小国城(おぐにじょう)
小国城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 山形県最上郡最上町本城
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 山城
天守構造
- -
築城主
- 小国光基
築城年
- 天正12年(1584)
主な改修者
- -
主な城主
- 蔵増(小国)氏
廃城年
- 元和8年(1622)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- -
再建造物
- 説明板
周辺の城
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小国城の解説文
[引用元:Wikipedia「小国城」の項目]小国城(おぐにじょう)は、山形県最上郡最上町本城にあった日本の城。形式は山城である。
【歴史・沿革】
城が建立されたはっきりとした年は分かっていないが、戦国時代に現在の最上町域(小国郷)を支配した細川直元が「岩部の館」を築いたとされ、これが小国城の起源と言われる。
細川直元は、天童城主天童頼澄と同盟して、最上義光に敵対していたが、義光が天童氏を滅ぼすと、天正8年(1580年)に小国郷にも攻め込んできた。山刀伐峠を越えて攻め込んだ最上軍に対し、赤倉温泉付近にある平原、万騎ヶ原で迎え撃つがあえなく敗退、直元は討ち死にして細川氏は滅亡、小国郷は最上氏の領地となった。
義光は、万騎ヶ原の戦いで戦功があった家臣の蔵増光忠(くらぞう あきただ、蔵増安房守)に小国郷を与えた。蔵増光忠の嫡子光基は、家督を受け継ぐと地名を取って改姓し小国光基(おぐに あきもと)と改名し、岩部の館を改修して小国城となった。
その後、小国氏の居城として使われていたが、主家・最上氏が家督相続にまつわるお家騒動(最上騒動)で元和8年(1622年)に改易されると、小国氏も佐賀藩鍋島家預かりになって小国郷を去り、小国城は廃城となった。
【構造】
絹出川の南側に延びた標高290mの丘陵に位置している。山の北端を頂点にして本丸とし、南側に階段状に斜面を削って各郭を置いている。北端の背後には、尾根を利用した空堀とし、東側の谷にも郭を配置している。山麓には城下町を置いて、その周りを柵で囲っていたとされる。
【アクセス】
・陸羽東線最上駅から徒歩20分程度。いわゆる向町地区の東端に当たる本城地区の裏山が小国城である。[続きを見る]
小国城の口コミ情報
2018年09月27日 カーネル
小国城
陸羽西線 最上駅より
駅をでて右(東)へ歩き、川を超えるとすぐに道が右へ曲がりますが、左斜めに進むと正面の山に階段があるので、これを登る
山道を緩やかに登り、山頂の看板に従い登ると段丘の曲輪があり、その右側を歩くと二ノ丸と三の丸の間の堀がよい感じです
ここから、先に進むと本丸です。さらに奥に行くと深い堀があり、その堀から下に見える道は、御前清水へ通じる道なので、強引に降りてしまいまして
山裾を下ると御前清水を経由して、さらに下ると、行きとは違う場所で、見性寺のあたり下山しまた。ここから駅に戻って、トータル70分かかりました
2017年05月02日 逢瀬
小国城
近所の爺さんの話だと何十年前に山火事があって、それまでは畑になってたとか。
そのおかげか、段々畑?曲輪?形がはっきり残っていて登るとワクワクしてくるいい山城、楽しい。ただ杉杉してる。あと公民館の前の爺さんの畑に井戸が発見された模様。遺構かどうかはわからない、頼むと見せて見せてもらえる。
2014年06月06日 中務少輔きたろう三世
小国城
大手道の表示はあるが、いまいち分かりにくいので、大抵の場合は、十日町公民館から搦め手を登ることになると思う。途中から道が2つに分かれるが、山の神から登る道が本来の道だと思われる。主郭背後は浅い堀で区切られ、更に後ろの郭は大規模な切岸で遮断されているが、この造りは、同町内のにある支城の富沢楯にも共通している。
最上町内には、細川氏、最上氏関連の志茂ノ手館、太郎田楯、月楯など、良好な遺構が残る城址が多く、こちらもお勧め。