清水城(しみずじょう)
清水城の基本情報
通称・別名
- -
所在地
- 山形県最上郡大蔵村清水、比良
旧国名
- 羽前国
分類・構造
- 平山城
天守構造
- -
築城主
- 清水(成沢)満久
築城年
- 文明8年(1476)
主な改修者
- -
主な城主
- 清水氏
廃城年
- 元和8年(1622)
遺構
- 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財
- 県史跡(清水城跡)
再建造物
- 石碑
周辺の城
-
岩鼻館(山形県最上郡)[5.4km]
新庄城(山形県新庄市)[9.6km]
次年子館(山形県北村山郡)[12.6km]
鮭延城(山形県最上郡)[16.2km]
立谷沢城(山形県東田川郡)[18.8km]
富並城(山形県村山市)[20.5km]
金山城(山形県最上郡)[23.1km]
狩川城(山形県東田川郡)[23.9km]
延沢城(山形県尾花沢市)[25.6km]
小国城(山形県最上郡)[27.0km]
清水城の解説文
[引用元:Wikipedia「清水城」の項目]
清水城(しみずじょう)は、山形県最上郡大蔵村清水、比良にあった日本の城(平山城)。山形県指定史跡[1]。
歴史・沿革
文明10年(1476年)築城である。斯波兼頼のひ孫にあたる最上氏一門の成沢満久は、文明8年(1474年)に最上地方攻略のため、大蔵村新田(現白須賀)に館を築いてこの地に進出。その2年後、最上川を見下ろす高台に清水城を築城した。以後、清水氏を名乗り、清水城は最上地方を巡る武藤氏、小野寺氏との戦乱の最前線として、また、最上地方南部の領国経営の中心として発展した。
清水の地は、最上川中流域の中心都市であり、日本海航路から最上川をさかのぼり、山形県内陸へと物資を運ぶための重要な中継基地でもあった。そのため、武藤氏にとっても手に入れたい重要な拠点であり、何度も武藤勢の攻撃を受け、逆に、最上氏の庄内進出の足がかりともなった。
清水氏5代の清水義高が、本合海(現新庄市本合海)の戦いで武藤義増の軍勢と戦って討ち死にし、その跡を6代清水義氏が継いだ。義氏には男子がなく、娘が婿養子を迎えるはずであったが、最上義光の三男を養子として迎え入ることとなった。こうして迎え入れられた義親が、7代清水義親となる。義氏の娘・清水姫は20歳で正妻と死別していた義光の側室として嫁いだ。なお、大蔵村の由来は、清水義親が大蔵大輔であったことに由来する。しかし、清水義親は清水氏の養子となる以前に、豊臣家に近習として仕えていたことがあり、その縁で豊臣秀頼とも交わっていた。これが後年に悲劇につながる。
慶長18年(1613年)、徳川家康と豊臣秀頼との対立が決定的になると、最上家は、密書により徳川家康ら東軍諸将から清水義親と豊臣家との内通を疑われてしまう。最上義光の死後、その家督を継いだ実兄の最上家親は、疑いを晴らすために弟である清水義親の追討を決断し、翌慶長19年(1614年)に清水城を攻めて落城させる。清水義親は、13歳であった嫡子義継ともども切腹させられ、ここに清水家は滅亡、清水城は廃城となった。
考古資料
建物は一切残っていないが、土塁、空堀等が残されており、城全体が良好に残されている。中世の城郭構造が分かる貴重な史跡である。
舟運を活用した城であったため、現稲沢地区から城跡へ続く運搬道跡も残されている。
城跡の南方に広がる田畑は、「二日町」と呼ばれ当時の武家屋敷跡である。これら武家屋敷跡は昭和43年ごろから始まった圃場整備事業によって、跡形なく取り壊され現在に至っている。
観光
アクセス
新庄方面から、国道458号本合海バイパスの大蔵橋を渡り、突き当りを右折すぐ。
脚註
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清水城の口コミ情報
2024年09月08日 駄目太政大臣政宗
清水城
立看板・駐車場が設置されていて、遺構も手入れされているので攻めやすい城でした。
2024年04月28日 雲龍斎隠遁守全長
嘉門館[清水城 周辺城郭]
年々崩落や倒木が多くなって来てます。必ず、所有者に許可を得て行って下さい。
2023年04月24日 雲龍斎隠遁守全長
嘉門館[清水城 周辺城郭]
所有者の方にご挨拶して横の空地に🚗を止めさせてもらいました。鳥居のある祠の裏からほぼ直登10分位で最初の堀切にぶつかります。そこから先か堀切ワールド🤩
欅の落葉が滑るので帰りはスッテンコロリン覚悟で🤣
2022年09月12日 大場掃部助まーP
元館[清水城 周辺城郭]
八幡神社周辺が清水城築城前の館跡とのことです。
2022年09月12日 大場掃部助まーP
清水城
主郭堀もなかなかのモノ。行き着く先には不動明王?
2022年05月06日 【】修理大夫こーへー
猿羽根楯[清水城 周辺城郭]
【歴史】
★楯主は猿羽根氏で源義家の末裔が延文五年(1360)に轟に要害を構えたのが始まりとされ八代続いたが天正年間に最上義光によって滅ぼされたといわれる。
【遺構】
★二条空堀、ニ条堀切、櫓台跡、、土塁、曲輪等
【写真】
①山麓東側登城口、この先に案内看板有り。
②天御清水
③ニ条空堀
④櫓台跡
⑤ニ条堀切
⑥主曲輪
⑦ニ条堀切
⑧城主の手植えと伝わる親杉、サイカチの巨木
【感想】
★最上義光の城郭と合戦に記載されている山城。ニ条空堀、ニ条堀切も素晴らしいですが主曲輪に有る城主の手植えと伝わる親杉、サイカチの巨木には圧倒されます。必見です。
2021年11月14日 【配龍】沼田乃豆腐屋
嘉門館[清水城 周辺城郭]
先人のおっしゃる通り、嘉門館は私有地であるため、所有者に許可をいただいてから登城しました。
2020年08月22日 なんたろう
嘉門館[清水城 周辺城郭]
【遺構の状態】★★★★★
【登山レベル】★★★★★
【下草装備】 要
【動物対策】 要
【見学の目安】1時間30分
【アクセス】 県道57号西、「道の駅とざわ」から車で25分
【駐車場】 無
民家のすぐ横にある鳥居が登城口です。お住まいの表札を見るに、先人の仰る通り早坂嘉門のご子孫のようでした。車を消防器具庫の横に停めさせて頂き、ご主人に一言断ってから登城しました。
主郭部までは道のない斜面を直登します(写真)。藪&体力との戦いですが、幸い距離は長くありません。登りきれば完璧な遺構を見ることができます😊
基本のつくりは細い尾根に2〜3重の堀を切って曲輪を置く…の繰り返しで、主郭だけが一段高く作られています。既出の縄張はこの主郭が最後ですが、その裏にまた一つ二つと堀切があり、ここを越えるととんでもなく広い空間が出てきました。武者溜か居住空間か、はたまた村の避難所か…用途は分かりませんが、削平地であることは間違いなさそうです。
ご主人曰く「熊は見たことないが猿はいっぱいいる」とのこと。動物と足元には要注意ですが、めったにないレベルで鋭い堀切がたくさん見られます!
2016年07月05日 安田大蔵卿秀俊
清水城
10台程の駐車場があります
2014年08月02日 中務少輔きたろう三世
嘉門館[清水城 周辺城郭]
地本の方の話。この城は、庄内軍(武藤氏?)に攻められたが、山頂付近の攻防で撃退したとのこと。城の周囲の川の上流には大きな屋敷が昭和の初期~中期?辺りまであったという。その家には厚さ10㎝以上もある古文書があり、城を含め地域の様々な事が書かれていたが、東京の大学の人に渡してしまったという。。貴重なお話をありがとうございました。
2014年08月02日 中務少輔きたろう三世
嘉門館[清水城 周辺城郭]
大手口は、城跡を管理されている城主の子孫の方の敷地内にあるので、そちらに断ってから登城した(地元の方に聞けば、場所はすぐにわかる)。比高はそれほどでもないが、結構斜面は急。遺構は完存している上に、草刈り等でしっかりと管理されており、往時そのままの山城を堪能できる。
2013年08月19日 中務少輔きたろう三世
清水城
二の丸、本丸の堀が見所だが、本丸への本来の大手道は羊歯藪の中。本丸からは最上川を押さえる立地が確認できる。
2010年06月08日 のぼちゃん陸奥守
清水城
県道30(大蔵村)を走行すると『清水城跡』の看板があり、入口に案内板があります。小道を登ると畑がひろがり、案内板と空堀がありました。残念ながら駐車場はありません。