荏原城(えばらじょう)
荏原城の基本情報
通称・別名
- 恵原城、会原城、平岡城、柵居城
所在地
- 愛媛県松山市恵原町1109-31
旧国名
- 伊予国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 平岡氏
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 曲輪、石積、土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- 県史跡(荏原城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
千里城(愛媛県伊予郡)[8.0km]
湯築城(愛媛県松山市)[9.4km]
松山城(愛媛県松山市)[9.8km]
岩伽羅城(愛媛県東温市)[10.3km]
松前城(愛媛県伊予郡)[10.7km]
大除城(愛媛県上浮穴郡)[12.9km]
港山城(愛媛県松山市)[14.7km]
横山城(愛媛県松山市)[17.1km]
由並城(愛媛県伊予市)[17.6km]
大熊城(愛媛県西条市)[19.2km]
[大きい地図で開く]
荏原城の解説文
荏原城の口コミ情報
2022年05月03日 織田上総介晃司
荏原城
駐車場はありません。短時間であれば説明板のある入口に停車。土塁と水堀が残る。城の南西部に僅かに石積があるというが発見できず。今は果樹園となる。
2021年11月29日 つか征夷大将軍ぽ
土塁[荏原城 遺構・復元物]
果樹園になってますが周りは土塁がしっかりと残っています。
2015年10月05日 カガシ
荏原城
今は ミカン畑
概要
築城年代は不明であるが、建武2年(1335年)、忽那氏が「会原城」で戦ったという記録が『忽那一族軍忠次第』にあり、築城はそれ以前である。この城は、河野氏の家臣平岡氏の居城で平岡城ともいわれ、天正13年(1585年)、平岡通倚のとき、豊臣秀吉の四国征伐により落城した。その後、慶長5年(1600年)、平岡善兵衛がこの城で河野氏再興をはかって失敗し、城は廃墟となって今日に至っている。
周囲に高さ5mほどの土塁を築いた方形の平地で、東西130m、南北120m、四周に濠をめぐらせ、南側に土橋で城外と連絡をとっている。土塁の上にあった建物は不明であるが、四隅に櫓があったらしく、特に西南の隅に石積みがあり、櫓の存在が考えられる。矢竹が植えられているのは、この時代の城塁に共通する特色であろう。
歴史・沿革
・建武2年(1335)忽那氏、荏原城を攻めて翌年に至った。・天正13年(1585)9月豊臣秀吉の四国征伐により落城する。
・慶長5年(1600)9月平岡善兵衛直房がこの城で河野氏再興をはかって失敗し、城は廃墟となった。
・昭和25年(1950)10月10日 愛媛県指定文化財史跡荏原城跡に指定される。
参考文献
・松山市教育委員会文化財課2002「松山の文化財」松山市教育委員会・愛媛県教育委員会1987「愛媛県中世城館跡―分布調査報告書―」
・長山源雄1982「伊予の古城跡」伊予史談会双書第4集 伊予史談会