之丸(堀之内)にあった。
- 1891年(明治24年):正岡子規が「松山や 秋より高き 天主閣」の俳句を発表。また、1895年(明治28年)には「春や昔 十五万石の 城下哉」の句を詠む(JR松山駅前に句碑がある)。
- 1923年(大正12年):松山城(本丸)が旧藩主家の久松家へ払下となり、そのまま松山市に寄贈され、以降、松山市の所有となっている。
昭和時代以降
- 1933年(昭和8年)7月9日:松山城放火事件により大天守を除く本壇の現存建築を焼失。
- 1935年(昭和10年):天守など35棟の建造物が当時の国宝保存法に基づく国宝(旧国宝、現行法の「重要文化財」に相当)に指定される。
- 1945年(昭和20年)7月26日:松山空襲で天神櫓など11棟が焼失。
- 1949年(昭和24年)2月27日:精神病患者(出典ママ)のたき火により[2]筒井門とその東続櫓、西続櫓の3棟を焼失。以上3棟の旧国宝指定を解除。
- 1950年(昭和25年):焼失を免れた天守など21棟の建造物は文化財保護法施行により国の重要文化財となる。
- 1952年(昭和27年):二之丸と三之丸を含む松山城山公園が国の史跡に指定。
- 1955年(昭和30年):ロープウェイが、1966年(昭和41年)には平行してリフトがそれぞれ登城客の利便を図るため設置され、360度開けた大天守からの眺望のよさもあり、松山市を代表する観光地となっている。
- 1968年(昭和43年):1933年に焼失した本壇の建造物群を木造により復元。
- 1989年(平成元年):松山城山公園が日本さくら名所100選に選定。
- 1992年(平成4年)4月:大井戸などの遺構や茶室が整備された松山城二之丸史跡庭園が落成。
- 2004年(平成16年)10月:大天守ほか6棟の改修工事を開始。
- 2006年(平成18年)
- 松山城山公園が日本の歴史公園100選に選定。
- 4月6日: 日本100名城(81番)に選定。
- 11月末 - 2004年から行われていた工事が終了。改修を記念して大天守の「しゃちほこ」に「天丸」と「まつ姫」の愛称が公募によって付けられた。また、改修工事中、江戸時代に侍を描いたと思われる、下見板裏の落書きが発見され、天守内に展示している。
- 2007年(平成19年)3月2日:情緒ある佇まいが残されていることが評価され美しい日本の歴史的風土100選に、同じ松山市内にある道後温泉とともに選定。
- 2008年(平成20年)1月:現存12天守スタンプ帳付きの松山城観光案内図の配布開始。
- 2009年(平成21年):ミシュラン観光版(ギード・ベール)日本編では二つ星に選定された。
- 2010年(平成22年)7月12日 - 6時頃から短時間に大雨が降った影響で城山の南山腹の土砂が崩れ、麓の愚陀仏庵が全壊した[3]。
- 2014年(平成26年):三之丸跡の発掘調査で『亀郭城秘図』と合致する石垣跡が発見された。トリップアドバイザーによる「行ってよかった! 日本の城ランキング2014」で2位になった[4]。
- 2019年(令和元年)9月10日:小天守など9棟が登録有形文化財に登録[5]。
- 2024年(令和6年)7月12日:城山の北東部斜面に設置された緊急車両用道路(https://www3.nhk.or.jp/matsuyama-news/20240716/8000018911.html)と周辺の斜面が幅約50メートル、高さ100メートルにわたって崩壊し麓では土石流となった。これにより木造家屋1棟が飲み込まれ3名が亡くなり、周辺のマンションなどにも土砂や樹木が流れ込んだ[6]。緊急車両用道路には以前から割れ目が発見され危険が指摘されており、事故発生当時は対策の工事が行われていた[7]。
文化財
重要文化財
以下の21棟が国の重要文化財に指定されている。
- 戸無門
- 高麗門の建築様式で、慶長の創建当初から門扉がないので戸無門(となしもん)の名がある。この門の手前にある太鼓櫓下の通路は、乾門方面(実は行止まり)と戸無門方面へ敵を分散させるため複雑な構造となっている。
- 隠門
- 隠門続櫓
- 櫓門となっている隠門(かくれもん)は、筒井門に達した敵の側背を襲うための埋門(うずみもん)となっている。隠門続櫓ともども小規模ながら、築城当時の面影を見ることができる。なお、築城時は「尾谷三ノ門」と呼ばれたとの説がある。
- 乾櫓
- 古町口登城道が本丸に達する地点に設けられた、搦手(からめて:裏側)方面の防備のための2重の隅櫓である乾(いぬい)櫓は、窓は格子・突上げ構造で、腰袴式ではなく出窓式の石落としが設けられている。
- 野原櫓
- 「騎馬櫓」とも呼ばれる野原櫓は、西北の本丸石垣に面して建てられた二重櫓で、大入母屋屋根の中ほどに2間半の2階を載せており、望楼起源説による大屋根の上に造られた物見櫓から天守建築が始まったとする論拠となる構造で、石落とし・狭間など加藤嘉明の築城当時の仕様がほぼそのまま残る。
- 紫竹門
- 紫竹門東塀
- 紫竹門西塀
- 紫竹門(しちくもん)は、西と東の続塀によって本丸の大手(正面)と搦手を仕切る役割を担う高麗門で、続塀には、弓矢や鉄砲で敵を狙うため正方形や長方形の狭間が設けられている。なお、紫竹門を含め、重要文化財に指定されている本壇(天守曲輪)一帯の建造物は、安政元年落成にかかるものであり、屋根瓦には建造主の家紋である三つ葉葵が付けられている。
- 一ノ門
- 一ノ門南櫓
- 一ノ門東塀
- 二ノ門
- 二ノ門南櫓
- 二ノ門東塀
- 三ノ門南櫓
- 筋鉄門東塀
- 高麗門の一ノ門から薬医門の二ノ門にかけては、本壇入口に位置する単層櫓の一ノ門南櫓、一ノ門東塀、本壇の南東に位置する単層隅櫓の二ノ門南櫓、二ノ門東塀、二ノ門と筋鉄門(すじがねもん)東塀に接する単層櫓の三ノ門南櫓で仕切られた枡形となっている。また、筋鉄門東塀は大天守正面にある渡塀で、一ノ門やその南櫓と小天守とともに一ノ門前に虎口を形成する役割を担っていた。
- 三ノ門
- 三ノ門東塀
- 本壇内庭の東側の防備を固める三ノ門は脇戸を省略した高麗門で、三ノ門東塀とともに二ノ門内側や天神櫓前の本壇広場に対する防備を固めている。ここを通過すると大天守正面と筋鉄門東塀に挟まれた通路に至るが、天守の玄関がある連立式の特徴である内庭の入口には櫓門である筋鉄門が置かれている。
- 仕切門
- 仕切門内塀
- 本壇内庭の北側の防備を固める高麗門が仕切門であり、天神櫓前の本壇広場に対する防備を固めている。ここを通過すると内庭の入口であり、櫓門である内門に達する。また、仕切門内塀は、本壇北側の石垣に面するとともに、南に折れ曲がって玄関多聞櫓(げんかんたもんやぐら)に達することから、本丸北曲輪や北隅櫓下の石垣に対する防備を担っている。
- 天守(大天守)
- 創建当時には、現在、三重天守の建つ天守台に五重天守が建てられていたが、1642年に3重に改修している。それは、本壇がある標高132メートルの本丸広場の一部は谷を埋め立てているため地盤が弱かったからとも、武家諸法度の意を受けて、江戸幕府に配慮したためともいわれている。その三重天守も1784年に落雷で本壇の主要建物とともに焼失し、現存する大天守は、黒船来航の前年である1852年に、石垣普請とともに再建工事が完了し、1854年に落成した3代目の天守で、連立式3重3階地下1階構造の層塔型天守である。大天守は高さ20メートル(鯱の高さを入れると21.3メートル)本壇は8.3メートルの高さがある。幕末に親藩大名松平(久松)家により復興されたものであるためか普請の精度は高く、建築材料には樟や欅また栂など一級と呼ばれる木材が使用されている。五重天守である福山城天守(9間×8間)をしのぐ規模の切込みハギの石積み天守台(8間×10間)の内側に、地下1階が造られ、3重3階の木造内部には、入側(武者走り)が各階に設けられており、その内側である身舎(もや)には天井を張り、鴨居と敷居で仕切られた畳床仕様で、かつ、床の間を設けている。外部は1・2階に黒塗下見張り、塗籠角格子の窓には突上げ板戸などを配し、屋根には千鳥破風や軒唐破風が付れられ、また、3階は白漆喰塗りで、格子がない引戸窓の外には、格式を高める目的で実用でない外廻縁、高欄が付けられている。なお、鯱を含め屋根は瓦葺である。
- 日本における最後の天守建築(桃山文化様式)であり、現存12天守の中で、唯一、親藩(松平氏)による普請であったため、丸に三つ葉葵の瓦紋が付けられている。
登録有形文化財
2019年に以下の復元建造物9棟が国の登録有形文化財に登録された。
- 小天守
- 南隅櫓
- 北隅櫓
- 玄関
- 玄関多聞櫓
- 十間廊下
- 多聞櫓
- 筋鉄門
- 内門
焼失した文化財
1933年7月9日、不審火で以下の9棟の建造物が焼失した。
- 小天守、南隅櫓、北隅櫓、玄関、玄関多聞櫓、十間廊下、多聞櫓、筋鉄門、内門
1945年、戦災で以下の11棟の建造物(旧国宝)が焼失した。
- 天神櫓、馬具櫓、太鼓櫓、巽櫓、乾門、乾門東続櫓、太鼓門、太鼓門続櫓、乾門西塀、太鼓門東塀、太鼓門西塀
また、戦後の1949年2月27日、不審火で以下の3棟の建造物(旧国宝)が焼失した[8]。
- 筒井門、筒井門東続櫓、筒井門西続櫓
復元事業
明治維新後においても本丸の城郭建築群はほとんど破却されることはなかったが、昭和に入り放火や戦災により門や櫓などが焼失した。写真や国宝指定作業における正確な図面などが残されていたことから、1958年から本格的な木造による復元が行われている。
- 1958年復元
- 馬具櫓
- 1968年復元
- 筋鉄門
- 小天守
- 多聞櫓
- 南隅櫓
- 十間廊下
- 北隅櫓
- 玄関多聞
- 玄関
- 内門
- これらは本壇上の南西から西面及び北西の防衛ラインを構成し、大天守(重要文化財)とともに連立式天守を構成する建物群である。小天守は一の門の枡形虎口を見下ろす位置にあるとともに、本丸大手方面や紫竹門を監視する役割があり、2階全部と1階上部が塗籠め白漆喰の外壁仕様となっている。大天守と小天守を繋ぐ筋鉄門は、大天守と玄関多聞を繋ぐ内門とともに内庭防備の櫓門として設けられており、門の柱に鉄板を張ってあるのでこの名がある。多聞櫓形式である十間廊下で結ばれている南隅櫓と北隅櫓は、天守における搦手方面の拠点となっており、2階の窓には格式を高めるため飾りの高欄がある。玄関は内庭の北面にあり、向唐破風屋根で妻入りである。天守本壇の建物群は天守丸の石垣とともに幕末に再建されたことから、各所に親藩としての格式を重んじた居住化傾向が顕れているといわれている。
- 1971年復元
- 筒井門
- 筒井門東続櫓
- 筒井門西続櫓
- 櫓門である筒井門は、大手から本丸への通路にある重要な門で、その守りを固めるため、東と西に続櫓が置かれている。しかも、隠門(重要文化財)は筒井門に到達した敵の側面を襲撃するために設けられている。
- 1973年復元
- 太鼓櫓
- 太鼓門西塀
- 太鼓門南続櫓
- 太鼓門
- 太鼓門北続櫓
- 1979年復元
- 天神櫓
- 天神櫓南塀
- 天神櫓西折曲塀
- 本壇上の北から西かけての北東面の防衛ラインの拠点にあるのが天神櫓で、艮門の状況を把握する役割も持っていた。久松松平家の遠祖にあたる菅原道真を祀ったためこの名があり、勝山山頂の天守本壇にある学問の神とのことで、合格祈願に訪れる受験生もいる[9]。
- 社寺建築に用いられる正面扉様式(蔀戸・しとみど)を持つ本壇天神櫓は全国的にもあまり例はない。
- 1982年復元
- 乾門
- 乾門西塀
- 乾門東続櫓
- 乾門東続櫓東折曲塀
- 乾門とその続櫓は本丸搦手防衛の重要な拠点で、乾櫓(重要文化財)とともに強力な防衛ラインを構築している。また、搦手から本丸下の東側通路に侵入しようとする敵のために野原櫓(重要文化財)が築かれている。
- 1984年復元
- 艮門
- 艮門東続櫓
- 本丸の北東にあり、本壇の東にある艮(うしとら)門は、その続櫓とともに東面の防備の役割を担い、また、大手や搦手方面から侵入した敵の側面を襲うため、兵の出撃口としての役割も持っており、艮門前は虎口を形成している。
- 1986年復元
- 巽櫓西塀
- 巽櫓
- 太鼓櫓から巽櫓(たつみやぐら)までは、大手面に対する連続した本丸防衛ラインを構築する一連の建物群となっている。本丸の南西に位置する太鼓櫓は大手方面の眺めのよいところに建てられており、戦の合図のための太鼓が置かれたことからこの名がある。太鼓門は脇戸付の櫓門で南と北に続櫓が置かれており、本丸の南東にある巽櫓は、本丸下の東側通路の監視とともに太鼓門に到達した敵の背後を攻撃できる位置に建てられている。なお、巽櫓は月見櫓と呼ばれていたとする説もある。
- 1992年復元
- 二之丸多聞櫓
- 二之丸四足門
現地情報
登城
松山城本丸は、市街のほぼ中央に位置する標高132メートルの山頂にある。天守へのルートは、4つあるが、一般・観光客向けのルートは東雲口と呼ばれる東側からの登城道で、こちらはロープウェイやリフトも整備され、東雲神社を通って徒歩で上ることもできる。他のルートは、地元の人が散歩等にもっぱら利用しており、県庁裏登城道以外はあまり整備されていない。
松山城山ロープウェイ東雲口駅舎の最寄り駅は、徒歩約5分のところにある伊予鉄道市内電車の大街道停留場(駅)であり、ここには「坊っちゃん列車」も停車する。大街道駅の北側に、ロープウエー街の入口があり、また、少し東側には交番や伊予鉄タクシーの乗り場がある。なお、松山城山ロープウェイ東雲口駅舎1階には、財団法人松山観光コンベンション協会が運営の年中無休の観光案内所がある。
交通
松山城・二之丸史跡庭園の入場券と、坊っちゃん列車の乗車券がセットとなった「松山城らくトクセット券」が伊予鉄道から発売されている。
松山の玄関口等主要地点からの公共交通手段は次のとおり。
- 松山空港から
- 伊予鉄バス松山空港リムジンバス道後温泉駅前行きで、「大街道バス停」下車。
- 伊予鉄バス[52]松山空港線(一般路線バス)道後温泉駅前・湧ヶ淵・湯の山ニュータウン行きで、「ロープウェイ前バス停」下車。
- 四国旅客鉄道(JR四国)予讃線松山駅から
- 伊予鉄道市内電車file:Iyo Railway Line5.png|30px|5号線道後温泉行きで「大街道停留場」下車。
- 伊予鉄道松山市駅から
- 伊予鉄道市内電車file:Iyo Railway Line2.png|30px|2号線大街道経由松山市駅行きまたはfile:Iyo Railway Line3.png|30px|3号線道後温泉行きで「大街道停留場」下車。
- 坊っちゃん列車で「大街道停留場」下車。
- 伊予鉄バス[52]松山空港線(一般路線バス)道後温泉駅前・湧ヶ淵・湯の山ニュータウン行きで、「ロープウェイ前バス停」下車
- 松山観光港から
- 伊予鉄バス松山観光港リムジンバス道後温泉駅前行きで、「大街道バス停」下車。
- 伊予鉄バス高浜駅〜松山観光港間連絡バスで「高浜駅前」下車。伊予鉄道高浜線に乗り換え松山市駅下車。さらに市内電車に乗り換え。
- 三津浜港から
- 伊予鉄バス[56]三津吉田線松山市駅行きで松山市駅下車。さらに市内電車へ乗り換え。
- 道後温泉から
- 伊予鉄道市内電車file:Iyo Railway Line3.png|30px|3号線松山市駅行きまたはfile:Iyo Railway Line5.png|30px|5号線JR松山駅前行きで「大街道停留場」下車
利用情報
- 観覧時間:9時から16時30分(季節により異なる)また、時間外も夜遅くまで開門されている。
- 観覧所要時間:ロープウェイ東雲口駅舎から90分以上。
- 料金:天守観覧料は520円(大人)、ロープウェイ・リフトは往復利用料520円(大人)・260円(小人)、片道利用料は270円(大人)・140円(小人)。
- 休業日:無休(12月第3水曜日はすす払いのため閉城)。
- 駐車場:松山城駐車場(有料。ロープウェイ東雲口駅舎付近。大型バスも入庫可能)など。
- 車椅子対応:数人の介助者が同伴の場合、本丸広場まで登城可能。
- 案内:観光ボランティアガイドや街角案内人が配置されている。
- 体験:大天守1階に無料の鎧兜試着コーナーがある。
- お城まつり:毎年4月の第1金・土・日曜日(日曜日には大名・武者行列がある)。
- 今後:三之丸(現:城山公園堀之内地区)は「城山公園堀之内地区整備計画」(2000年)に基づいて、多くの既存施設を移設・撤去。二之丸(現:二之丸史跡庭園)では堀の復元を検討しており、松山市は文化庁の求めに応じて「保存管理計画」の立案作業を進めている。
参考文献
- 松山城編集委員会編『松山城』松山市観光協会(絶版)
- 山田竹系『四国の古城』四国毎日出版社(絶版)
- 三浦正幸『城の鑑賞基礎知識』至文堂
- 西ヶ谷恭弘ほか『名城を歩く3 伊予松山城』PHP研究所(歴史街道スペシャル)
- 三浦正幸監修『決定版 図説・天守のすべて』学習研究社(歴史群像シリーズ)
- 碧水社 編集製作『決定版 図説・厳選 日本名城探訪ガイド』学習研究社(歴史群像シリーズ)
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松山城の口コミ情報
2024年07月15日 たぬたぬ大好き
松山城
雨の中、お邪魔しましたが風情や迫力もありとても楽しかったです。
2024年05月31日 noble筑前守弥勒菩薩
松山城
大天守群は結構威圧感あります。小ぶりな宇和島城をみた後だったこともあるかも知れません。
また、天守にたどり着くまでの通路はかなり複雑で、クランクの嵐です。この点は、“ミニ版姫路城”といった趣きです。
上りはリフトを使ってみました。リフトなんて、スキーやってた頃以来、何十年ぶりだったので、若干緊張してしまいました…
2024年04月20日 Hiro3104左近衛大将
松山城
地震の影響で大洲城を断念したので松山城を満喫させていただきました。現存天守の中でも大好きな城郭と石垣です。地震の被害があまり感じられなかったので安心しました。景色は黄砂が酷くてちょっと残念!
2024年03月28日 龍馬備中守【】
垣生山城[松山城 周辺城郭]
愛媛県の松山市にある【垣生山城】♪標高119m程の垣生山の山頂に城郭は形成されています♪北側には別峰である弁天山(標高129m)があり、南側の尾根先端付近の高まるピークに城郭は立地します♪西側は伊予灘に面し眺望は抜群で、海の監視が出来る絶好の場所です♪南側には重信川と伊予の広大な盆地が広がります♪
築城年代等、不明な点が多いですが…垣生山城の最後の城主は、垣生加賀守盛周と伝わります♪垣生加賀守盛周は湯築城の河野家の重臣(御家老衆)であり、斉院町の西側に面した現在の生石町~北吉田辺りを領地としました♪
天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐(四国の役)により、この垣生山城の歴史が変わっていきます☆
秀吉は四国攻めの先鋒として、黒田孝高に淡路島方面から阿波へ向かうよう命じました☆
讃岐からは宇喜多秀家率いる備前・美作の兵に加え、播磨から蜂須賀正勝、更に仙石秀久が加わり計2万3千の軍が屋島に上陸しています⭐︎
ココ伊予国には、毛利輝元配下の中国8ヶ国の3万から4万の軍勢が攻め込んできます⭐︎
小早川隆景の第一軍が東伊予、今治浦へ到着☆長宗我部氏と同盟関係にあった新居郡の金子元宅を落とし、諸城を次々と落城させ…
中国勢は軍の進路を西伊予へと向けました☆
伊予河野家の当主である、河野通直の湯築城は包囲されてしまい…小早川隆景の薦めにより遂に城を開け渡します☆これにより伊予全域の制圧がほぼ完了しています。
湯築城は一時、小早川隆景の居城となっています☆河野通直は蟄居して河野氏復興の日を期待しますが、天正15年(1587年)小早川隆景は筑前国に国替えとなり、その後、この地は福島正則に与えられ、河野通直の伊予復帰の願いは絶望的となりました☆
河野通直の室は毛利元就の孫姫でありました☆そのため毛利輝元や小早川隆景は、河野通直への援助を積極的に行っており、毛利輝元の勧めで河野通直は室の里方である安芸国竹原(三原)に移住する事になっています☆湯築城を出て三津浜から船に乗り、目指すは竹原☆この時に河野家に従い垣生氏も、竹原の地へ共に向かいました☆
結果的に河野通直は24歳という若さで病死…。。ここに伊予の名家である河野氏は断絶してしまいました。河野通直と共に竹原へと渡った垣生氏は、最後まで忠誠を尽くしたと伝えられています♪
河野氏が城を明け渡した事で、垣生山城も開城し時代の流れと共に、廃城となったのでしょうね☆
垣生山城からは、松山城、石鎚山、伊予灘がバッチリ見えました♪
2023年12月01日 レオン
松山城
令和5年11月13日㈪から令和6年3月8日㈮まで歴史ある建造物を後世に残す為 乾門と乾門西塀で外部改修工事を行い 乾門は通行止めになります。
古町口登城道で本丸広場へ行く場合や 本丸広場から屏風折石垣のビュースポットへ行く場合は 天守北側通路を迂回します
令和5年12月9日㈯から松山城や二之丸史跡庭園などで「まつやまお城フェスタ2023~松山城のあらたな物語~」も開催されます♪
12月6日㈬はロープウェイ・リフト券売機の入替工事でキャッシュレス決済の利用が出来なくなります。お気をつけ下さい🙋
2023年11月29日 奈良紀州
松山城
松山城の麓には坂の上の雲ミュージアムのような文化的な施設が多くあります
また登城が終わった後は市電でゆける道後温泉でゆっくり疲れを癒せる観光地として最適です
2023年10月15日 備前大納言マサトシ
松山城
早咲きの桜が咲いています。リフトで登っていくとこの時期は風が気持ちいいです。麓にはお土産物屋。鯛めしや大街道のアーケードも近く楽しめます。大街道から市内電車で道後温泉もすぐです。
2023年07月04日 タケロー
松山城
彦根城にひこにゃんのパネルがあった。松山城にはみきゃんのパネルかと思いきや、誰⁉(松山城初代城主加藤嘉明からよしあきくんらしい)
2023年04月09日 左衛門佐悠未
松山城
松山城は、ロープウェイかリフト、徒歩での登城を選択できるのが個人的には嬉しいポイントですね。春で日差しが暑すぎず、天気が良くてちょうどいいくらいの風。リフトで登るのがとても気持ちよかったです!
2023年03月05日 鯉城民部卿猿猴
松山城
松山城天守を前に立派な桝形虎口です!敷地面積が広いですね。
2023年02月12日 天河水式部卿
松山城
10年ぶり位に再訪。平日に訪れたにも関わらず観光客が多く、名城の人気も上がってきたのを感じる。売店で蛇口からミカンジュースをいただけるので、強者ならばビアジョッキサイズで飲んでみては如何でしょうか😀
2022年11月09日 毛利秀就
松山城
ロープウェイは10分間隔。リフトは途切れなくあります。天守閣の階段は急なので気をつけてください。
2022年10月03日 獅子ケ守式部大輔哲斉
松山城
回廊で繋がる天守、小天守が他の城にはない面白さがありました。外観より平面が大きく見応えがありました。
2022年08月14日 国盗り物語
松山城
天守閣がとても広く眺めも最高でした 石落としにアクリル板が貼ってあり下を覗けたり、vr体験が出来たり良かったです ロープウェイで上がってからまだ坂道が続くので年配の方には大変かも… 中ではスリッパか裸足かで選べるけどスリッパだと急な階段は危ないと思います
2022年05月30日 タラちゃん内匠頭
松山城
ロープウェイやリフトで天守閣まで行けますが、二の丸からひたすら徒歩で先人達の苦労を感じるのも良いですよ。50歳オジさんの足で20分もあれば踏破します。帰りはリフトで風を感じながら降りましたが、高所恐怖症の方はロープウェイがお勧めです。
2022年05月03日 ひろっぷ右近衛中将
松山城
GWという事で、🏯は凄い混み具合でした。待って入りましたが、百名城スタンプは入らなくても、もらえるようになってました。
2022年02月11日 ぞぞぞ右京大夫
松山城
搦め手側の登り口は街灯が点いていて夜も歩けます。アパホテル松山城西に泊まるのがオススメ。
2021年10月11日 みなとん左京大夫
松山城
連郭式平山城とは言え、山の上の築城なので高度感はありますし、そして広い。素晴らしい城でした。
2021年08月15日 最上中務大輔一輝
松山城
山城の中に入り組んだ通路が形成されている他、石落としや、銃を出す窓など、攻め入るのが非常に困難であると容易に想像できる構造の城。
2021年07月13日 スイトピー❁伊予守感♡謝
松山城
四国の日本百名城にも選定され誰もが一度は訪れたことのある城。復興された本丸とともに、二の丸三の丸の曲輪を伸ばす形になっていて、花見時期には人気のスポットとして市民に親しまれています。伊予鉄道大街道駅から徒歩でアクセスもし易い。
東雲口登城道より歩いて登ると、ロープウェイやリフトの真下を交差する光景も此処ならではの趣があり、現在、古町口登城道はロープが張られ通行止めになっていた。
丘陵の尾根を利用した平山城ですが、規模は大きく山上と山下を一体化した堅城で、戦う不屈の城である事が見て分かります。現存する天守は、小天守や隅櫓と渡櫓で連結され天守曲輪を構成。建物どうしが補完しあうことで、どの方向からの敵をも打ち砕く、鉄壁の守りを見せている。そして多数現存する門や櫓・塀にはそれぞれ狭間や石落としが作られており、巧みに配された高石垣とバランス良く城の守りを固めている。更には登石垣を有し敵の横移動阻止はもちろん、上からの攻撃もしやすくしている。松山城では、登石垣で山頂の本丸と二の丸が繋がっていて、二の丸には史跡庭園があり堀之内には県立美術館、民族資料館があるので是非そちらにも足を運んでみてはいかがですか。
☆見どころ…数ある中でおすすめを二つ紹介。一つは破風の屋根裏を使った隠し部屋「破風の間」と呼ばれている小部屋。装飾の役目だけでなく破風内の有効利用。ここに鉄砲狭間や格子窓を切ることによって軒先まで出て射撃することが可能となり、軒先の死角をなくすことができるのが凄いです。
二つ目は、1982年に復元された乾門東続櫓東折曲り塀です。乾門東続櫓から紫竹門西塀までの石垣に設けられた渡塀(土塀)で長さ48m、4箇所の石落しと48ヶ所の狭間が備えられていて、乾門と併せて搦手の防衛の要です。その姿は圧巻で乾一ノ門から乾門までの間は、一種の枡形になっており寄手を簡単には侵入させない仕組みが素晴らしいです。
また、この塀の下には補強の為と考えられる脛巾石垣(高さ約2.6m、長さ40m)が設けられています。
最後に余談ですが…2006年天守修理の際に壁板の裏から武士の似顔絵が見つかったのは有名な話です。
また、松山城の東側にある土器(かわらけ)堀跡は現在、東雲公園となっています。散策中、雨上がりの虹が見事にかかり幸運でした。
(R3.7.9訪問)参考:城内説明板記載内容より引用。
2021年04月10日 【城郭道】たっきー
紫竹門[松山城 遺構・復元物]
西側(乾門方向)からの侵入者に備えた門でここを仕切ることで本壇・本丸への容易な侵入を防いでいた。
2021年04月10日 【城郭道】たっきー
野原櫓[松山城 遺構・復元物]
平櫓(一階)の天井の梁で望楼部(二階)を支える望楼型の構造で、場内最古の建物と言われる。窓は突上戸。
2021年04月10日 【城郭道】たっきー
二の門[松山城 遺構・復元物]
二の門の左側が三の門南櫓、右に二の門東塀と二の門南櫓。一の門枡形から石段で上がった場所に位置し、門を抜けると本壇の平坦面となる。
2021年04月10日 【城郭道】たっきー
乾櫓[松山城 遺構・復元物]
築城当初から残る本丸北西隅の鋭角の石垣上に建つ二重櫓で、搦手通路遠押さえる極めて重要な役割を担っていた。
2020年12月12日 【城郭道】たっきー
太鼓櫓[松山城 遺構・復元物]
太鼓櫓は二箇所の隅に石落としを備えた二重の望楼型隅櫓で現在は空襲で焼失したものを昭和48年に復元したものです。
戸無門付近から見るとU字型の通路を通る敵を上から攻撃できるようになっています。また、本丸南曲輪に侵入した敵への攻撃も可能です。
2020年11月22日 大納言Z周防守369
土器堀(かわらけぼり)跡[松山城 遺構・復元物]
松山城外堀の一部。1955年に埋め立てられた。写真では前の道が上り坂になっているのがわかる。
2020年11月22日 大納言Z周防守369
大手門跡[松山城 遺構・復元物]
築城時から建てられた重要な門。明治時代に取り壊された。
2020年11月22日 大納言Z周防守369
槻木門跡[松山城 遺構・復元物]
本丸登城道と二ノ丸への道との分岐点にあった門。明治時代に取り壊された。
2020年11月22日 大納言Z周防守369
黒門跡[松山城 遺構・復元物]
江戸時代までは、山頂の本丸への正規の登り道だったのは、この黒門からの登城道だけだった。
2020年09月21日 宇陀雅楽頭うっほほ〜い
松山城
見事な石垣のとても良いお城です。連休中で混雑していましたが、検温、消毒、登城人数制限など、コロナ対策がしっかり取られていました。
2020年09月20日 装鉄城大膳大夫乱怒
松山城
松山城本丸広場は朝5時から開放されています。ここからの照明に当たる天守はなかなかの壮観ですし、四国一の大都市松山の夜景が眺められました。
2020年09月13日 刹那F精鋭渡島守【元親】
現存天守[松山城 遺構・復元物]
受付窓口を過ぎてすぐに筋鉄門東塀が見えます。右へ一ノ門、一ノ門南櫓があり、一ノ門東塀がとても鉄砲狭間キレイですね!
2020年09月13日 刹那F精鋭渡島守【元親】
紫竹門[松山城 遺構・復元物]
乾門方面からの侵入対し、この門と東塀・西塀と仕切る。本丸の裏を防衛上重要な門
2020年09月13日 刹那F精鋭渡島守【元親】
戸無門[松山城 遺構・復元物]
本丸の大手入り口の最初に現存する高麗門です。
2020年09月13日 刹那F精鋭渡島守【元親】
艮門東続櫓[松山城 遺構・復元物]
本壇の鬼門にあたり不浄門とも言う。
敵の侵入者の側面を攻撃するための門、だと言われている
2020年08月28日 キョロ左近衛中将ちゃん
松山城
城に向かって攻め始めると「近くに天守があるように見える錯覚」途中「隠し門」などの仕掛けもあり、思った以上に堅固な設計です。
2020年08月16日 斎藤弾正少弼
松山城
二の丸、県庁口から登れば、それぞれ南北の上り石垣が見れます。
県庁口からの南登り石垣がいいです。
2019年05月03日 おとも左近衛中将様
松山城
倒れる恐れがあるから5月に撤去されるそうです…もう今月かぁ…かわいそうやけど事故等を考えるとしょうがない事なのか…
2018年02月03日 iggy摂政
松山城
《登り石垣の構造について》
理由不明で撤去されてしまった「北登り石垣」を見に行ったところ、乾門下の石垣と接続する起点辺りに栗石が見て取れたので「登り石垣」の構造と「一般的な石垣」の構造は同じなのかな?と無学であったことから、市公園緑地課(石垣担当)に問い合わせたところ、基本的には構造は同じであるとのことでした。
北登り石垣跡へは二之丸史跡庭園の西側、黒門口登城道を石垣沿いに進まず、直進山道へと進むと、盛土が目に留まります。それが北登り石垣跡になります。盛土に沿って登ると乾門下の石垣との接続(起点)にたどり着きます。
南北の登り石垣は本丸と二之丸間を防御していました。石が剥がされほとんどが盛土のみとなっている北登り石垣、森の中、ひっそりと月日を送っており、今では光輝く松山城の陰の部分になっているのかも知れませんが、普請時の名残を今に伝える大切な遺構の一つであると思われます。
2017年12月25日 征夷大将軍、٩(ˊᗜˋ*)و
松山城
松山城のお城メダルは本丸大天守とロープウェイ駅舎1階にありました...事前に小銭は準備しておいて下さい...(╹◡╹)
2017年05月20日 東照大権現周防守カズピー
松山城
駐車場は近くにあるのですが数は少ないです。トイレはきれいです。春は桜が綺麗で家族で行くにはもってこいです。僕が行ったときは甲冑着て撮影できました。
2017年02月25日 織田上総介晃司
松山城
休日は駐車場の空きがなく、ロープウェイ乗り場付近の100円パーキングに駐車。(100円パーキングは多いのでご安心)
ロープウェイ(またはリフト)で登ると天守まで時間はかからない。
姫路城・和歌山城とともに三大連立式天守の平山城で、本壇の天守群は全体像・各部分どの角度から撮っても美しい。
大天守は元々五層だったのを三層に改築したため、大天守だけ見ると床面積のわりに低いので、ずんぐりむっくり感があるが、全体像はかえって他の建物とマッチして美しさを際立たせる。
加藤嘉明築城。完成前に会津へ転封。石高加増とは言え自分の城を完成前に他人に引き渡す時の心境はいかばかりか…
松山市内の「鯛や」で鯛めしを食べました。美味。鯛の炊き込みご飯で南予の鯛めしとは異なります。
2016年12月25日 青き巨星弾正少弼かみ
松山城
湯築城で聞いた話ですが、1年に1回大掃除をする日があるそうです。私が行った日はたまたまその翌日てした。落ち葉は無く綺麗だったのですが、曇って無かったらなぁと思いました。
2016年12月25日 青き巨星弾正少弼かみ
松山城
松山城のお城メダルは本丸大天守とロープウェイ駅舎1階にあります。城に行かなくてもいい!メダルだけ欲しい!という方(そんな人はいないと思いますが)は駅舎で買って下さい。
2016年03月15日 さちえもん
松山城
二の丸から登るなら下の駐車場は都市ど真ん中なのに無料です。17時まで。リフトで登るなら路面電車で『大街道前』で降りると近いです。リフトと天守閣入場券セットが便利。ロープウェーも乗れます。自販機で買えますが、マドンナが丁寧に教えてくれます。リフトの下に、ほっこり伊予弁が書いてあるので、読みながら上がってください♪クリスマスシーズンは、サンタクロースもリフトに乗っています(・∀・)
天守閣からは、伊予灘の輝く海と、西日本最高峰の石鎚山も天気が良ければ見えて、最高の景色です。城下町が見渡せて、お殿様気分を味わえます♪桜の時期は最高ですよ~!
2016年03月12日 まるき〜陸中守
松山城
通常ロープウェイやリフトで登城するかと思いますが時間と体力があるなら反対方向(西側)にある松山城二ノ丸史跡庭園からの登城も良いですよ。ロープウェイ、リフト代と駐車場代が節約できます…駐車場は無料だし石垣もよく見えて松山城の守りを足下から見て回れます天守まで歩いて2〜30分程かかりますが登り切った後は節約したお金で売店の蛇口から出るポンジュースや松山城限定の伊予柑ソフトをどうぞ(笑
2015年12月23日 日本史跡研究会
松山城
三之丸跡で発掘調査現地説明会が本日開催されます
2015年11月08日 永眠武蔵守釋 葱進
松山城
土日祝日は、開門セレモニーとして開門時(9時)に登城太鼓と共に来場者自ら一ノ門を開けることができます。時間合わせられるなら、早めに来城されることおすすめします。
2015年10月10日 河野治部少輔かぱ通
松山城
ロープウェイもありますが、徒歩なら東雲神社口から登ると登りやすいです。本丸から見る瀬戸内の夕焼けは絶景です。
2014年09月12日 志賀長門守親次
松山城
9/11AMリフトにより登城。さすが四国随一の巨城!連結型の天守群、高石垣、横矢掛、嘉明は清正にも引けを取らない縄張してますね。石垣の稜線が綺麗です(*'▽'*)
2013年11月24日 備前守知守
松山城
二ノ丸庭園の無料駐車場があいてなかった場合は、ロープウェイ乗り場のわりと近くに100分100円や90分100円の駐車場があります。
2013年01月29日 はせちゃん弾正忠
松山城
松山城本丸跡にて、2/2 発掘調査現地説明会が実施されるとのことです
2012年10月04日 てっちゃん掃部頭50
松山城
松山城では明日から:10月5日(金)~7日 (日)の3日間、 「お城の夕べ~月見~」が開催致されま す!ヘ(^o^)/
実施日:平成24年10月5日(金)~ 7日(日) ※雨天決行
営業時間: <天守> ~20:30(札 止め20:00)
<ロープウェイ> ~2 1:00最終
<リフト> ~17:00終了
場所:天守・登城道
松山城の月見として夜間の天守観 覧や登城道などにおける特別ライトアッ プを実施!(^_-)
2011年09月19日 春風十勝守世遊
松山城
ドラマ「坂の上の雲」の撮影地は艮門付近です。天守閣出入口の右側の道を進んでくださいドラマの広告が貼られた小さな看板が立ってます。カメラマンは艮門の方の石段から天守閣を見上げて、被写体は柵付近に立ってください柵があって広告のようには撮れませんが、記念になりますよ百名城スタンプは天守閣受付の付近に置いてありますが綺麗に押せません受付の方に言えば綺麗に押せるスタンプを出してもらえます状態良好
2011年06月10日 加藤豊後守清正
松山城
現存12天守の中では、比較的新しいお城ですが、高石垣で築かれたお城は槍ヶ岳の一人、加藤嘉明にふさわしいお城と言えます。漆黒が美しいです
2011年01月20日 加藤豊後守清正
松山城
現存天守で、往時のまま残っていて素晴らしかったです。一度焼失しているので、古くはありませんが!
2010年09月22日 さまよえる蒼い信濃守弾丸
松山城
県庁裏の登り口から攻めました
登り坂と残暑がきつかったデスが、登り石垣から望む天守閣が正岡子規の「秋より高き天守閣」であることを実感し、天守閣からの瀬戸内海を望む風景が疲れを吹き飛ばしてくれました
帰りに中ノ門跡で偶然にも「坂の上の雲」の本木雅弘さんと阿部寛さんが写真撮影している現場に遭遇するサプライズも有り大満足
2010年09月13日 tomm加賀守
松山城
出来れば二之丸史跡庭園も見学したいですね!
こちらの駐車場は無料です(朝9時から利用可)し、大手道から大手門跡まで歩いても10分ぐらいで、帰り道を県庁道にすると登り石垣も見れますから
本丸広場で販売している「究極の伊予柑ソフト」は絶品です
2010年07月21日 りきんこ
松山城
春や昔 十五万石の城下哉
松山城の周辺スポット情報
現存天守(遺構・復元物)
戸無門(遺構・復元物)
筒井門(遺構・復元物)
太鼓櫓(遺構・復元物)
馬具櫓(遺構・復元物)
乾櫓(遺構・復元物)
野原櫓(遺構・復元物)
紫竹門(遺構・復元物)
艮門東続櫓(遺構・復元物)
巽櫓(遺構・復元物)
本丸井戸(遺構・復元物)
奥門(遺構・復元物)
隠門続櫓(遺構・復元物)
乾門(遺構・復元物)
太鼓門(遺構・復元物)
二の丸多聞櫓(遺構・復元物)
米蔵(遺構・復元物)
四脚御門(遺構・復元物)
天神櫓(遺構・復元物)
大井戸(遺構・復元物)
黒門跡(遺構・復元物)
槻木門跡(遺構・復元物)
大手門跡(遺構・復元物)
土器堀(かわらけぼり)跡(遺構・復元物)
三の丸(遺構・復元物)
一の門南櫓(遺構・復元物)
二の門南櫓(遺構・復元物)
一の門(遺構・復元物)
三の門南櫓(遺構・復元物)
二の門(遺構・復元物)
天神櫓南塀(遺構・復元物)
天神櫓西折曲塀(遺構・復元物)
三の門(遺構・復元物)
小天守(遺構・復元物)
多聞櫓(遺構・復元物)
南隅櫓(遺構・復元物)
十間廊下(遺構・復元物)
北隅櫓(遺構・復元物)
玄関多聞(遺構・復元物)
玄関(遺構・復元物)
内門(遺構・復元物)
仕切門(遺構・復元物)
筋鉄門(遺構・復元物)
紫竹門西土塀(遺構・復元物)
乾門東続櫓続折曲塀(遺構・復元物)
北曲輪(遺構・復元物)
天守曲輪(遺構・復元物)
本壇(遺構・復元物)
乾門東続櫓(遺構・復元物)
艮門(遺構・復元物)
太鼓門西塀(遺構・復元物)
南続櫓(遺構・復元物)
北続櫓(遺構・復元物)
巽櫓西塀(遺構・復元物)
西続櫓(遺構・復元物)
隠門(遺構・復元物)
東続櫓(遺構・復元物)
本丸(遺構・復元物)
東登石垣(遺構・復元物)
西登石垣(遺構・復元物)
水堀(遺構・復元物)
東曲輪(遺構・復元物)
二の丸御殿(遺構・復元物)
東御門櫓(遺構・復元物)
仕切門内塀(遺構・復元物)
筋鉄門東塀(遺構・復元物)
三ノ門東塀(遺構・復元物)
一ノ門東塀(遺構・復元物)
二ノ門東塀(遺構・復元物)
乾門西塀(遺構・復元物)
紫竹門東塀(遺構・復元物)
待合番所跡(遺構・復元物)
中ノ門跡(遺構・復元物)
恒生山城(周辺城郭)
垣生山城(周辺城郭)
東雲神社(寺社・史跡)
七曲り街道(寺社・史跡)
城山荘売店(御城印)
天守入口(天守地下1階)(スタンプ)
トイレ(トイレ)
多機能トイレ(トイレ)
駐車場(駐車場)
駐車場(駐車場)
城山公園(関連施設)
坂の上の雲ミュージアム(その他)