恵良城(えりょうじょう)
恵良城の基本情報
通称・別名
- 惠良山城、冠山城
所在地
- 愛媛県松山市上難波
旧国名
- 伊予国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 難波長浦
築城年
- 不明
主な改修者
- -
主な城主
- 河野氏、得居氏、来島氏
廃城年
- -
遺構
- 曲輪、帯曲輪、石積、井戸
指定文化財
- 県史跡(恵良城跡)
再建造物
- -
周辺の城
-
鹿島城(愛媛県松山市)[3.8km]
横山城(愛媛県松山市)[8.1km]
高仙山城(愛媛県今治市)[8.4km]
鷹ヶ森城(愛媛県今治市)[13.6km]
本山城(愛媛県松山市)[15.7km]
港山城(愛媛県松山市)[16.0km]
湯築城(愛媛県松山市)[16.1km]
松山城(愛媛県松山市)[16.6km]
岩伽羅城(愛媛県東温市)[18.8km]
今治城(愛媛県今治市)[20.7km]
恵良城の解説文
恵良城の口コミ情報
2023年07月17日 つか征夷大将軍ぽ
駐車場[恵良城 駐車場]
ここまでの道のりはかなり狭いので、軽かコンパクトカーで運転に慣れた方が良いかと思います。駐車場は3台ぐらいなら停められます。駐車場の目の前に登城口(恵良神社奥ノ院入口)があり案内板もありますが、実際の縄張図に出てくる場所はここから15分ぐらい(だったかな?)登った頂上付近からです。
2021年10月22日 スイトピー❁伊予守
恵良城
恵良山城は標高302mの恵良山にあって、海岸に近い天然の要害です。特に東側は断崖絶壁になっています。
その姿は遠くからでも一目瞭然。腰折山と並んで位置しています。恵良山を中心とした中世の山城で湯築城の控えの要地として、河野氏の盛衰に直接的役割を果たした城です。1600年関ヶ原の合戦に際して、鹿島城と共に廃城となる。
*見どころ…天険を巧みに利用した石積みや二の丸を囲むように延長130m帯状の腰郭、各所に張り出した枡形郭の名残り、貯水井戸の遺構等が残存します。
つづら折れの山道を登り切ると、恵良神社の通夜堂があります。その先をさらに登った所に主郭が配置されていますが、岩塊の割れ目に道が付き登城道はまさに天然の要害。別側には鎖も取り付けられています。(錆びており逆に危険かも)
主郭には石鎚神社の祠が祀られています。眺めはとても絶景で鹿島城跡のある鹿島や瀬戸内海に浮かぶ島々が見渡せます。
*ルート…先ずは車で最明寺を目指す。車幅が非常に狭いので軽自動車をお勧めします。「恵良山登山道」の案内板あり。その先竹林のコンクリート道があり、恵良神社の入り口まで車で行けます。駐車場スペースあり。トイレ無し。
2020年08月17日 た〜坊 対馬守
新日高城[恵良城 周辺城郭]
256.2メートルの山頂に主郭があり、5つの曲輪(連郭式)と堀切があります。高縄荘近くの砂防ダム横から登る事が出来ます。
2018年01月04日 た〜坊 対馬守
日高山城[恵良城 周辺城郭]
日高山城への登城方法
まずは中村三十三墓を目指します。左中村、右山中への道を右手に。暫くは溝と沢に挟まれながら進軍。沢を渡り沢沿いに暫く歩き、山道右手の石が赤く塗られている所を右に入り、暫く獣道を登ります。上がった場所が曲輪跡のようです。そこから左に進むと石碑がありますが、道が崩落して無くなっている場所あります。私は奥に進み回り込み、尾根伝いに草木を分けながら頂上を目指しました。
近辺には猪が多いようなので、複数人で登る事を勧めます。また、蛇や草木の多い時期は控えるべきでしょう。自己責任を守れる方のみ登城して下さい。
2011年09月24日 右兵衛督のり
恵良城
折れ曲がってるような山が、腰折山。その右、尖っている山が恵良城。山頂に神社があります。
概要
築城年代は不明である。治承5年(1181)、河野一族のよる所という記録があり、築城はそれ以前である。浅海原と難波との境302mの惠良山上を中心とした城で、湯築城の控え要地として河野氏盛衰に直接的な役割を果たした城である。
惠良城は天嶮を巧みに利用した石積みや、延長130mの帯状の腰曲輪、各所に張り出した桝形郭、その他貯水井戸の遺構など貴重な資料が残存する。さらに、山の西南方の斜面には三段の土塁跡があり、腰折山へ向かう鞍部高地に作戦上貴重な拠点を構えて敵を谷間や尾根に誘い込み前後あるいは左右から挟撃する水軍戦法をめざした構え、また一度に多くの兵が殺到できないよう地形の利用などのかためをしていたようである。
これはあたかも来島水軍が越智郡波方に群郭複合式城砦群をつくったが、その砦方式に似ているように思われる。
歴史・沿革
・治承5年(1181)備後の奴可入道西寂が来攻。河野通清が惠良城を守らせる。・正平23年(1368)河野通直(通尭から改名)は九州より帰国をはかって松前浜に上陸する。つづいて大空城・花見山城などを攻略し、惠良城も奪ったのち、府中を制圧することに成功する。
・寛正6年‐文正元年(1465‐1466)河野通生・忽那通光は惠良城で安芸国武田氏の侵攻を防ぐ。
・元亀3年(1572)毛利氏が伊予に侵攻すると、河野氏の家臣平岡・土居氏は二神氏と協力して惠良城の攻防戦で撃退する。
・天正13年(1585)得居通之は四国征伐の戦功により3000石と惠良城を与えられる。
・慶長6年(1601)来島康親は関ケ原の戦いで西軍に参加したことにより、豊後国森に転封され惠良城は廃城となる。
・昭和52年(1977)4月15日 愛媛県指定文化財史跡惠良城跡に指定される。
参考文献
・北条市教育委員会2002「北条市の文化財」北条市教育委員会・愛媛県教育委員会1987「愛媛県中世城館跡―分布調査報告書―」
・長山源雄1982「伊予の古城跡」伊予史談会双書第4集 伊予史談会