荏原城(えばらじょう)
荏原城の基本情報
通称・別名
- 恵原城、会原城、平岡城、柵居城
所在地
- 愛媛県松山市恵原町1109-31
旧国名
- 伊予国
分類・構造
- 平城
天守構造
- -
築城主
- 不明
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 平岡氏
廃城年
- 慶長5年(1600)
遺構
- 曲輪、石積、土塁、横堀(水堀)
指定文化財
- 県史跡(荏原城跡)
再建造物
- 石碑、説明板
周辺の城
-
千里城(愛媛県伊予郡)[8.0km]
湯築城(愛媛県松山市)[9.4km]
松山城(愛媛県松山市)[9.8km]
岩伽羅城(愛媛県東温市)[10.3km]
松前城(愛媛県伊予郡)[10.7km]
大除城(愛媛県上浮穴郡)[12.9km]
港山城(愛媛県松山市)[14.7km]
横山城(愛媛県松山市)[17.1km]
由並城(愛媛県伊予市)[17.7km]
大熊城(愛媛県西条市)[19.2km]
荏原城の解説文
荏原城の口コミ情報
2024年04月07日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
新張城[荏原城 周辺城郭]
愛媛県の松山市にある【新張城】♪舌状台地上(現在は畑)に城郭は形成されています♪北西側には荏原城、上野城があり、城主名を見ると、荏原城の平岡氏の支城群の1城なのでしょう♪
恵原町の字、新張♪地元では『新張さん』とも呼ばれている場所です♪北側は御坂川が流れ、断崖が自然の防壁となっています♪今でこそ農道が通り、コンクリートで固められていますが、往時は崖下までが御坂川だったのでしょう♪西側の直下には土佐街道が走り、交通の要衝地となります♪平岡氏は、道後・河野氏の家臣ですから、松山平野に入る、新張城、荏原城、或いは上野城は、街道監視の目的を持つ城郭だった事でしょう♪
この城郭もまた大きな遺構は残しませんが、南東端にのみ土塁と堀を残しています♪
元々、単郭の城郭だった様です♪
造りは荏原城の様な方形型の単郭で、土塁と水濠で囲い込み、周囲を守っていたのかもしれません♪今現在、土塁上には土岐神社(諏訪神社)が祀られています♪
築城年代等、不明な点が多い城郭ですが、城主として名前が上がっているのが、土岐油井、土岐頼高、平岡左近と云われています♪
記述には『恵原町字新張に三反歩ほと地面の小高き所あり是れ『城の内』と呼ふ 即ち当城の跡なり 土岐山城守浮穴郡徳川城主手勢五騎とあり』とあります♪
土岐氏に関しては、鎌倉幕府第15代目の執権・北條貞顕の書状の一部に『土岐左近大夫殺害せらるの事候やらん 御沙汰候の躰にては候とも 罪名をも付けられ…』とあり、伊予国の守護が、有力御家人である土岐左近大夫に殺害されたとあり、この頃すでに土岐氏が伊予国に入部しています♪鎌倉時代には、土岐氏が美濃国から荏原の里に、地頭として来ていたのでしょう♪その後の伊予における土岐氏ですが、権益は不安定だった様です☆土岐氏は上浮穴郡の大野氏に対して、荏原郷に関する合力を要請したりしています☆
平岡氏が荏原・久万山地域に進出して土岐氏の領主権を脅かした事により、細川政元は大野、宇都宮、森山氏たちに平岡退治の協力を求めていた様です☆平岡氏が力を付けて台頭してきます☆その後の平岡氏は、湯築城の河野家に属し、このエリアを牛耳りました☆
戦国末期の土岐氏は、浮穴郡から野間(今治)に移っています♪今治市、本町円浄寺には今治藩士としての土岐氏の墓が代々残されています♪
鎌倉時代に伊予国に土着した、土岐一族の子孫♪戦国期には縫針(中世の新張は縫針と書きます♪)を拠点とし、浮穴郡の国人領主に成長した土岐氏の話でした♪
2024年04月06日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
上野城[荏原城 周辺城郭]
愛媛県の松山市にある【上野城】♪遺構物は何も残りません♪現在、生涯学習センターの敷地が上野城となっています♪河岸段丘上に築かれていて高台にある事のみ、雰囲気を感じる事が出来ます♪北側には御坂川とそこに繋がる支流が河岸段丘のすぐ下を流れます♪東側には荏原城、南東側には新張城などが点在する場所でもあります♪
築城年代、城主共に不明の城郭です☆生涯学習センターの建設、開発の為に行われた発掘調査の際に、台地上の北東端よりL字の堀を2箇所造り、外堀と内堀と二重に設けていた様です♪
この城の近隣には河野氏の重臣である平岡氏の居城で荏原城があります♪
更に、この上野城と荏原城の間には土佐街道が走る為、この街道を監視目的とした、城郭だったのかもしれません♪立地的にも平岡氏の支城群の1城だったのではないかな〜?この平岡氏は戦国末期には道後・湯築城の伊予守護である河野氏の執事を務めた一族ですが、歴史上その出自は不詳となっています☆昔からいた土豪でしょうが、分かりません☆
ただ鎌倉時代から室町時代にかけて所領とする地名を、そのままに苗字として名乗る事が多かった訳で、愛媛県の中予に『平岡』という地名がありました♪伊予市と中山を結ぶ山道の峠に『平岡』という集落があります♪
この、平岡集落ですが集落の背後には釜野城という城郭があり、つい最近まで、年一で集落の祭りとして『えばらまつり』が開催されていた様です♪往時の平岡は伊予郡の中予を納めていたのは森山城の森山氏だった為、配下であった平岡氏は徐々に力を付けていき、主家をも凌ぐ勢力になったのかもしれません♪
話はそれましたが、上野城のある上野は平岡氏が領していたと考えています♪平岡集落と荏原(えばら)♪何らかの関係がある事は確かでしょう♪結果、上野城の歴史は分からずじまいでした…☆写真の中心は高まる台地と土佐街道♪
2024年04月06日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
土居城[荏原城 周辺城郭]
愛媛県の松山市にある【土居城】♪北には小野川、南側に内川が流れ、2つの河川に挟まれた松山平野に立地♪更に内川よりも南側は、切り立った赤石山系の山々が連なります♪現在は閑静な住宅地の中に、土居城は存在しました♪萬福寺がある場所が、その土居城の中心部とされています♪四国中央市にある土居とは異なります☆
地名の土居とは?鎌倉時代の土豪・武士の屋敷は土塁や堀に囲まれており、その一廓を土居とか堀之内と呼んでいるので、その名残でしょうか?内川を南側の濠とした事でしょうから、その内にという事で土居になったのかもしれません♪
土居城は南北朝時代に、南朝方の中心的存在であった、土居氏の居城となります♪この土居氏は河野通有の弟である河野通成が、文永年間頃(1264年〜1275年)に築城し、その後に土居姓を称したとされています♪
土居氏の活躍として以下の文章が残ります♪
『石井村萬福寺の在る所なり。勤王家土居通増の居城なりと云う』
『土居城、南土居村字五丁目にあり。此村は旧浮穴郡の内なりしが近頃久米郡に属せり。河野四郎通信の六男河野弥九郎通継の四男孫九郎通成、浮穴郡井門郷土居庄に住す。因って土居を以て氏とす。其子次郎通胤、其子彦九郎通増、後醍醐天皇より北条追討の綸旨を賜ひ、元弘三年二月得能又太郎通綱と謀り兵を挙げて官軍に応ず。其の後通綱と共に長門探題北条時直を星岡に撃てこれを破り、遂に兵を携て京都に入衛し数々戦功を顕す。云々』
とあり、松山市の星ノ岡城のある小高い丘陵上に砦を築き、鎌倉幕府方の長門探題北条時直を撃破した事が書かれてあります☆
星岡合戦ですね♪
現在、城郭の南西側には、土居通成の子で懐良親王の令旨を得て鎌倉幕府倒幕の兵を挙げた、土居通増を顕彰する石碑と、宝篋印塔が残ります♪
2024年04月04日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
星ノ岡城[荏原城 周辺城郭]
愛媛県の松山市にある【星ノ岡城】♪雲門寺の背後にある独立丘陵地に、城郭は存在しました♪眼下には小野川が蛇行し、天然の濠を成しています♪
元弘の変(1331年)次第に衰微していく鎌倉幕府を倒し、王政復古を目指した後醍醐天皇の皇子である護良親王の令旨を受け、宮方に付いたのが、久米郡の河野一族である土居通増、桑村郡得能の得能通綱(河野通信の子通俊の孫)、忽那重清越智郡大三島の大祝安親らです☆この戦いは幕府から天皇が政治を取り戻し、実権を握る事を目的とした王政復古の戦いであります☆
往時、楠木正成は河内国の赤坂に、あるいは千早城に拠って奮戦を続けていて、また諸国にも反幕府的な気運が充満していき、鎌倉幕府の権威が崩壊する時期でもありました☆
瀬戸内の宮方の取り締まりとして、長府に長門探題が置かれ、長官職に北条時直がいました☆
元弘3年 (1333年)幕府方の北条時直は今治市近見に上陸し、宇都宮氏と共に土居氏・得能氏と戦い敗退。。越智郡の石井浜(今治近見)に上陸するも敗退しています☆
その直後に北条時直は再び幕府軍を立て直して、宮方の中心である石井に攻め込んでいます☆北条時直は7千余の軍船を率いて、第1軍を今出に、第2軍を三津浜に上陸させて、伊予国の反幕府軍制圧の為に星ノ岡城を占領し、拠点としました☆この合戦は宮方に属した土居氏館から、2Km離れた星ノ岡山を中心に、石井・久米・小野となかなか広範囲で戦いがあり、結果的に伊予国の宮方軍が勝利しています☆
かなりの激戦だったと伝わり、北条時直は身1つで逃げ出したと伝わります。。
反幕府派のこういった戦いは全国に波及し、各地で戦闘が勃発☆朝廷に応じる武士がドンドン出現し、建武新政と呼ばれる王政復古が成立し、遂には鎌倉幕府は滅亡しちゃいました…。。
戦国時代にも星岡は重要な戦略地域の1つとなっていて、相継ぐ戦乱の地となっています☆
星ノ岡城の山頂・薬師堂(延久年間1073年の築造)の横には、土居氏・得能氏の功績を讃えた石碑が立ちます♪コレは明治17年、陸軍大学校一期生の仙波太郎が中心となり『星岡表忠之碑』が建立されました♪
5つの峰で成り立つ丘陵地、星ノ岡城ですが、この丘陵地全体を城塞化していたのかもしれません♪鞍部は堀切とも動線とも取れる様な窪地を残し、ピーク周辺はシッカリと削平されていました♪
2024年03月31日 龍馬太閤【備中の麒麟児】
縦渕城[荏原城 周辺城郭]
愛媛県の松山市にある【縦渕城】♪小野川(縦渕川)ともの左岸で、現在は住宅密集地の中の城山神社内に、石碑と案内板があります♪往時はこの場所は小高い山があった様ですが、明治21年(1888年)土佐街道の建設の為に山が削られ、今はその名残も遺構も残っていません♪
縦淵城は承久3年(1221年)に起こった『承久の乱』(後鳥羽上皇VS鎌倉幕府)で功を挙げこの地を得た、河野通久によって築かれた城郭となります♪河野宗家は承久の乱の際に、後鳥羽上皇方に付き没落した為に、庶子である河野通久が家督を継いでいます♪
河野家は、この中央の戦いに翻弄されていきます…。その後、河野通盛の代で湯築城を築くまで、河野氏代々の居城となっています♪
湯築城を築城していく河野通盛ですが…元弘3年(1333年)後醍醐天皇の建武政権は、幕府方であった河野通盛の所領を没収し、一族の得能通綱を河野氏惣領としていて、一族の土居通増を重用しています♪その後、建武政権は河野通盛の伊予国内への影響力を考慮して、没収した所領の一部を伊予国内の替地で補償していますが、足利尊氏が建武政権に叛旗を翻すという出来事が勃発(延元の乱)し、これに呼応した河野道盛です♪建武3年(1336年)足利尊氏が九州から京都を目指して東上し始めると、これに合流し、足利尊氏が京都に入って室町幕府が事実上成立すると、河野道盛は対馬守及び伊予守護職に任じられています♪河野通盛が足利尊氏へ加勢した目的は、惣領の地位と、承久の乱・元弘の乱で失った河野氏所領の回復だったのでしょう♪伊予に帰国した河野通盛は、足利尊氏の命で四国に入っていた細川皇海と協力して、大舘氏明・四条有資・忽那義範・土居通重(通増の子)ら南朝方と戦っていました☆
その後の縦渕城は、河野宗家の支城群の1城として、本城を移した後も機能した事が考えられます♪
2023年10月10日 松永伊予守だんじょー
荏原城
2023/10/9
駐車場はないようですが、入り口の看板前に一台分停められるスペースがあります。土塁内は果樹園になっているので、何卒ご迷惑のないように。。。
堀は現在水があり、溜池のように利用されてるのかな?当時は空堀?小規模ながら堀を一周ぐるりと回ると、2か所に石垣を少し復元してくださっています。1300年頃には既に城があったようですが、700年以上残っている事に感謝です。
2022年05月03日 織田上総介晃司
荏原城
駐車場はありません。短時間であれば説明板のある入口に停車。土塁と水堀が残る。城の南西部に僅かに石積があるというが発見できず。今は果樹園となる。
2021年11月29日 つか征夷大将軍ぽ
土塁[荏原城 遺構・復元物]
果樹園になってますが周りは土塁がしっかりと残っています。
2015年10月05日 カガシ
荏原城
今は ミカン畑
概要
築城年代は不明であるが、建武2年(1335年)、忽那氏が「会原城」で戦ったという記録が『忽那一族軍忠次第』にあり、築城はそれ以前である。この城は、河野氏の家臣平岡氏の居城で平岡城ともいわれ、天正13年(1585年)、平岡通倚のとき、豊臣秀吉の四国征伐により落城した。その後、慶長5年(1600年)、平岡善兵衛がこの城で河野氏再興をはかって失敗し、城は廃墟となって今日に至っている。
周囲に高さ5mほどの土塁を築いた方形の平地で、東西130m、南北120m、四周に濠をめぐらせ、南側に土橋で城外と連絡をとっている。土塁の上にあった建物は不明であるが、四隅に櫓があったらしく、特に西南の隅に石積みがあり、櫓の存在が考えられる。矢竹が植えられているのは、この時代の城塁に共通する特色であろう。
歴史・沿革
・建武2年(1335)忽那氏、荏原城を攻めて翌年に至った。・天正13年(1585)9月豊臣秀吉の四国征伐により落城する。
・慶長5年(1600)9月平岡善兵衛直房がこの城で河野氏再興をはかって失敗し、城は廃墟となった。
・昭和25年(1950)10月10日 愛媛県指定文化財史跡荏原城跡に指定される。
参考文献
・松山市教育委員会文化財課2002「松山の文化財」松山市教育委員会・愛媛県教育委員会1987「愛媛県中世城館跡―分布調査報告書―」
・長山源雄1982「伊予の古城跡」伊予史談会双書第4集 伊予史談会