垣生山城

垣生山城([松山城  周辺城郭])

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垣生山城の口コミ情報

2024年03月28日 龍馬備中守【】


愛媛県の松山市にある【垣生山城】♪標高119m程の垣生山の山頂に城郭は形成されています♪北側には別峰である弁天山(標高129m)があり、南側の尾根先端付近の高まるピークに城郭は立地します♪西側は伊予灘に面し眺望は抜群で、海の監視が出来る絶好の場所です♪南側には重信川と伊予の広大な盆地が広がります♪

築城年代等、不明な点が多いですが…垣生山城の最後の城主は、垣生加賀守盛周と伝わります♪垣生加賀守盛周は湯築城の河野家の重臣(御家老衆)であり、斉院町の西側に面した現在の生石町~北吉田辺りを領地としました♪

天正13年(1585年)、豊臣秀吉による四国征伐(四国の役)により、この垣生山城の歴史が変わっていきます☆
秀吉は四国攻めの先鋒として、黒田孝高に淡路島方面から阿波へ向かうよう命じました☆
讃岐からは宇喜多秀家率いる備前・美作の兵に加え、播磨から蜂須賀正勝、更に仙石秀久が加わり計2万3千の軍が屋島に上陸しています⭐︎

ココ伊予国には、毛利輝元配下の中国8ヶ国の3万から4万の軍勢が攻め込んできます⭐︎
小早川隆景の第一軍が東伊予、今治浦へ到着☆長宗我部氏と同盟関係にあった新居郡の金子元宅を落とし、諸城を次々と落城させ…
中国勢は軍の進路を西伊予へと向けました☆

伊予河野家の当主である、河野通直の湯築城は包囲されてしまい…小早川隆景の薦めにより遂に城を開け渡します☆これにより伊予全域の制圧がほぼ完了しています。

湯築城は一時、小早川隆景の居城となっています☆河野通直は蟄居して河野氏復興の日を期待しますが、天正15年(1587年)小早川隆景は筑前国に国替えとなり、その後、この地は福島正則に与えられ、河野通直の伊予復帰の願いは絶望的となりました☆
河野通直の室は毛利元就の孫姫でありました☆そのため毛利輝元や小早川隆景は、河野通直への援助を積極的に行っており、毛利輝元の勧めで河野通直は室の里方である安芸国竹原(三原)に移住する事になっています☆湯築城を出て三津浜から船に乗り、目指すは竹原☆この時に河野家に従い垣生氏も、竹原の地へ共に向かいました☆
結果的に河野通直は24歳という若さで病死…。。ここに伊予の名家である河野氏は断絶してしまいました。河野通直と共に竹原へと渡った垣生氏は、最後まで忠誠を尽くしたと伝えられています♪

河野氏が城を明け渡した事で、垣生山城も開城し時代の流れと共に、廃城となったのでしょうね☆

垣生山城からは、松山城、石鎚山、伊予灘がバッチリ見えました♪

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