港山城(みなとやまじょう)
港山城の基本情報
通称・別名
- 湊山城
所在地
- 愛媛県松山市港山
旧国名
- 伊予国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 河野通盛
築城年
- 建武年間(1334〜1338)
主な改修者
- -
主な城主
- 河野氏
廃城年
- 天正13年(1585)
遺構
- 曲輪、石垣、井戸跡
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
-
松山城(愛媛県松山市)[5.7km]
湯築城(愛媛県松山市)[7.4km]
松前城(愛媛県伊予郡)[8.4km]
横山城(愛媛県松山市)[10.6km]
本山城(愛媛県松山市)[12.1km]
鹿島城(愛媛県松山市)[12.7km]
荏原城(愛媛県松山市)[14.7km]
恵良城(愛媛県松山市)[16.0km]
岩伽羅城(愛媛県東温市)[16.3km]
千里城(愛媛県伊予郡)[20.7km]
港山城の解説文
[引用元:Wikipedia「港山城」の項目]
港山城(みなとやまじょう)は、伊予国(現在の愛媛県松山市港山)の、海に面する西側の小丘陵に築かれた河野氏の河野水軍が拠点にした日本の城(山城)。湊山城とも書かれた。
三津の港を見下ろす丘の上にあり、港の警護と監視、有事の際に軍船で出撃するにはうってつけの立地であった。東西に細長く本丸と二の丸が伸びていた。現在は整備されていて面影はないが、かつては海岸線が入り組んでいて島のような状態であったという。
歴史
河野通信が文治2年(1186年)に築いたとも、建武年間(1334年から1338年頃)に河野通盛が風早郡河野郷(現在の松山市北条付近)から湯築城に移ったが際に海の守りとして築城したとも、応仁元年(1467年)に河野予州家の武将河野通春が築城して居城としたとする、等の説がある。河野氏の本宗家が居城とした湯築城から距離があり、水軍衆と本宗家の内訌の原因になったとされる。
河野氏本宗家と予州家との内訌(内戦)においては予州家の河野通春の居城となり、寛正6年(1465年)重見飛騨守がにこの城で討死し予州家の勢力が弱まる中、文明14年(1482年)に河野通春が病没。本宗家に攻められあえなく落城する。
本宗家の手に渡った港山城には河野氏の水軍衆が置かれ(湊山衆)忽那氏が統率し、伊予にたびたび侵入した大友氏や毛利氏との争いにおいては防衛の要として重要な役割を果たす。 天正13年(1585年)5月の豊臣秀吉の四国征伐に伴って、伊予に攻め寄せた小早川隆景の伊予平定軍の攻撃で落城して廃城となった。
落城と同じ年、長宗我部元親が伊予を制圧してほぼ四国統一を果たしていたとされており、四国征伐の際には港山城も長宗我部氏の支配下にあった可能性がある。
宮前川が注ぎ込む三津の内湾が城の直下にあって天然の港となっていて地の利は覆しがたく、廃城ののち江戸時代になってからも松山藩の船奉行と軍用船が置かれるなど水軍の根拠地でありつづけた。
港山城の城兵が毎朝、三津の渡しを渡って須崎の浜(現在の三津浜)で米穀や魚を買い求め、それが現在まで続く三津の朝市の始まりになったと言われている。
現況
現在も井戸跡や石垣が一部で残る。登山口に案内板があり、頂上までの登山道が設けられている[1]。
三津の内湾は今でも漁港として使用され、多数の漁船やレジャーボートが係留され造船所もある。
麓には湊三嶋神社がある。
交通
- 最寄り駅 伊予鉄道高浜線港山駅徒歩2分
- 三津の渡し
- 港山城の麓と対岸の三津の80mほどを行き来する市営の渡し舟(三津の渡し)が今でも地元の足に利用され、また観光スポットとなっている。この渡し舟は港山城築城後の食料・物資輸送のために始まった起源が古いものである。
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港山城の口コミ情報
2022年05月06日 やまてつ伊予守
港山城
三津の渡しから、すぐの地蔵堂の側に登城口があります。竹の葉が落ちているので、少し滑りやすいですが、本郭はきちんと整備をされていて、瀬戸内海が見渡せます。
2022年05月02日 こたつ猫宮内大輔三毛
港山城
お地蔵さんと案内看板が登り口の目印。竹の杖も用意有り。本郭は結構広く、海側の見晴らしは最高です。帰りに三津の渡に乗るのも良い。
2021年03月12日 スイトピー❁ 伊予守
港山城
*港山城は河野通盛が海辺守護の目的で築いた説と、港山城最後の城主河野道春が築き居城した説など…諸説ある事が伝えられている。道春が病没し遂には本家方に攻め落とされてしまうが、そののち河野氏は直属の海浜防備隊「湊山衆」をここに置き忽那氏に統率させる。16世紀後半に起きた大友氏や毛利氏らの海上からの侵略、撃退に大きな役割を果たしたとされている。しかし、天正13年の伊予平定軍の攻撃を受けて落城し、廃城となった。
なお、この城郭を海城という人もいるらしいが、そうでは無い。海を縄張りの一部とし港湾監視の目的は持っているが、繁船施設を持っていないからである(城郭体系より引用)
*伊予鉄道高浜線、港山駅の南西方向にある標高約50mの山城。トイレは港山駅横に新設されたバリアフリーのトイレが完備。
*登城口は住宅地の中の港山公民館前にある階段を入る。地元住民たちによって竹林整備され、説明板等も設けられ歩きやすくなっていた。石積み、井戸跡、三つの郭跡が残る。
整備された竹林道を抜けると本郭へ。瀬戸内海を一望できる展望台になっている。美しい眺めと桜の木。正面には伊予小富士と言われる「興居島」が見え、晴天時には遠く長州(山口県)大島が見える日もあるらしい。また、遠く南東方向に伊予松山城も見えます。
*下山後、すぐ側の四国八十八景の「三津の渡し」へ。廃城後、江戸時代になってからも三津の内湾が城の直下で天然の港になっていた事から、水軍の根拠地であり続け、それが現在まで続く「三津の朝市」の始まりになったそうです。
三津と港山間を自由に行き来でき、通学や通勤などに利用され、市民の足となっている無料の渡し船。TVで放映された珍しさに近寄り眺めていたら…船が近づいて来て、船頭さんよりお声がかかる。。乗れば良かったな。と思った…
そして南側山麓には、海に面した「湊三嶋神社⛩」があり有事の際、出撃するには便利な立地であったと思われる。また港山城跡の北側には城主道春氏の祠があり、参拝した。2021.3.10訪問。
2020年11月22日 大納言Z紀伊守369
港山城
案外急で、きつい登城道でした。登城口に杖がありますので、使用された方がいいと思います。以前は草ボーボーだったそうですが、しっかり整備されていました。城跡からは興居島などが見られます。
2020年11月22日 大納言Z紀伊守369
三津の渡し(港山側)[港山城 その他]
双方の対岸までは大きく迂回しなければならず、渡し船なら80m程、2,3分で対岸に到達できます。渡し賃は無料です。
2020年11月22日 大納言Z紀伊守369
登城口[港山城 その他]
こそだて地蔵のある場所が登城口です。杖も用意されています。
2019年05月19日 jyam阿波守
三津の渡し 渡船乗り場 説明板[港山城 碑・説明板]
三津の渡しの船着場に城跡登り口への案内板が有ります。
2017年09月14日 もなか
港山城
登山道を上ると、展望広場は草に覆われていて景色も良く見えませんでした。行ってみるなら草が伸びていない、夏以外の季節がいいかもしれません。
2017年05月06日 大山祇武蔵守明希
港山城
以前はヤブで遮られ、登山はできませんでした。地元住民の活動と市の助成金のお陰で、現在は山頂まで綺麗な登山道と山頂広場が整備され、忽那七島や穏やかな瀬戸内の景観が楽しめるようになりました。
登山口は伊予鉄港山駅から三津の渡しへ向かう路地にあり、白い顔のお地蔵さん(首なし馬の地蔵尊)を祀ったお堂右側の階段から登ります。竹やぶや雑木林をかき分ければ曲輪などの遺構があるのでしょうが、危険なのでやぶの中には入らないほうか無難です。
夏はヤブ蚊が多いので虫除け対策は必須ですよ。
港山駅から梅津寺よりの路地に入ったところに、城主の河野道春を祀ったお堂もあります。
2011年02月06日 右兵衛督のり
港山城
さすが、河野水軍衆の城!!三津港の守りの要って感じです!?城山麓より見るよりも、対岸の三津浜港沿岸より少し遠めで見た方が全体が一望できよく見えますよ
2010年10月05日 慶 士郎
港山城
港山駅から海に向う直ぐに左に港山公民館、右に地蔵さまが…その地蔵さまの右側に説明看板があります。
港山城の周辺スポット情報
三津の渡し 渡船乗り場 説明板(碑・説明板)
忽那山城(周辺城郭)
明沢城(周辺城郭)
高山城(周辺城郭)
登城口(その他)
三津の渡し(港山側)(その他)