高城(たかじょう)

高城の基本情報

通称・別名

新納院高城、高城城

所在地

宮崎県児湯郡木城町高城

旧国名

日向国

分類・構造

山城

天守構造

築城主

新納時久

築城年

建武2年(1335)

主な改修者

主な城主

新納氏、富山氏、土持氏、野村蔵人佐(伊東氏家臣)、山田有信(島津氏家臣)

廃城年

元和元年(1615)

遺構

曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、井戸

指定文化財

再建造物

模擬櫓、石碑、説明板

周辺の城

高鍋城(宮崎県児湯郡)[5.4km]
穂北城(宮崎県西都市)[7.1km]
富田城(宮崎県児湯郡)[11.2km]
三納城(宮崎県西都市)[13.3km]
佐土原城(宮崎県宮崎市)[14.4km]
都於郡城(宮崎県西都市)[15.2km]
広瀬城(宮崎県宮崎市)[16.9km]
那珂城(宮崎県宮崎市)[18.4km]
八代城(宮崎県東諸県郡)[21.9km]
木脇城(宮崎県東諸県郡)[22.0km]

高城の解説文



高城(たかじょう)は、宮崎県児湯郡木城町にあった日本の城(山城)。伊東四十八城の一つ。高城川の戦い(耳川の戦い)の主戦場となった城である。木城町指定文化財(史跡)[1]

概要 

高城は日向国内に、この新納院・高城と、三俣院・高城(別称は月山日和城都城市高城町)、穆佐院・高城(別称は穆佐城、宮崎市高岡町)と3つ存在し、「日向三高城」と呼ばれた。

北の谷瀬戸川(現・切原川)、南の高城川(現・小丸川)に挟まれた岩戸原の標高60メートルほどの台地の縁辺に建てられ、北側、東側、南側は絶壁で、唯一平地に繋がっている西側には7つもの空掘を設けてあり(現認できる空堀は5本である。現認できる一番西側の第5空堀より西側は、北側の谷との比高が確保できないため、存在は疑わしい。「7つ」とは「多い」の意であろうと推察できる)、本丸と二の丸があった(中世の南九州型の城郭の主格部のみを近世初頭の畿内~東海型の城郭に改変しており、本来の二の丸は本丸の丸馬出し状に仕立て直している)。

※なお本稿の、これ以後の文章に於ける高城と書かれた部分は「新納院・高城」を指すものとする。

歴史 

起源

城の起源は詳らかではないが、大宝元年(701年)に土塁としてだが城の役割を果たしていたとの記述が残る。その後、建武2年(1335年)に島津忠宗の4男・時久が、足利尊氏からの恩賞として新納院の地頭職に任命された折りに城郭を築いたとされる。また時久はこの時より新納氏を名乗った。

北朝歴・観応元年(1350年)、時久が京に上がっている隙を突いて、畠山直顕が足利直義側について高城を攻撃しその数カ月後に落城する。その後、延文2年(1357年)12月に一色範親の命で土持氏が新納院の地頭職を賜ると、この高城も土持氏の城となる。長禄元年(1457年)7月、土持景綱が伊東祐堯に敗退すると、土持氏の所有していた財部城を始め10の城が伊東氏のものとなり、高城も伊東氏の城に帰して野村蔵人が城主に任命された。

伊東氏は、元亀3年(1572年)に島津氏と戦った木崎原の戦いを契機に一時衰退し、伊東義祐らが日向国から豊後に一時的に退去すると日向国内の城は次々に島津方に帰した。高城も島津の城となり、天正6年(1578年)2月14日、島津義久の命により山田有信が城主および地頭職に任命された。

第一次高城合戦

天正6年(1578年)、豊後の大友宗麟は伊東氏の旧領回復と自らのキリスト教国建設のために日向への侵攻を開始する。大友軍は島津に寝返った土持氏を滅ぼし、耳川を渡河して10月11日に高城近くの国光原台地に着陣(松山之陳、川原之陳他)する。当初、高城の城兵は500名ほどであったが、耳川から退いてきた島津家久勢が城に入り1500名余の人数に達していた。同月20日、大友軍は高城への攻撃を開始する。

  • 卯の刻(AM7:00頃)、高城城下に迫った大友軍は麓の民家100余に火を放って焼失させ、城に向けて矢玉を放つ。
  • 午の刻(PM0:00頃)、新手を投入し攻めかかるが鉄砲による抵抗にあい一時退く。
  • 酉の刻(PM6:00頃)、最初の城門を抜き次の門の城戸まで迫るも、ここでも鉄砲による攻撃を受け、一時退却した。

この戦いで高城の水の手は断たれたが、城の古い垣根から水が湧き出て窮地を凌いだとされる。また、これ以後の大友軍は作戦を包囲戦に切り替えたため、矢玉による応戦のみとなった。11月12日、高城川の川岸に着陣していた大友軍と島津軍の合戦が始まり、大友軍は谷瀬戸川および高城川を渡河した所を島津義久、島津義弘、島津以久らの攻撃を受け、態勢を整えるために本陣に撤退する際に高城の城兵が攻撃し、大友軍は敗北を喫した(高城川の戦い)。

※現在の木城町下鶴には討ち取られた島津方の北郷久盛の墓があるが、久盛の軍勢が敗走を装ったという確証はない。実際には戦況が拮抗しているところへ老瀬坂上の陣地から島津以久の軍勢が横から攻撃した。それを受けて大友軍が態勢を整えるために豊後方面へ撤退する際に、一部部隊が竹鳩ケ淵で溺死者を出している。そもそも薩藩旧記雑録には詳細な戦況の記載が全くないため、信憑性・正確性がなく、注意が必要である。(通常、上級武士の日記や右筆の記録で複数のものに同一記述があれば良好な史料として取り扱うことに注意。)

第二次高城合戦

天正15年(1587年)、大友宗麟の要請を受諾した豊臣秀吉が九州征伐に乗り出す。4月6日に耳川を渡河した豊臣秀長軍およそ8万は高城を包囲すると望楼を建て(高城と切原川を挟んで対峙する松山之陳の郭には、土塁上に物見台が設置できる程度の平坦地の造作は確認できる)、1300名ほどの高城へと鉄砲や火矢を放った。それには持ち堪えたものの、島津軍本体が根白坂で完敗し(根白坂の戦い)放逐されたため、山田有信も息子の有栄を人質に出して、4月29日に城を退去し敗北した。5月1日に秀長軍の宮部継潤が城に入った。その後、秀吉の行った国割りにより高城は秋月種実の所有に帰すが、元和元年(1615年)の一国一城令により廃城となった。

参考文献 

  • 山内正徳 著:『高城戦記 九州の関ヶ原はどのように戦われたか』(鉱脈社 2008年5月) ISBN 9784860612665

高城の口コミ情報

2025年09月15日 龍馬備中守【】
根白坂砦[高城  周辺城郭]



宮崎県木城町の椎木にある【根白坂砦】♪別名を目白坂砦とも呼びます。根白坂の戦いは、豊臣秀吉による天下統一の為の九州平定戦における、局地戦となります。根白坂砦は、茶臼原台地の北側中央端付近の椎木にあり、豊臣秀吉軍の宮部継潤が築いています。現在周りは長閑な畑が広がります。この場所は、西都と木城を繋ぐ間道があり、椎木坂と呼ばれるピーク付近を城塞化しています。とは言っても、簡易的な土塁と土木を行って、この場所で戦闘する為に築いた砦なのです。小字名に陣ノ内とあり、如何にも戦をイメージさせる地名が残ります。

天正6年(1578年)耳川の戦いによって、豊後国・大友宗麟は薩摩国・島津氏との戦いに敗れ、北部九州における求心力を失いました。当時の九州は三強の時代であり、豊後国・大友宗麟、薩摩国・島津4兄弟に、肥前国・龍造寺隆信が争っていました。
耳川の戦いにより大友氏は没落するのですが、この耳川の戦いと、秀吉による九州平定の間に、沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍により、撃破されています。島津氏はいよいよ、九州制覇を目前としていました。
が、大友宗麟は、中央政権である豊臣秀吉に助けを求め、秀吉は九州平定に乗り出すのでありました。

築城は天正15年(1587年)豊臣軍の宮部継潤によって、築かれました。根白坂砦の左右の高台にも陣を構えた様で、それぞれに計一万五千程の兵を配備し、島津軍との戦いに備えたと云われます。

天正14年(1586年)立花山城で島津軍の包囲に対し徹底抗戦した立花宗茂は、豊臣軍の救援を待ち、何とか籠城戦を生き抜いています。
その後、豊臣軍の援軍が来ると言う報を受けた島津氏は、九州制覇を目前に退却すると、退却戦の最中に次々と、九州の大名や国衆が、豊臣軍に準じていきました。筑前の平定、肥後の平定、豊前の平定と、島津方の城郭は次々に豊臣軍の旗の下に集結していくのです。大友宗麟の援軍として九州へ攻め入った豊臣秀吉軍は、肥後方面と日向方面の二手に分かれ、島津氏の薩摩を目指して侵攻しました。日向方面は秀吉の弟・豊臣秀長を総大将として南下し、豊前、豊後を経て日向入りしています。豊臣軍の豊臣秀長は、川南町で陣を敷きました(松山塁)。耳川の戦いも含めて、この場所がいかに島津方にとって大事な境目だったかが、よく分かりますね。島津軍は、高城城主である山田新介有信の奮闘により、高城は落城せずに、持ち堪えます。九州三強の一角である大友氏を破り、局地では戦闘(戸次川の戦いなどなど)しては退却するなど、粘りを見せる島津軍です。その後の高城ですが、引き続き松山塁に布陣した豊臣秀長軍により、鉄砲や矢による攻勢を受けたり、苦戦を強いられるも、堅固に守っている状況が続いています。この高城が陥落すると、島津氏は九州制覇の野望を断たれ、まさに瀬戸際に立たされる状況となる為、島津義弘、義久により、本領薩摩から二万人の精鋭を引きつれてこの根白坂を夜襲しました。宮部継潤は、あらかじめ部下に命じ、多数の人夫を使い、深さ二間(約3.6m)幅三間(約5.4m)程に堀を広げ、その堀の際に土塁を盛って、二間程の木や竹の柱を立て柵を作り、その中に鉄砲隊を組織し、厳重な体制で戦いに望んでいます。島津軍はこの柵を倒すべく抵抗を試みましたが、苦戦を強いられ、遂に柵を突破できず、約300人程の犠牲者を出し、残りの兵を率いて退却せざるを得ませんでした。
この戦いで島津氏は大打撃を被ったにも関わらず、高城は陥落せずに抵抗を続けていましたが、豊臣秀吉に屈服した島津義久の説得により、城主の山田新介有信は開城し、九州内における天下分け目の戦いはようやく終結します。その後、まもなく、関東北条氏を征伐した事で、秀吉は天下統一を成し遂げる事になりました。

椎木坂のピークは、街道に合わせて、武者隠し状の土塁を配置。削平地と仕切り土塁かな?ハッキリ確認出来ます。椎木坂は、堀底道を形成しながら、折れを持ちながら残っています。周囲には削平は甘いが、郭の様な部分も幾つか見る事が出来ました。

2025年09月14日 龍馬備中守【】
松山塁[高城  周辺城郭]



宮崎県児湯郡の川南町にある【松山塁】♪耳川の戦いは大友氏VS島津氏の戦いとして、余りにも有名で、九州において非常に重要な戦いです。この戦いの際に大友軍は、木城方面を押さえる為に、この松山塁に布陣。この耳川の戦いは、天正6年(1578年)島津氏と大友氏の間で行われています。当時、九州は三強時代に突入しており、豊後大友氏、薩摩島津氏、肥前龍造寺氏となっていました。この戦いは九州の覇権を巡る争いの転機となり、島津氏の躍進と大友氏の衰退を決定付けた、重要な戦いであります。木崎原の戦いで、伊東氏に勝利した島津氏。しかし依然、日向国に置ける支配権は伊東氏のままでした。そこでいよいよ、島津氏は日向へ侵攻を開始します。島津領国の大半の領主を率いて進軍した事で、見る見る内に伊東氏の諸城は降伏していきました。伊東氏を圧迫する環境はやがて、九州三強の一角である、大友宗麟に助けを漕ぐこととなります。薩隅日と三州を統一した島津氏と、押し込まれた伊東氏です。これにより、九州三強の二強が激突していくのでありました。大友宗麟は伊東義祐の救援要請を大義名分とし、島津討伐という目的の為。また当時、キリスト教にお熱だった宗麟は、南蛮貿易港である飫肥の油津、外之浦を島津氏から取り返す為にも、本格的に日向侵攻を開始します。両者は高城を、そして切原川や小丸川を境目として、激しく衝突しました。天正6年(1578年)小丸川沿いにある石城で、伊東氏旧臣が決起したのを受け、大友軍は南下し、島津家臣・山田有信が守備する高城を包囲しています。島津義久はコレにより出陣し、佐土原城に入城し、対する大友軍5万の兵は、松山塁を始めとする5つの陣を構築し、高城を攻め立てました。この時に築かれた大友方陣城の1城なのであります。小丸川流域に出陣した島津氏は、大友方の5つの陣城を攻略する為に、敵を誘き出す為の小隊を出撃させ、松山塁にいる大友方の兵を誘い出しては、包囲し、殲滅させ、松山塁を焼き払いました。島津氏のお家芸である、釣り野伏です。川原陣にいる大友軍は、降伏を申し入れています。ただ、全体的に降伏をしたという訳ではなかった様です。一時休戦した、翌日…大友方の田北鎮周は独断で小丸川を渡り、島津勢に襲い掛かかっています。不意を衝かれた島津勢は、一時的に怯むものの、島津義弘らはこれを迎撃。それを機に他の島津勢も大友方の軍勢、陣城に一気に逆襲し、大友方は総崩れとなり、耳川方面へ退却する事となっています。この戦いにより、田北鎮周、佐伯宗天、吉弘鎮伸など3000騎が撃たれたと伝わります。島津勢は退却する大友方を耳川まで追い、日向国を完全に制圧する事になりました。この頃、縣の務志賀にいた大友宗麟は、豊後に撤退しています。高城・耳川の合戦は、島津方の圧勝という結果となっています。
さて、松山塁ですが、大友軍の陣城として機能した陣ではありますが、陣にしては余りにも技巧的で、土木量も素晴らしく、完全に城といった性格に感じます。大友軍が陣を張る以前に、何か城郭があったのでは無いか?と疑ってしまう位に、城です。島津軍の家臣・山田有信が籠る高城の東、約500M、切原川を挟んだ丘陵上に位置し、土塁と横堀で囲まれた郭のピークを主郭とします。主郭の北側には、削り残した大土塁を配置して、台地続く北側を防御しています。北面それぞれの郭の高さは、台地とさほど変わらない為に、群郭式の城郭にも見えなく無いと云う点が、在地の城郭をそのままに、陣を引いた様に見えた訳です。横堀は10m近くあり、場所によっては、二重に、三重になる箇所もあります。主に台地の続く北面に、防御遺構を残し、寄手を牽制しています。また、台地の北側1番外の堀は、堀の中に堀を入れていて(横堀と更に浅い堀で構成)コレは、二重掘と云うよりは、排水要素を持たせた掘り込みであると思われます。現に水が落ちやすい様に、河原石を敷き詰めている箇所も見受けられます。
高城側の南面は急斜面となり、郭や動線?の様に造り込みます。ほぼ自然の地形を利用したのが、南側です。当時の、切原川の川の流れはもっと松山塁の下を流れていたので、天然の濠となっていました。より堅固な城は当時の地形から読み取る事が出来ました。
また、石組みの個所、石垣の個所もあり、特に石垣の個所は穴太積みになっています。コレは、後の対島津戦(根白坂の戦い)の際に陣を張った豊臣軍(秀長)の手が入ったのでしょう。また、台地北側にあり、国指定である宗麟原供養塔。耳川の戦いの戦没者を敵味方関係なく供養する為に、建立されました。この六地蔵塔は、島津氏が建立したと伝わります。供養塔は、清武産の凝灰岩が使われています。明治の廃仏毀釈の際には破却され、供養塔の東にある地蔵谷に捨てられていました。現在は、地域の方々の手によって手厚く守られています。

2025年07月21日 薩摩相模守義弘維新斎
高城



木城町にある高城跡は、あの有名な島津氏と大友氏の戦いである〝耳川の戦い〟の舞台です。耳川と聞いただけで、島津氏ファンには嬉しくなる地に違いないと思います。

城跡には、車で行くと駐車場がちゃんと完備されています。また、駐車場までの道に7つの竪堀があって、それぞれ標柱が設置されています。この城跡の見どころが竪堀のようです。

更に、模擬天守からは木城町をよく眺められて、ここが城に適した場所だと考えます。何といっても島津氏は、この城で少ない兵で大軍に対して〝耳川の戦い〟や〝豊臣秀吉の九州征伐〟に耐えたのですから。

今は公園となっており、桜が植樹されていることを想像すると4月前後に綺麗な桜が咲いているのでしょう。ぜひそのシーズンに観桜してみたいものです。

2024年12月20日 昌幸近江守更に吉
松山塁[高城  周辺城郭]



切原川に突き出た舌状台地の先端に築かれた松山塁。直線距離で600メートル西にある島津軍の高城攻撃の拠点として二度使われました。
一度目は天正6年(1578)耳川の戦い(高城川合戦)で佐伯惟教(宗天)率いる大友軍本隊が駐屯しました。そしてここに日本初の大砲「国崩し」を据え付けました。実際は射程距離の関係で届かなかったらしいです。
二度目は天正15年(1587)豊臣秀吉による九州征伐で、弟の秀長が最前線として利用しました。

縄張りは3つの郭を深い堀または二重堀で区切った城で、陣城の域を越えた大がかりなものとなっています。郭2はスロープなど削平されているところがあり後世に改変されている可能性があります。
そして激ヤブ城ということもお伝えさせていただきます。三つ目の郭は行けませんでした。島津軍の最前線である高城があれだけ整備されているのに、かたや大友軍の最前線がこれとは…と悲しくなってきます。

車は宗麟原供養塔(リア攻めマップ参照)に停め、そこから南に徒歩5分です。造園の敷地を通り、目の前のヤブに意を決して突入してください。

【写真の説明】
①突入して現れた郭2の堀。郭2を抜けるまではこんな状態でヤブ漕ぎ必須。
②郭1-郭2間の堀
③郭1まわりの複雑な堀。写真左奥が郭3だが行けず。
④郭1まわりの堀の合流地点
⑤郭1隅部
⑥郭1土塁
⑦郭1内の凹部。虎口か?
⑧遠景

2024年12月16日 昌幸近江守更に吉
耳川の戦い(高城川合戦)古戦場跡[高城  寺社・史跡]



1578年にあった「耳川の戦い(高城川合戦)」の主戦場となった場所です。日向の地の支配をめぐって、大友宗麟の軍勢3万と、島津義久の軍勢2万が戦ったもので、この戦いが大友家が凋落していくきっかけとなりました。
※木城町ホームページより転載

駐車スペースあり。説明板あり。

【写真の説明】
①古戦場北側。切原川の向こうは大友軍佐伯惟教(これのり)が陣取った松山塁。この戦の本陣。
②古戦場西側。島津軍島津家久と山田有信が守った高城。

2024年12月16日 昌幸近江守更に吉
宗麟原供養塔[高城  碑・説明板]



宗麟原(そうりんばる)供養塔は天正6年(1578)11月に小丸川(旧高城川)の川原で行われた豊後の大友宗麟と薩摩の島津義久との合戦(高城・耳川合戦)で亡くなった戦没者を供養した塔(六地蔵幢)である。
 この戦いに勝利した島津義久が、犠牲者の霊を敵味方の区別なく、手厚く弔うよう高城城主の山田新介有信に命じ、さらに天正12年(1584)には合戦の七回忌に大施餓鬼(おおせがき)を行わせている。この塔の完成は銘によると天正13年(1585)2月である。
 なお六地蔵幢の龕部(がんぶ)に刻まれている六地蔵は、人間は死後、生前の行いにより三悪道及び三善道の六つのいずれかに行くとしたもので、行く先々で地蔵が死者を救済するという考えに基づくものである。
※みやざき文化財情報より転載

塔の後ろに塚があります。
3〜4台分の駐車スペースあり。

2024年09月24日 織田上総介晃司
高城

本丸まで車で行けて駐車場もあります。

見どころは7つあるとされる空堀です。(ハッキリ確認できるのは5つ)麓からも空堀が確認できます。

大友宗麟の大敗北を喫した耳川(高城川)の戦いの舞台ともなった城。北九州一帯を支配していた宗麟だが、敗北により島津に押されっぱなしの状態だったが、豊臣秀吉の九州進出により大名の地位を確保することができた。

ちなみに宗麟はキリスト教に改宗したが、夫人はキリスト教を激しく嫌ったので、宣教師たちからは「イザベル」と仇名された。イザベルとは古代イスラエル王の妃でキリスト教信者を弾圧した女性の名前である。

2024年05月04日 【✾】源九郎豊前守牛若丸
高城



大友家衰退のきっかけを作った高城川(耳川)の戦いの舞台となった高城。
本丸まで道や駐車場が整備され車で行けます。

というか整備され過ぎています…
なので1番の見どころは空堀でしょうか。
空堀(というか堀切?)の深さは凄いと感じました。ただしこちらはほぼ整備されてないので、空堀を判別し難いのもありました。
しかしどちらにせよ立地は断崖絶壁にあり少数で守れたのも納得の難攻不落の城です。

本丸には模擬櫓が建てられており、そこから高城川(現小丸川)が一望出来ます。
籠城していた島津家久や山田有信は、周囲に着陣していた大友軍だけでなく、後詰めの島津軍の布陣を容易に理解出来たと思います。

そしてそのことは、高城の位置関係からも大友軍もわかったはずです。自分たちの布陣や動きはまる見えだということを。
そうした中での田北鎮周の突撃…
猛将だったかもしれませんが、浅はかで負けるべくして負けたというしかありません。
軍法違反を犯した田北隊を助けないという判断が出来れば大敗を喫することなく戦況は変わったと思いますが、そのような判断も指揮も出来なかった田原親賢が大将、そしてそれを任命した大友宗麟、やはり負けるべくして負けたのだろうと思いました。

そんな事が連想される城でした。
整備されている事もあり、山城には向かない夏の時期などに登城するのにおすすめの城です。

2022年10月17日 気分爽快丹波守
高城



台地先端の城ですが、西側から簡単にたどりつけます。堀を7つ(第6は埋められてしまった)見ることができます。
模擬天守風の展望台があります。

①第一空堀
②主郭眺望
③主郭
④第三空堀
⑤第七空堀
⑥第五空堀

2020年11月25日 明石家船上
高城



河岸段丘に作られた、土の城。小丸川を見下ろし、遠く根白坂が見える。小丸川は海へと流れ、交通・運輸に舟運が使えた良い立地

よくみておかないと、空堀が七つあることに気がつかない

2011年01月19日 クック矢沢匠守
高城

石垣の跡は余りなく、公園になっています、近くに戦死者の宗林供養搭が残っています

高城の周辺スポット情報

 堀切(遺構・復元物)

 古戦場跡(碑・説明板)

 宗麟原供養塔(碑・説明板)

 根白坂の戦い説明板(碑・説明板)

 松山塁(周辺城郭)

 新納石城(周辺城郭)

 根白坂砦(周辺城郭)

 耳川の戦い(高城川合戦)古戦場跡(寺社・史跡)

 駐車場(駐車場)

 駐車場入口(その他)

 新納観音(その他)

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