縦渕城
縦渕城([荏原城 周辺城郭])
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縦渕城の口コミ情報
2024年03月31日 龍馬備中守【】
愛媛県の松山市にある【縦渕城】♪小野川(縦渕川)ともの左岸で、現在は住宅密集地の中の城山神社内に、石碑と案内板があります♪往時はこの場所は小高い山があった様ですが、明治21年(1888年)土佐街道の建設の為に山が削られ、今はその名残も遺構も残っていません♪
縦淵城は承久3年(1221年)に起こった『承久の乱』(後鳥羽上皇VS鎌倉幕府)で功を挙げこの地を得た、河野通久によって築かれた城郭となります♪河野宗家は承久の乱の際に、後鳥羽上皇方に付き没落した為に、庶子である河野通久が家督を継いでいます♪
河野家は、この中央の戦いに翻弄されていきます…。その後、河野通盛の代で湯築城を築くまで、河野氏代々の居城となっています♪
湯築城を築城していく河野通盛ですが…元弘3年(1333年)後醍醐天皇の建武政権は、幕府方であった河野通盛の所領を没収し、一族の得能通綱を河野氏惣領としていて、一族の土居通増を重用しています♪その後、建武政権は河野通盛の伊予国内への影響力を考慮して、没収した所領の一部を伊予国内の替地で補償していますが、足利尊氏が建武政権に叛旗を翻すという出来事が勃発(延元の乱)し、これに呼応した河野道盛です♪建武3年(1336年)足利尊氏が九州から京都を目指して東上し始めると、これに合流し、足利尊氏が京都に入って室町幕府が事実上成立すると、河野道盛は対馬守及び伊予守護職に任じられています♪河野通盛が足利尊氏へ加勢した目的は、惣領の地位と、承久の乱・元弘の乱で失った河野氏所領の回復だったのでしょう♪伊予に帰国した河野通盛は、足利尊氏の命で四国に入っていた細川皇海と協力して、大舘氏明・四条有資・忽那義範・土居通重(通増の子)ら南朝方と戦っていました☆
その後の縦渕城は、河野宗家の支城群の1城として、本城を移した後も機能した事が考えられます♪